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「宇田川源流」【現代陰謀説】 中国の空母3隻目就航が意味するもの


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。現在このように普通に生きている中で、今まさに動いている陰謀ということを、現在公開されているニュースの中からその内容が見いだせるニュースをピックアップし、そしてその中にある「陰謀」を暴きだしてみたい、という内容である。もちろんニュースだけでは完全に不足していることから、それ以上の知識などが総動員されなければならないが、このブログではそこまでしようとは思っていない。それよりも「このような読み方をすれば、陰謀を読み分けることができる」ということをこの場で示したいと思っている。実際に、完全に見分けることは難しくても、ニュースの読み方を見てゆけばよいのではないかということとを考えている連載である。

 さて、陰謀というのは基本的には「戦争」に直結することが少なくない。結果論ではそのように物事がみえる。実際は「相手の国を、自国の思い通りにコントロールする」ということがあり、その場合、相手の国の事を考えて行うのではなく、自国の利益のために相手の国を使う、場合によっては相手国の政権を崩壊させるというようなことにつながるので、そのことが露見した場合に両国の関係は悪化し、その結果、「戦争」に繋がってしまうということがある。

 もちろん、善意による他国の介入というものがあるが、だいたいの場合、国の価値観が異なるのであるから、その価値観そのものを押し付けた結果を求められた場合、その内容が大きな問題として出てくることになるのではないか。またそのように外部からコントロールされていたことが明らかになれば、その外部勢力は当然に反発を覚えるということになる。

 そしてそのような陰謀の前には、相手国を観察するということが必要になる。その上で「戦争を覚悟した観察」を最後に行う必要がある。秘密兵器や、隠れた何かがあった場合は、戦争になって被害を被る可能性があるからだ。そのように考えれば、「陰謀を仕掛ける前」と「陰謀の終盤」のにかい、よく相手国を観察する必要があることは間違いがない。

<参考記事>

中国3隻目空母「福建」就役 のぞく米国への対抗意識、アジア太平洋の戦力バランスに影響

11/7(金) 21:14配信  産経新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/e7a9afc25ea34b9d96faec63fecffe5ecd976952

高市首相、中国戦艦で武力行使なら「存立危機事態」 具体例に言及

11/7(金) 15:56配信 毎日新聞

> https://news.yahoo.co.jp/articles/eea2dbc064ba81266dfd32fd34dba176f8f793a3

<以上参考記事>

 中国の三隻目の空母就役は、域内での中国の継続的な航空投射能力と象徴的なプレゼンスを高めるための重要な一歩であり、南シナ海と台湾海峡双方での圧力手段の幅と頻度を増やす方向に働く。だが単独で地域の軍事的帰趨を即座に決定づけるわけではなく、他の兵種や補給、戦術運用の成熟度次第で実効性が左右される。

 三隻体制に近づくことで中国は同時並行的な展開を行いやすくなり、訓練の継続性と航空運用の熟練度を上げられる。新型空母はより重い搭載や長距離任務に対応する設計的強化が見られ、これにより早期警戒、対艦抑止、海域監視といった任務の継続性が向上する可能性がある。

 空母が定常的に海域に姿を現すことで、島嶼周辺や争点海域に対するプレゼンスの示威が強まり、周辺国の警戒と外交的摩擦が増える。これに伴い域外国や地域同盟は監視や共同訓練を増やして対応を図るため、緊張の常態化と軍事的対抗の連鎖が起こりやすくなる一方で、空母単体では海底下の脅威や長期的な補給線管理など別分野の課題に直面する。

 台湾周辺での航空監視や索敵行動、威嚇的な飛行の頻度が高まることで、政治的圧力と危機の誘因が増える。だが台湾有事を実行に移すには揚陸戦力、統合火力、対潜水艦戦力、海上封鎖を含む多面的な能力が不可欠であり、空母が増えたことは短期的な決定打を自動的にもたらすものではない。空母運用の活発化は偶発的衝突や誤認を誘発するリスクを高め、危機管理の仕組みと透明性の重要性を一層際立たせる。

 空母を継続的に運用するためには港湾や整備、補給網といったロジスティクス基盤の整備が不可欠であり、整備や人的熟練の不備は作戦持続性に制約を与える。対抗側は空母打撃群だけを目標にするのではなく、対艦ミサイル、潜水艦、統合的な監視網や同盟協調を通じて抑止と危機対応の質を高めることが現実的な対応策となる。

 三隻目の空母就役は日本の安全保障環境に複数の波及効果をもたらす。第一に、東シナ海や太平洋周辺での中国の航空投射能力と常時プレゼンスが高まり、日本の周辺海域における監視負担と早期警戒の必要性が増す。防衛当局は対艦・対空・対潜を統合した態勢を強化することを求められ、沿岸および離島防衛の枠組みや緊急対応の手続きに再検討を促すことになる。第二に空母による示威的活動や訓練の頻度が上がれば、領域での偶発接触や誤認が増え、政治的圧力が強まるため、外交的・軍事的な危機管理メカニズムの強化が一層重要になる。第三に、日本は同盟国や地域パートナーとの共同監視、情報共有、連携訓練を拡大する必要があり、これが日米同盟や地域安全保障協力の実務的深化と政策的選択を促す圧力となる。

 米国にとって三隻目の空母就役は太平洋での戦力バランスと戦力配分の議論を再燃させる。中国の空母能力の向上は、米海軍及び米国の同盟・パートナー網に対してより高度な統合的対処を要求し、海上優勢を維持するための長距離監視、対艦ミサイル防御、対潜作戦能力の重点化を促す。米戦略上は、空母打撃群が複数海域で運用されることに対応するため、展開リズムや空母以外の打撃・監視資産の配置を見直す必要がある。また米国は同盟国との共同抑止を強調し、域内での抑止信頼性を示す演習や前方配置の調整を通じて、潜在的な侵害や封鎖的行動への即応性を高める方策を追求すると見られる。

 日米同盟は空母能力を含む海洋戦力の変化に対して戦術的・戦略的連携を深める契機となる。より高頻度な中国艦艇・機の活動は共同の情報収集・共有体制を強化させ、指揮統制や危機対応ルールの明確化を急がせる。日米は海上監視と海域でのプレゼンス示威を連係させると同時に、同盟の即応力と抑止の信頼性を国内外に示す必要がある。この過程で地域パートナーを巻き込んだ多国間演習や通商・外交手段を含む総合的抑止政策が一層重要になる。

 空母増加は象徴的かつ運用上の影響力を高める一方で、長期展開を支える整備・補給・人員熟練といったロジスティクスの制約に常に直面する。空母単体で決定的な優勢を生むわけではなく、米日双方は対艦ミサイルや潜水艦、統合的防空・ISR網といった「空母に対する対抗能力」を重視する必要がある。したがって実効的対応は単純な装備増強にとどまらず、運用の質、連携の速さ、政治的意思決定の確実性を高めることにかかっている。

 結論として、日本と米国は三隻目の空母就役を受けて監視・抑止・危機管理の実務的強化を迫られ、同盟協力と地域連携の深化を通じて中国の海上戦力投射に対処していく必要がある。

 高市早苗首相(高市内閣)が台湾有事を「国家存亡に関わる危機」と表明している論点は、軍事的な事態が直ちに日本の存立に直結し得るという認識に基づいている。高市氏は近年の中国軍の活動活発化や新型空母の就役などを背景に、日米同盟の役割強化や防衛費の増額、より迅速な意思決定と実効的な抑止力の整備を訴えており、その発言は議会や国民に危機意識を喚起する効果を狙ったものになっている。

 これに対し野党側は高市内閣の危機認識を過度であると批判し、単独の強硬姿勢や煽情的な表現が国内の分断や外交的緊張を高める恐れを指摘している。野党は、危機像の提示には具体的根拠と幅広い国民的合意が必要だと主張し、安易な非常事態論が対中関係や日米関係の調整を難しくすると懸念している。野党側の反発は政権の政策優先順位や防衛費拡大の進め方だけでなく、政策形成プロセスそのものに対する信頼の問題を露呈させている。

 両者の対立は政策の「目的」と「手段」に関する根本的な視点の違いに還元できる。高市内閣は外部脅威の高さを前提に短期的に実効的抑止を固めることを優先し、野党は脅威の評価を慎重に検証しつつ社会の合意形成や外交的緩和策を並行させるべきと考える。この対立は、防衛力強化の速度や範囲、同盟との役割分担、平時における情報公開や政治的説明責任のあり方に具体的な政策差異をもたらしている。

 現実的な安全保障の焦点は、どちらか一方の立場を全面的に採ることではなく、有事の可能性を無視せずに民主的正当性と実効性を同時に満たす仕組みを作ることである。すなわち、脅威認識を正確に共有するための透明な情報提示、迅速かつ法的に整った意思決定プロセス、同盟・地域パートナーとの現実的な役割分担を三位一体で整備することが求められるという観点が重要になる。

 最も重要なのは、日本の政策が「恐怖や政治的得点だけで動かされないこと」である。危機感の表明は抑止を高め得る一方で、根拠なき誇張や単独行動志向は同盟の信頼を損ない、誤認や偶発的エスカレーションのリスクを拡大する。したがって、安全保障政策は専門的評価と国民的合意に基づき、防衛能力の強化と外交的リスク管理を併せて進める実務的な設計を優先すべきである。

「宇田川源流」【日本報道検証】 午前3時から勉強会は責任と勤勉の表れではないのか?


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、高市首相が11月7日の予算委員会に向けて勉強会を午前3時から開いたということが物議を醸しています。

 この件に関して、政府は、首相の早朝の勉強会を「審議に万全を期すための事前準備」であり、首相自らが率先して答弁準備に臨む姿勢を示すものだと説明している。首相周辺は、予算委や重要審議に向けて細部まで確認する必要があること、首相個人の勤務スタイルや準備のこだわりが影響している点を強調している。

 一方批判が出ている。これは総裁選に勝利した時の高市氏の発言で「ラーフワークバランスを無視して馬車馬のように働きましょう」といった時から出ているものですが、それが具体化した行動になった今回、批判は、午前3時という極端な時間帯が首相本人のみならず秘書官や警護、宿舎から動員される職員に過度な負担を強いる点に集中している。報道や野党の指摘は、継続的な睡眠不足や深夜・早朝の勤務常態化が健康リスクを高め、職場全体のワークライフバランスを悪化させると指摘している。

 一方擁護論も少なくない。擁護側は、国家運営と国会審議の性質上、国民の負託に応えるため首相や閣僚が徹底的に準備する必要があると主張する。政権側や一部の支持者は「働いて働いて働く」というリーダー像を評価し、緊迫した審議期には例外的な準備行為が許容されるべきだと説明している。もちろん、そもそも公務員は全体の奉仕者であるし、また、そのような状況であっても働かなければならないということもあるのです。ある意味で公務員を一般と区別した考え方も少なくないようである。

 そして第三の論点は、個人の働き方を問題化するのではなく、審議日程や答弁準備の仕組み、秘書体制や支援リソースの配分といった制度面に構造的な歪みがあるとする考え方だ。これは国民民主党の玉木雄一郎代表や、政治評論家で元衆議院議員の金子恵実氏などが話している。与野党の質疑集中や準備時間の逼迫、当日の突発事項に対応するための非効率な運用が長時間労働を生んでいるため、審議スケジュールの再設計や事務的支援の強化といった国会運営改革によって、個々の過重労働を抑えるべきだと論じられている。

<参考記事>

高市首相 午前3時から勉強会

2025年11月07日 10時55分 時事通信

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12145-4662043/

<以上参考記事>

 さて、私自身は働くことは問題がないと思っている。実際に、人間はある程度限界まで働かなければならないと思っているしそのようにして働くことで、自分の新しい一面が見える。そしてその働くことが、社会全体に貢献できる内容になるのであるから、現在のような不景気は、間違いなく国民一人一人が働かなければならないというように思う。働かずに、または自分の好きなことだけをやって、気ままに生きてゆくなどというような甘えた考えの人が多いから、日本の景気はいつまでも悪化したままなのであろう。同時に、その考え方自体が、いつもこのブログでは言っている「義務や責任を軽視し権利だけが最大限肥大化した社会の歪み」担っているのではないか。その様に考えれば、労働者の権利とか言っている人ばかりで、景気悪化の中で賃金を上げろと大騒ぎしている人々ばかりが批判の中心になっているのである。まあ、もしかしたら私があいかわらず「昭和脳」なのかもしれないので、その辺はご容赦願いたい。

 政府や政権側は、指導者や幹部が深く勉強し続ける姿勢を高く評価する傾向がある。首相自らが早朝や深夜に準備を重ねることは、政治責任を果たすための献身やプロフェッショナリズムの表れと位置づけられ、忙しい日程や短時間で質の高い答弁を求められる現実においては、個人の習熟や自己研鑽が結果的に政策の精度を高めるとの論理で擁護される。こうした価値観は、勤勉さと献身を美徳とする政治文化と結びつき、首相の長時間・不規則な準備行為を容認あるいは称賛する姿勢を生む。

 働き方改革を批判する立場は、労働時間の短縮や残業抑制が単純に供給側の生産活動を減らし、短期的に国内総生産の伸びを鈍らせる原因になったと主張する。彼らは、長時間労働の削減が消費や投資の即時的な下押し要因となり、企業の稼働量が低下することで景気指標が悪化した、あるいは成長が停滞したと論じる。とりわけ製造業や労働集約的な産業では労働投入の削減が直接的に生産量へ反映され、成長率にネガティブな影響を与え得るという見方が示される。こうした主張は、働き方改革の効果を賃金や生産性の向上に必ずしも直結しないまま実施した点を問題視する議論とつながる。

 働き方改革の結果として残業代や時間外の稼ぎが減少した層が、副業に頼らざるを得なくなったという批判もある。その立場では、副業が新たな収入源を提供する一方で、多くの労働者にとっては慣れない業務、業務時間の分断、労働管理の不備をもたらし、本来の主たる業務との両立で疲弊や睡眠不足、ストレス増大を招くと指摘する。特に副業がフリーランス的な不安定労働や単純作業、長時間のオンライン作業を伴う場合、健康を損なうリスクが高まるとの懸念が示される。さらに副業のために労働者が自己管理や税務手続きなど新たな負担を負うことで、総合的な生活の質が必ずしも向上しない可能性があると論じられる。

 働き方改革を批判する論者は、問題は理念自体ではなく現行の設計と実行にあると指摘する場合が多い。労働時間短縮を掲げながら代替的な賃金補填や生産性向上策を同時に整備しなかったため、労働供給の削減がそのまま収入減や生産落ち込みにつながったという批判だ。加えて中小企業やサービス業、雇用形態が多様な労働者に対する配慮が不十分であり、一律のルール適用が現場の混乱や負担増を招いたとされる。改革によって期待された「時間あたりの生産性向上」「ワークライフバランスの改善」「消費の拡大」が即効性を持って実現しなかった点を、設計上の欠陥として挙げる。

 働き方改革への非難は、理念的な正当性と現実の落とし穴を切り分けて批判する。長時間労働の是正や労働の質向上という目標は支持され得るものの、その過程で生じた短期的な所得減、産業別の負担の偏り、そして副業を余儀なくされた労働者の健康リスクや生活の不安定化を看過できないという主張が核となる。したがってこの立場は、単なる懐疑に留まらず、賃金補填策、産業別支援、再教育や配置転換支援、そして副業を含む労働時間と健康管理の制度的整備をセットで求めることが多い。

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 松平定信の失脚をどう描いたか


 毎週水曜日はNHK大河ドラマ「べらぼう」について書いている。今回で42回ということは今回を含めてあと6回ということになる。なんとなくこの時期になるとドラマの先が見えてしまうのと同時にすでに来年の「豊臣兄弟」の話題が徐々に出てくるので、複雑な気分になる。

さて今回はロシア来航が話題になっている。ドラマ中は「オロシア」と言われており、これが江戸末期には「おそロシア」などと揶揄されることになるが、まあその辺は別にして、この寛政期に来航したのはロシアのラクスマンであろう。そこで今回はラクスマン来航に関してみてみよう。

 1792年にロシアの使節アダム・ラクスマンが根室近海に来航し、漂流民の送還を主目的として日本側と接触すると同時に通商開放を求める意図を示しました。ラクスマンは漂流民や贈り物を引き渡しつつ、江戸幕府側と交渉の可能性を探る使節的な役割を果たしたと伝えられています。ラクスマン来航以降、ロシア船は北方海域へ継続的に接近するようになり、蝦夷地を舞台とする接近・交渉・時に衝突といった一連の関係が生じました。19世紀初頭には複数回の来航や軍船の活動が記録され、蝦夷地を巡る緊張と情報収集が繰り返されるなかで、幕府側は北方情勢の監視と対応を迫られる状況が続きました。

 幕府は当初の慎重な外交姿勢を堅持しながら、沿岸防備の強化や蝦夷地周辺での測量・調査、港湾の監視体制整備など実務的な対応を進めました。長崎や奥州・蝦夷方面における対外方針は「例外的な入港を許すか否か」を巡る微妙な対応を含み、実務面では異国船への取扱い基準や補給の可否を巡る決定が繰り返されました。寛政の改革は幕政の立て直しと倹約・統制を軸にした国内改革であり、対外政策の根本方針そのものを根底から変えるものではありませんでしたが、幕府の統治能力や財政的余裕に影響を与えたため、結果的に沿岸警備や蝦夷地統治の実務的対応に影響を及ぼしました。財政と人員を節約しつつ警備をどう維持するかという制約が、幕府の対外的な硬直性と慎重な姿勢を助長した面があります。

 1804年にロシア側の使節レザノフが長崎に来航して通商を求めましたが、幕府はこれを容易に認めず、入港や通商について強い警戒と制限的対応をとりました。レザノフ来航は、幕府が単に漂流民の送還に応じるだけでなく、恒常的な通商関係を結ぶことには消極的であったことを改めて示し、その後のロシアとの関係や蝦夷地政策の強化につながる重要な契機となりました。

さてこのことがドラマにはどのように書かれているのでしょうか。

<参考記事>

<べらぼう>蔦重、歌麿に文で謝罪も視聴者の感情逆撫で 「鈍感の定番の謝り方」「マジ最悪」と辛辣な言葉飛ぶ

11/9(日) 20:55配信 MANTANWEB

https://news.yahoo.co.jp/articles/e1c876059ae3d3d7845bc7b6164777f8e6894406

<以上参考記事>

 今回は大きく話が動いた回ではないか。蔦屋重三郎(横浜流星さん)にしてみれば、喜多川歌麿(染谷将太さん)がいつまでも自分と仕事をしてくれる存在ではなくなったということ、そしてその別れぎわのセリフが「ていさんを大事にしてやれよ」であったのに、そのてい(橋本愛さん)との子供は多分流産してしまったということになったのではないか。その詳細はよくわからないものの、やはり、無事ではなかったという気がするのである。

蔦屋重三郎にとっては、兄弟と思って一緒に将来を見ていた喜多川歌麿が自分の手元からいなくなり、そして、期待していた自分の息子も死産になってしまったということになる。

歌麿から「あの店(たな)、俺にくれよ」との要求に対して、「子供も生まれるし、それは無理だ」と告げたにもかかわらず、その自分の子供がいなくなってしまったのであるから、ショックはかなり大きなものではなかったか。蔦屋重三郎の周辺から一気に人が引いていったというような感じである。最後に、蔦屋重三郎が「無精ひげ」の顔を出すのであるが、その人相は歌麿が妻のきょ(藤間爽子さん)を失った時と同じ幹事になっていたのではないか。松平定信(井上裕貴さん)による寛政の改革が始まってから、蔦屋重三郎がそれまで培ってきたものがすべて失われてゆくことになってしまう。その中には、平賀源内(安田顕さん)や田沼意次(渡辺謙さん)など亡くなってしまった人もいるし、一方で、瀬以(小芝風花さん)や誰袖(福原遥さん)のように、蔦屋重三郎のもとを去っていった人もいる。しかし、いずれも蔦屋重三郎の手の届かないところに行ってしまったというような感じである。人生とは、何か歯車が狂ってしまうとそのように「二度と手に入らないものが失われてゆく」ということを教えてくれているのかもしれない。

そして、その蔦屋の運命を変えた松平定信も今回失脚する。

ドラマの中では、松平定信は大老を目指したことになっている。そのために、自分が辞めるとして希望を出し、そのうえで、将軍から大老を任せたいといわせるというようにしたのである。しかし、将軍、そして将軍の実父である一橋治済(生田斗真さん)及び他の老中などとに酔って、老中の辞任届だけを受け取られ、大老になってほしいという言葉はなく、定信自身の希望で辞任したということになったのである。一橋治済や他の老中にしてみれば、最も厄介なロシアのラクスマンの来訪や、尊号一件の事件など、様々な事件を処理させたうえで「厄介払い」するということに成功したことになる。

歌麿を演じている染谷将太さんの、どこか影のある笑顔の演技、そして、神経質で困っ確頑固者の松平定信役の井上裕貴さん、非常に適役と考えられる演技はドラマを盛り上げている感じである。その二人に翻弄されている蔦屋重三郎役の横浜流星さんの、「なんとかなる」「何とか目的を達成しようと考える」というような感覚は、今の人々に欲しい感覚なのではないか。

やはり、大河ドラマは今の人々に何かのメッセージになるのである。

「宇田川源流」【日本報道検証】 ニューヨークの市長に急進左派イスラム教徒のマムダニ氏


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、先週の報道にあったニューヨークの市長選挙に関するニュースを見てみよう。

ゾーラン・マムダニは1991年生まれ、ウガンダの首都カンパラで生まれ、幼少期に家族とともにニューヨーク市に移住した経歴を持つ。母は映画監督、父は文化人類学者という学術・文化の背景の下で育ち、高校・大学時代から地域活動や学生運動に関わってきた。学歴としてはボウディン大学で学位を取得し、在学中からコミュニティの配給や学生団体の運営など公共性を意識した活動を続けてきた。政治の舞台へ本格的に出るきっかけは、若年層や移民コミュニティの生活実感に基づく政策課題への関与であり、2020年にニューヨーク州下院(州下院)選で初当選、その後再選を重ねながら市長選出馬に至ったことが報じられている。

 マムダニは若年であること、移民出身であること、かつ南アジア系・イスラム教徒の宗教的バックグラウンドを持つ点が外形的特徴として注目される。本人は自らを「民主社会主義者(democratic socialist)」と位置づけ、既存の政党機構や既得権益に対する批判的な距離感を保ちながら、市民の日常的な困難に直結する課題を優先する現場密着型の政治家として振る舞う。語り口やメッセージは若者や移民コミュニティに刺さるように設計されており、SNSや短尺動画を含むデジタル世論形成の手法を積極的に活用する点も特徴である。

 公的には民主党に所属するものの、思想的には進歩的左派、いわゆる民主的社会主義に近い立場を取ることを明言してきた。典型的なスローガンは「生活コストを下げること」「公共サービスの拡充」「富の再分配」であり、これらを短期的に示す具体的公約として家賃凍結や無料バス・保育など、生活に直結する政策提案を掲げた点が選挙戦で強調された。また、富裕層や企業に対する追加課税を財源に社会プログラムを拡充する考えを示しており、これは市内の所得格差や住居問題への直接対応を狙ったものである。

<参考記事>

NY市長に急進左派マムダニ氏 三つの首長選でトランプ氏に逆風

11/5(水) 毎日新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/44a461631384fd2c8547f0eb0575365940f731d2

<以上参考記事>

 彼の公約群は「直接的効果」を重視する。家賃負担の増大に対する対応として家賃凍結や大量の手ごろな住宅の建設・確保を掲げ、これは家賃問題で困窮する都市住民への即効的な救済を意図する政策だと説明されてきた。交通政策ではバスの無料化を打ち出し、低所得の通勤者や移動弱者の負担軽減を目指す。子育て・保育に関しては無償化を訴え、育児コストの軽減を通じた労働参加の促進を政策目的に据えている。これらの政策は、財源を高所得者や大企業からの増税で賄うという再分配型の財政設計を前提にしている点が特徴である。

行政手腕については、選挙で示した「現場に寄り添う」「素早く効果を出す」姿勢がそのまま実務にも反映されるかが焦点になる。短期的には100日プランのようなスピード感ある施策提示が期待されるが、長期的には都市財政の持続可能性、住宅供給の恒常化、交通インフラの維持といった構造的課題にどう取り組むかで評価が左右されるだろう。マムダニは若さとデジタル世代の感性を武器に支持層を拡大したが、広い有権者層を納得させる合意形成力と行政的な実行力を示せるかが、彼の市政の成否を決める重要な試金石となる。

共和党はまずマムダニ氏のイデオロギーを問題視する。彼が「民主的社会主義」や強い再分配志向を公言し、高所得層や大企業への増税、家賃凍結、公営サービスの大幅拡充を掲げる点を「過度の財政負担」と断じる。こうした政策は市の歳出急増を招き、既存の契約義務や州・連邦の資金構造との整合性を損なう可能性があると指摘する。財源確保や支出優先順位の具体性が欠けているため、短期的な人気取りに終わり長期的な財政悪化を招くとの懸念を強調する。

 治安と行政能力に関する批判も中心的だ。過去の警察改革論争や警察予算見直しに対する姿勢を持ち出し、急進的な削減や再編が治安対策の効果を弱め、市民の安全に悪影響を及ぼすと警告する。特に、危機対応や治安維持に必要な実務的経験や危機管理能力が不足していると見なし、有権者の不安につながると主張する。

 選挙運動の方法と支持基盤に対する批判も多い。草の根運動や若年層動員、デジタル資金調達を評価しつつも、外部の過激団体や特定の利害集団との接近を示唆して支持固めを行った点を問題視する。さらに、党内の分断を露呈させ、中道派やビジネス界との協調が困難な人物が市政のトップに立つことは、政策実行の安定性を損なうと論じる。連邦や保守勢力による反発で市への補助や協力が減れば、市財政と住民サービスに直接的な悪影響をもたらす可能性があると警告する。

 経済政策に関しては、家賃凍結や最低賃金の急激な引き上げ、企業課税の強化が供給側の歪みを生み、住宅開発や投資が停滞して雇用減少やコスト転嫁を招くという批判を繰り返す。過去の事例や市場の反応を引き合いに出し、意図しない逆効果が市民生活をさらに悪化させる恐れがあると訴える。

 一方民主党は、民主党内の進歩派や若年層寄りの支持者は、マムダニ氏の当選を都市政治の刷新と捉え、生活密着課題への直接的対応を高く評価している。家賃凍結や保育・交通の無償化といった公約は、短期的に暮らしを救う即効性を持ち、生活費高騰や住宅危機に直面する住民の実感に応えるものである。こうした施策は格差是正の手段と見なされ、経済成長の果実をより広く分配することで市政の公平性を高め得ると論じられる。

 また、彼の勝利は政治参加の拡大という副次効果を生んだ。若者や移民、労働者層を選挙・地域活動に引き込み、これまで声が届きにくかった層を政策決定に組み入れる契機になったことを歓迎する。多様な出自を持つ首長の誕生は代表性を強化し、政策立案に新たな視点と問題意識を持ち込むと期待されている。

 政策の実効性については楽観的な見方が示される。支持派は公約を単なる支出拡大と見なさず、富裕層課税や税制改革との組み合わせで段階的かつ持続可能に実施可能だと主張する。若い世代の行政参加とデジタル動員力は、サービス提供の効率化や住民との双方向的な対話を促し、政策実装の質を高めるとされる。

 さらに、マムダニ氏が従来の利益誘導的慣行から距離を取り、草の根の声を政策に反映させる姿勢は、透明性と倫理性の向上につながるとの期待がある。これにより都市ガバナンスの信頼回復や参加型民主主義の深化が進むと見る向きが強い。

さて、ではアメリカ国民はどう思うのであろうか。

政治や政策的なことではなく、例えばニューヨークにイスラムの施設ができたり、イスラム教のモスクが建ったり、というようなことになれば、かなり刺激的になるし、そのような内容を受け入れることができるのかは、かなり大きなハードルになるのであろう。同時に、ニューヨークは貿易センタービルがあった場所である。今はグラウンドゼロとなっている場所の、来年の式典は、イスラム教徒が行うということになる。単純に、イスラム原理主義者がテロを起こして、あれだけ多くの人の命が犠牲になった式典に、イスラム教徒の市長が挑むということになる。そのことを多くのアメリカ人やキリスト教徒は受け入れることができるのであろうか。

 この政治は注目すべきであろう。

「宇田川源流」【日本万歳!】 ワールドシリーズMVPを取得4勝のうち3勝を記録した山本由伸


 毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。。日本のすばらしさや、日本らしさが発揮できている部分など、または外国から日本が称賛されているような記事を皆様にご紹介し、その中の日本のすばらしさの根源にあるものを探るという連載である。その中において、日本のすばらしさというのは日本人の毎日の習慣や日本人の考え方、日本の国民性、日本の人々の性格ややさしさなど、日本人であるからそのようなことができるのであるということを皆さんにお届けして、その中で、日本人のすばらしさの根源は「日本人すべてが持っている」ということを共有したいと思っている。

 毎週月曜日は「マンデー・ブルー」といわれるように、土日の休みの後にこれから一週間働かなければならない。働くことが嫌というよりは「自由な時間から自由ではない時間に変わる」ということになるということに、自分の時間が失われるような錯覚になり、それが、ブルーになってしまうというような状況になるのであるが、まさにそのような内容が、そのまま「マンデー・ブルー」につながってくるのであはないかという気がする。しかし、そのような「ブルー」な状況であっても、その内容が世界に称賛される内容であったり、誇りを持てるような内容であれば、それが自由な中ではなくても、自分のやるべきことが見えてくるのではないか。そのような内容を見てゆくということが重要なのではないかという気がする。その「誇りを持てる」読み物の一つとして、この連載があればよいのではないかという気がするのである。

これまでは大谷翔平選手ばかりをクローズアップしてきた。もちろん、他の選手がだめというわけではないのであるが、やはり目立つし、それなりのアメリカ人から、そしてアメリカのメジャーリーグから高い評価をされている。同時に、大谷選手の日本人的なマナーや心遣いがアメリカで称賛されており、その心遣いやマナーなどは、普通の日本人である我々にも十分に真似できる部分ではないか。

しかし、もうひとりすごい人が出てきた。山本由伸投手である。

<参考記事>

山本由伸がワールドシリーズMVP!09年松井秀喜以来、日本選手史上2人目「このチームで優勝できて嬉しく思う」

11/2(日) TBS NEWS DIG Powered by JNN

https://news.yahoo.co.jp/articles/a6e9fe507e2783fc984ae02050b0134f2c37b46f

<以上参考記事>

山本由伸投手の投球の素晴らしさやアメリカの敵バッターをねじ伏せる姿に称賛が集まるのは、ある意味で普通のことではないか。ワールドシリーズでMVPを取る投手に関して、私たち素人がなにか言えるようなところはなにもない。本当に素晴らしいことであり、称賛しかないというのが現実であろう。

まあ、少しだけ言えば、あの独特の投球フォームはある意味で面白い。あまり足を大きく挙げないことによるスタミナの温存や、その分の胸のハリ、そしてその胸のハリが大きくなっていることから、伸びのあるストレートが投げられる。同時に腕のフリが大きいので変化球もよく曲がるということになっているのである。そしてその力はメジャーリーガーの一流選手たちの力を凌駕しているということになる。

あまり良い表現ではないのかもしれないが、日本人は、やはりアメリカにおいてアメリカ人を凌駕する力を発揮し、なおかつその力でアメリカをねじ伏せる姿に胸のすく思いをするのかもしれない。これは他の国との内容ではなく、相手がアメリカであるということが、非常に大きな意味がある。もちろんサッカーの日本代表がブラジルを破ったことなども非常に嬉しいのであるが、現在大国と言われる中国などに勝っても、それほどの感慨がないのは私だけであろうか。

さて、そのような話は、やはり日本人の一般の人には真似できない力を発揮しているのであって、我々には真似できないのである。

しかし、私が感動したのは、ワールドシリーズの第7戦、前日先発しているにも関わらず、山本が投げたのである。実際は第3戦でも、18回にサヨナラホームランが出るときにブルペンで準備していた。ある意味で「チームのために自分が何をできるのか」ということを考え、自分の限界を超えて稼働する、それこそが日本人の「魂」なのではないか。

日本人は、ムラ社会的な気質を持っていると言われる。それは、「集団に同化する」という事が、非常にうまく、自分が目立つというようなことではなくても、集団のために何ができるかということを、しっかりと考えて、集団の中で行動できるということであろう。もちろんそのことで日本人が目立たない場合もあるし、その目立たない一人がやめてしまって全体が動かなくなることもあるが、日本人の場合は、一人が称賛された場合も常に「チーム全体が称賛されている」という意識が存在する。その中で自分が何をできるのか、その事を常に考えて行動すること、そして期待されている行動を取ること、自分が多くの人に望まれている行動を取ることが、最も良いと考える美学が存在する。その日本人的な美学が、第3戦や第7戦のブルペンでの山本の行動に現れているのではないか。

表彰されたことよりも、多分、その行動がチームに与えた影響力が大きかったのではないか。日本人には、その隠れた行動で、チーム全体を奮い立たせる力がある。私はそう信じている。

小説 No Exist Man 2 (影の存在)

第四章 終焉 1


「陛下、まずは避難を」

 東御堂と嵯峨は御所に参内し、陛下の非難を求めた。

「東御堂さん、私は非難しないでおこうと思いますので、皇后と皇太子、そして皇族を避難させてください。」

 陛下は、にっこりと笑って東御堂に行った。

「それでは危険です」

「わかっています。しかし、国民も同じ危険があるのに、僕が先に逃げてはいけないのです。苦楽を国民特にと共にするそれが天皇の務めでしょう。しかし、皇統を絶えさせることはできませんから、僕以外は皆避難させてください。」

「しかし・・・。」

 嵯峨朝彦はすぐに難色を示した。当然に、天皇陛下を見殺しにして、皇族だけを逃げさせるなどということは、皇族が招致するはずがない。それに政府もそのようなことは認めないであろう。

「では私がお供しましょう。」

 嵯峨朝彦の言葉とは別に、東御堂信仁はすぐに自分が供をすると発言した。

「東御堂さん」

「陛下、私は十分に生きてしまいました。私が残っても、これから戦争による荒廃した日本で、食料が足りなくなることが予想される中で、私のような推し頼が生き残っても仕方がないでしょう。とはいえ、この老いぼれでは戦うこともできません。皆の足手まといになるくらいならば、陛下のお供をすることをどうかお許しください。」

「そうですか。では、特別に許すことにしましょう。」

 陛下は、にっこりと笑った。

「ここにはいい酒もありますから。それに、今回核ミサイルが飛んでくるといっても、もしかすれば迎撃できるかもしれません。政府を、そして日本国民を信じましょう。さあ、嵯峨さんはすぐにみんなの避難をお願いします。でも、また会えると思いますよ。」

 陛下は、嵯峨には酒を一本渡すと、そのまま嵯峨を部屋から出した。そして近くにいた侍従などもすべて出してしまった。

 嵯峨は、すぐに今田陽子に連絡を取った。御所の中から電話をするなどは、かなり異例であるが、しかし、そうしなければならなかったのだ。

「核を止めることはできないのか」

「殿下、今は二つの方法で行っています。一つは、防衛省による迎撃システムです。イージス艦は日本海に向けて出港してしますし・・・」

「今向かっているようで間に合うのか」

 嵯峨の声は、御所の廊下に響くほどであった。すでに御所の中は、陛下の命令として避難所に移動するということになっていた。御所の中には、第二次世界大戦時に東京に原子力爆弾が落ちた場合を想定して、地下シェルターを作っており、それを近年改装したものがある。当然に、そこに1か月くらい御所の人々や皇族が避難することができる程度の施設であり、水なども循環システムができている。そのうえ、そのシェルターから地下通路を使って地下鉄に移動できるようになっていたので、避難路も安全である。ちなみに、この入口の一間が、昭和天皇が終戦の決断を枢密院相手に行ったところであり、また玉音放送を録音した場所である。

 嵯峨が電話をしているときには、すでに多くの人が避難所に様々なものを運んでいるときである。廊下も様々な人が出入りしている。この動いている侍従や使用人等のうち半分は一緒に避難できる。そして残りは他の場所に避難することになっている。しかし、家族などを呼ぶことができないので、家族のところに変えるものもいる様だ。その様に騒然としている中で、嵯峨が大声で電話をしている。周囲が騒がしいので、逆に声が大きくなるのかもしれない。

「間に合います。いや、間に合わせます。」

「本当か」

「迎撃ミサイルを撃つので、港に係留中も問題はなくできます。しかし、そもそも荒川さんや太田組長などが、中国で活動して発射させないように工作中です。」

 今田は、東銀座の事務所から官邸に向かっているところである。タクシーの中で街の中を見れば、まだこれから核ミサイルが東京を襲撃するかもしれないという状況とは思えない、普段の東京のオフィス街がそのまま広がっていた。ちょうど有楽町の辺りは、隣国で内戦が起きており、日本も初めは謎の病原菌で襲撃されているということをまったく気が付かない多くの人々が、いつもの平日を送っているのである。

 この人々を守らなければ、その使命感でいっぱいになった。

「荒川の工作か。」

 嵯峨は、一言だけそういうと電話を切った。

「これで、阿川一派が皆いなくなれば・・・」

 すでに陳文敏から様子を聞いていた大沢三郎は、自分の地盤である東北に戻っていた。自分の資産なども移動して、東京にはあまりものを残していない。もちろん何もなかったときのために、幾分かは残しているが、しかし、地元を拠点にするということで、親しい議員などに手伝わせて、東北の選挙区に移っていた。

「阿川一派がいなくなるんですか」

 若手の議員が大沢に聞いた。

「ああ、そうなることを願っている」

 まさか核兵器で東京が破壊されるということを知っているなど、言えるはずがない。そのようなことを言えば、青山優子ではないが、自分に対して懐疑的な目を向けるようになってしまうのではないか。なるべく秘密は漏らさない。それが生き残る秘訣である。

「そうですね。こうやって我々が東北にいる間に、東京に大地震が来てくれれば、我々が日本の中心になりますね」

 若手議員からすれば、戦争というのは現実的ではない。やはり東京が壊滅するとなれば、南海トラフの地震や津波ということになるのであろう。大沢は、笑ってやり過ごすことにした。

「よし、そうなる可能性もゼロではないから、我々の勉強会をこのままやろうではないか」

 すでに陳文敏は、内戦をしている中国ではなく、逆に東南アジアの国に逃げていった。中国人の多くは、『死の双子』事件を何故か知っていて、その事件の後次々と姿を消していた。今残っているのは、中国政府に見放された中国人ばかりであろう。しかし、その中国に戻っていった人々も内戦に巻き込まれているということだ。

「さあ、まずは世界情勢から学ばなければならないな。」

 大沢はそう言うと、数名の若手議員を連れて山の中の合宿所に入っていった。

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2025年44号 高市内閣の支持率が82%と高い時だからこそ好事魔多しとなるか


 皆さんおはようございます。

 メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」主催の宇田川敬介です。

 今年も様々な内容にして、少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

普段のブログとは全く関係なく、少し柔らかい内容で見てみたり、国民の慣習のことなどを見てみたいと思っております。

 これからもよろしくお付き合いください。

さて今回は「高市内閣の支持率が82%と高い時だからこそ好事魔多しとなるか」と題して、高市内閣の高支持率、いわゆる「高市ブーム」について、これで安定政権になるのかということを見てみたいと思います。

残念ながら、私が政治を見てきた内容から言えば、そこまで楽観視はできないと思います。

その辺のお話を今回させていただこうと思います。

★ 何故支持率が高くなったのか

 高市内閣の支持率が82%と報じられた背景には、就任直後に起こる「ハネムーン効果」が大きく働いています。

新内閣発足直後はメディア露出が集中し、公的行動や演説が有権者の目に新鮮に映るため、期待感が一時的に高まりやすいという典型的なパターンが見られます。

このタイミングで「新しさ」や「変化」を好意的に受け取る層が多く、支持率が短期的に跳ね上がる土壌が整っていました。

 高市氏個人に向けられた好意的な反応には、彼女が女性初の総理就任という歴史性やジェンダー面での象徴性が影響しています。

特に若年や女性層の一部に「新しい時代の到来」を感じさせる受け止め方が生まれ、SNSや世論調査でも女性や若年層からの支持が目立つ傾向が報告されています。

この象徴的意味合いが、短期的評価をさらに押し上げる要因になりました。

このことは高市首相が使っているボールペンやカバンが、売り切れになるという現象からも見て取れるのではないでしょうか。

実際に、「高市推し」というような推しの対象としてというような状況で多くの人々が指示していることが伺えます。

 これらの支持率は、石破内閣と比較すると、高市内閣は発足直後の注目度と「刷新イメージ」が異なります。

石破氏の時期にあった支持率の動きや政治基盤の評価とは違い、高市政権は発足直後にメディアでの取り上げられ方が強く、支持を集めやすい局面が出来上がっていました。

また、党内外での対立構図や過去の政党運営への不信が残る状況と比べると、個人への期待感は相対的に高まりやすい状態にありました。

石破内閣の時は、総裁に選出されてすぐに「岸田内閣を引き継ぐ」としてしまい、そのうえ、すぐに前言を翻して解散総選挙を行ったということが、支持率の低下につながったことは否めません。

岸田内閣は「増税メガネ」などといわれるほど国民の支持を得られず、また、ほとんどのスキャンダルを他人事のように受け流していた状況で、増税だけでなく国民保険料など国民の負担率を50%にしてしまったことで、マイナスのイメージがありました。

その状況にも関わらず、・・・・・

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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 「女の敵は女」という高市批判の差別発言を嗤う


 今週も土曜日のエロの日になった。まあ、今週は大きなニュースが多かったのでエロのネタが少ない一週間であった。まあ、それでも今までの蓄積もあるし、また性的なことを話題にしたネタは少なくないのが日本の良いところなのかもしれない。

さて、その大きなニュースを見てみよう。

先週、はトランプ大統領来日で様々なニュースがにぎわっていたし、その後の韓国で開催されたAPEC会議でも高市首相の外交に関する話題が多くあった。そして、今週は高市首相の初めての国会論戦であるということで、ニュースは様々なところが出てきていた。単純に言えば、臨時国家が始まっただけであり、また高市氏は、大臣として答弁側を経験しているので、あまり初めてのというような形容が正しいものではないのであるが、それでも一応初めてといえば初めてなのであろう。このように「初めての」と付けなければならないほど、ニュースとして伝えることがなかったということなのであろう。

国会論戦では、未だに「裏金議員」「森友学園」というようなことを言っており、いったいいつの事件を話しているのかというような感じになる。そもそも国会というのは、未来、将来の我々国民の生活に関してよりよくするために議論をする場であるはずなのに、過去の事件ばかりで呆れてしまう。よほど将来のことを考えていないのかまたは、他にネタがないのであろう。はっきり言って将来の日本の発展や姿を考えることができないし、そのことを話し合うこともできないのであろう。

まともな野党が質問しなければ、その内容に関して、しっかりとした答弁はできない。貴重な国会審議、それも代表質問の時間で、過去の事ばかりを話していること自体が、国民を愚弄している行為であると、何故野党の人々は気が付かないのであろうか。はっきり言って何も考えていないということが見えてきてしまうのではないか。

国会における「政策の批判」はいくらでもすべきであるし、また、政策に関しては様々な考え方があることは当然に理解できる。しかし、過去のことをあげつらってみたり、人格否定したりというような内容は、見ている国民が飽き飽きしてしまうのである。そのような国民感情も理解できないということなのであろうから、よほどせいぞのれっかというのは激しくなっているのであろう。

今回はその政治の「批判」の中から、見てみよう。久しぶりにまじめな内容になるかっも知れない。

<参考記事>

倉田真由美氏が指摘「女を使っている、と高市首相を非難した女性の多くが過去を掘り起こされ…」

11/3(月)日刊スポーツ

https://news.yahoo.co.jp/articles/d3cf05d67ddaf687d20907dd8dfc30038bb009d5

<以上参考記事>

 高市首相が、日本の政治権力者のトップとしているのは、以前にも話した通りに鎌倉時代初期の北条政子依頼であるというような事らしい。確かに、政治のトップで存在するというのは、女性はあまりいない。その前は推古天皇などの女性天皇であり、その前は卑弥呼くらいしかいないのかもしれない。一方で、北条政子以来の有名な女性ということでいえば、豊臣秀吉の正妻の寧々や側室の淀君なども有名であるが、残念ながら日本全てンい号令をしたという権力者ではなく、寧々の場合は権力者を支えた賢女であり、淀君はその寧々に比して少し劣るような形で徳川家康に対抗して豊臣家を滅ぼした人というような感じになったのではないか。江戸時代でいえば、春日局は有名であるが、やはり、大奥の中の権力者でしかなく、日本の隅々までその威光が届くような人物ではない。その様に考えれば、確かに女性で日本全体に政治的な意向をとどろかせた女性は北条政子依頼いないのである。

さて、女性がトップに立つことに関して、日本の男性たちは苦々しく思っているであろうか。実際のところ、あまり男性女性ということにこだわった人はいないような気がする。ある意味で女性であるというのは、うまくいかなかったり、自分たちと考え方が異なる場合の言い訳でしかなく、政治という場や社会に出てからの内容で、女性であることは実は男性社会では「よく頑張っているね」というようなプラス材料にはなるが、「女性だからダメだ」というようなマイナスに働くことは少ない。女性だからというのは、今でいえば前橋市長のラブホテル打ち合わせ疑惑や、歴史上でいえば、孝謙天皇の弓削道鏡専横事件など、そのような性的な問題が出てきた時に「女性だから」というような言い訳に通じる場合があり、男性が性的スキャンダルを持つよりも嫌悪感を持たれる場合が少なくないのであるが、それ以外の政治的な内容に関しては、あまり大きなマイナスはない。まあ、この性的なスキャンダルも、男性であれば側室をいくつも持つのが普通といわれていた時代に、道鏡の事件は大きな事件になり、そののちの桓武天皇は遷都してしまうくらいなのであるから、女性天皇に向けた嫌悪感は男性と女性で違いがあるようだ。

一方、やはり「女性の敵は女性」というように、まさに、女性から見た女性のトップというのは、女性特有の「女性だから」というような理想形が様々に変わってきてしまっており、そのことから、何かを行えば女性からの批判が多く来る。今回も「色仕掛け」「現地妻」など、いつの時代の何の話をしているのかというような感じでしかない。まあ、ちょうど大河ドラマが「べらぼう」で吉原遊郭を中心にした話題になっているので、その流行に乗ってそのような男女関係的な単語が出てくるのかもしれないが、それにしても女性の女性に向けた批判の下品であることには変わらない。たぶん、江戸時代の絵島事件などでも同じような感じであったのではないか。

私から見れば、「女性の女性に対する批判」は「嫉妬」も存在するようにしか見えない部分がなかなか興味深い。「私だったらもっとうまくやれる」「私の方があの女よりも優秀なはず」「私が最も注目を集めてもよい」「女性なのに同じ女性の気持ちをわからない」など、普段「女性」と言っている人が、いざ女性が権力の座に座った時には、より一層批判が強まるという面白い現象が見える。ある意味で女性が権力の座から嫌悪されるのは、このような「女性の女性に向けた下品で嫉妬にまみれた批判」からではないかといううような気がする。

女性の嫉妬(やきもち)、というのは昔から犬も食わないといわれていたが、まあ、そのようにして女性が女性の価値を会下げている状況が、今後も続くのかと思うと困ったものである。

「宇田川源流」【現代陰謀説】 2004年ココム違反事件以来20年で中国が準備するロボットの軍隊


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。現在このように普通に生きている中で、今まさに動いている陰謀ということを、現在公開されているニュースの中からその内容が見いだせるニュースをピックアップし、そしてその中にある「陰謀」を暴きだしてみたい、という内容である。もちろんニュースだけでは完全に不足していることから、それ以上の知識などが総動員されなければならないが、このブログではそこまでしようとは思っていない。それよりも「このような読み方をすれば、陰謀を読み分けることができる」ということをこの場で示したいと思っている。実際に、完全に見分けることは難しくても、ニュースの読み方を見てゆけばよいのではないかということとを考えている連載である。

 さて、陰謀というのは基本的には「戦争」に直結することが少なくない。結果論ではそのように物事がみえる。実際は「相手の国を、自国の思い通りにコントロールする」ということがあり、その場合、相手の国の事を考えて行うのではなく、自国の利益のために相手の国を使う、場合によっては相手国の政権を崩壊させるというようなことにつながるので、そのことが露見した場合に両国の関係は悪化し、その結果、「戦争」に繋がってしまうということがある。

 もちろん、善意による他国の介入というものがあるが、だいたいの場合、国の価値観が異なるのであるから、その価値観そのものを押し付けた結果を求められた場合、その内容が大きな問題として出てくることになるのではないか。またそのように外部からコントロールされていたことが明らかになれば、その外部勢力は当然に反発を覚えるということになる。

 そしてそのような陰謀の前には、相手国を観察するということが必要になる。その上で「戦争を覚悟した観察」を最後に行う必要がある。秘密兵器や、隠れた何かがあった場合は、戦争になって被害を被る可能性があるからだ。そのように考えれば、「陰謀を仕掛ける前」と「陰謀の終盤」のにかい、よく相手国を観察する必要があることは間違いがない。

<参考記事>

自らターゲットを探して撃つ…中国のロボット犬・ドローン・戦術車が「AI武装」

2025年10月29日 9時38分 中央日報

https://news.livedoor.com/article/detail/29875542/

<以上参考記事>

 中国が無人兵器を備え、その無人兵器の軍で台湾有事を引き起こすのではないかというようなことが言われている。そもそも中国は2004年にヤマハココム違反事件によって、ドローン(湯治はラジコンと呼んでいたが)の技術を中国に売ることによって処罰された。その技術が現在台湾や日本を攻撃する技術となって戻ってきているのは、皮肉としか言いようがない。ヤマハの人々はどの様にこの責任を負うのであろうか。もちろん個人は、すでに20年以上たっているので、現役を退いているのかもしれないが、しかし、それだけで済む話なのであろうか。

中国は本気で無人兵器を考えている。公表されているもの、試作品のモノ、様々なものが言われているが、しかし、中国の内容を見ていれば、非常に危険であろうことはよくわかるのである。

 中国や他国が無人兵器を増強する可能性に備えるには、単に軍事力を増すだけでなく、複合的な抑止・防衛・社会的回復力のセットで臨むことが重要である。技術進展は速いため、短期の対策と中長期の制度設計を同時に進め、透明性と国際協調の努力を並行させながら国益と民主的価値を守る方針をとるべきであるとされている。

 無人システムへの対処は新たな戦術・能力を必要とする。まず、多層的に機能するセンサー網と早期警戒体制を整備して無人機の探知と識別を確実にするべきである。次に、電磁波やサイバー領域での対抗手段、非致死的に無力化する技術、そして有人・無人を組み合わせた柔軟な交戦ルールを実装することで、敵の無人戦力が即時に優位を取るのを防ぎます。最後に、自衛隊と自衛隊以外の部門(沿岸警備、警察、自治体)との指揮統制と連携を現代化し、現場での即応と管制を円滑にし無ければならないのではないか。

 無人兵器は軍事目標だけでなくインフラや物流、都市生活にも影響を与え得る。重要インフラの分散化、物理的・デジタル両面での冗長性確保、民間企業との情報共有と防護協定を進めてインフラ被害を最小化すべきであろう。地方自治体や企業、住民向けに具体的な想定被害と避難・復旧手順を普及させ、サプライチェーン回復力を高める訓練と投資を行うことが不可欠である。

 無人兵器の拡散と運用は国際的なリスクなので、単独行動では限界がある。日本は同盟国や近隣国と情報共有や共同研究を強化し、国際法に照らした禁止・制限規範や透明性の枠組みづくりをリードすべきであろう。軍民の区別や自律的攻撃行為に関する明確な基準作り、輸出管理の厳格化、第三国支援のチェック体制を外交ルートで推進することが重要となる。

 防衛関連だけでなく幅広い分野での基礎技術(堅牢なAI、安全な通信、耐干渉センサー、電子戦技術、半導体・バッテリー等)の国内供給能力を確保するため、長期的な投資と人材育成が必要です。大学・研究機関・民間の協業を促進し、倫理的ガバナンスと安全設計を組み込んだ研究開発を支援することで、技術的依存を減らし安全側線を確立してゆくことが重要になる。

 同時に国民に現状と政策選択のトレードオフを丁寧に説明し、透明性ある意思決定を行うことで、過剰反応や誤情報による不安を抑えるべきです。防衛や規制の議論には専門家、市民代表、地方自治体を含めた公開の場を設け、技術利用の倫理的側面やプライバシー保護について広い合意を築華なければ、日本ではうまくゆかない。これにより、危機時でも信頼を土台に迅速かつ合法的に対応できる社会をつくらなければならないのではないか。

結論として、日本が取るべきは単一の対策ではなく、防衛力の近代化、社会インフラの強靭化、国際的規範の構築、産業・技術基盤の強化、そして国民との対話を同時に進める包括的なアプローチです。これらをバランスよく実行することで、無人兵器時代のリスクに対して持続可能で抑止力を持つ備えが可能ではないだろうか。

「宇田川源流」【日本報道検証】 熊への武器使用に日経新聞が憲法9条を持ち出す異常


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、最近の熊被害に関して、秋田県の鈴木知事が自衛隊に援助を要請したということがありましたが、その件に関して日経新聞が《自衛隊の武器使用を巡っては、憲法9条の規定もあり厳しく制限されています。犠牲者数が過去最悪となるなか、どのような対応が可能なのでしょうか》というようなXでの投稿を行ったことが話題になっているので、その内容に関して見てみたいと思います。

まずはその前に「熊の被害」に関してみてみたいと思います。

今年の熊の被害に関しては、下記のような統計数字が出ています(10月31日調べ)

・ 人の死亡数:今年は約10人(10月下旬時点で最大レベルの集計)という報告がある。

・ 負傷者数:今年の熊による負傷者は約108人(4月~9月集計、負傷者含む)と報告されている。

・ 出没件数:報道では今年の出没報告が1万7,000件超とされ、秋田や岩手など東北と北海道で多発しているとされる。

・ 東北(秋田・岩手など)と北海道が被害集中地域で、特に秋田県・岩手県・北海道の一部で人身被害や出没が目立っているという指摘がある。

・ 秋田や岩手での出没増加は、過去最悪レベルに匹敵するとの報告がある。

・ 被害は秋(特に10月)~冬前にピークを迎える傾向が強く、餌不足や採食行動の変化が出没増加の主因として挙げられている。

・ 山間部だけでなく住宅地・市街地での目撃や侵入も目立つようになっている。

・ 農作物被害は増加傾向で、ある自治体では前年の1.6倍になるなどの報告がある。

・ 管理対策としての捕獲数も増加しており、指定管理下での捕獲報告が増えているとの記述がある。

 さて、このように甚大な被害が出ている状況である。このように大規模な被害になる前は、地元の猟友会などと連携して対処していたが、地方都市の高齢化や猟友会の人数の少なさ、または、件数の増加などから、猟友会では対処しきれないと判断したのである。

秋田県は、自衛隊に要請をしたがそのほかにも、対クマなどの害獣被害に関しては、警察がライフル銃を使うことを許可するなど、様々な対策が行われている。一方で昨年から、熊の殺処分に関しては、「殺さなくてもよいのではないか」などの、動物愛護的なコメントや地元自治体への苦情が寄せられるなどの問題が出てきている。

<参考記事>

「呆れ果てる」「9条関係ない」日経新聞 自衛隊のクマへの武器使用巡るX投稿に指摘続出…立憲・枝野氏もツッコミ

2025年10月30日 06時00分女性自身

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12268-4636341/

<以上参考記事>

 このような事態になっているのにかかわらず、日経新聞は憲法9条を持ち出して自衛隊批判をしている。そこまで言うのであれば、日経新聞が自衛隊を使わずに熊から人を守ればよいのであり、何もしないでただ報道しているだけであるのにかかわらず、現場の苦労も知らないで何を言っているのかというような感じにしかならない。単純に「呆れる」「憲法は関係ない」というようなコメントが多いのであるが、まあ、人命を守る必要がないというような日経新聞の見識の欠如はあまりにもおかしなものではないかと非難が高まっている。

さて、そのようなことであるが一応ブログなので憲法に関してみてみよう。

まずは憲法9条である。

第9条

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、まずはこの条文を見てよくわかるように「国際紛争を解決する手段として」と条件を付けて、この条文は存在する。つまり、この条文は、「戦争の抑止及び他国に対する威嚇や武力の行使」ということを言っているのであって、その他の部分に関する武器の使用を禁じたものではない。そして、武器の使用や保持をしないとしている第2項も「前項の目的を達するため」となっているのであって、いかなる場合においても武器の使用及び戦力の保持をしないなどということを言っているのではないということに着目する必要がある。基本的に保守系の人々と左翼系の人々と、この内容の解釈が多少変わる部分はあるが、しかし、少なくとも自然災害が害獣などの問題に対して、差っ処分をしてはいけないなどという暴論は、憲法9条には記載されていないし、また熊が出没して人里に出てきて、人間に対して害をなすことは、憲法の規定する「国際紛争」という状態にあるものではないということは明らかであろう。

もちろん、日経新聞は「熊の国があって、この度の熊による市街地の侵入は、擬人化されたクマの国と日本国との国際紛争である」というような、ファンタジーな解釈をしているのであれば、それはそれでまったく別な意味で着目すべきな内容であり、熊の国は国として存在するのかとか、国家という存在の定義はどのようになっているのかなどのことをしっかりと説明する必要があるのかもしれない。

基本的には、残念ながら日経新聞は「憲法に記載された日本語を正確に読解する能力が著しく欠如した新聞」であるということを言わざるを得ない。このような新聞であるから「オールドメディア」として、多くの人々から見放される結果になるのである。このような論評を行ったことによって、銃の使用を制限し、そのことによって人にっ被害や犠牲が出た場合、日経新聞はどのような責任を負うつもりなのであろうか。まずは日経新聞社のこのコメントを描いた人物が、銃や武器を使わずに、熊に対処してみればよいのではないか。当然に自衛隊や銃を持った人の援助などは求めることを禁止し、そのうえで、このXの投稿が正しかったのかということを考えるべきであろう。そのうえで、日経新聞社は、新聞社として、銃を使わなかった場合の被害に対して何らかの補償をすべきではないか。

このように核と「そこまでは・・・」などというのであるが、まさに、これが「言論の無責任」であり、言論によって日本人が危険にさらされるという最たる例の一つなのである。

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 歌麿と蔦重の間に亀裂が


 毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について話をしている。本乙に視聴者のただの感想文でしかない。しかし、この「べらぼう」も予定では全48回、12月14日が最終回であるというから、今回が41回なので今回を含めてあと8回しかない。もちろん8州といえば2か月分なのであるが、さすがに終盤になってきている。そもそも蔦屋重三郎というのは、43歳で他界するのであるから、そろそろ蔦屋重三郎(横浜流星さん)の一生という観点でも、終盤である。そして、常に痛快ではなく最後は様々な夢を持ちながらその夢に届かずになくなってしまうということになるので、不遇の時代に入ってきているということになるのであろう。

さて、その不遇といえば井上裕貴さん演じる松平定信に関しても、徐々にその恐慌で原理主義的な政治の進め方に反対が出てきている。もちろんドラマの中である。日本人は、中庸を尊ぶ民族性があるので、どうも「朱子学原理主義」など、原理主義に関しては今日非反応が出る。それは今の政治でも同じではないか。

その松平定信の躓きの一つが、「尊号一件」という事件である。今回も、京都からの武家伝奏の公家を閉門させろというようなことを言っていたが、まさにその事件の事である。まずは歴史的な「尊号一件」を見てみよう。

 尊号一件は江戸時代後期、光格天皇が養父である典仁親王(典仁の名は典仁親王)に「太上天皇(上皇)」に相当する尊号を贈りたいと望んだことに端を発する朝幕の対立事件である。幕府側は慣例や体制上の制約を理由にこれを拒み、天皇側と幕府の間で呈された政治的・儀礼的な力の衝突が表面化した出来事として位置づけられている。

 朝幕の対立は最終的に将軍側の判断と幕府の政治的措置で決着を迎え、朝廷側の尊号贈与の要求は一時的に押しとどめられたが、事件の余波として公家や朝廷内での勢力調整や世論の動揺が生じた。幕府は事態収拾のために関係者を処分・調整し、最終的には天皇側の要求を完全には実現させないまま事件は終息したとされる。

尊号一件で松平定信は朝廷側の尊号贈与の動きに反対の立場をとり、事態の進展にともなって幕府内で責任を問われる立場に置かれた。最終的に彼は政治的に失脚し、老中としての主導的立場を離れて隠退に近い扱いを受けたと伝えられている。

 江戸ではこの種の朝幕対立が政治的不安や情報の拡散を促し、町方にも波及するかたちで関心と緊張を生んだ。尊号一件は、幕府の政治的権威と朝廷の伝統的権威という二つの力が実際に街の人々の話題や評判、寺社や公家・旗本間の立場の見直しにつながることを示した。江戸の政治的気配が変化するたびに、都市生活者は噂や討論を通じて自らの立場や期待を調整し、幕府の統治正当性や朝廷の象徴的権威に対する市中の感受性が強まった。

<参考記事>

「べらぼう」蔦重の“言ってはいけない一言”が物議

11/2(日) 20:55配信 シネマトゥデイ

https://news.yahoo.co.jp/articles/9d57cab00600cdeaf46337ff8d3c3a34c8a3fad6

<以上参考記事>

 蔦屋重三郎と喜多川歌麿(染谷将太さん)は当初、版元と画工という利益と才能が噛み合う典型的な協働関係だったが、寛政の頃から次第に齟齬が目立つようになった。第一に商業的圧力が強まったことがある。蔦屋は江戸出版界で新しい需要を取り込もうと積極的に版行を拡大し、売れ筋を追う方針を強めた。その結果、歌麿に対する制作スケジュールや版元側の仕様・原稿管理に対する介入が増え、制作上の自由が損なわれる場面が出てきた。第二に経済的な摩擦が生じた。売れ行きや増刷、版元と絵師の取り分をめぐる期待のずれが小さくなかったため、報酬や版権を巡る不満が蓄積した。第三に芸術的な方向性の差異があった。歌麿は表現の実験や新たな美人画の様式を追求し続けたのに対し、蔦屋は市場で確実に売れる図様やシリーズ化を重視する場面があり、作品選定や編集上の衝突が起きた。最後に時代的・社会的要因も影響した。寛政の風紀引締めや幕府の検閲動向、評判に関わるスキャンダルや噂が二人の関係に緊張をもたらし、蔦屋がリスク回避的に距離を取る判断をしたことが関係悪化を促進した。これらの要因が複合して、はじめの信頼関係が次第に薄れていった。

この関係は史実でもこのようになっているので、非常に忠実にその内容をドラマ化しているのではないか。ただし、芸術的なことを追求してしまう歌麿と、商業的な部分を重視する蔦屋重三郎との間では、やはり齟齬が生まれてしまうのではないか。

このドラマでは、その原因とされるもの、つまり歌麿と蔦重の齟齬の原因として二つのことを上げている。一つは、多くの人が指摘しているように、蔦屋重三郎の経済的な内容と、歌麿の純粋な芸術性であろう。上記の参考記事にもあるが、売れる絵を描くのと、描きたい絵を一つ一つ自分の手で丁寧に作りたいという歌麿とでは非常に大きな差がある。このことは芸術品を作っている人と、似たような内容を機械化し大量生産をしている経営者の感覚と似ている。現代のサラリーマンの中にも仕事を一つ一つ丁寧にするという若者と、効率性を求める会社側の齟齬は、常にある話だ。とくに蔦屋の場合は身上半減で経済的に苦しいということもありまた、吉原の「父」達の苦しさなどもあるので、経済性を追求しなければならず、歌麿の気持ちがわかりながらも、それを許容できないという事情もあったのではないかと思うのである。

もう一つは蔦屋重三郎のつまてい(橋本愛さん)の妊娠である。歌麿は、自分の妻は病気で亡くしてしまい、プライベートでは不遇な生活をしている。その時に感情的に違和感を感じていた蔦屋重三郎の子供ができるということはどのように思うのであろうか。その蔦屋との間を取り持ってきた重三郎の母つよ(高岡早紀さん)も亡くなってしまっている。そのような状態で蔦屋重三郎の幸せな姿を見て、何か自分の中にやりきれない思いがあったのではないか。

そのような意味で様々な齟齬が生まれてきているところに西村屋(西村まさ彦さん)が来て新たな仕事をお願いする。きっかけというかうまく重なるものである。

歴史的には、記録に残っている感じで二人は完全に絶縁したわけではなく、互いに利益とリスクを計算した実利的な距離を取るようになったと理解するのが実情である。蔦屋の側は版元としての存続と評判を優先し、歌麿の側は表現の自由と作家性を守ろうとしたため、良好な協働関係は崩れ、以後は慎重で事務的な関係が続いたということになる。

では、ドラマではどのようになるのか。

「宇田川源流」 コメンテーターの反高市コメントでメディアの信用が失われる


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、一連の高市外交に関して、メディアや野党の人々などが、「高市サゲ」のコメントをメディアの中やSNS上に流しており、それに対して支援擁護する人々が攻撃して、いわゆる「炎上」をしているという現象に関して見てみたいと思います。

 アメリカでは、新しい政権に対しては「ハネムーン期間」というものがある。新たに就任した大統領や政権に対して、就任直後の一定期間(一般的に最初の100日間)、国民やマスメディアが比較的好意的・寛容な姿勢を取る慣習的な期間を指すことを言う。この期間を「新婚旅行(honeymoon)」になぞらえ、新政権と国民・メディアとの関係が甘く穏やかであることから名付けられたといわれる。アメリカでは1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が就任後、100日間で数々の重要法案を成立させたことが起源とされる。その期間で政権の方向性が見えるからという理由になる。また、新政権が軌道に乗るまでの猶予期間として、野党やメディアも批判を控える「紳士協定」が存在することもあるのである。これはアメリカばかりの習慣ではなく、2009年の民主党政権交代時にも、メディアがこの「ハネムーン期間」に言及し、一定期間は批判を控える姿勢が見られたことがある。基本的に自民党が野党の期間は、この「ハネムーン期間」を作るのであるが、残念ながら左翼系の政党が野党にいる場合は就任して何もしない間に批判をする。

そもそも就任して何もしない間に批判をするというのは、その首相のイメージなどを勝手に決めつけて、そのイメージや自分の頭の中の妄想で「○○に決まっている」という非難でしかないのであり、まったく意味をなさない。はっきり言って人格否定などに近い決めつけの差別的なものでしかなく、その内容を容認すること自体がおかしな話になるのであるが、そのようなことも全くできていないのが日本のメディアや野党なのである。

<参考記事>

「粗探しばかりやな」“高市サゲ”コメンテーターが軒並み炎上…高支持率はホンモノか?

2025年10月29日 18時10分 女性自身

https://news.livedoor.com/article/detail/29879331/

<以上参考記事>

 高市早苗氏が自民党総裁に選出され、女性初の首相として期待が高まる中、就任直後から一部メディアやコメンテーターによる否定的な報道が目立っている。たとえば、時事通信のカメラマンが「支持率下げてやる」と発言した件は、報道機関の中立性を揺るがす象徴的な事例としてSNSで大きな批判を浴びた。また、テレビ番組では高市氏の積極財政政策に対して「円安加速」「バラマキ批判」などの論調が繰り返され、支持率が高いにもかかわらず、視聴者に対して否定的な印象を植え付けるような構成が見られる。

 こうした政権発足後の即時批判に対して、感情的ではなく民主主義を維持するという観点から論理的に批判をしてみよう。

まず民主主義の基本原則に立ち返る必要があるのではないか。政権が発足したばかりの段階では、政策の実行も評価も始まっていないため、批判の根拠が乏しく、予断や印象操作に基づく報道は有権者の判断を誤らせる危険がある。ハネムーン期間とは、政権が国民との信頼関係を築くための猶予期間であり、メディアがその間に冷静な観察と分析を行うことで、より質の高い批判と提言が可能になるはずであるが、その提言ではなくただ批判という形でしか意見を述べられないような今のやり方はあまりにも稚拙にすぎない。同時に、発足当初は基本的にご祝儀相場もあって支持率は高い。それはそれまでの政権の支持率が低ければ、その分期待感が高く表れ、今までと変わるということに関する機運が高まることに由来する。そのような状況の時に、論理的ではなく、ただ印象操作的な批判をしても何の意味もないし、また、その政権批判自体が「政治を語ることができない」というような印象を持たれることになる。政治をわかっていれば、印象ではなく政策や行動に対sて論評を加えるのに、根拠の乏しい内容で批判をするということは、政策を見ていないという印象になるのである。

 日本の政治報道の未熟性は、こうした「即時批判」や「ラベリング」によって顕著になってきている。高市氏に対して「極右」「排外主義」といったイメージを先行させる報道は、政策内容の検証よりもイデオロギー的な対立を煽る傾向が強く、報道の役割が「説明」から「誘導」へと変質していることを示しているといえる。また、野党も同様に、政権発足直後から批判を強めることで「対立軸の演出」に走りがちであり、政策論争よりも感情的な応酬が目立つようになるのである。本来は評価できるところは評価し、批判すべきところは批判するというような形にすべきであり、単純な「勧善懲悪型の対立軸の作り方」はまったく意味がないのである。ましてや「多様性」と主張しながらの、「二極型の対立軸」の建て方は水ウからの行動に矛盾をきたしており、単純に「バカが今まで通りに批判しかしない」というような形になってしまうということになるのである。批判をしてはいけないとは言わないが、もう少しまともな批判をしなければ、政治報道も野党も政治的な信用を失うということになりかねない。

ましてや野党の皆さんは、過去に批判と矛盾している行動をしていることが少なくなく、「特大ブーメラン」などと揶揄される場合が少なくない。そもそも自分は同じ行動をしてよく、政権ならば批判するという態度は「二重基準」でしかなく、有権者の多くは全く受け入れられないものでしかないということになる。同時に、そのような行動は「自らの行動を顧みることができない幼稚な人物」であるということを自ら吐露しているようにしか見えず、より一層信用を失うことになるのではないか。

 このような状況は、政治報道が「民主的な熟議の場」ではなく「視聴率やクリック数を稼ぐ競技場」になっていることを意味している。報道機関が政権に対して厳しくあることは重要かもしれないが、それは事実に基づいた批判と、国民の利益を軸とした分析によって成り立つべきです。高市内閣に対する即時批判は、報道の使命を逸脱し、むしろ民主主義の成熟を妨げる要因となっているといえるのである。