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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 被害者100人以上の一夫多妻制男が逮捕される


 今年最後の土曜日も「土曜日のエロ」である。まあ、このブログの令和7年を締めくくる内容が、実質的にこの「土曜日のエロ」で終わるのかというのはなかなか興味深い。明日日曜日はメルマガの案内であるし、29日30日は、今年の十大ニュースということになるので、実質的な記事は存在しないということになる。もちろん31日は年末のご挨拶ということになるのであろう。

さて、そんな今週は、とくに政治に関しては何もなかったのではないか。ある意味で特筆すべきことがないというのは、非常にありがたいことで、なんともないということになる。

世の中は一気にクリスマスムードになりそして年末年始モードに突入する。そんな街の変化が見えてきていたのではないか。

それにしても「テレビ」が全く面白くない。なんだかわからないが、「苦情が来ないように」という事ばかりになってしまい、挑戦的な内容や、きわどい内容が全くなくなってしまっている。そのうえ、文化や伝統というものがなくなってしまっているので、結局はくだらないバラエティ番組の焼き直しばかりになってしまっており、面白いものは全くないという形になってしまっているのではないか。昔は、「エロ」もあったし、「ドリフ」等苦情も山ほどあったのに続いているようなものになっていた。そのうえ、府振仏氏としてはクリスマスにはクリスマスの映画がありまた、その前には12月14日に忠臣蔵がどこかのテレビ局では必ずやっていたものである。

私などはうがった見方をしているので、テレビや新聞などのメディアが、一つには左翼化してしまい唯物史観的に伝統多文化をすべて無視した内容ばかりになってしまっているということが上げられる。そしてもう一つが、伝統や文化、風物詩を無視した形でありながら苦情などを気にしてしまい自主規制が多くなったということなのであろう。

なんとつまらない世の中になったのかとどうしても思ってしまう。

<参考記事>

被害女性は100人以上!〝逆美人局〟で「一夫多妻」男を逮捕 妻と内縁妻もグルか

2025年12月18日 6時0分 東スポWEB

https://news.livedoor.com/article/detail/30222297/

<以上参考記事>

 今週も本当に異常なエロ事件が存在する。何しろこの時代に「一夫多妻制」である。

この事件の異常性はまず、倫理と法の根本的な逸脱ということになるであろう。一夫多妻制を主張するという思想自体は文化や宗教によって議論の余地があるが、今回の行為はその枠を完全に超えている。女性を「逆美人局」にかけるという発想は、相手の信頼を裏切り、意図的に性的関係を利用して動画を撮影し公開するという、極めて悪質な搾取行為であり、また性行為を行うこととその行為で稼ぐことから一夫多妻制を主張しているということがなかなか異常性のないようになっているのではないか。

次に、規模の異常さである。100人を超える女性を対象にしていたという点は、通常の犯罪行為の範囲を大きく逸脱している。これほど多くの被害者を巻き込むためには、長期間にわたる準備や巧妙な手口が必要であり、その執拗さと冷酷さが際立っているといえる。同時に、良くそのような異常な男性に100人を超える女性が着き従ったというようなことがまた興味深い。私のようなオジサンから見れば、「なぜこのような男が持てるのであるか?」というような男性が、このような事件を起こすのである。盗撮などとは毛色が違うこの事件は、少なくとも女性が男性を信用するというプロセスが、どの段階かは別にして一回は存在する。その内容がなかなか興味深いのだ。

ある意味で「一夫多妻制」というのは、男性の永遠の希望であり、また、多くの女性を自分のモノにしたいということを考えている人は少なくない。もちろんこれは男性に限ったことではないので、ドラマ(漫画が原作だが)大奥などが存在するということになるのであろう。ただ、この文章では私が男性であることからあくまでも男性目線で書かせていただくことにするが、男性は、ある意味で「女性と性行為をすること」に「若さと活力」を感じている部分があるということがあり、ある意味で「不老不死」と同じような価値観で「いつまでも若い女性と行為をしたい」と異様に望んでいる部分がある。イスラム教のように「全ての妻を平等にする」というような考え方がなければ、一夫多妻制をやりたい男性は少なくなく、日本ではその文化を「愛人」というような言葉でなんとなく呼称しているのである。

さて、この事件は「女性との性交を盗撮して動画サイトに投稿したとして、性的姿態撮影処罰法違反(撮影)」が逮捕担っている。つまり「複数の女性と性行為をした」という事や「一夫多妻制」ということに関しては、法的には何の処罰も存在しない。もちろんそれだからと言ってやってよいということではないが、まあ、このような人は、今年の大河ドラマの後半に出てきた徳川家斉(第11代将軍)のような結果になっていたのかもしれない。時代さえ違えば、なんとなくうらやましい気もするのが、男性の本音なのであろう。

「宇田川源流」【現代陰謀説】 青森地震でも出てきた「震災デマ」の正体


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。

現代にある陰謀を解き明かすという頼は、現代報道されたり、ニュースを読んで、その中に隠されている内容や、その中からわかる「不自然さ」から、その内容を解明し、その中でその内容を見てゆくということを企画している。日常何気なく通り過ぎているニュースの中に、陰謀などの「萌芽」は必ず買うされているものであり、それらをしっかりと読み込むこと、またはそれらの中で様々な人々の考え方やズレが見えてくる。その内容をしっかりと見てゆくことによって、その次の一手を考えてゆくということを練習する企画になっている。

 さて、日本では「陰謀」というと「サブカルチャー」の中の一つとして数えられることになっており、UFOや幽霊などと同じカテゴリになる。日本人は、必要以上に「エビデンス」や「科学的実証性」を追及してしまうために、心因的な効果などを重視する分野を真剣に考えないようになってしまっている。しかし、日本以外の国では、当然にそれらの内容を考えるチームがあり、その中においては「想像をできないような内容」が検討されていることも十分にありうるということになるのである。そのへんの「あり得ない内容」を照会する場面も一度作ってみたいと思っているのであるが、まあ、そのへんはまたの機会に期待していただきたい。

とくに災害に関しては、様々なデマや嘘がネット上をにぎやかにさせる傾向がある。っ実際に、日本の場合は、信じやすい国民性から、「本当かもしれない」と善意でうそやデマを広めてしまう人も少なくないのである。そのことがかえって大きな被害を産むことも少なくない。

実際に、熊本地震の際には、「動物園からライオンが逃げ出した」などというデマと、それに合わせた街中にライオンがいるAIで加工された写真が掲載されて大きな問題になった。そもそもそのような内容は「いたずら」で行うことなのかもしれないが、しかし、そのことによる社会的な影響は大きなものになる。

人々の不安につけ込み、そして社会的に、少なくとも被災地域において大きな影響が出てくることをしている。これはまさに「陰謀」の邦画であるということになるのではないか。そのような「パニック心理」につけ込んで様々なことを吹き込んだり、行動を起こさせたりすることが「陰謀」の基本であるということを考えれば、まさにこのようなデマが大きな問題を産むことになるのではないか。

 さて、今回はそのような「陰謀」につながるような、繋がらないような、そんな感じの話である。

<参考記事>

震度6強の地震、「人工地震だ」などのデマがSNSで拡散…「冷静に対応」呼びかけ

2025年12月9日 21時55分 読売新聞オンライン

https://news.nifty.com/article/world/china/12181-4768763/

<以上参考記事>

 12月の上旬に青森で大きな地震があった。この地域の地震は、実際にカムチャッカで7月8月に大きな地震が発生していることから、正直に言って地震が起きて不思議はない環境にあったのですが、残念ながらまたデマが出てきていることに非常に「興味」を感じています。そもそも上記の参考記事にかかれているのは、、「(政府や中国が人為的に発生させた)人工地震だ」などのデマや、「(人間によって駆除された)熊のたたりがついに起きた」といった投稿(参考記事より抜粋)があり、さすがにそれはないだろうと考えています。

こうしたデマを流す人の心理には、いくつかの特徴的な要因があります。

 まず、不安や恐怖の解消欲求が大きな背景にあります。地震という突発的で制御不能な災害は、人々に強い不安を与えます。その不安を「誰かの意図的な行為」や「超自然的な原因」に結びつけることで、偶然や自然現象よりも「理解しやすい物語」に変換し、心理的な安心感を得ようとするのです。

 次に、自己の存在感や影響力を高めたい欲求があります。SNSでは、センセーショナルな情報ほど拡散されやすく、注目を集めます。デマを流す人は「自分が特別な情報を知っている」という優越感や、他者からの反応を得ることで承認欲求を満たそうとします。

 さらに、陰謀論的思考の快楽も関係します。複雑な現実を単純化し、「裏に黒幕がいる」という構図を作ることで、世界を理解した気になれる心理的報酬があります。これは、偶然や自然の不確実性よりも「誰かの計画」という方が秩序を感じやすいからです。

 最後に、文化的・感情的な物語への傾倒も見逃せません。「クマの祟り」というような説明は、科学的根拠はなくても、物語性や感情的インパクトが強く、人々の記憶に残りやすいのです。こうした物語を信じたり広めたりすることで、現実の不安を一時的に忘れられる心理的効果があります。

一方デマを信じやすい人々には、いくつか共通する心理的・認知的特徴があります。代表的なものを挙げると次のようになります。

1. 不確実性への耐性が低い

 予測不能な出来事や複雑な情報に直面すると強い不安を感じやすく、その不安を減らすために「単純でわかりやすい説明」を求めます。陰謀論や超自然的な原因は、その不安を一時的に解消する役割を果たします。

2. 承認欲求や所属欲求が強い

 SNSで同じ情報を信じる仲間とつながることで「自分は特別な情報を知っている」「仲間がいる」という安心感を得ます。これは孤独感や不安を補う心理的な支えになります。

3. 情報リテラシーが低い

 情報の真偽を見極めるスキルや、信頼できる情報源を選ぶ習慣が不足している場合、感情的に強い情報や拡散されている情報を「正しい」と誤認しやすくなります。

4. 認知バイアスの影響を受けやすい

 例えば「確証バイアス」により、自分の信じたい世界観に合う情報だけを選び、反証する情報を無視します。また「陰謀論的思考」は、複雑な現象を単純な因果関係に置き換えることで安心感を得る傾向があります。

5. 感情的な物語に惹かれる傾向

 科学的な説明よりも、感情や物語性のある情報(「祟り」「黒幕」など)に魅力を感じやすく、記憶に残りやすいことから信じやすくなります。

 さて、これらの内容を「あえて陰謀論」的に見れば、地震は陰謀ではないが、これらのデマが「日本人はデマや扇動に流されるかを試している陰謀ではないか」というようなSNSの言説があります。この言説に関しては一概にデマとは言い切れないのですが、逆にそのような投稿そのものが陰謀でなくても、もしも日本に陰謀を仕掛けようとしている人がいれば、投稿や反応を見て分析をしている可能性はあると思われます。

まず、SNSは「社会の感情のセンサー」になっているという点です。現代の情報環境では、国家や組織が他国の世論や心理状態を把握するために、公開されている投稿や反応を分析することは一般的な手法です。これは、軍事や外交だけでなく、経済戦略や世論操作の準備段階としても行われています。つまり、誰かが陰謀を仕掛ける意図を持っているなら、まず「どのような情報に人々が反応するか」を知るために、SNSのデータを収集・解析するのは合理的な行動です。

 次に、デマや陰謀論は「脆弱性の指標」になるという点です。社会がどの程度、根拠のない情報に影響されやすいかを測ることは、外部からの干渉を計画する上で重要な情報です。例えば、ある国の人々が科学的説明よりも感情的な物語に強く反応する傾向があるとわかれば、その弱点を突いた情報操作が可能になります。これは、過去の事例でも確認されており、選挙や国際紛争で「偽情報キャンペーン」が実際に使われてきました。

 さらに、SNSのアルゴリズムが拡散を加速する構造も危険性を高めます。アルゴリズムは「反応が多い情報」を優先的に表示するため、デマや扇動的な投稿は自然に広がりやすくなります。この現象を観察することで、外部の勢力は「どのような言葉やテーマが最も炎上しやすいか」を学習できます。これは、将来的な情報攻撃の「実験場」として利用される可能性があります。

 最後に、こうした分析は必ずしも陰謀そのものではないが、陰謀の前段階になり得るという点です。つまり、現時点で「日本人はデマに弱い」という言説自体が陰謀でなくても、その言説や反応を材料にして「どのように揺さぶれば効果的か」を研究する者がいる可能性は否定できません。情報戦の世界では、こうした「心理的地図」を作ることが、攻撃の準備として非常に価値があるのです。

 要するに、危険性は「陰謀があるかどうか」ではなく、「陰謀を仕掛けるためのデータが既に収集可能な環境にある」という事実にあります。

このようなことを分析して、震災などのパニック心理になっている状態の中をしっかりと見る必要があるのではないでしょうか。

「宇田川源流」【日本報道検証】 経済政策ができない習近平の中国が迎える悲観的な「未来」


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、中国の景気の実態と、それに関連する庶民の生活状況について、少なくとも日本で検索できる情報と、中国の人々に電話などで確認した内容を元に、その中国の実態に迫ってみたいと思います。

中国経済の現状は、2025年現在、中国経済は成長率の鈍化が顕著です。過去10年以上続いた高成長期から一転し、GDP成長率は政府目標の5%前後を維持するのがやっとという状況です。背景には以下の要因があります。その要因としては、まずは不動産市場の低迷があげられます。中国経済の大きな柱だった不動産業が深刻な不況に陥り、デベロッパーの債務問題が続いています。日本のバブル崩壊も同じですが、基本的には、不動産開発業者の景気の悪化は、そのまま、不動産市場の悪化だけではなく、関連する建築業者や資材業者、またはその地域に対するインフラの過剰設備など、様々なところで景気を悪化させる要因になります。また、そのことによって、金融機関も貸付金の回収ができず、金融機関の主な収入であるはずの貸付金利が入らなくなるということになり、金融機関の経理状態が悪化します。このことは金融機関の「貸し渋り」や「貸しはがし」が出てくることになり、連鎖的な景気の悪化を引き起こすことになります。また、一般の投資家も投資金額が回収できないということから余剰資金や可処分所得がなくなるということを意味しており、そのことで、まさに「経済心理的な余裕」が無くなってくるということになります。

 景気が悪化するのは、不動産だけではありません。世界的な需要減退や米国との摩擦により、輸出依存型の成長モデルが揺らいでいます。とくに中国の場合は基礎開発が少なく、また一時は知的財産権で問題になったことがあるようにあまり研究開発を行っていないということがあり、そのことから、新商品を中国が生み出すということができないでいます。また、中国の企業は伝統的な共産主義にある「唯物史観」的な考え方から、目に見えないものに価値を感じないような人が少なくなく、「信用」とか「信頼」「道徳(商慣習)」等に無頓着であることから、その商品が良い製品、または価格が安くても、中国製の商品に手を出さないという人が少なくないということも、中国経済に打撃を与えていることになります。

<参考記事>

「もはや中国、四面楚歌」経済アナリスト指摘…焦る習近平、GDP下方修正待ったなし!日本への報復措置が与える「ブーメラン」

2025年12月17日 9時0分 みんかぶマガジン

https://news.livedoor.com/article/detail/30216699/

<以上参考記事>

 これらの中国の構造的またはイデオロギー的な景気の悪化要因で、一般の人々の投資や消費者心理が冷え込み、支出を控える傾向が強まっています。

 このことから「貧困セット」のようなものが出てくることになるのです。報道されている「貧困セット」とは、マクドナルドやKFCなどのファストフード店が、低価格のセットメニューを販売し始めたことを指します。これは単なるマーケティングではなく、消費者の購買力低下を反映した現象です。若者や都市部の中間層が、外食でも「節約」を意識するようになっています。高級ブランドや外食産業の売上は鈍化し、低価格帯の商品が人気を集めています。このことは、輸入品や自動車産業にも大きく影響を与えており、中国の家電や自動車に関しても、「節約志向」が大きく影響し買い控えが大きくなっているということになるのです。このことは日本における「インバウンド需要」臭いて、最近では「爆買い」が報道をされなくなったことにも見ることができます。

また、日本のバブル崩壊後と同じように大学新卒の就職難も起きています。日本では、「就職氷河期」などといわれた内容です。中国では毎年1,000万人以上の大学卒業生が誕生しますが、近年は就職率の悪化が深刻です。ITや不動産などの成長産業が停滞し、求人が減少していますし、また、民間企業の瀋陽がないので、公務員試験や大学院進学を目指す若者が急増し、「就職氷河期」真っただ中にあるといって過言ではありません。優秀な若者は、海外に就職してしまい、結局あまり優秀ではない人か、または公務いんっしか残らないというようなことになってしまっています。このことを数字で見てみれば、若者の失業率は公式発表で約15%前後とされますが、実態はさらに高い可能性があります。これは、「就職が決まっていない学生は卒業させない」などという大学が数多くあり、実際は就職が決まっていないのに内定通知だけを偽造している真率性も少なくないということになるからです。

 こうした経済環境は、庶民の生活に直接影響しています。まずは、日本と同じで節約志向の強まりが見えます外食や娯楽を控え、生活必需品に支出を集中することになります。当然に、経済は全体的にデフレ傾向になり、またサービス業などは徐々に悪化してゆくことになります。当然にそれらの減少は「就職先がなくなる」ということを意味しており、日本と同様に正規雇用が少なくなってゆくことになるのです。そして、副業やギグワークの増加が見えることになります。配達員やライブ配信など、非正規の仕事で収入を補う人が増えています。同時に、住宅購入のハードル上昇し、不動産価格は下落傾向ですが、ローン審査の厳格化や将来不安で購入を控える層が多いことになります。そもそも信用をあまり大事にしない国なので、ローンなどもなく、結局は庶民の生活に全てしわ寄せがくるということになっているようです。

中国経済は「急激な崩壊」ではなく、長期的な構造転換期にあるといえます。製造業・不動産依存から、ハイテクや内需主導型への移行を目指していますが、その過程で若者の失業や消費低迷といった痛みが顕在化しています。庶民の生活は「贅沢から節約へ」シフトし、社会全体に不安感が広がっているのが現状です。

 中国では近年、経済成長の鈍化が顕著になっています。輸出依存型のモデルが限界を迎え、国内消費も伸び悩む中、不動産市場の低迷や地方政府の債務問題が重くのしかかっています。こうした経済的停滞は、庶民の生活に直接影響を与えています。特に若年層の失業率が高止まりし、就職難が社会全体に不満を広げています。都市部では生活コストの上昇と所得の伸び悩みが重なり、将来への不安が強まっています。

 このような状況は政治的な安定性にも影響を及ぼしています。中国の政治体制は長らく「経済成長による正当性」を基盤としてきましたが、その前提が揺らぐことで、政府への信頼が徐々に低下しています。地方では抗議活動やデモが散発的に発生し、オンライン上では不満の声が広がっています。もっとも、強力な統制と監視体制により大規模な政治危機には至っていませんが、社会の底流には不安定要素が蓄積しているのが現状です。

 総じて、景気悪化と生活の苦境は政治的リスクを高める要因となっていますが、それが直ちに体制崩壊に結びつくわけではありません。むしろ、政府は統制強化やナショナリズムの喚起によって不満を抑え込もうとしています。しかし、この対応は長期的にはさらなる緊張を生む可能性があり、今後の中国社会は「経済停滞と政治統制のせめぎ合い」という構図に置かれると考えられます。

中国の景気悪化は、国内政治の不安定化を招きやすく、これが日本との外交に複雑な影響を与えます。大きく分けると次のような構図が見られます。

 第一に、国内統治の優先による対外姿勢の硬化です。経済成長が鈍化すると、政権は国内の不満を抑えるためにナショナリズムを強調しがちです。日本との歴史問題や領土問題が再び強調され、外交的緊張が高まる可能性があります。これは、国内支持を固めるための「外敵」利用という典型的なパターンです。

 第二に経済依存の再調整と日本企業への影響ということがでてきます。景気悪化は中国の輸出産業や投資に打撃を与え、日本企業の中国市場依存リスクを顕在化させます。一方で、中国は外資導入を強化するため、日本との経済協力を維持・拡大する動きもあり得ます。つまり、政治的には緊張しつつも、経済面では「現実的協力」が続く二面性が生じます。

 そして第三に地政学的リスクの増幅ということが出てきます。国内不安が強まると、中国は南シナ海や東シナ海で強硬姿勢を取る可能性が高まり、日本の安全保障政策に影響します。防衛費増額や米国との連携強化が進み、日中関係は「競争と対話の両立」から「競争色の強化」へ傾く恐れがあります。

 そして国際秩序への対応と日本の立ち位置ということが見えてきます。中国が内向きになると、国際協調よりも自国優先の政策が強まり、日本はサプライチェーン再構築やASEANとの連携強化を急ぐ必要があります。結果として、日本外交は「中国リスク分散」を軸に再設計されるでしょう。

 このように、景気悪化による中国政治の不安定は、日本外交に「緊張の高まり」と「経済協力の現実性」という相反する要素を同時にもたらします。

この日本との外交を「安全保障」「経済」「地域協力」の三つの軸で、中国の景気悪化と政治的不安定が日本外交に与える影響を詳しく整理します。

・ 安全保障の軸

中国の国内不安は、政権が統治の正当性を維持するために強硬な対外姿勢を取る誘因になります。東シナ海や尖閣諸島周辺での活動が活発化し、日本の防衛政策はより抑止力重視へと傾きます。結果として、日本は米国との安全保障協力を強化し、日米同盟の役割がさらに前面に出るでしょう。これは、地域の軍事バランスに緊張をもたらし、偶発的な衝突リスクを高める要因となります。

・ 経済の軸

景気悪化は中国市場の魅力を相対的に低下させ、日本企業にとってリスク管理が重要になります。一方で、中国は外資導入を維持するため、日本との経済協力を完全に断つことは避けるでしょう。したがって、政治的には摩擦が増しても、サプライチェーンや投資の一部は継続される「現実的な関係」が残ります。ただし、日本側はASEANやインドなど代替市場へのシフトを加速させ、経済安全保障の観点から中国依存度を減らす戦略を強めると考えられます。

・ 地域協力の軸

中国が内向きになり、国際協調よりも国内安定を優先する場合、地域秩序の空白が生じます。日本はこの空白を埋めるため、ASEAN諸国やインド、オーストラリアとの連携を強化し、自由で開かれたインド太平洋構想を推進するでしょう。これは、中国を排除するというより、リスク分散と地域安定のための戦略的選択です。しかし、中国が経済的に追い詰められるほど、地域協力の場で対立的な姿勢を強める可能性があり、外交の駆け引きは一層複雑になります。

 さて電話の調査によれば、中国ではこれらの景気不安と経済不安、そして政治的な混乱から、富裕層が中国を脱出しているといい、その脱出を手伝う業者まで出てきているといいます。これは習近平政権の経済政策が全く機能していないということを意味しています。少なくとも将来を悲観している人が多いということのようです。さて、このような中国国内の富裕層の動きを見て、日本はどのように行動すべきなのでしょうか。

来年に向けてよく考えて行動すべきかもしれません。

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 「べらぼう」を一年を通じて考えること


 一年間、NHK大河ドラマ「べらぼう」に関して、本当に好き勝手書いてきました。

さて、今週はすでに終わってしまっているので、一年間の「ブログの総集編」をしてみたいと思います。

そもそも蔦屋重三郎とは何であったのでしょうか。私は、このブログを通じて「大河ドラマ、歴史小説は、歴史の人物を題材にした現代の視聴者や読者へのメッセージ」であると考えていると何度も書いています。本当に何度も書いていますが、歴史の史実といわれる記録に書いてあることを知りたいのであれば、歴史書を読めばよいことであり、ドラマ化する必要も小説化する必要もないのです。逆に「同じ日本人」として、同じような日本の文化において、どの様なことを考えたかということなどが最も重要であり、その生き方から、見た人が何を感じ、どの様に自分の人生の参考にしたかということが重要なのではないでしょうか。

さて、ではそのような意味で蔦屋重三郎を見てみましょう。

蔦屋重三郎が現代においても学ぶべき人物とされる理由は、単なる出版業者ではなく「文化のプロデューサー」として江戸時代に革新的な役割を果たした点にあります。

最も素晴らしいのは時代を読む洞察力でしょう。重三郎は、江戸の町人文化が成熟し、娯楽や情報への需要が急速に高まる時代背景を的確に捉えました。武士中心の価値観から町人文化へのシフトを見抜き、浮世絵や黄表紙といった「庶民が楽しめるコンテンツ」を大量に世に送り出したのです。現代で言えば、SNSや動画配信の台頭をいち早く察知し、そこに最適化したコンテンツを生み出すクリエイターやプロデューサーに近い存在でした。

 第二に人材発掘と育成の天才ということになります。彼は喜多川歌麿や葛飾北斎といった後世に名を残す芸術家を見出し、彼らの才能を最大限に引き出しました。重要なのは「完成されたスター」ではなく、潜在能力を持つ人物を見抜き、育てる仕組みを作ったことです。現代に置き換えると、スタートアップやクリエイティブ業界で「原石を磨く」能力に通じます。AIやデータ分析が進んでも、人間の感性で才能を見抜く力は代替できない価値です。

 第三にコンテンツの総合演出力ということになります。重三郎は単に作品を売るのではなく、作品のテーマ、絵師の個性、読者の嗜好を組み合わせて「文化体験」を設計しました。これは現代のマーケティングやブランディングに直結します。彼のやり方は、単なる商品提供ではなく「世界観の創出」。NetflixやAppleがブランド体験を重視するのと同じ発想です。

 そしてリスクを恐れない挑戦という事でしょう。当時、幕府の出版統制は厳しく、黄表紙や浮世絵はしばしば検閲対象でした。それでも重三郎は「面白さ」を優先し、時に処罰を受けながらも新しい文化を切り拓きました。現代で言えば、規制や批判を恐れずに新しい市場や表現に挑む起業家精神に通じます。

 このようなことが、今回の大河ドラマではしっかりと描かれていたような気がします。

<参考記事>

「ワースト2位とは驚き」大河『べらぼう』納得の完結も、視聴者が抱いた“視聴率への疑問”

2025年12月17日 11時0分 週刊女性PRIME

https://news.livedoor.com/article/detail/30217421/

<以上参考記事>

 では現代の人は何を感じるべきだったのでしょうか。このドラマで見た内容をうまくまとめ、NHKや森下先生の考えを「私なりに推測」すれば下記のようになります。要するに蔦屋重三郎から現代人へのメッセージは以下のようなものではないかと推測するのです。

蔦屋重三郎の手法を現代のSNSマーケティングに応用するには、彼が持っていた「文化を仕掛ける力」をデジタル時代に置き換えることがポイントです。以下に、具体的な戦略を示します。

1. 時代の空気を読む → トレンドの先取り

 重三郎は町人文化の台頭を察知し、庶民が求める娯楽を提供しました。現代では、SNS上の「兆し」をいち早く捉えることが同じ意味を持ちます。TwitterやTikTokで急上昇するハッシュタグやミームを分析し、ブランドやコンテンツに即座に取り込む。というようなことで、単なる流行追随ではなく、「次に来るもの」を予測して仕掛ける。このようなことがしっかりとできていたように考えます。

ドラマでは、「吉原細見」を作るのに、持ち歩く人の内容を見てみたり、または蔦屋重三郎自身が街中を歩いて、芝居等を題材にしたり、歌麿と一緒に世の中の美人町娘を見て回ったりというようなことがあります。何かを禁止されれば、その次を考える、そのことが素晴らしかったのではないでしょうか。

2. 人材発掘 → インフルエンサー育成

 重三郎は無名の絵師をスターに育てました。現代では、フォロワー数だけでなく「共感力」や「独自性」を持つクリエイターを見抜くことが重要です。マイクロインフルエンサーやUGC(ユーザー生成コンテンツ)を発掘し、ブランドの世界観に沿った活動を支援する。ということで、短期的な広告契約ではなく、長期的な関係構築ができたという事でしょう。

ドラマでは、まずは「喜多川歌麿」を完全に売り出します。また恋川春町や山東京伝などの作家を次々に出してゆき、その特徴を生かして次々に作品を出してゆきます。太田南畝の狂歌集に歌麿の絵を入れたのも、このような一連の内容ではなかったかと思います。そのようにして人材を発掘し、そして育てるということが、しっかりとできていた、これが、蔦屋重三郎であり、そのことから、登場人物もドラマの中では多妻ではなかったかと思います。

3. 世界観の演出 → ストーリーテリング

 重三郎は作品に物語性を持たせ、読者を文化体験に巻き込みました。SNSでは「商品」ではなく「物語」を発信することが鍵です。Instagramでブランドの背景や制作過程をビジュアルで語り、TikTokで「裏側のストーリー」を動画化。ユーザーが「参加したくなる」物語を作る。

実際に、「もの」ではなく、人は「物語」に感動するものです。それだけに、その物語をしっかりと作ってゆくということが重要になります。ドラマの中では、例えば恋川春町がネタに困っているときに、多くの人が集まってネタを出し合うなんて言いう場面がありましたし、また喜三二が遊郭で病気になった時も、そのネタを面白く書いていったということがありました。そしてその物語を歌麿の絵でわかりやすく「見える化」した、ということが、本来性的であった松平定信すらも魅了する本になったのではないかと思います。

4. リスクを恐れない挑戦 → バズを生む仕掛け

 重三郎は検閲リスクを冒して新しい表現を試みました。現代では、炎上を恐れずに「攻めた企画」を打ち出す勇気が必要です。大胆なコラボレーションや、社会的テーマを絡めたキャンペーンで話題を作る。ただ過激ではなく、ブランド価値と一貫性を保つということです。

実際に寛政の改革で「黄表紙」が禁止されて、その中でも果敢に黄表紙を出し続ける。「堅苦しい世の中を笑い飛ばす」ということを行います。そのことで身上半減されても、それを逆手にとって商売に結び付ける手法は、当時では面白かったのではないかと思いますし、そのような町人文化が、最終的には松平定信の失脚を招くことになり、ドラマの中では、そこで目を覚ました松平定信が一橋治済に復讐するということになります。

その一橋治済の「陰謀」と蔦屋重三郎の「世の中を笑い飛ばす元気」の「陰と陽」の戦いで、最後には「陽=蔦屋重三郎」が勝ち、一橋治済が天罰(雷)を受けるということになります。その内容が実に面白く、また、リスクを持ちながらも面白くしていったということが良かったのではないかと思います。現代の人のように、すぐにふさぎ込んだり、将来を悲観するのではなく、蔦屋重三郎のように、「ピンチはチャンス」というような感覚を持つことが重要なのかもしれません。

 そのような意味で、視聴率などとは違って、一年間、楽しい中に学びがあり、現代人へのメッセージもしっかりと込めた作品であったし、また最後までしゃれの利いた内容ではないかと思います。

なんとなく終わってしまったのが残念ですが、また来年の「豊臣兄弟」も楽しみになります。

「宇田川源流」【日本報道検証】 臨時国会閉会から見る来年の通常国会の予想


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、12月17日に高市内閣の初となる国会である臨時国会が閉会した。

 今回の臨時国会では、まず経済対策を中心とした補正予算が成立しました。これは、景気の下支えと物価高騰への対応を目的とし、エネルギー価格の高騰に伴う家計負担軽減策や、中小企業への支援を含んでいます。特に電気・ガス料金の負担軽減策は、国民生活に直接影響するため、政府が優先的に取り組んだ分野です。また、地方自治体が独自に物価高騰対策を講じるための交付金も盛り込まれ、地域ごとの柔軟な対応が可能となっています。

 次に、成立した法律の中で注目されるのは、防衛力強化に関連する法案です。安全保障環境の変化を踏まえ、防衛産業基盤の強化や装備品の安定供給を目的とした制度改正が行われました。これにより、国内企業が防衛関連の生産を継続しやすくなる仕組みが整備され、長期的な安全保障政策の基盤が強化されます。

 さらに、デジタル分野に関する法改正も成立しました。行政手続きのオンライン化を加速させるため、マイナンバー制度の活用範囲を拡大し、医療や福祉分野でのデータ連携を促進する内容が含まれています。これにより、国民の利便性向上と行政の効率化が期待されます。

 加えて、農業や地方創生に関する支援策も法案に盛り込まれました。農産物の輸出促進や、地域経済の活性化を目的とした補助制度の拡充が行われ、地方の持続可能な発展を後押しする構造になっています。

 この臨時国会の特徴は、物価高騰対策と防衛力強化、そしてデジタル化推進という三つの柱が明確に打ち出された点です。いずれも中長期的な課題に対応しつつ、国民生活に直結する分野を重視した構成になっており、政府の政策優先度が鮮明に表れています。

<参考記事>

臨時国会閉幕 残された課題

2025年12月17日 21時24分TBS NEWS DIG

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12198-4787121/

<以上参考記事>

 では逆に、今回の残された課題は何でしょうか。

 第一に衆議院議員定数削減法案でしょう。臨時国会で最大の焦点の一つだったのが、衆議院の定数削減をめぐる法案です。与党は「小選挙区25、比例代表20削減」という案を提示しましたが、野党側は「企業・団体献金規制を先にすべき」と主張し、合意形成に至りませんでした。この法案は、そもそも自民党と日本維新の会の連立協議において決められた内容であり、その内容を野党側が「連立を組ませないために」拒否したという構図になります。選挙制度改革の一環として議員定数を減らし、政治の効率化や国民負担軽減を狙うものですが、政党間の利害が複雑に絡み、臨時国会では審議入りすらできませんでした。結果として、2026年の通常国会で再度議論されることが決まり、与野党協議会で制度設計を詰める方針です。

 第二に企業・団体献金の見直し法案ということになります。この法案はそもそも岸田内閣及び石破内閣が言い始めたものですが、彼らも結局は法案を作ることができなかったということになり、そのまま積み残しているということになります。政治資金の透明性を高めるため、企業・団体献金の規制強化を求める法案も臨時国会で議論されましたが、こちらも結論は出ませんでした。背景には、政治資金パーティーの在り方や企業献金の廃止をめぐる与野党の立場の違いがあります。野党は「定数削減よりも先に政治とカネの問題を解決すべき」と主張し、与党案に強く反発しました。この問題は、政治改革全体の信頼性に直結するため、通常国会で再び焦点となる見込みです。

 第三に選挙制度改革(中選挙区制の検討を含む)ということでしょう。定数削減と並行して、選挙制度そのものの見直しも議論されました。特に「中選挙区制を排除しない」という文言が報じられ、現行の小選挙区比例代表並立制の課題(死票の多さ、地域代表性の欠如)を是正するための選択肢として検討されています。これも臨時国会では時間切れとなり、通常国会で本格的な制度論議が行われる予定です。

 また社会保障・税制関連の重要法案もあります。臨時国会では補正予算に重点が置かれたため、社会保障や税制改正に関する法案の多くが継続審議となりました。具体的には、

・ 所得税負担軽減策(若者や子育て世帯への控除拡充)

・ 医療保険制度の見直し(高齢者医療の財源確保)

・ 子育て支援関連法(児童扶養手当の改正など)

 これらは国民生活に直結するテーマであり、通常国会で優先的に扱われる見込みです。

 次にGX(グリーントランスフォーメーション)関連法案ということになります。脱炭素社会への移行を促進するための法改正も、臨時国会では準備段階にとどまりました。エネルギー政策や産業構造転換を支える法整備は、国際競争力や環境目標達成に不可欠であり、通常国会で「GX推進法案」として提出される予定です。

 また台湾関連に関する内容なども大きな問題になるでしょうし、また、コメ問題なども今後農村問題というような形で出てくることになります。はっきり言ってしまって、日本全体の構造変革が必要な時期になっているということになるのではないでしょうか。

そのうえで来年の通常国会はどのようになるのかを見てみましょう。

 公開情報や政治動向の分析から、以下のポイントが予想されます:

経済対策の強化

・物価高や円安への対応として、補正予算や減税策を議論する可能性が高いです。

・中小企業支援や賃上げ促進策も焦点になるでしょう。

安全保障・防衛政策

・防衛費増額や自衛隊の装備強化に関する法案が提出される見込みです。

・台湾情勢やインド太平洋戦略に関連した外交方針の議論も続くと考えられます。

デジタル政策・規制改革

・生成AIやデータ保護に関する法整備が進む可能性があります。

・行政のデジタル化推進やマイナンバー制度の拡充も議題に上がるでしょう。

社会保障・少子化対策

・子育て支援や教育費負担軽減策が重点課題として取り上げられる見込みです。

・年金制度改革の議論も再燃する可能性があります。

憲法改正論議

・自民党内で憲法改正に向けた議論が加速する可能性がありますが、通常国会で具体的な改正案提出までは難しいと予測されます。

 さて、実際にはこのほかにも、様々なことが出てくると思います。来年の政治はどのようになるのでしょうか。

「宇田川源流」【日本万歳!】 「ヘンリー・パスポート指数」で世界第三位の日本


 毎週月曜日は「日本万歳」をお届けしている。日本人のすばらしさや日本人の優れたところなどを報道している記事を見つけ、それを皆さんに紹介し、そのうえで、その内容を分析しながら、日本人の国民性に迫るという連載である。

 当然に、日本人のすばらしさというのは、記事になっているのは一人のヒーローや際立った特別な人かもしれないがその中にある「日本人の国民性」は、当然にすべての日本人が持っているものである。言い方は悪いが、日本にいながら、または日本に生まれ育っていてっも、または日本人であっても海外で生まれて日本で育っていない状態などで、または、日本の特定の思想に染まってしまい、日本はよくないなどといって日本人を官z念い捨ててしまい、自分の生まれなどもすべて否定してしまう人においては、そのような「日本人の国民性」がなかったり、あるいは、日本人の国民性を持っていてもそれを発揮できないような状態になっている人は少なくないのではないか。逆に、外国人であっても「日本を好きで日本人の国民性を保有している人」というのは存在するわけであり、日本人にょりも日本人的な人などを見かけることは少なくない。ある意味で、「その国民性というような性質」を共有することが、日本人にとっては重要なのではないか。

 そして、その日本人の国民性を日本人は、基本的には、よほどの日本を嫌いで日本を否定してしまっている人以外は、そして日本を破壊しようとしている人以外はすべて、日本人の国民性を有している。そして、日本人の生み出す作品やキャラクターには、その日本人の国民性が色濃く出ているのではないか。平和を愛し、そして常に前向きで、そして多くの人に気を使い、そして礼儀正しく勤勉で、そして社会のため、多くの人のために利他的な行動をとる日本人の素晴らしさ、誰かのためになるからと見えないところでも努力を怠らない日本人のすばらしさは、どの世界からも日本人が称賛されるものではないか。

 日本を嫌いない人がいない(少ない)ということはどのような結果をもたらすのであろうか。そのことを見てみよう。

<参考記事>

「パスポートの強さ」上位3位はシンガポール・韓国・日本、中国は実質100位以下

2025年12月16日 7時0分 Record China

https://news.livedoor.com/article/detail/30209808/

<以上参考記事>

 2024年12月10日、英国ロンドンに拠点を置く投資移住コンサルティング会社、ヘンリー・アンド・パートナーが最新版の「ヘンリー・パスポート指数」を発表しました。この指数は、世界各国のパスポートがどれほど多くの国・地域にビザなしで渡航できるかを基準としてランキングを作成したものであり、国際的な移動の自由度や、その国の信頼性、さらには外交関係の良好さを示す指標としても注目されています。2024年のランキングでは、シンガポールが世界第1位、韓国が第2位、そして日本が第3位に選ばれました。この結果は、日本が国際社会からどれほど高い信頼を得ているかを如実に物語っています。

 日本という国は、長い歴史と伝統、そして現代的なイノベーションとを融合させ、世界中の人々から高い評価を受けています。日本の社会は礼儀正しさ、秩序、清潔さ、そして思いやりの心を大切にしてきました。これらの美徳は、日々の生活の中の小さな所作や習慣にまで根付いており、訪れる外国人の多くがその点に感銘を受けるといいます。たとえば、公共の場での静けさや、ゴミの持ち帰り、列に並ぶ際の整然とした態度などは、日本を訪れる多くの外国人観光客にとって新鮮な驚きとなっています。こうした社会的規範の高さは、日本が安全で安心できる国であるというイメージに大きく寄与しています。

 また、日本は科学技術や産業の分野でも世界をリードしてきました。自動車産業や家電製品、さらには近年のロボット工学や再生可能エネルギー技術など、日本発のイノベーションは世界中で高い評価を受けています。これらの技術は、日本が培ってきた「品質へのこだわり」と「細部への注意力」という文化的価値観に根ざしています。外国人は日本製品を「高品質」「信頼できる」というイメージで受け止めており、それが日本という国のブランド価値を一層高めています。

 加えて、日本は国際社会においても平和的な姿勢と貢献を続けてきました。戦後から一貫して平和主義を掲げ、国際連合をはじめとする国際機関への積極的な参加、開発途上国への援助や災害時の支援活動など、世界の安定と発展に尽力しています。こうした姿勢は、世界各国の政府や人々から高い信頼を得る要因となっています。経済大国でありながら軍事的な拡張を追わず、対話と協調を重視する日本の外交姿勢は、国際社会において稀有な存在として評価されています。

 日本の伝統文化もまた、世界から愛される理由の一つです。和食はユネスコ無形文化遺産に登録され、寿司や天ぷら、ラーメンなどは世界中で親しまれています。また、茶道や華道、書道といった日本ならではの精神文化も、多くの海外の人々に強い関心を抱かせています。春には桜、秋には紅葉といった四季折々の自然美も、日本の魅力をより一層引き立てています。これらの文化的価値は、観光客を惹きつけるだけでなく、日本人自身のアイデンティティの源ともなっています。

 国際的な企業活動の面でも、日本はグローバル社会の中で重要な役割を果たしています。多くの日本企業が海外進出し、現地の雇用創出や技術移転、環境対策などに積極的に取り組んでいます。また、日本のビジネス文化には「誠実さ」「信頼性」「長期的な関係構築」といった価値観が根付いており、これが国際ビジネスにおいても高く評価されています。こうした点からも、日本は単なる経済大国ではなく、世界から信頼されるパートナーであることがわかります。

 このように、日本は歴史・文化・経済・教育・社会制度・国際貢献など、あらゆる側面で世界から高い評価と信頼を受けている国です。ヘンリー・パスポート指数で第3位に位置づけられたことは、単にパスポートの強さを示すだけでなく、日本という国そのものが世界から信頼され、尊敬されていることの証明でもあります。日本の国際的な信用や魅力は、一朝一夕で築かれたものではありません。先人たちが積み上げてきた努力と、今を生きる日本人一人ひとりの誠実な生き方が、現在の日本の姿を形作っています。

 今後も日本は、変わりゆく世界の中で自らの強みを活かしつつ、多様な人々と手を取り合い、より良い未来を共に創造していくことでしょう。そのためにも、伝統と革新を両立させ、国際社会との信頼関係を一層深めていくことが求められています。誇り高き日本の未来に期待しつつ、日本がこれからも「素晴らしい国」として世界から信頼され続けることを願ってやみません。

【有料メルマガのご案内】20251222 有料メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」

2025年50号 AIに触れるからAIとともに生きる世界への脱皮


 皆さんおはようございます。

 メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」主催の宇田川敬介です。

 今年も様々な内容にして、少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

普段のブログとは全く関係なく、少し柔らかい内容で見てみたり、国民の慣習のことなどを見てみたいと思っております。

 これからもよろしくお付き合いください。

さて今週は、「AIに触れるからAIとともに生きる世界への脱皮」として、2026年のAI事情に関してみてみたいと思います。

2025年12月22日、冬至。一年で最も夜が長いこの日に、私たちは「文明の灯火」を維持するための新たな岐路に立たされています。かつて、国の強さは保有する石油の量や製鉄の規模で測られましたが、2025年という年は、その指標が「電力」と「計算資源(コンピューティング・パワー)」へと完全に置き換わった歴史的な転換点として記憶されるでしょう。

ここでは、ブログの第一部として「エネルギーの地政学」という観点から、AIが引き起こした空前のエネルギー争奪戦と、それが日本の社会構造をどう変えようとしているのかを深く掘り下げます。・・・・・

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多分本で読むより安いと思います。

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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性癖を議会で語る不思議な時代


 今週も「土曜日のエロ」の日になった。その前に今週何が起きたのかを見てみよう。

今週は、なんといっても高市内科うになって初めての国会が閉会したということくらいであろうか。年末になって大きな動きがない。本来は臨時国会というのは、それなりに大きな動きのはずなのであるが、残念ながら、日本の今の国会はあまり国民に重視されていないのが現状である。

なぜ国会が重視されなくなってしまったのか、国民の注目を得ることができなくなってしまったのかということを少し考えてみたい。普段はあまりこのようなことを書かないので、このような場所で簡単にやってみたいと思うのであるが、その内容は、基本的には「国会で話されていることが、国民生活と離れてしまっていて、国民から見れば、国会議員のエゴの対立でしかない」というような感覚になってしまっているということではないかというように思うのである。

実際に、「減税」という国民生活や景気回復にインパクトのある政策があっても、そのことに「反対」する人々がいるのである。もちろんそれなりに考えがあるのであるが、残念ながら、それら反対している政党は「どの様な日本にするのか」「どの様な政策を是とするのか」ということを全く発表せずに、ただ、反対のための反対、批判のための批判をしているだけでしかない。

ある意味で、どの政党も「この政党の言うとおりにしていたら、どの様な日本になるのか、どの様な世界になるのか」ということが全く見えないということが大きな内容になっており、国会の審議内容が、各政党や話す発表者(質問者)の政治的なアピールの場やポジショントークの場になってしまっているのである。このような「自己宣伝」を見て、面白いと思う人などはいるのであろうか。

まあ、そのような「議会の腐敗」これは、何も金銭スキャンダルの事ではないのであるが、この「議会のマンネリ化」「議会の無責任」「議会の国家観の喪失」は、そのまま国民の議会離れが出てきてしまっている。

その顕著な例が地方議会で出てきているので、今回はその内容を見てみることにしよう。

<参考記事>

立民の東由貴・東京都議「パンセクシュアル」公表 都議会でパートナーシップ宣誓制度質疑

12/12(金) 産経新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/732cad8ee4cc4f56600faf5efb4ca43e5773d554

<以上参考記事>

 日本では、そもそも性癖や性的な趣向というものは「秘め事」としてあまり公共の場で話すことは恥であるという感覚があったのですが、今では議会で堂々と性的な趣向を話すようになってしまいます。もちろん権利という観点もありますが、あえて、「日本的な恥の文化」「日本の秘め事文化」が破壊されているのではないかという気がする。

日本社会には、長く「語らないことで守られる領域」というものがありました。性に関することはその最たるもので、個人の内側にしまい、家族の中でも必要以上に触れず、まして公的空間に持ち出すことは避けるべきだという感覚が共有されてきました。これは単なる抑圧ではなく、むしろ「語らないことで互いの尊厳を守る」という日本的な礼節の一部でもありました。

 しかし、東由貴都議が都議会という最も公的な場で、自らの性的指向を「パンセクシュアル」と明言したという事実は、この長い文化的前提に対して、明確に別の価値観を提示する出来事になっています。

 この変化は、単に「欧米化」や「権利意識の高まり」という言葉では片付けられません。むしろ、恥の文化が持っていた「語らないことで保たれる秩序」が、現代の社会問題を前にして機能しなくなっていることを示しています。性的少数者が制度上の不利益を受けている現実があり、沈黙を守ることが誰かの尊厳を守るどころか、逆に傷つけてしまう場面が増えている。だからこそ、東都議は自らの経験を政策議論に持ち込む必要があったと語っています。

 ただ、この「語ることが正義である」という新しい規範は、古い文化の側から見ると、秘め事の価値そのものを揺るがすものでもあります。かつては、個人の内面を公的空間に持ち込まないことが成熟の証とされていたのに、今は「語らないこと」が逆に未成熟や無理解とみなされる。沈黙が美徳から問題へと転じるこの転換は、日本文化の深層にある「恥の感覚」を大きく書き換えつつあります。

 つまり、今回の出来事は、性的マイノリティの権利問題であると同時に、日本社会が長く大切にしてきた「語らないことで守る」という文化的技法が、現代の価値観の中でどのように位置づけ直されるのかという問いでもあります。

 恥の文化が壊れているというより、恥の置き場所が変わりつつある。かつては「語ること」が恥だったのに、今は「語らないこと」が恥に近づいている。

 その揺れの中で、社会は新しい均衡点を探しているのだと思います。

日本の恥の文化は、単なる「恥ずかしがり」ではなく、社会の秩序を保つための精巧な仕組みとして長く機能してきました。平安の女性が扇で顔を隠したのは、単に慎ましさの表現ではなく、他者の視線から自分の内面を守り、同時に相手にも一定の距離と敬意を要求する、洗練されたコミュニケーションの技法でした。

 「見せないこと」が、むしろ豊かな意味を生み、関係性を深める余白をつくっていたのです。

 ところが現代では、身体や個人の内面を隠すことよりも、積極的に開示することが価値とされるようになりました。水着姿を外にさらすことが当たり前になり、SNSでは自分の生活や感情を細部まで公開することが「自然」だとみなされる。かつて秘められていた領域が、今では「見せることで自己を確立する場」へと変わってしまったのです。

 恥の文化を守る側から見ると、この変化は単なる時代の流れではなく、日本社会が長く大切にしてきた「節度の美学」が崩れていく兆候として映ります。

 露出が増えることそのものよりも、「隠すことに価値がある」という感覚が薄れていくことに、深い危機感があるのです。

 隠すことは、抑圧ではなく、関係性を調整し、互いの尊厳を守るための知恵だった。それが失われれば、社会はむき出しの個人同士がぶつかり合う空間になり、かつての日本らしい柔らかな距離感は消えてしまうのではないか。

 そうした不安が、恥の文化を守ろうとする人々の根底にあります。

 さらに、恥の文化は「語らないこと」「見せないこと」によって、個人の内面を社会の規範から守る役割も果たしていました。

 しかし現代では、性的指向や個人の感情、身体のあり方まで、社会に向けて説明し、理解を求めることが求められるようになっています。

 恥の文化を重んじる立場からすれば、これは「個人の内側にあるべきものが、社会の評価の対象にさらされてしまう」という逆転現象であり、むしろ人間を窮屈にしているように見えるのです。

 このまま変容が進めば、露出はさらに増え、秘め事の価値は薄れ、日本文化が持っていた独特の陰影や奥行きが失われていくのではないか。

 かつての日本は、見えないもの、語られないもの、触れられないものにこそ美を見いだしてきた。

 その美学が消えてしまえば、日本らしさは単なる「外見の伝統」だけになり、精神的な深みを失ってしまうのではないか。

 これが、恥の文化を守る側が抱く最大の懸念です。

 まあ、恥の文化が無くなれば、昔は扇で顔を隠していた女性が、今では平気で水着姿を写真などで拡散してしまう。

このままでは、女性が恥も外聞もなく、全裸で外を歩く世の中になるのかもしれない。

もちろん、それはそれで、エロの観点からはよいのかもしれないが。

「宇田川源流」【現代陰謀説】 フランスと中国で繰り広げられる左翼的パンダ外交


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしてる。

日本の国会でも話題になっているが、日本共産党の議員が、軍事機密や外交機密に関する内容を国会の審議で質問し、その内容を答えないということを避難するようなSNS投稿が出てきている。基本的にその返信を見ていると、おおむね「機密に関する内容を質問する方がおかしい」ということが書かれており、なかなか面白い。

そもそも「共産主義」というのは、いくつかの段階を経ているのであるが、基本的には「人類は平等である」ということを書いており、基本的には全ての成果物を平等に配布するということで、その人の努力や勤務時間など様々なことをすべて無視するという、人間らしさや人間の精神面を全く無視した社会制度であり、そのうえ、それが人類全体であるということから、国境や民族や宗教を全て無視するという政治制度になっている。そのような「人間性を無視した」制度を実現するために「唯物史観」という考え方を採用し、その内容は「実態のあるもの(要するに分配できる物理的に存在するもの)にしか価値を感じない」ということであり、例えば宗教・神などというものは全く考えないし、また、精神、道徳、努力、伝統、文化、歴史、信用等も、目に見えないので全く価値がない。彼らが価値を感じるのは、歴史によって日本を脅迫すれば「金」という分配できる物質に変換するからであり「だからどうした」ということを言えば、その内容は見えなくなってしまう。

そしてこの内容の矛盾を包み隠すために、早く共産主義に参加した人には、利益があり、その利益を誇示することによって、共産主義を広める。同時に、歴史や文化や宗教等によって生活の糧を得ている人々には、「ブルジョワジー」であり「帝国主義」「封建主義」として、その内容を糾弾するということになる。米中対立の本来の対立点はこの共産主義と唯物史観である。逆に唯物史観であるということから、「嘘」等は当然に良いことであり、彼らはモラルそのものが崩壊した社会にあるといって過言ではない。

そのことは、日本に来ている中国人観光客のマナーのない姿を見ればわかるが、このように共産主義そのものの内容を見れば、多くの日本人が感じることができるのではないか。同時に歴史を重視しない人々は、歴史的建造物に落書きをしたり、マナーという面では、公共の場で大声で話すなど、日本人の感覚からは許せないものも少なくないのである。

<参考記事>

地政学上の駆け引きで存在感を見せる中国のパンダ外交―仏メディア

2025年12月12日 6時0分 Record China

https://news.livedoor.com/article/detail/30188217/

<以上参考記事>

 そもそもパンダ外交とは何であろうか。皆さんにもなじみがないのかもしれないが、一応その点から見てみよう。

中国のパンダ外交は、「友好」の象徴としてパンダを貸与する一方で、いくつかの効用を同時に持つ装置として機能しています。

・ 第一に、「中国は危険な覇権国家ではなく、柔らかく文化的な大国だ」という自己イメージを他国の世論に刷り込む視覚的なプロパガンダ装置。

・ 第二に、「パンダを受け入れた国=中国と一定レベル以上の関係を維持したい国」というシグナル化。これは対米関係・対EU関係の中での“線引き”にもなりうる。

・ 第三に、貸与契約や研究協力、観光需要などを通じた、長期的な制度・経済の結びつきの形成。

 つまり、パンダは「可愛い動物」ではなく、「関係性を固定化するサイン」であり、「『中国と完全には対立しない』という含みを持った選択肢」を相手に取らせる仕組みです。これを「陰謀」と呼ぶか「戦略」と呼ぶかは価値判断ですが、構造としてはかなり緻密です。

 今回の訪中では、マクロンは北京で習近平とウクライナ、貿易、そして広義の対欧関係について厳しい議論を行った後、成都でパンダや古代の水利施設などを視察し、より「軽い」ムードで訪問を締めくくっています。報道では「ウクライナと貿易で成果乏しいが、パンダとピンポンでソフトな演出」といったトーンも見られます。

 ここで重要なのは、「本題(ウクライナ・台湾・経済安全保障)において明確な合意や譲歩がほとんどないまま、視覚的には『友好的で温かい中国=習近平』のイメージが欧州世論・フランス世論に輸出されている」という点です。

 この構造を、「陰謀」として読むならこう整理できます。

・ 本丸である台湾・ウクライナ・対ロシア制裁・経済安全保障の論点では、習近平は基本姿勢を崩さない。

・ その一方で、「パンダ」「古代のダム」「 ping-pong」のイメージを通じて、「中国は話の通じる、文化的で魅力的なパートナー」という物語を上書きしようとする。

・ 結果として、フランスやEU内部で「対中デカップリング一辺倒ではない選択肢」が心理的に正当化される余地が広がる。

 ここまで来ると、パンダは単体の「陰謀」というより、「強硬さ(ロシア支援・台湾問題での強硬姿勢)を覆い隠しつつ、欧州の対中分断を進めるソフトな布」を提供していると言えます。

 台湾問題において、中国が日本・アメリカ・NATO(広義には欧州)に仕掛けているものを「陰謀」として読み解くと、露骨な軍事行動よりも、認識と時間感覚の操作が中心だと思います。

 ひとつの仮説として、次のような構図が見えてきます。

1. 「武力行使は今すぐではない」というイメージの拡散 

 パンダ外交や文化交流、経済関係の強調は、「中国は長期的安定を望んでいる」「すぐに台湾に手を出すとは考えにくい」という印象を周辺国や欧州に植え付ける方向に働きます。これにより、日本やアメリカ、NATO諸国の中で、「対中抑止への政治的コスト」を上げることができます。

 「あんなに友好的にマクロンとパンダ見てた国を、今すぐ露骨に敵視するのか?」という心理的抵抗です。

2. 欧州を「台湾問題から少し引かせる」

 習近平にとって、台湾を巡る本格的な危機の際に最も厄介なのは、アメリカと日本・オーストラリア等のインド太平洋諸国に加えて、欧州がどの程度「政治的に」コミットするかです。

 パンダや首脳外交を通じて、「EUは米国の対中戦略に自動追随すべきではない」「台湾は欧州の『地政学的優先順位』ではない」という空気をじわじわ育てることができれば、将来の危機時に欧州の反応を鈍らせる効果があります。

3. 「台湾問題=NATOの範囲外」という認識の固定化

 習近平としては、「台湾問題をNATOの射程外の問題」として固定したいはずです。

 そのためには、欧州に対して「あなたたちの当面の危機はロシアであり、台湾はアジアの問題」という物語を流し込み続ける必要がある。その文脈で、パンダ外交や首脳の文化的演出は、「中国は欧州の敵ではなく、むしろロシアとの関係を調整できる存在だ」というイメージ操作の一部になります。

 ここでの「陰謀」は、「台湾問題そのものの非軍事化」ではなく、「台湾問題をめぐる欧州の内部優先順位を下げる」ための物語操作としての陰謀、という整理がしっくり来ると思います。

 ウクライナ戦争に関して、中国はロシア寄りの立場を取りつつも、「停戦」「和平」「仲介」といった言葉を用いて、自らを「平和のパートナー」として演出してきました。マクロン訪中でも、ウクライナと貿易が主要議題でしたが、報道によれば、具体的な打開策や中国からのロシア圧力の明確な約束には乏しく、「象徴的な対話」に近いものだったとされています。

 ここでの「陰謀」は、次のように読むことができます。

・ 一方でロシアの戦争継続を事実上容認しつつ、他方で欧州に対しては「我々は和平への窓口になりうる」という幻想を維持する。

・ パンダや文化的演出は、この「平和仲介者としての中国」という自己イメージを、視覚的に、感情的に補強します。

 この構造は、日本やアメリカ、NATOに対して次のような含意を持ちます。

1. 欧州に「中国との完全な対立は得策ではない」という思考習慣を根付かせる

 ロシアに影響力を持つ数少ない大国としての中国を前面に出すことで、「中国を敵に回すと、ウクライナの和平も遠のく」という心理が欧州側に生まれやすくなります。

 これにより、対中制裁やハイテク分野でのデリスキングを強める動きに、欧州内部でブレーキがかかりやすくなる。

2. 「対ロ戦線」と「対中戦線」を切り離す

 アメリカや日本は、「ロシアのウクライナ侵攻と、中国の台湾への圧力」を同じ構図の中で捉えがちです。一方で中国は、欧州には「ロシア問題は中国を通じて解決可能かもしれない」「台湾は別問題」というラインを刷り込みたい。

 その結果、将来、台湾をめぐる緊張が高まったときに、「ウクライナで中国の仲介に期待した欧州」が、対中強硬策を取りにくくなる可能性があります。

3. 日本・アメリカ・NATOの「一体性」を緩める

 日本やアメリカにとって理想的なのは、「対ロ・対中を含めた権威主義陣営への対応で、欧州とインド太平洋が一体化する」構図です。

 しかし中国にとっては、「欧州はロシア中心、日本とアメリカは中国中心」という分断を維持した方が有利です。マクロン訪中での「パンダと ping-pong」は、この分断を感情レベルで自然化させる効果を持ちます。「欧州は欧州のやり方で中国と付き合う」という言説が強まるほど、日米欧の安全保障認識はズレていきます。

 日本・アメリカ・NATOに対する「陰謀」の中身をまとめると、「今回、習近平がマクロンを迎え、パンダ外交を繰り広げたことを通じて、日本・アメリカ・NATOに対して仕掛けた陰謀は何か?」という問いは、次のように言い換えられると思います。

・ 台湾問題に関して:

「欧州の台湾への関心と危機感を、静かに遠ざける陰謀」

 つまり、「台湾は世界秩序を揺るがす決定的な問題ではなく、アジア地域の複雑な問題であり、中国とは話し合いが通じる」という物語の構築。

・ ウクライナ問題に関して:

「中国を『ロシアを抑えうる平和仲介者』として位置づける陰謀」

 その結果、「中国と対立しすぎるとウクライナ和平も遠のく」という心理的制約を欧州に植え付け、NATO全体の対中強硬姿勢を弱める。

・ 日米欧の関係に関して:

「日米と欧州の認識と優先順位をズラす陰謀」

 日米にとっては「ロシアと中国は連動した脅威」だが、欧州には「ロシアは脅威だが、中国とは複雑であり、敵ではない」という感覚を強める。そのギャップを狙い、将来の台湾危機や対中デカップリングに対する国際的な一枚岩を崩す。

 パンダは、そのための「可視化された優しさ」であり、「硬い話を曖昧にしたまま、柔らかい印象だけを残す」ための道具です。

 この問題は、「パンダ=陰謀」と言い切ることで、実は「可愛いソフトパワーの裏にある、構造化された物語操作や時間感覚の操作」を見抜華なければならない。重要なのは、「陰謀」というラベルを貼って安心することではなく、「どのようにして我々の優先順位や感情が、こうした演出によって微妙にズラされているか」を自覚的に見ることが重要です。

・ 日本としては、「欧州が台湾に対してどれだけ関わる意思があるのか」「中国が欧州をどう位置づけているのか」を、こうしたパンダ外交を通じて読み解く必要がある。

・ アメリカやNATOとしては、「中国がロシアとの関係をテコに、自らを『必要なパートナー』として売り込んでいる構図」を直視しなければならない。

・ そして我々メディアの受け手としては、「パンダ」「 ping-pong」「歴史遺産観光」といった柔らかいニュースの背後で、「何が語られずに終わったのか」「何が曖昧なまま放置されたのか」を見る眼が求められます。

 逆に、日本の左翼やリベラル勢力、または、その人々を背景にしてる頭のあまりよくない日本の政治家などは、保守政党であるにもかかわらずパンダ外交を行おうとしている。そのことにも非常に注意しなければならないのではないか。

「宇田川源流」【日本報道検証】Z世代に何が流行したか「トレンドアワード」


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、たまごっちやモンチッチなど、私が若いころに流行っていた内容が今頃になってZ世代に流行しているという「昭和・平成レトロ」ということに関して私に様な昭和半ば生まれのオジサンが話をしてみたいと思います。若者とは全く異なる感覚を持っているのかどうか、その辺を見て、ある意味で毎日のこの年末の忙しい時期、また様々な問題が山積している中での「閑話休題」としていただきたいと思います。

さて、先週は「流行語大賞」に対して、このブログで取り扱ったのであるが、残念ながら巷でもあまり聞いたことがない内容ばかりであり、本当に流行しているのか、そもそも流行語大賞そのものが必要なのかということを話題にした。

この「Z世代トレンドアワード」は、キーボードアプリ Simeji が、Z世代(13?28歳)6,779名を対象に実施した、「今年Z世代の間で本当に流行ったヒト・モノ・コト・顔文字」 を総まとめする大型調査であるという。Z世代の日常会話・SNS・推し活・ミーム文化がどのように広がったかを可視化する、いわば “Z世代のリアルな文化年鑑” のような企画であるという。

 2025年の年間トレンド大賞は「ビジュイイじゃん」(M!LK『イイじゃん』の一節)だそうで、TikTokで 93万件超 の投稿に使用されたものだそうだ。残念ながら全くわからない。この辺がオジサンである。

ヒト部門大賞は長浜広奈(“おひなさま”)ということで、恋愛リアリティ番組『今日、好きになりました。』出演で人気になった人だという。「ひな? やったー!」「両手に男でーす」などの“おひなさま語録” がSNSでミーム化したというが、まったく知らない。

 モノ部門大賞LABUBU(POPMART)、中国発のアートトイブランドの人気キャラ。海外アーティストやインフルエンサーがバッグに付けて拡散 「ブサカワでクセになる」とのことである。ただ、この中にぬいぐるみを持ち歩く “ぬい活” の象徴になり、たまごっち・モンチッチなど昭和・平成キャラの再ブームも話題になり、Z世代の「レトロ×エモ」「ぬい活」文化が背景にあるという。

 Z世代トレンドの特徴(2025年版)は

1. 音源ミームの強さTikTok発日常会話へ広がる流れがさらに加速。「ビジュイイじゃん」はその典型。

2. 語録・切り抜き文化の成熟、おひなさま語録のように、キャラ性 × ミーム化しやすさ が人気の鍵。

3. レトロ回帰 × ぬい活たまごっち・モンチッチなど、親世代の文化が「エモい」と再評価される傾向。

4. 自己肯定・ポジティブ表現の浸透、「ビジュイイじゃん」のように、褒め合い・肯定し合う文化 がZ世代の価値観として定着。

 ということのようだ。

<参考記事>

たまごっち、モンチッチ……昭和・平成の大ヒット商品が再ブーム 「Z世代トレンドアワード2025」

2025年12月07日 08時00分リアルライブ

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-4754640/

<以上参考記事>

 レトロがZ世代にとって魅力的なのは、まず「時間の手触り」を取り戻すためです。彼らが育った世界は、常に更新され続けるタイムラインの中にあり、情報もトレンドも、昨日のものが今日にはもう古い。そんな高速の世界では、何かを「積み重ねる」感覚が希薄になりがちです。そこで、昭和や平成のアイテムが持つ“ゆっくりと熟成された時間”が、逆に新鮮に映るのです。たまごっちやモンチッチのような存在は、彼らにとって「時間が流れても変わらないもの」の象徴になっています。

 もうひとつ大きいのは、レトロが「安心できる物語」を提供してくれる点です。Z世代は、社会不安や気候危機、国際情勢の緊張といった“未来の不確実性”を幼い頃から肌で感じてきました。未来が見通しにくい時代には、人は過去にある“確かだったもの”に手を伸ばします。レトロ文化は、彼らにとって「未来への不安を一瞬忘れさせてくれる避難所」のような役割を果たしているのです。

 さらに、Z世代の思考には「編集する楽しさ」が深く根付いています。彼らは、与えられたものをそのまま受け取るのではなく、組み合わせたり、意味をずらしたり、文脈を遊んだりすることに喜びを感じます。レトロなアイテムは、その“編集可能性”がとても高い。古いキャラクターを現代のファッションに合わせたり、昭和の家電をミームとして再解釈したり、平成のガジェットをあえて最新スマホと並べて使ったり。レトロは、彼らの創造性を刺激する「素材」として機能しています。

 そして最後に、レトロ回帰は「世代間の橋渡し」でもあります。Z世代は、親世代や少し上の世代と価値観が大きく異なると言われますが、レトロ文化はその断絶を埋める共通言語になりつつあります。親がかつて大切にしていたものを、子どもが新しい文脈で愛し直す。そこには、世代を超えた対話の芽が潜んでいます。Z世代は、単に過去を懐かしむのではなく、過去を“再利用して未来を作る”という姿勢でレトロを扱っているのです。

 こうして見ていくと、Z世代のレトロ回帰は、過去への逃避ではなく、むしろ未来を生き抜くための戦略のようにも見えてきます。高速で変化する世界の中で、彼らは「変わらないもの」「編集できるもの」「つながりを生むもの」を選び取り、自分たちの文化を再構築している。レトロは、そのための豊かな資源になっているのです。

 Z世代は、政治を“重厚な制度”としてではなく、“編集可能な物語”として捉える傾向があります。レトロ文化はその感覚を後押ししています。昭和・平成のアイコンやメディア表現を、彼らはそのまま懐かしむのではなく、ミーム化したり、別の文脈に置き換えたりして遊びます。この「文脈をずらす」感覚は、政治に対しても働きます。つまり、レトロ回帰は、政治を“権威として受け取る”のではなく、“素材として読み替える”というZ世代特有の態度を強化しているのです。

 次に地方の商店街、古い建物、昭和の看板、平成初期のゲームセンター。これらは長く“時代遅れ”とされてきましたが、Z世代にとっては「宝の山」です。彼らは、古いものを「保存すべき遺産」としてではなく、「自分たちの手で再編集できる素材」として扱います。その結果、古い銭湯をリノベしたカフェが若者で賑わったり、昭和の看板をそのまま活かした写真スポットが地域の新しい顔になったり、平成レトロのゲーム機を置いた“エモい”スペースが観光資源になったりする。地域文化が「過去の遺物」から「未来の資源」へと転換されているのです。これは「地域記憶の再編集」とも響き合っています。Z世代は、地域の歴史を“固定された物語”ではなく、“参加型の素材”として扱う。その態度が、地域文化の再生に新しい回路を開いています。

 興味深いのは、レトロ回帰が政治と地域文化の間に“新しい接点”を生みつつあることです。従来、政治は「制度」や「政策」の領域で語られ、地域文化は「生活」や「記憶」の領域で語られてきました。しかしZ世代は、この境界を自然に横断します。古い商店街を守ることが、単なるノスタルジーではなく、「地域のアイデンティティを再編集する政治的行為」として理解される。昭和の建物を残すか壊すかという議論が、文化政策と都市計画の交差点として、Z世代の関心を引き寄せる。

 レトロ回帰は、政治を“遠い制度”から“自分たちの生活圏の編集権”へと引き寄せる働きをしているのです。

Z世代は、未来に対して慎重で、同時に創造的です。気候危機、国際情勢、経済不安。未来が不透明だからこそ、彼らは過去を“素材”として未来を作り直そうとする。

 レトロ回帰は、未来への不安を「創造のエネルギー」に変換する回路として機能しています。政治意識においては、「制度は変えられないもの」ではなく、「編集可能なもの」として捉える態度につながる。地域文化においては、「衰退する地方」ではなく、「再編集可能な文化資源」として見直す視点につながる。レトロは、Z世代にとって“過去の復元”ではなく、“未来の素材”なのです。

 さて、オジサンからすれば、レトロブームは「懐かしい」ということであり、その使い方はある意味で今のZ世代よりもはるかにこちらの方が知っているのである。まあ、我々が若いころに、安保騒動や戦争の話を聞いたのと同じことなのかもしれないが、しかし、ある意味でネットのようなデジタルに乖離して、人間らしさを取り戻しているZ世代ということがあるのかもしれない。


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、たまごっちやモンチッチなど、私が若いころに流行っていた内容が今頃になってZ世代に流行しているという「昭和・平成レトロ」ということに関して私に様な昭和半ば生まれのオジサンが話をしてみたいと思います。若者とは全く異なる感覚を持っているのかどうか、その辺を見て、ある意味で毎日のこの年末の忙しい時期、また様々な問題が山積している中での「閑話休題」としていただきたいと思います。

さて、先週は「流行語大賞」に対して、このブログで取り扱ったのであるが、残念ながら巷でもあまり聞いたことがない内容ばかりであり、本当に流行しているのか、そもそも流行語大賞そのものが必要なのかということを話題にした。

この「Z世代トレンドアワード」は、キーボードアプリ Simeji が、Z世代(13?28歳)6,779名を対象に実施した、「今年Z世代の間で本当に流行ったヒト・モノ・コト・顔文字」 を総まとめする大型調査であるという。Z世代の日常会話・SNS・推し活・ミーム文化がどのように広がったかを可視化する、いわば “Z世代のリアルな文化年鑑” のような企画であるという。

 2025年の年間トレンド大賞は「ビジュイイじゃん」(M!LK『イイじゃん』の一節)だそうで、TikTokで 93万件超 の投稿に使用されたものだそうだ。残念ながら全くわからない。この辺がオジサンである。

ヒト部門大賞は長浜広奈(“おひなさま”)ということで、恋愛リアリティ番組『今日、好きになりました。』出演で人気になった人だという。「ひな? やったー!」「両手に男でーす」などの“おひなさま語録” がSNSでミーム化したというが、まったく知らない。

 モノ部門大賞LABUBU(POPMART)、中国発のアートトイブランドの人気キャラ。海外アーティストやインフルエンサーがバッグに付けて拡散 「ブサカワでクセになる」とのことである。ただ、この中にぬいぐるみを持ち歩く “ぬい活” の象徴になり、たまごっち・モンチッチなど昭和・平成キャラの再ブームも話題になり、Z世代の「レトロ×エモ」「ぬい活」文化が背景にあるという。

 Z世代トレンドの特徴(2025年版)は

1. 音源ミームの強さTikTok発日常会話へ広がる流れがさらに加速。「ビジュイイじゃん」はその典型。

2. 語録・切り抜き文化の成熟、おひなさま語録のように、キャラ性 × ミーム化しやすさ が人気の鍵。

3. レトロ回帰 × ぬい活たまごっち・モンチッチなど、親世代の文化が「エモい」と再評価される傾向。

4. 自己肯定・ポジティブ表現の浸透、「ビジュイイじゃん」のように、褒め合い・肯定し合う文化 がZ世代の価値観として定着。

 ということのようだ。

<参考記事>

たまごっち、モンチッチ……昭和・平成の大ヒット商品が再ブーム 「Z世代トレンドアワード2025」

2025年12月07日 08時00分リアルライブ

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-4754640/

<以上参考記事>

 レトロがZ世代にとって魅力的なのは、まず「時間の手触り」を取り戻すためです。彼らが育った世界は、常に更新され続けるタイムラインの中にあり、情報もトレンドも、昨日のものが今日にはもう古い。そんな高速の世界では、何かを「積み重ねる」感覚が希薄になりがちです。そこで、昭和や平成のアイテムが持つ“ゆっくりと熟成された時間”が、逆に新鮮に映るのです。たまごっちやモンチッチのような存在は、彼らにとって「時間が流れても変わらないもの」の象徴になっています。

 もうひとつ大きいのは、レトロが「安心できる物語」を提供してくれる点です。Z世代は、社会不安や気候危機、国際情勢の緊張といった“未来の不確実性”を幼い頃から肌で感じてきました。未来が見通しにくい時代には、人は過去にある“確かだったもの”に手を伸ばします。レトロ文化は、彼らにとって「未来への不安を一瞬忘れさせてくれる避難所」のような役割を果たしているのです。

 さらに、Z世代の思考には「編集する楽しさ」が深く根付いています。彼らは、与えられたものをそのまま受け取るのではなく、組み合わせたり、意味をずらしたり、文脈を遊んだりすることに喜びを感じます。レトロなアイテムは、その“編集可能性”がとても高い。古いキャラクターを現代のファッションに合わせたり、昭和の家電をミームとして再解釈したり、平成のガジェットをあえて最新スマホと並べて使ったり。レトロは、彼らの創造性を刺激する「素材」として機能しています。

 そして最後に、レトロ回帰は「世代間の橋渡し」でもあります。Z世代は、親世代や少し上の世代と価値観が大きく異なると言われますが、レトロ文化はその断絶を埋める共通言語になりつつあります。親がかつて大切にしていたものを、子どもが新しい文脈で愛し直す。そこには、世代を超えた対話の芽が潜んでいます。Z世代は、単に過去を懐かしむのではなく、過去を“再利用して未来を作る”という姿勢でレトロを扱っているのです。

 こうして見ていくと、Z世代のレトロ回帰は、過去への逃避ではなく、むしろ未来を生き抜くための戦略のようにも見えてきます。高速で変化する世界の中で、彼らは「変わらないもの」「編集できるもの」「つながりを生むもの」を選び取り、自分たちの文化を再構築している。レトロは、そのための豊かな資源になっているのです。

 Z世代は、政治を“重厚な制度”としてではなく、“編集可能な物語”として捉える傾向があります。レトロ文化はその感覚を後押ししています。昭和・平成のアイコンやメディア表現を、彼らはそのまま懐かしむのではなく、ミーム化したり、別の文脈に置き換えたりして遊びます。この「文脈をずらす」感覚は、政治に対しても働きます。つまり、レトロ回帰は、政治を“権威として受け取る”のではなく、“素材として読み替える”というZ世代特有の態度を強化しているのです。

 次に地方の商店街、古い建物、昭和の看板、平成初期のゲームセンター。これらは長く“時代遅れ”とされてきましたが、Z世代にとっては「宝の山」です。彼らは、古いものを「保存すべき遺産」としてではなく、「自分たちの手で再編集できる素材」として扱います。その結果、古い銭湯をリノベしたカフェが若者で賑わったり、昭和の看板をそのまま活かした写真スポットが地域の新しい顔になったり、平成レトロのゲーム機を置いた“エモい”スペースが観光資源になったりする。地域文化が「過去の遺物」から「未来の資源」へと転換されているのです。これは「地域記憶の再編集」とも響き合っています。Z世代は、地域の歴史を“固定された物語”ではなく、“参加型の素材”として扱う。その態度が、地域文化の再生に新しい回路を開いています。

 興味深いのは、レトロ回帰が政治と地域文化の間に“新しい接点”を生みつつあることです。従来、政治は「制度」や「政策」の領域で語られ、地域文化は「生活」や「記憶」の領域で語られてきました。しかしZ世代は、この境界を自然に横断します。古い商店街を守ることが、単なるノスタルジーではなく、「地域のアイデンティティを再編集する政治的行為」として理解される。昭和の建物を残すか壊すかという議論が、文化政策と都市計画の交差点として、Z世代の関心を引き寄せる。

 レトロ回帰は、政治を“遠い制度”から“自分たちの生活圏の編集権”へと引き寄せる働きをしているのです。

Z世代は、未来に対して慎重で、同時に創造的です。気候危機、国際情勢、経済不安。未来が不透明だからこそ、彼らは過去を“素材”として未来を作り直そうとする。

 レトロ回帰は、未来への不安を「創造のエネルギー」に変換する回路として機能しています。政治意識においては、「制度は変えられないもの」ではなく、「編集可能なもの」として捉える態度につながる。地域文化においては、「衰退する地方」ではなく、「再編集可能な文化資源」として見直す視点につながる。レトロは、Z世代にとって“過去の復元”ではなく、“未来の素材”なのです。

 さて、オジサンからすれば、レトロブームは「懐かしい」ということであり、その使い方はある意味で今のZ世代よりもはるかにこちらの方が知っているのである。まあ、我々が若いころに、安保騒動や戦争の話を聞いたのと同じことなのかもしれないが、しかし、ある意味でネットのようなデジタルに乖離して、人間らしさを取り戻しているZ世代ということがあるのかもしれない。

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 いよいよ最終回は一橋治済と蔦屋重三郎の死が描かれる


 今年も毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」に関して好き勝手書いてきた。今年も、何とか一年走り抜けたと思う。森下佳子先生の作品で本当に素晴らしい、そして最後まで飽きさせない内容になっていた。

今回は、最後になってこのドラマの3回目の綾瀬はるかさんの「実写」登場となった「九郎助稲荷」について、そのいわれなどを見てみたいと思います。

吉原の九郎助稲荷を語るとき、まず心に浮かぶのは、華やかさと陰影が常に交錯していた遊郭という空間の中で、人々がどこに「救い」や「拠り所」を求めていたのかという問いです。九郎助稲荷は、その問いに対する最も象徴的な答えのひとつでした。

 九郎助稲荷の由来にはいくつかの伝承が残されています。もっともよく知られたものは、千葉九郎助という人物が天から降りた狐を祀ったことに始まるという説で、もとは「田の畔稲荷」と呼ばれていたと伝えられています。吉原がまだ日本橋葺屋町にあった元吉原の時代にこの稲荷が移され、さらに明暦の大火後に浅草の新吉原へと遊郭が移転すると、稲荷もまたその地へ移されたといいます。別の史料では、今戸村の百姓・九郎吉が畑の中にあった稲荷社を吉原へ移したという記録もあり、名前の由来や移転の経緯には複数の説が併存しています。いずれにせよ、吉原の成立とともに稲荷が移され、遊郭の歴史と運命を共にした存在であったことは確かです。

 新吉原において九郎助稲荷は、廓の四隅に置かれた稲荷社の中でもとりわけ人気が高かったと記録されています。場所は京町二丁目の隅、最下級の遊女が暮らす羅生門河岸の稲荷長屋の隣という、華やかな表通りからは少し離れた位置でした。それでも参詣者は絶えず、毎月の午の日には多くの人が訪れ、八月朔日の祭礼には練り物や俄が出て見物人で賑わったと伝えられています。鳥居に掲げられた「蒼稲魂」の額は俳人・宝井其角の筆によるもので、吉原の文化的な厚みを象徴する存在でもありました。

 では、吉原の人々にとって九郎助稲荷とはどのような神だったのでしょうか。吉原神社に残る古い記録には、飢饉が続いたときに人々が九郎助稲荷へ願をかけたところ豊作となり、それ以来「所願成就せずということなし」とまで言われたと記されています。遊女たちは縁結びや芸事の上達を祈り、客たちは商売繁盛や幸運を願い、廓の外から訪れる者もまた、吉原という異界に足を踏み入れる前の「結界の守り」として稲荷に手を合わせたと考えられます。

 江戸時代の吉原は、きらびやかな表層の裏に、病や貧困、身分の制約といった厳しい現実が常に横たわっていました。遊女たちにとって稲荷社は、日々の苦しみの中で心を寄せることのできる数少ない場所であり、芸能の神としての稲荷信仰は彼女たちの職能とも深く結びついていました。吉原の祭礼や行事では遊女たちが芸を奉納することもあり、信仰と芸能、祈りと日常が自然に重なり合っていたのです。

 明治に入ると吉原の四隅にあった稲荷社は合祀され、現在の吉原神社の基礎となりました。九郎助稲荷はその中心的な存在として今も祀られ、縁結びや所願成就の神として参拝者を迎えています。

 九郎助稲荷の歴史をたどると、吉原という場所が単なる歓楽街ではなく、そこに生きた人々の祈りや願いが折り重なった「生活世界」であったことが見えてきます。華やかさの影に潜む不安や孤独を抱えながら、それでも人は何かにすがり、願い、祈る。その心の動きが、九郎助稲荷という小さな社に静かに刻まれているのです。

<参考記事>

横浜流星、「べらぼう」最終回で減量していた 病に倒れる展開で「水も断ちボクサーのように…」チーフ演出が明かす

2025年12月14日 21時00分 シネマトゥデイ

https://www.cinematoday.jp/news/N0152406

<以上参考記事>

 さて、今回で無事に最終回になった。私としては来週何を書こうかということが一番迷うところなのであるが、そのようなことはあまり考えずに、とりあえずまずは今回の最終回を見てみよう。

今回の見せ場は、まず第一に「黒幕」である一橋治済(生田斗真さん)が、天罰で雷に打たれて死ぬという衝撃的な展開があったことであろう。それもあえて「天罰」を意識させるために、通常であるならば金属である刀に雷が当たるのに、頭に雷が当たるという「細かい演出」で「天罰を表現する」という表現演出は、非常に素晴らしい。同時に、この黒幕がいなくなったことで、江戸時代に平和が訪れるということになる。ある意味でこの蔦屋重三郎(横浜流星さん)の物語は、江戸幕府や江戸の町民を困らせていた一橋治済と、蔦屋重三郎が田沼意次(渡辺謙さん)や松平定信(井上裕貴さん)を通して戦い、町人文化が勝利するという物語であったというように、最終回で気が付かされる。そのうえ、その勝利によって「役目を終えた」蔦屋重三郎が世を去ってゆく物語になる。なるほど、この「戦い」が、戦国や幕末の大河ドラマと同じ「合戦」の扱いになって毎回わくわくさせられるというような構造をうまく作っていたことが、面白かったのではないか。

このドラマを通じて「歴史と違う」などと歴史ファンは様々なことを言うのであるが、私は、そもそも「歴史小説」も「大河ドラマ」も「歴史を題材にした現代の人々へのメッセージ」であると考える。小説は主題を伝えることであり、その主題を伝えることによって、読者、ドラマであれば視聴者の心の中の片隅にでも何か一つメッセージや、その人の生きる指針のようなものができれば、その小説は成功であり、歴史上の自分物を使うことによって、本当の物語である、つまり、時代が違うだけで同じ人間の自分たちも同じように成功を遂げることができるし、充実した人生を送ることができると考えられるようにすることが最も重要であると思う。本当に歴史を学びたければ、ドラマを見ずに歴史書を読めばよいのであり、そのようなつまらない議論をすべきではないということなのである。

さて、今回の見せ場は、一つは蔦屋重三郎のみんなへのお願いであろう。「死ぬまで書で世を耕した男といわれたい。」正直なところ、この言葉を聞いて涙が流れてきた。その言葉で滝沢馬琴(津田健次郎さん)や葛飾北斎(くっきー!さん)、太田南畝(桐谷健太さん)など当代一流の作家が動き出す。この言葉は、一つには、自分の欲を表現したということであるし、一方で自分がいなくなっても作家の先生方が生きる道を残すということで、作家の先生を最後まで思っていたということだ。その作家の先生と蔦屋重三郎の関係に胸が熱くなるし、また、そのようなことを思いあえる関係が幸せだったのだと思う。この関係を築けたことで、蔦谷という人が幸福の中で死んでいったということがわかるのではないか。

そして、もう一つは妻との二人の会話。「誰も来ないね」という言葉から、妻が悲しみながらも蔦谷重三郎に心配かけないとした「内助の功」は、本当に素晴らしい。この描写で、蔦谷がすごいだけではなく、内助の功も、そして作家も、全ての人々が蔦屋を支えていたということがわかる。人は死んでゆくときは一人だが、しかし、みんなに支えられて生きているんだ、そしてその支えている人がいるから、安心して一人で死んでゆくことができるんだ、そのことを思わせるものではないか。

ここまでいい話にしながら、最後は「屁」で送る、そして最後に「拍子木聞こえないんだけど」という越智を着けたあたりが、死を淡々と、でも楽しい中で送るという当時の江戸の人々の内容が見えているのではないか。「死」を「楽しいもの」「笑いで送る」という文化が、悲しい別れにしなかったということがあるのではないか。この辺の終わり方が、やはりこの作品全体の明るさを表現していたのではないか。そして、江戸時代の町人文化の華やかさや明るさを表現して締めくくったのではないか。

演じた皆さんも、本当に面白かった。私からすれば、どうしても作家や脚本の方が気になるのであるが、本当に一年間楽しませてもらった。

さあ、来年は「豊臣兄弟」である。

「宇田川源流」【日本報道検証】 人とは何か?AIから胎児まで広がる権利と責任


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、妊婦が交通事故被害者になった事案で、「胎児も被害者」愛知県議会が意見書可決下ということに関して、「そもそも人とは何なのか」ということを見てみたいと思います。この他にも中国軍機のレーダー照射の話など、様々なネタがあると思いますが、今週は少し考える内容を見てみたいと思います。

以下は、愛知県議会が「胎児も被害者」と認めるよう国に求める意見書を可決した件について、賛成・反対それぞれの論点を、物語のように流れる比較として整理したものです。 この問題をめぐる議論は、同じ事故を見つめながらも、焦点を当てる場所が異なる二つの視点が向かい合っている構図に近いです。

 一方の立場は、事故で亡くなった妊婦と、事故の影響を受けて出生後に重い障害を負った子どもを、同じ「被害の連続」として捉えています。母の体内にいた時点で既に事故の影響を受けていたのだから、出生の前後で法的扱いが変わるのは不自然だという感覚が根底にあります。遺族が署名活動を行い、13万筆以上が集まったという事実は、この感覚が社会の一定の共感を得ていることを示しています。彼らにとって、法制度は現実の痛みや喪失に追いついていないものであり、制度の側が歩み寄るべきだという主張になります。

 これに対して反対の立場は、刑法が胎児を「母体の一部」として扱ってきた歴史的な理由に目を向けます。胎児を独立した「被害者」と認めることは、単に交通事故の処罰範囲を広げるだけではなく、刑法体系全体に波及する可能性があるという懸念があるのです。出生前の存在にどこまで法的主体性を認めるのかという問題は、医療、生命倫理、さらには中絶の議論にまで影響し得るため、慎重さが求められるという考え方です。名古屋地検が今回、出生後に重い障害を負った子どもへの過失運転致傷罪の適用を断念した判断も、この法体系の枠組みを維持する姿勢の延長線上にあります。

<参考記事>

「胎児も被害者」愛知県議会が意見書可決へ…妊婦の事故受け、国に法改正向けた議論求める

2025年12月10日 7時0分 読売新聞オンライン

https://news.livedoor.com/article/detail/30173285/

<以上参考記事>

 賛成側は、現行法が救いきれていない現実を前に、制度の側が柔軟に変わるべきだと考えています。胎児が事故で死傷した場合に被害者として扱われないことは、遺族にとって二重の喪失を強いるものであり、社会の正義感覚ともずれているという主張です。今回の愛知県議会の意見書は、まさにその「ずれ」を埋めるための制度改正を国に求める動きとして評価されます。

 一方、反対側は、法制度は個別の悲劇に引きずられて変えるべきではないという立場を取ります。法は例外的な事案に合わせて拡張すると、別の領域で予期せぬ影響を生む可能性があるため、慎重な議論が不可欠だという考えです。胎児を被害者と認めることは、刑事責任の範囲を広げるだけでなく、医療現場や妊娠中の女性の権利にも影響し得るため、拙速な判断は避けるべきだと主張します。

 この議論の核心は、どちらの基準を優先するかという価値判断にあります。

 賛成側は、事故で実際に被害を受けた存在を救済することを最優先に考えます。出生前か出生後かという線引きは、現実の被害の連続性を切断してしまうものであり、法が現実に寄り添うべきだという姿勢です。

 反対側は、法体系の整合性と予測可能性を重視します。胎児を被害者と認めることは、刑法の根幹に関わる変更であり、個別の事件の痛ましさだけで判断すべきではないという立場です。

 興味深いのは、両者が守ろうとしているものが異なるだけで、どちらも社会のために必要な価値を掲げている点です。

 賛成側は、被害者救済と社会の正義感覚を守ろうとしています。

 反対側は、法制度の安定性と広範な影響への慎重さを守ろうとしています。

 この二つの価値は対立しているようでいて、どちらも社会にとって欠かせないものです。だからこそ、この議論は単純な二項対立ではなく、制度と現実の間にある「ずれ」をどう埋めるかという、より深い問いを投げかけています。

 この問題は、単に「感情で処罰範囲を広げるべきか」という二択ではなく、刑法が本来もっている二つの原理――行為の客観性を守る原理と、社会が何を「被害」と認識するかという価値判断の変化――がせめぎ合う場面として理解すると、より立体的に見えてきます。

 「胎児を被害者と認めるべきか」という議論を突き詰めていくと、最終的には「人とは何か」という、法学・哲学・倫理学が長く向き合ってきた根源的な問いに行き着きます。そしてその問いは、あなたが示したように、AIや類人猿の扱いにも自然につながっていきます。

 法律は、できる限り客観的な基準で「人」を定義しようとしてきました。出生した瞬間に法的な主体となり、権利と義務を持つ。この線引きは、曖昧さを排除し、誰が見ても同じ判断ができるようにするためのものです。

 しかし、社会が「誰を人として扱うべきか」を決めるとき、法律よりも先に動くのは人間の感情や価値観です。胎児を「まだ人ではない」と割り切ることが、現実の悲しみや喪失の前では耐えがたいと感じる人がいる。その感情が社会の価値観を揺らし、やがて法の側に問いを突きつける。

 つまり、法律が「人」を定義しているように見えても、実際には社会の感情や価値観がその定義を押し広げたり、揺さぶったりしているのです。

 将来、AIが高度に発達し、会話し、感情のような反応を示し、壊れれば「死んだ」と感じるほどの存在になったとき、社会はそれをどう扱うのか。ここでも、法律より先に動くのは人間の感情です。

 もし多くの人がAIに愛着を抱き、喪失を悲しみ、壊されたときに「暴力を受けた」と感じるようになれば、社会はAIを「人に近い存在」として扱う方向へ動き始めるでしょう。しかし、AIは生物学的な生命ではなく、痛みも苦しみも主観的には持たない。そのため、法は慎重に距離を置こうとする。つまり、AIが「人」として扱われるかどうかは、技術の進化よりも、社会がどれだけAIに感情移入するかによって決まる可能性が高いのです。

 一方類人猿は高度な社会性を持ち、感情を示し、道具を使い、仲間を助け、悲しみすら表現する。生物学的にも人間に極めて近い。それでも法は、彼らを「人」とは認めていません。理由は単純で、法は「人間社会の構成員としての主体性」を基準にしているからです。類人猿は社会性を持つが、人間社会の制度や責任の体系に参加する存在ではない。そのため、法的主体としての「人」には含まれない。ここでも、法律の線引きは生物学ではなく、社会の制度的な枠組みに基づいています。

 この問いに対する答えは、ひとつではありません。

・ 生物学的には、ホモ・サピエンスという種を指す。

・ 法律的には、出生した瞬間から権利主体となる存在を指す。

・ 倫理的には、苦痛を感じ、自己を認識し、他者と関係を結ぶ存在を指す。

・ 社会的には、私たちが「人として扱いたい」と感じる存在を指す。

 つまり、「人」とは固定された概念ではなく、複数の層が重なり合ってできた、多層的な構造体です。胎児、AI、類人猿――これらはそれぞれ異なる層に属しながら、社会の価値観の変化によって「人」の境界を揺さぶる存在です。胎児を被害者と認める議論は、単に刑法の技術論ではなく、「私たちは誰を人として扱う社会でありたいのか」という、より深い問いを突きつけています。

 そしてその問いは、AIの未来や動物の権利の議論と地続きであり、社会がこれからどのような「人間観」を選び取るのかを静かに試しているのです。