「宇田川源流」【土曜日のエロ】 「男性同士の性行為写真」入りポルノ雑誌が教材になるドイツの人権の考え方
今週も土曜日のエロの日になった。まあ、またエロについてゆっくりと語ってゆきたいと思う。
さて、エロの話題の前に、今週何があったのかを見てみよう。
今週は、日本の国会では国会の「混乱と正常化」ということがあったようである。単純に言えば、正常化ではなく「野党のサボリ癖がでた」ということでしかない。審議拒否とはよく言ったもので、「テレビ中継の入る目立つところでしかやりたくない」というような、メディア頼みの宣伝工作を与党の要求しているということに過ぎないのである。要するに「党利党略」でしかなく、国家のためまたは議会のことなどは全く考えていない状態であることが明らかになる。永田町というか国会周辺でしか通用しないこれらの論理は、国民に理解されているのであろうか。JNNの調査であったか、「野党の戦略は理解できない」という数字が過半数であったが、まあ、結果はそのようなものであろう。
一方、海外ではどうであろうか。
一つはウクライナのロシア内部の製油所攻撃によって、ロシア国内が徐々に疲弊してきている。ある意味で「戦術的な勝利」と「戦略的な勝利」というのは異なるということを、歴史上ベトナム戦争と二つ目の事例を作ってくれたようなものである。まだ敗北をしているわけではないが、なんとなく軍事大国としていた旧ソ連が、ウクライナのような国に勝てないということが、現代の戦争が簡単ではないということがよくわかるのではないかと考える。
同様のことが、アメリカとイランの間にもあるようだ。7月4日、アメリカは建国250年、一方でイランは2月の先頭で死んだハメネイ師の国葬。当然に「アメリカは偉大なり」と「アメリカに復讐せよ」という二つの考えが同じ日に二つの国で交差する。その間に中国が潜水艦発射型の弾道ミサイルの実験をして世界の顰蹙を買うということになる。
まさに世界はそうやって動いている。国会のサボリなどが話題になっている日本は、本当に「平和なお花畑が広がる頭の人」しか議員になっていないとしか考えられないのである。
<参考記事>
「男性同士の性行為写真」入りポルノ雑誌が教材に…人権主義の暴走が教育現場にもたらし
た"事件"の深層
2026年7月1日 17時15分 プレジデントオンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/31711106/
<以上参考記事>
「人権擁護」や「多様性の尊重」といった大義名分、いわゆるポリコレが過激化するあまり、結果として本来の意図とは逆の「きわどい性的表現」を公の場や教育現場に侵入させてしまう現象は、近年の大きな議論の的となっています。
本来、リベラルな人権主義はマイノリティの権利擁護や抑圧からの解放を掲げます。しかし、これが過剰になると、抑圧されてきた性的マイノリティの表現を肯定することこそが正義であり、それを規制することは差別に当たるというロジックが働きやすくなります。その結果、一般的な性表現、つまりマジョリティのヘテロセクシャルなエロであれば不適切として厳しく排除されるレベルの過激な描写であっても、多様性の理解という大義名分のもとではフリーパスで公の場に登場してしまうという逆転現象が起こります。パリオリンピックの開会式で物議を醸したドラァグクイーンやトランスジェンダーのダンサーたちによる演出は、まさにこの象徴です。多様性と寛容をアピールするという政治的、倫理的な正しさが最優先された結果、ファミリー層も観る世界的な祭典において、きわめて性的で退廃的なニュアンスを持つ表現が全世界に生中継されることになりました。
ここで興味深いのは、配慮されたエロが教育や公の場で称賛される一方で、シスジェンダーやヘテロセクシャルな男性向け、女性向けの一般的なエロが、フェミニズムやジェンダー平等の観点から徹底的に排除されるという二重基準です。ポリコレの文脈では、従来のグラビア写真などは女性の性的搾取として厳しく批判される一方で、性の多様性を学ぶための教材となれば、より生々しい性行為の写真が教育現場に持ち込まれてしまいます。この矛盾こそが、現在の教育現場やメディアが抱える事件の深層と言えます。
エロを興味深く掘り下げる観点、そして特定の政治的正しさに基づいたエロだけを優遇する現状へのアンチテーゼとして、女性の通常のエロ、つまり一般的な男女の性愛や、女性が主体的、本能的に楽しむエロも、等しく教育現場で教材にするべきではないかというアプローチは非常に本質的です。もし本当に多様な性を教育現場で教えるのであれば、一部の政治的に尖った表現だけをピックアップするのではなく、人間が最も普遍的に経験する通常のエロや健全な肉欲を隠さずに扱う方が、はるかにリアルで実用的な性教育になり得ます。
現在の行き過ぎたポリコレ教育は、差別の解消や多様性の理解を掲げて性的マイノリティの過激な表現を扱いますが、そこには思想的な偏りや生々しさに対する現場の困惑が広がっています。これに対して、男女の一般的な性愛や美的なエロティシズム、主体的な快楽を取り入れた教育は、人間の本能の理解や健全な性欲の肯定につながり、誰もが直面する性のリアルとして実践的な学びになります。
通常のエロを教材として扱うことは、性の道具化や記号化を防ぐことにつながります。現在、教育現場に持ち込まれる配慮された過激表現は、多分に政治的なメッセージとして利用されていますが、日常的な恋愛や肉体の美しさ、快楽のメカニズムといった通常のエロをオープンに扱うことは、性を政治から切り離し、人間本来の営みとして学ぶ契機となります。また、これまでの性教育はリスク管理としての側面が強すぎ、従来のメディアにおけるエロも男性視点に偏りがちでした。女性の通常のエロを教材として真面目に掘り下げることは、女性が自身の身体や快楽に対して主体性を持つために、むしろ不可欠なプロセスであるとも言えます。
ポリコレが行き過ぎた結果、特定の思想を帯びたきわどいエロだけが特権的に教育現場に滑り込んでいるのが現状です。これに対抗し、また真の意味で人間性を豊かにするためには、歪んだ形での表現の侵入を許すのではなく、私たちが日常的に触れ、感じている通常のエロティシズムを、人間の自然な本能や文化として堂々と教育の場でディスカッションできる環境こそが必要なのかもしれません。