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「宇田川源流」【日本万歳!】 歌麿の肉筆画の国外流出を回避


 日本のすばらしさや日本の良い所を記載し、またはそのような記事を紹介し、その内容を私なりに分析をしたうえで、その内容が、その人やその書かれている対象のモノだけではなく、日本の国民性や日本人の全てが持ている魂のような「何か」が重要であり日本の称賛されているモノであるということがわかるようにしている。つまり、それが日本人全体が持っているものであったり、日本人の国民性のようなモノ出会った場合、称賛されている記事はそのまま日本人全体を称賛しているということに他ならないのではないか。

 毎週月曜日になると、日本人のほとんどは、働きに出る。日曜日などでせっかく休み、自分の世界に入っていた李、家庭に入っていたにもかかわらず、また働かなければならないという「マンデー・ブルー」な状態になる人が少なくない。もちろん仕事が趣味という人も少なくないのだが、そのような人は少数派であることは間違いがないようである。その為に、そのような「ブルー」な人々であっても、日本人一人一人全員が、日本人としての誇りと、世界から称賛されている日本人の国民性などを武器に、より一層仕事が頑張れるようにしてみたらどうかと思うのである。

 さてその国民性の中で、最も世界の強みは「ソフト」ではないかと思う。そのソフトの内容はアニメファンや漫画ファン,またはゲーマーの間ではかなり広まっている。しかし、そ俺らのファンの間で広まっているのであって、一般の人やそれらに興味のない人々には全く広まっていない。その様に考えた場合、最もそれらが広まったのが、リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式ではなかったか。

オリンピックという国際的な舞台でマリオやドラえもんが出てくるということで、本来ならば日本だけという事であったかもしれないものが、世界の人が、その閉会式の映像に魅了された。そして最後に安倍首相が出現したのは、世界各国が驚いたものである。それだけ,日本は首相を挙げてソフト産業を応援していることを世界に示したのである。

 そしてそのソフト産業が、今の日本のすばらしさの基本になっている。製造や自動車の時代ではなく、ソフト産業の時代が日本にはやってきているということなのである。

<参考記事>

喜多川歌麿の肉筆画、国外流出危機を回避…香港での競売で日本のコレクターが11億円で落札

2025年11月27日 14時35分 読売新聞オンライン

https://news.livedoor.com/article/detail/30083866/

<以上参考記事>

 今年の大河ドラマは、「べらぼう」である。その内容は江戸時代の出版社、版元、そしてプロデューサーである蔦屋重三郎とそのプロデュースの中で、浮世絵画家として名を馳せ、世界的に有名になった喜多川歌麿についての物語である。ちなみにこの二人は初回から最終回まで出てくるのであり、まさにこの二人を中心にした江戸時代の出版業というよりは江戸の町人文化のすばらしさや、あきらめない心、江戸時代のインターネットも何もない時代に、どうやって本や絵を売るために工夫してきたか、そのネタをどうやって探していたかということが、非常によく書かれている。

もちろん、「ドラマ」であるん尾で脚色されていたり、まったくあり得ない話をしたり、または現代の人々のわかりやすいように、極端な脚色がされていたりということはある。あくまでも物語や小説・ドラマというのは、「歴史や歴史の登場人物を題材にした現代の人々に対するメッセージ」でありその意味では、単なる歴史書や事実だけを追って映像化するものとは異なる。そのようなものを望むのであれば、歴史書を読めばよいのであって、なにも小説やドラマにする必要はない。歴史書とは全く異なる「面白さ」がそこにはあるし、そこから学ぶものがあるのだ。

さて、その中で話題になっているのが、喜多川歌麿の浮世絵である。先日、牧之原市の市立博物館に行ったら、ちょうど「べらぼう展」をやっており、そこのお土産コーナーに、蔦屋重三郎の作った本のレプリカ(多分ドラマのために作ったものを多めに作ってそのまま販売しているのであろう)や浮世絵のレピプリカが売られていた。そこそこのお値段であるがなかなか面白い。やはり今見て、なおかつ現代の印刷技術で造ったものであっても、非常に価値があることはわかる。

では、その本物ということになればどうであろうか。

今回喜多川歌麿の肉筆画がオークションにかけられた。このまま海外にわたっては日本の浮世絵なのに日本人恩目に触れることがなくなってしまうので派内かという事であったが、それが参考記事のように、日本人が落札したのである。

日本人の美意識とは「自然や余白、控えめさの中に美を見出す感性」であり、責任感とは「地域や次世代へ文化を伝えるために保存・共有する義務感と行動力」である。

 日本人の美意識は、四季や自然への畏敬、「和」「侘び寂び」「間」といった価値観に根ざし、派手さよりも余白や不完全さに美を見出す傾向が強いことが指摘されている。この感性は美術や工芸、建築、日常の所作にも反映され、作品を「守る」動機にもつながるのである。

一方で文化財に対する責任感は、単なる感傷ではなく制度的・組織的な枠組みと結びついている。文化庁や自治体の保存修理、指定制度、予算配分などが文化財保護の実務を支え、所有者や地域が負う管理責任と社会的役割が明確化されている。この二つは教育や市民活動を通じて具体化します。若い世代への普及啓発や地域学習、ボランティアやコレクターの連携が、文化財継承の担い手を育てる重要な実践なのである。

近年は「保存」から「保存と活用」への転換が進み、維持負担の軽減や地域活性化を図りつつ文化を守る柔軟な方法が模索されています。こうした仕組みと市民の美意識・公共心が合わさることで、喜多川歌麿の肉筆画のような重要文化が国内に留まる行動が生まれることになる。

喜多川歌麿の肉筆画が日本の手に戻り、 国内流出の危機が回避されたことは、文化を守る日本人の誇りを示す出来事であろう。江戸の名匠の大作が香港の競売にかけられた場面で、日本の個人コレクターが落札し約11億円で守り抜いたという事実は、文化財を大切にする意志と行動力の象徴である。この落札は単なる取引ではなく、地域の記憶や歴史を未来へつなぐ責任感の表れでもあるのだ。

 私たちがここで称えるべきは、金額や名声だけにとどまるものではない。市民の連帯、研究者や美術館の継続的な調査、地元自治体や団体の粘り強い働きかけがあってこそ、文化財は「里帰り」し得るということなのである。こうした協力の姿勢は、日常の小さな配慮や公共心にも通じる。日本人の心の最も重要な部分がそこにあるのではないか。また、この出来事は次世代への教育的価値も持積ことになる。美術を守る行為が社会全体の教養と誇りを育てることを示し、地域文化の保存が国際社会での存在感を高める好例となるのであろう。

 最後に、今回の一件は日本人の美意識と責任感、そして行動力が結実した瞬間である。文化を守るという静かな勇気に対して、私たちは深い敬意と感謝を捧げタイと思う。

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2025年47号 香港高層ビル火災に見る中国の建物と災害


 皆さんおはようございます。

 メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」主催の宇田川敬介です。

 今年も様々な内容にして、少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

普段のブログとは全く関係なく、少し柔らかい内容で見てみたり、国民の慣習のことなどを見てみたいと思っております。

 これからもよろしくお付き合いください。

さて、今週は話題になった香港の高層マンションの火災について、私が、大連にいたころの経験から中国の人々の防災意識について、私の感覚は少し古いですが、その内容を見てみましょう。

私が、大連にいたのは、1996年から2000年までの足かけ4年間で、今から約30年ほど前の話になります。

その間に、中国は大きく経済発展を遂げて、当時と今の中国は、少なくともその外見、街に言った雰囲気などは全く違うといってよいかもしれません。

そもそも、1996年というのは、香港が中国に返還された年であり、香港そのものも今とは全く異なります。

その様に考えれば、まったく参考にならないという意見もあると思います。

しかし、まずは今回の火災になった建物は、築40年ということですから、私がマイカルで香港に行った時にも存在していた多分当時では最先端の高層マンションであったと思いますし、また経済反転という意味では、香港でいえばもしかしたら、当時の方が自由で活気があったかもしれません。

また、実際に中国人の気質等は当時と全く変わっていないような気がします。

「当時と全く違う」とい意見の方は、一部の参考意見として、また、当時に近いと思っている方は、その内容に関して、今の中国ということを考えながら、その内容を見てゆきたいと思います。

★ レンガ積みの40階建て

 私が驚いた大連の建物は、一応固有名詞は伏せておきますが、まさに、高層ホテルでありながらも、その構想部分に鉄筋はほとんどなくレンガ積みで・・・・・

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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 時代とともに変化する女性の「隠す」文化


 今週も「土曜日のエロ」の日になった。実際に、「エロ」という人間の本質から、様々なことを見てみたいと思っている。人間は、ある意味で「理性」と「本能」という部分がある。その本能の部分をなるべく少なくして理性の部分で「社会性」を持つことによって、社会の秩序を維持している。人はなぜ人を殺してはいけないのか、人はなぜ人を食べてはいけないのか、動物の世界では普通にあるものが、ある意味で宗教観や倫理観の中から、人間同士が弱者も社会性をもって生活できるように秩序を守ることになる。しかし、子供を作るとか、食べるとか、そういったところは本能にも期するところであり、その部分が最も「理性」と「本能」が交錯する場所であるということになるのではないか。

さて、その話の前に、今週のニュースを見てみよう。今週のニュースは、政治のニュースでは党首討論が26日にあったのであるが、まあ、その辺の話はまたいつかしっかりと話をすることにしよう。

このブログで扱わないであろう内容としては香港の火事であろうか。香港の7棟の高層マンションのうち5棟が火災で多くの犠牲者が出た。今回の内容を書いている次点で最終的な被害者の数がわかっていないので、その被害の大きさはよくわからないのであるが行方不明者の数を含めれば最終的には三桁の被害者数になるのではないか。

さて、この事件からは様々な意見が出てくるのではないか。とくに原因が作業者の火の不始末ではないかといわれている(実際はまだよくわからないが作業者が逮捕されている)所から、このクオリティの人々が大挙して日本に着たらどうなるのかとか、日本のタワーマンションは大丈夫かなど、様々な話が出てきててしまうのではないか。あと、私などが気になるのは、日本の佐賀関の火災であれば、すぐに批判所が出てきて行政が支援を打ち出すのであるが、香港の場合は、香港政府が日本の政府のように避難所や次の生活再建のために何かをするのであろうか。その保障はどれくらいの規模のモノなのかということが非常に興味がある。そこまで国民を大事にするところなのか、そうではないのか。何しろ中国政府というのは、新幹線で事故があれば、その新幹線の中に犠牲者がいてもそのまま埋めてなかったことにしてしまうのであるから、この火災現場もすぐに壊してなかったことにしてしまうのではないかというような感じがあるのである。当然に、住んでいた人や、被害を訴える人もなかったことになってしまうというのが、中国のメンツ社会であろう。そのようなメンツ社会と日本のような社会が、政治上で対立したのが高市発言の問題なのであろう。

まさに、香港政府や中国政府の「本質」と香港の人々の「生存本能」から、どの様なことが起きるのか、この事件そのものよりも、事件後の香港の内容の方が興味があるのである。

<参考記事>

「買春なんて墓まで持っていくレベルの汚点」SNSで4.6万いいね!若者世代が拒否感か…「芸人がネタとして話す」「男同士で武勇伝のように語る」メディアと日本社会が作りあげた“性倫理の異常性”

11/17(月) LASISA

https://news.yahoo.co.jp/articles/e633e6174fd6acb87dce339c1460d92c53a8248e

<以上参考記事>

 さて、今回は、「買春経験なんて『墓まで持っていくレベルの人生の汚点』なのに、カジュアルに語れる空気感がおかしい」という書き込みが、大きな議論を起こしているという話。記事の中にもあるが、単なる賛否を超えた「世代間で異なる倫理観の断層」、そして「法と実態の著しい乖離」という二点が、非常に大きな内容になっているということになる。

さて、世代間という話が出る以上は歴史的な内容を見てみよう。そもそも日本というのは恥の文化ということから話が出てきている。セクハラ的な、または少なくともジェンダーハラスメント的な価値観になるのかもしれないが、あくまでも歴史的な事実としてその話を書いてみることにしよう。

もともと縄文時代は、そのような恥の文化というのは存在しない。そもそも一夫一婦制ではなく、多夫多妻性というか、集落の中の「雑婚制」というようなことで、女性と男性が受け入れれば、集落の中で性行為をして子供を作るというような状況であったと考えられる。そもそも夫婦というような倫理規範がないのでありまた、一夫一婦制であれば、医療も食料も不安定な中で村全体がおかしくなってしまう。その意味では、イスラム教の一夫多妻制よりも進んでいたような感じではないか。

さて、そのような内容が徐々に代わってくる。ある意味で古墳時代や稲作文化で食料などがある程度何とかなってから安定した家庭が出ることになる。しかし、男性は社会性を持つことになり、狩猟などに行かなければならなかったことから、女性が中心の家庭や子育てになる。そのことが、平安時代まで存在し「通い婚」ということになるのである。

さて、この時代の女性は、指先と髪と目意外は見えないということになっている。十二単とまではいわないまでも服で身体を隠し、扇で顔を隠していた。当時、日本では子供が女性から生まれるということから、女性の体の中には黄泉の国につながる道があるとされていた。当時の思考で黄泉の国は、汚いものときれいなものが混在している場所であり、ゴミや死体も全て黄泉の国に行き、そこで再生して、またこの世に生まれてくるという、ある意味で究極の循環社会になっていたというように考えられているのである。

その循環社会であるので、この世から黄泉の国を見れば「穢れ」ということになる。そして「穢れ」と認識されてしまうと、新たな命が生まれる道が閉ざされると考えられていたことから、基本的には女性は「肌」というか「穢れと認識される体」を不特定多数の男性に見せてはならないとされていた。いや、男性に見られてしまうと、子供を産む力が失われるということになったのである。

そのような意味から、女性は肌を見せることを極端に嫌った。この風習は、高貴な、つまり隠すことのできる場所ではずっと通用しており、その「肌を見せない」ということと「血筋にこだわる武家文化」が武士時代の「婚姻制」に代わってゆくということになる。一方、その肌を守るという感覚が、そのまま「秘密の共有」から「快楽」ということになり、その感覚が「ヨタカ」や「遊郭」の形成につながる。実際に、不特定多数の男性に肌を許しても、子供を産むことができるということになったので、黄泉の国信仰が亡くなったということになるので、そのような意味で、恥の文化だけが女性の肌を隠す武器になったのである。

そのような意味で、現代の売春とか「パパ活」ということにつながることになるのではないか。逆に言えば、男性は、ずっと恥の文化の中に存在していないので、法律ができてもその感覚と乖離しているということになるのである。

さて、このような議論をするときには、このような歴史や宗教観、死生観をしっかりと踏まえてみるのはいかがであろうか。

「宇田川源流」【現代陰謀説】 「存立危機事態」質疑で出てきた岡田克也中国スパイ説


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。現代に横たわる陰謀を見ながら、その内容をどのようにして、ニュースなどから端緒を見つけることができるかということを考える内容になっているのである。実際に、陰謀は様々な所で行われており、その内容をいかに感がてえゆくのかということをしっかりと見ていなければならない。全く表面に出ない陰謀などもあるが、実際は、ニュースなどに何か端緒が出ていたり、あるいはニュースに何かか隠されているようなことも少なくないのである。それを、読み解くために何をすべきかということを考える連載である。

 さて、今回は「端緒が出た」ということを見る内容である。この物事の考え方を見る事は、日本人は非常に苦手であるということになる。日本人は歴史の中で島国という閉鎖された中でなおかつ村社会を中心に物事を見てくることになっていたので、あまり、相手の立場に立ってというか、相手の感覚で物事を見るということに慣れていない。そのことから、「その言葉が何を意味しているか」ということを自分の感覚や日本人の常識という不確定なもので見てしまうことになるのである。そのことから「端緒」を引き出すことが非常に不得意な民族性を持っているのである。

 しかし、そもそも「相手の国の国民性」「思想の根源(イデオロギー)」「宗教観(死生観)」など基本的なことを考え、そのうえで、相手の発言が、それらから出ているものであるかどうかを見れば、単純に物事を見ることが可能になる。その端緒というものは非常卯に簡単に見えることになるはずなのである。

 そして、その言葉が、今の言葉で言う「炎上」つまり、他者から批判される状況になると、その言い訳をするようになる。言い訳といういうよりはどちらかと言えば、政党かということが言えるのではないか。そしてその正当化が、「政府そのものの意見」である場合又はその政府の元の意見である場合は、当然に、そこに「本音」つまり、国の政治の根幹が見て取れるのである。つまり「一回出たとき」はその個人の思想かも知れないが、その後炎上か何かをして非難され、その「言い訳」が出てきたときには、当然に、その言い訳の中に、またそれを擁護する政府に、その本音を見ることができるのではないか

<参考記事>

「国益にかなうと考える」立憲・岡田克也氏 中国共産党幹部との会談をN党浜田氏が“スパイ”呼ばわり…本人が語った“意義”

11/21(金) 女性自身

https://news.yahoo.co.jp/articles/621934813ebe2e17c991c012e6582c425156082f

<以上参考記事>

 国防に関する機密を暴こうとする行為は、一般に「スパイ行為」とみなされ、国家の安全に関わる情報を不正に収集・提供・公開することを指す。これは多くの国で刑事罰の対象となっている。スパイ行為とは、単に情報を知ることではなく、防衛や外交に関する未公開の重要情報を、外国勢力や敵対的な第三者に渡す、あるいはそのために収集・探知・提供する一連の行為を含むことになる。法律案や国際的な定義では、情報の窃取、買収、偽計、サイバー侵入、職員の買収や誘惑など具体的な手段まで列挙されることが多く、行為の目的や相手が重要な判断要素になるのである。

 各国はこうした行為を国家安全保障の脅威と見なし、機密の指定・管理と漏洩防止、違反者への厳罰化を法制度で定めている。たとえば日本の制度では、防衛・外交など特定の分野の情報を「特定秘密」として指定し、その漏えいを処罰する枠組みが整備されていますが、同時に報道や公益通報との関係で表現の自由や公益性の扱いが問題となる点も指摘されている。要するに、国防に関する機密を暴こうとする行為は意図・手段・受け手の三点でスパイ行為と判断され、国家法はこれを防止・処罰するための具体的規定を設けているということになるのである。

11月7日の国会質疑で高市首相が「存立危機事態になり得る」と踏み込んだ答弁をしたことが外交的波紋を呼び、その過程や情報公開のあり方を巡って「機密を露呈した」「意図的に手の内を出した」とする主張がSNSで広がり、結果として岡田氏をスパイ扱いする声が出ている。

 当日のやり取りは、首相が「戦艦を使い武力行使を伴うものであれば存立危機事態になり得る」と述べた点が注目され、これが従来の曖昧な政府答弁から踏み込んだ表現だったことが出発点になっている。この発言を引き出した質問の準備段階で、岡田氏側が事前に資料を配布したと報じられたことが「意図的に情報を外に出したのではないか」という疑念を助長することになった。

 中国側の強い反発と大阪総領事の過激な投稿、外務省間のやり取りや経済的な対抗措置の示唆といった外交的影響が実際に生じたため、SNS上では「この質疑が日中関係を悪化させた」「機密に近い基準を公にした」との論調が広まりることになる。批判の論拠は主に「存立危機事態の認定基準は戦略的に曖昧にしておくべきで、公開すると仮想敵に手の内を見せる」「質問者が意図的に踏み込ませた」という点に集約される。

 さらに、岡田氏が過去に中国関係者と接触していたことを取り上げ、「意図的に中国側に有利な情報を流したのではないか」と結びつける主張が一部で出ており、これが「スパイ」呼称の根拠としてSNSで拡散している。これらの主張は感情的・政治的な文脈で拡大しており、事実関係と意図の区別が曖昧になっている点が重要であろう。

らに、岡田氏の家族が創業に関わるイオングループの中国事業拡大や、岡田氏自身の長年の対中交流が取り沙汰され、これを根拠に疑惑を唱える投稿が増えています。ただし、これらは関係性の指摘と推測が混在しているに過ぎず、スパイ行為を立証する公開された証拠は確認されていない。もちろんスパイに関してはそのような証拠を残さないものであるから、岡田克也が何らかの形で中国から依頼を受けていたということも否定できないのである。

 保守系メディアやネット記事、個人の投稿が相互に引用される形で疑惑が増幅されており、政治的対立や認知戦の文脈で情報が編集・拡散されている点も指摘されています。複数のネット記事や分析が疑惑の流布経路を追っている一方で、公式な捜査や法的判断に基づく裏付けは示されていない。

国会の質問権と国家機密の保護は対立し得るが、法的手続と透明な監視制度を整備し、秘密情報の扱いを限定的かつ説明可能にすることで両立を図るべきであろう。

 国会には行政を監視するための質問権と国政調査権があり、これが民主主義の根幹を成しています。一方で、特定秘密保護法のように安全保障上の秘匿が必要とされる情報を扱う枠組みも存在し、国会がどのように関与できるかは法制度で定められている点に注意が必要である。

 解決の方向性としては、まず秘密情報を扱うための明確な手続きを国会内に設けることが重要です。具体的には、秘密会や限定された議員への情報提供、適性評価を受けた議員による審査といった制度的措置が想定され、これらは既存の法運用や運用基準に沿って運用されるべきだとされている。

 同時に、第三者による監視と説明責任を強化することが不可欠です。独立した監視機関や議会内の秘密審査機関が、秘密指定の妥当性や運用の適正を検証し、その結果を可能な範囲で公開することで、国民の信頼を担保しつつ国家安全を守るバランスを取れます.

最終的には、法的枠組みの運用を透明化し、議会手続と情報保全の双方に対する合意形成を進めることが、今回のような対立を解消する現実的な道筋ではないだろうか。

「宇田川源流」【日本報道検証】 現代の世の中で「魔女狩り」がおこなわれているナイジェリア


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、「非科学的なことが今もアフリカでは行われている」という現状を考えてみたいと思う。もちろん現場を私も見ているわけではないが、動画などで資料を見させていただいたり、現地の人々の話を聞いて今回は対応したいと思う。何しろテーマは「魔女狩り」である。現地も自分の村から魔女が出たなどということは恥になるので、あまり公にすることはない、つまり、「村の中の内部暴力」のような感じになっているということになる。

そういえば、背信で「ガンニバル」というドラマを見たことがあるのであるが、まさにその内容のように「あまり他の地域から人が来ない閉鎖的な村の中において、その村ぐるみで犯罪を犯した場合には、外にあまり秘密が出ない」というような感覚になる。同時に、閉鎖的な村であるということは、祖との情報が入らないということがあり、そのことから、古い因習や言い伝えが残る傾向にある。そのような古い内容が残ってしまう中に、非科学的な内容も残ってくるということになるのである。

さて、魔女とはいったい何なのか。

ナイジェリアにおける「魔女」とは、災厄や不幸をもたらす存在とされ、呪術・悪霊との関わりを持つと信じられている人々を指している。特に女性や子どもが「魔女」とされやすく、社会的・宗教的要因によって定義づけられている。

 ナイジェリアでは、魔女の概念はヨーロッパ中世の「悪魔と契約した存在」という定義とは少し異なり、地域社会の不幸や病気、事故、貧困の原因を説明するための存在として位置づけられている。

 古来より呪術や魔術への信仰が強く残っており、魔女は「超自然的な力で他者に害を与える者」とみなされている。これはヨーロッパの魔女像と共通する部分がこれになる。この共通点から魔女といわれるようである。近年では一部のキリスト教系宗教指導者が「悪霊祓い」や「魔女退治」を掲げ、魔女狩りを煽動するケースがある。彼らは魔女を「悪霊に取り憑かれた者」と定義し、社会的に危険視している。

 特に南部のニジェールデルタなど貧困地域では、家族や地域社会の不幸の原因を「魔女」に求める傾向が強く、経済的困窮や社会不安が魔女狩りの温床となっているのだ。そして魔女とされるのは主に女性や子どもで、孤児や障害を持つ子どもが「魔女」とされることもある。社会的弱者がスケープゴートにされる構造が見られていることになるのである。

 つまり、ナイジェリアにおける魔女の定義は、「呪術や悪霊と結びつき、社会に不幸をもたらすと信じられる存在」であり、これは教育不足や宗教的影響、社会不安が複合的に作用して形成されている。

<参考記事>

ナイジェリアで続く魔女狩り 子ども3万人が親から虐待、悪魔祓いの金づるにも

11/14(金) ロイター

https://news.yahoo.co.jp/articles/b6c27b452f0db41882d15599f0e8c728944741c8

<以上参考記事>

 ナイジェリアでは現代においても「魔女狩り」の風習が残存しており、特に子どもたちがその犠牲になる深刻な人権問題となっている。犠牲者の中心は子どもということになる。これは病気や事故、家庭内の不和など、不幸な出来事の原因を「魔術」や「悪霊」のせいにし、弱い立場にある子どもが「魔女(魔法使い)」の烙印を押されてしまうことになる。実際に大人になってしまえば、それまで何もなかったということ説明ができない。なおかつ、大人になってしまえば、家族以外のコミュニティが出てきてしまって、村の中に分裂が生まれてしまうということになってしまう。そのことから、あまり社会性のない子供が選ばれることになる。

「魔女」とされた子どもたちは、親や地域住民から激しい虐待を受けたり、家やコミュニティから追放されたりする。もともとあまりコミュニティに属していない孤独な子供が、ある意味でスケープゴートならぬ魔女になるということになるのである。その様に考えれば、村の大人が集団でいじめになっているのではないかということになるのである。一部のキリスト教ペンテコステ派などの新興宗教団体が悪魔払いの儀式を行い、親などから多額の報酬を要求するケースもある。悪魔祓いが行われるということがまさにその内容になるのである。

 社会経済的背景としては、貧困、教育の欠如、伝統的な迷信に加え、一部の宗教指導者による扇動などが問題の背景にあるとされている。ある意味で「子供に対して村の矛盾を全て押し付けた排外主義的な内容」ということになるのではないか。特徴としては村で「魔女」とされてしまうと、その子供の親までも子供を忌避するということになる。

 そのような魔女狩りの被害に遭ったこともは、推計で3万人もの子どもたちが親から虐待を受けているという報告や、20年間で3千人が殺害されたという報告もあり、被害は甚大である。こうした状況に対し、現地の人権団体や国際機関が保護活動や啓発活動を行っていますが、根深い問題として解決には至っていない。

 ナイジェリアで魔女狩りが起こる理由は、魔女の存在が固く信じられていること、女性の迫害、金銭目的、社会的な災厄への反応など、複数の要因が絡み合っている。

 魔女の存在を信じる文化的背景としては、多くの人が魔女や呪術の存在を固く信じており、病気や不幸などの説明がつかない出来事を魔女の仕業と結びつける考え方が根強い。また、女性の迫害ということもある。社会的に弱い立場にある女性、特に高齢の女性や独身の女性が魔女だとされ、スケープゴートにされることがある。

 一方でビジネス的な金銭目的ということもあるのです。魔女狩りを主張する人物が、金銭や財産を得るために人を魔女だと告発するケースがある。同時に、社会的な災厄への反応ということがある。干ばつ、疫病、経済的困窮など、人的な内容によって力が及ばない社会に災厄が起きた際に、その原因を魔女のせいだと考え、魔女狩りで解消しようとする反応が起こることがあるのである。そして異教や呪術への弾圧があり、村の中における同調圧力が働いているということになる。キリスト教やイスラム教など、主流の宗教が伝統的な信仰や呪術を「魔術」として弾圧する背景がある場合もある。

 実際に、今の医療がしっかりと行われることの少ない、薬などがないアフリカにおいては、まじないなどが、医療の代替となるケースがある。薬草やまじない、神頼みが衣料の代替となってしまうのである。ある意味で、日本の古代と同じである。その中で伝統的な医療では解決できない病気や不調を、魔女のせいだと考え、魔女狩りで解決しようとすることがあるのだ。

 さて、実際にこの内容に関して、どの様に人権的にまたは、村の秩序ということも含めて行うべきなのであろうか。少なくとも昔の日本も同じであり、そのような非科学的なことがある。同時に、今の日本でも宗教的な問題があるのであるから、なんとも言いようがないのである。

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 写楽と歌麿が蔦屋の下に集まる


 ま週水曜日はNHK大河ドラマ「べらぼう」に関して、感想を書かせてもらっている。本当に素人の感想でしかなく一視聴者のモノなので、あまり参考にもならいのかもしれないが、すでに11月、あと4回しかない大河ドラマである。蔦屋重三郎を演じる横浜流星さんやていを演じる橋本愛さんの髪(もちろん鬘の事ですが)に白いものが少し混じるようになっているのがなかなか感慨深いものである。

さて、今回は「その名は写楽」ということから、東洲斎写楽について少しうんちくをご披露しよう。

東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月に突如として登場し、約10か月の短期間におよそ百数十点(約145点)の役者絵を蔦屋重三郎のもとで刊行して姿を消した謎の絵師である。韓国などでは写楽は韓国人で、一次江戸に行っていた時代に日本で活躍し、その後韓国に戻って絵師になっていたなど、かなりとんでもない説が出てきているのであり、韓国に行った時には驚いたものである。それくらい写楽に関してはあまり詳細なことがわかっていない絵師であるということになる。

 写楽の活動は極めて短く、その作品群は時期ごとに様式が変化したことが研究で示されています。初期には黒雲母摺を用いた大首絵で鮮烈なデビューを飾り、やがて全身像や複数人物、相撲絵や武者絵へと展開していた。写楽の描写は役者の個性や素顔を誇張して写し取り、当時は賛否が分かれたものの、後世に大きな影響を与えた絵師である。

 蔦屋重三郎は写楽の唯一の版元であり、写楽作品の制作・刊行はすべて蔦屋率いる地本問屋で行われたとされている。蔦屋は歌麿らを擁した出版人として知られ、写楽を大胆に売り出すことで役者絵市場に挑戦した一方、当時の市場や規制、評価の変動により商業的には必ずしも成功しなかったと伝えられている。

 写楽の正体については諸説があり、能役者説や複数人の工房制作説などがあるものの決定的な証拠はなく、今日も研究者の関心を集め続けている状態である。写楽の黒雲母摺や誇張表現が当時の受容と評価を左右した点は特に重要であるとされている。

<参考記事>

【大河ドラマ べらぼう】第45回「その名は写楽」回想 「2人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵を見たい」 ていの言葉が日本アート史屈指のミステリー「写楽」を生んだ 大ピンチの舞台エンタメを活性化させた絵師たち

2025.11.23 美術館ナビ

https://artexhibition.jp/topics/news/20251123-AEJ2785856/

<以上参考記事>

 今回のドラマは、前回の「平賀源内は生きている」という展開から、その源内の戯作が、今まで関係してきた人々の内容を含めて松平定信(井上裕貴さん)がまとめたものであるということが明らかになる。冒頭の場面で、まだ平賀源内(安田顕さん)が生きているのではないかというようなことを考えながらかなり落ち込んでしまう蔦屋重三郎は、自分の手元から、徐々に人が離れてゆく、その蔦屋の悲しさが、「戻ってくる」ということに関する一筋の光のようなものを感じたのではないか。

実際に、今まで蔦屋が関わってきた人々の多くが離れてしまっている。瀬川(小芝風花さん)誰袖(福原遥さん)などの吉原の人々や、寛政の改革でいなくなった恋川春町(岡田天音さん)など、ネタをくれる人から絵師から、作家まだ様々な人が諸子百家のごとくいたのだが、それが皆抜けてしまった。そして大黒柱であった喜多川歌麿(染谷将太さん)もいなくなってしまったのである。そこに、自分の原点である平賀源内が戻ってくる、生きているということになれば、そこは喜び以上に自分の支えになるのではないか。よくかんがえてみれば、蔦屋重三郎が本の道に入ったのは、吉原を盛り上げたいという一途な思いで平賀源内を頼り、吉原細見の枕書きを書いてもらったところ、そして、その後「耕書堂」という名前をもらったところからであるから、平賀源内に対する思い入れは人一倍大きなものがあったのではないか。

さて、その平賀源内を騙った松平定信に頼まれて、世の中を混乱させるということになる。その時にちょうど倹約令で芝居町が傾いており、江戸としてはエンタメがまた危機を迎えていた。その芝居町の「役者絵」を「平賀源内風に仕上げる」ということで、多くの作家に書かせ、それを「写楽」と名づけるということが今回のポイントであろ王。

しかし、その絵ができない。

「歌麿がいたらなあ」と思うところで、その歌麿も今までの蔦屋との仕事が全く異なるということに迷いが出てきているところであった。自分の仕事は、蔦屋が様々な注文を付け、それに応える形でよいものができてきていたということを改めてよくわかるのである。この歌麿のことは作家にはよくある内容であり、一人でできていたと考えるが、実者サポートメンバーが非常に重要であったというようなことがやっとわかるということになる。そしてそのことを気づかせてくれたのが重三郎の妻ていであったという、なかなかうまくまとめた感じではないか。

そのていと歌麿の会話が、非常に秀逸である。今回のドラマのポイントは、歌麿が蔦屋の元に戻ってきて、写楽と二枚看板ができるという事であろう。そしてその立役者がていであったというストーリーである。その中で、今まで蔦屋の下を離れ散った人々を見て「出家します」とていが言うと、しばらく間をおいて歌麿が「嘘だろ」という。ていは、少し悲しい顔をしながら、「嘘です」と認めた後で「私の本音を申せば、『見たい』。2人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵というのものを見てみたく存じます。私も本屋の端くれ。性というものでございましょうか」というのである。

まさに、この「見たい」という言葉は、純粋で、そして画家や出版社の心を最も大きく動かすものではないか。歌麿は、ていを通して、多くの江戸の人々の言葉を聞いたのではないか。そしてその言葉が、歌麿を蔦屋の元に戻らせたのであろう。何か、自分にできることは何か、そして自分とはいったい何なのか、そして仲間と一緒に何かを成し遂げることの大事さを、そしてその仲間と一緒にいて面白いことをすることを、多くの人々は望んでいるのである。その多くの人の心に気づかせてくれる。それが今回のメッセージではないか。

「宇田川源流」【日本報道検証】 日本の教育が危ない!という記事をしっかりと考えるべし


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、「日本の教育が危ない!」ということをしっかりと考えてみたと思います。

以前、日本の教育に関して、このブログで連載をしてたことがありますが、基本的に今の日本の日本の教億というのは、完全に世界から取り残されており、なおかつ世界で全く評価されていない。ついでに言えば、その「学歴」優秀者が今の政治も経済も「牽引」(私は牽引ではなく「妨害」としか思えないのであるが)しているのであるから、日本が衰退していても全くおかしくはない。そもそも学歴的秀才、参考記事にある「受験秀才」が優秀であるならば、間違いなく「失われた20年」などという経済的な全く無意味なバブル崩壊後の経済失速を起こすはずがないし、日本の経済はすでに世界を凌駕する内容になっていておかしくはないのである。

参考記事の中では、日本型学歴社会の問題点として次の二つを挙げている。

一つ目は、「経済的な裕福なところが、受験に有利」ということである。しかし、この事はあまり関係がないので今回は無視する。ちなみに、「子育て世代の援助」とは、この部分を政府が補助して拡充するということなのであろうが、そもそも、もう一つの問題点が大きいので、あまり意味がないということになるのであろう。

二つ目は、「問題を探し出す能力を養っていない点」これは、受験勉強で与えられた問題の正解を求める事ばかりを行っており、何が問題なのかということ、問題の所在を見つける訓練が全くできていないということである。

単純に言えば、社会に出て、「現象に不満」がある人は少なくないが、その現象について「何が問題なのか」ということを見分ける能力がなければ、その問題の正解にたどり着くことが出来ない。同時に、「何が問題なのかを見つける事ができない」人は、一つの問題点の解決で満足してしまうが、残念ながら、その問題点の解決が他のところでひずみを生み、そのことで問題がより大きな問題を引き起こすことが少なくないのである。はっきり言って「バカの連鎖」が発生してしまうということになる。

<参考記事>

なぜ「日本の受験秀才」はAI時代に通用しない…教育が全然違う「米国との致命的な差」

11/17(月) ビジネス+IT

https://news.yahoo.co.jp/articles/9cd635e702eb3bde1301369dbf7b92f8f8d93c27

<以上参考記事>

 そもそも「受験秀才」ということ自体が大きな問題で、「受験」は「現実の問題に即して行われているのか」ということが大きな問題であろう。何が問題なのか、そしてその問題にどのようなアプローチをするのか、ついでに言えば、その問題の内容に関して、解決方法が他の問題を引き起こさないかなどの再検証が行われているのかなどが重要なのであろう。

そのような意味で、安倍内閣時の文部科学大臣に就任した萩生田光一氏は、大学受験をすべて論文形式に行うということを主張したのであるが、現場の反対で頓挫することになった。実際に、数千人の論文を採点することができるのかと言ことはかなり困難を伴うし時間的な制約も存在する。しかし、一方で現在のマークシート方式が正しいのかと言えば全く間違いということになろう。

このようにして、「受験秀才」が出来てしまうが、では、今、例えば景気が良くならないということに関して、この「受験秀才のエリート」である人々は何の皆生tもできていない。バブル崩壊による就職氷河期の始まりが1994年と言われている。つまり、就職氷河期の「受験エリート」は既に、50代の半ばで部長または取締役クラスになっている。財務相で言えば部長や局長クラスである。その間、ずっと「経済の悪化」にあったわけでありなおかつ、自民党だけではなくその簡に民主党政権などもあったということになったのであるが、残念ながら景気浮揚は全く起きていない。これは、「受験秀才エリート」が「現在の日本の経済政策において何の役にも立たなかった」ということを意味しているのであり、「正解のない、またどこが問題かもわからない複合的な問題を、受験秀才が解決できない」ということを意味している。

さて、AIの時代になり、過去のデータベースをすべて横断検索したうえで、思考をして解答をくれる生成型AIが徐々に発展してきている。その中において「受験秀才」という存在は必要が無くなってしまうということを意味している。そもそも「受験秀才」とは、私が普段言っている定義に合わせて言えば、「今までの解答や解法を全て記憶し、その答えをマークシートの中から選んで塗る」ということの天災でしかない。つまり「優秀者=記憶力の良い人」でしかなくて、頭の良い人(世の中では「地頭の良い人」というらしい)ではない。では逆に、社会の問題で、「正解がある問題」が存在するであろうか。それは「NO」である。なぜならば、「正解が存在する場合は、その正解を行えばよいだけで、そもそも問題にはならない」のである。そのように考えれば、「受験秀才」は「実社会で何の役にも立たないことばかりを大学まで学んで社会に出る」のであり「社会で本来的に優秀な人物は、エリートの中には存在しない(そのような観点でエリートは選ばれていない)」ということなのである。

当然に「受験秀才」の「強み」は「AIにとってかわられるもの」であり、それ以外の人間力がなければ、何の意味もないということになってしまう。そのようなAI時代というか、本来であれば、本来的に必要な教育を行うべきであり、その為には学校教育全体が改革をすべき時代になっているといえる。

「宇田川源流」【日本万歳!】 敬宮愛子内親王の初の海外単独公務


 毎週月曜日は、「日本万歳!」をお届けしている。日本の素晴らしいところや、日本が賞賛されている記事を参考記事として、その内容を分析し、日本の何が称賛されているのかということ、日本のどのようなところが、他の国とは異なるのかということを明らかにし、そのうえで、日本人が日常としてあまり考えていないすばらしさを再認識しようということである。

 毎週月曜日は、多くの人々が「マンデーブルー」ということを口にするくらい、土曜日と日曜日の休みと、月曜日からの働く毎日が辛いということもある。しかし、日本のすばらしさはそのように「特別ではない、毎日を働くすべての日本人」が、その素晴らしさを作っているということになるのです。そのようなことから、日本人の皆さんが自分自身に日本人としてのすばらしさを自覚し誇りを持てるということを期待して、この連載を行っている。

 さて、そうはいっても実は日本のすばらしさは1月には正月の様々な行事に結集しているといって過言ではない。以前森喜朗氏が首相であった時に「日本は神の国」といってマスコミが一斉に反発したが、実際に私自身は日本は神の国であると思っている。もちろんか身に守られているということではなく、神が存在していると考えている。他の国の宗教とは異なり、日本は「八百万の神々」の国であり、その神々がどこにでもいるということになる。もちろん日本的な考え方であるという事であろう。

 さて、その「神」の中の一柱が、天皇陛下である。そしてその天皇陛下を中心にした皇族と公家がその天皇の政治を支えるということになっている。現在の政治の混乱などは、昔の公家が見れどのように映るのであろうか。「公家」とは、当然に「自分よりも公を考える」ということであり、他の私人(庶民)は自分の生活のことを考えればよいが公家や皇族は国や公のことを考える。そのような気持ちが、現在の政治簡易どれくらい持っているのか。皇室のことを語れば、どうしても現代の不満が先に立って出てきてしまう

<参考記事>

愛子さま、ラオスの古都ルアンパバーンを訪問 滞在中2回目のお言葉も

11/20(木) 日テレNEWS NNN

https://news.yahoo.co.jp/articles/708f5dca5f7c9fd8c3f3ad6cf3f69fb9b0a9aa71

<以上参考記事>

 なぜ、日本のマスコミやメディアは「愛子様」と表記するのであろうか。本来は「敬宮愛子内親王殿下」であり、文字数などの関係でこれを省略した場合と言えども、「愛子殿下」でしかない。一般継承の「様」で終わらせていること自体が大きな問題なのである。これは戦後GHQが皇室・皇族に関してその経緯を崩すことをお行った一環として、陛下・殿下という表記を一時金志士、それがGHQが日本から撤退した後も続いているということである。単純に言えば、メディアやマスコミは、いまだに皇室に対して全く経緯を感じていないということであろうか。非常に残念なことではないか。

さて、日本の不敬なメディアの話は別な機会にしっかりと行うことにして、敬宮愛子内親王殿下が初の海外単独公式訪問として、東南アジアのラオスを訪問した。

 日本とラオスは、正式には1955年に国交樹立し、現在は在ヴィエンチャン日本大使館と在東京ラオス大使館を通じて外交関係を維持している。2025年は外交関係樹立70周年の節目にあたり、両国で記念事業が行われていて、その一環として愛子内親王殿下が、ラオスをご訪問したということになる。

 第二次世界大戦期から戦後にかけての複雑な経緯を経て、冷戦期以降に関係が安定化していた。以降、要人往来や首脳会談を通じて関係を深化させ、文化・教育面での交流も進展している。日本はラオスの主要な援助国(ODA拠出国)であり、道路・空港などのインフラ整備、教育・保健分野での技術協力や人材育成を長年支援していて、今回愛子内親王殿下も学校などの訪問をされ、様々なご感想を持たれたことと推測される。近年は日本企業の投資や貿易も増加しており、経済関係が強まっている。留学生、技術研修、文化交流プログラム(日本語パートナーズ等)や民間のNGO活動が活発で、ラオス国内での親日感情の基盤となっている。また、日本の漫画なども多く普及しつつあり、アニメなども放映され、日本に対する親近感も非常に高まっていると聞く。

残念ながら私自身はラオスは行ったことがない。ラオスに関しては、中国や韓国の影響が大きいということが言われているのであるが、その中で日本が非常に大きな力を発する、その存在感を示すという意味では、愛子内親王殿下のご訪問は、非常に大きなことになるしまた、日本企業の進出などに対しては、その安全性や親日性を証明する大きな起爆剤になるのであろう。

ある意味で、日本の企業というのは「本当に安全であるという保障」が無ければ進出しない。その意味では皇族が訪問するということが、一つの証明になるということになるのであろう。同時に、日本とラオスのかけ橋てして、ここまで大きく確実な架け橋はないということになるのであろう。

 今後は持続可能な開発、人材育成、地場産業の強化が重要課題である。実際に中国や韓国が進出してるということは、そのまま搾取が大きく行われているということになる。またラオスとはASEANの中江唯一海岸線を持たない国家であり、その意味では今一つ反転できていない部分がある。そして人の交流や物流に海が使えないことから、大規模な開発ができていない部分がある。そのような意味で、日本の支援とラオス側の開発戦略を結びつけることで、両国の協力はさらに深化すると期待されているのである。その省庁としての愛子内親王殿下の役割は大きかったのではないか。

総理大臣よりもはるかに大きな効果のある存在がある。そのような存在があることを日本人はもっと経緯をもって接しなければならないのではないか。

<有料メルマガのご案内>20251124 有料メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」

2025年46号 今の日中関係で危機に立たされているのは習近平である


 皆さんおはようございます。

 メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」主催の宇田川敬介です。

 今年も様々な内容にして、少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

普段のブログとは全く関係なく、少し柔らかい内容で見てみたり、国民の慣習のことなどを見てみたいと思っております。

 これからもよろしくお付き合いください。

★ 高市発言に対応せざるを得なくなった中国共産党

さて今回は、あまり扱う気がなかったのですが、これだけ連日ニュースでやっていると言わざるを得ないので、過去に書いたものと重なるかもしれませんが、高市外交における日中関係を見てみたいと思います。

私の見立てでは、高市内閣もかなり危機に瀕していると思いますが、それ以上に問題が大きいのは、習近平本人であるといわざるを得ないということです。

この辺が日本の野党を応援している人々とは全く違う見方をしているということになりますので、その論拠を見て・・・・・

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この続きは明日発行される有料メルマガに書いています。

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この文章は明日の先出です!!

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多分本で読むより安いと思います。

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「宇田川源流」【土曜日のエロ】 IOCがトランスジェンダー女子選手の五輪出場禁止へ


 今週も土曜日のエロの日になった。さて、その内容を見てみる前に、今週起きたことを見てみよう。

と言っても、今週起きたこと、そのニュースといっても実際のところはほとんどが三つのニュースしかない。一つは「高市首相の台湾有事発言に関する日中関係の悪化」に関する内容である。このことに関しては、基本的に日本の某新聞社と左翼的言論人が事態を悪化させてしまい、その内容を悪化させているということであり、なおかつ、おたがいが引くに引けない状況になっているという事であろう。この件に関してはほかでも書くのでこの辺にしておこう。

もう一つは、熊である。今年になって熊の被害が非常に大きなものになってきている。一部の人々は、熊の個体数が多くなりなおかつ、弱い個体が食料を求めて人里に入ってきたということを言う。基本的にその食料が少なくなった原因というのは、一つのは林業の影響で針葉樹が多くなったということが言えるであろうし、またその山も切り開いてメガソーラーにしてしまっているということもあるのではないか。メガソーラーが遠いところ二も熊が出ているというような反論があるが、そもそも個体数が多くメガソーラーができてそこの強い熊が他の縄張りに入ってゆけば、ところてん方式で押し出されるクマが出てくることになるのであろう。このクマに関してもまた別に行うことになる。

そして、もう一つは大分県の佐賀関の火事であろう。170棟以上が焼失したという。冬の乾燥機には火事が多いということがあり、また、「空っ風」などといわれる強風の中での火事は炎症が広くなる傾向があり、以前には新潟県の糸魚川市で大規模な火災があったことは記憶に新しいのであるが、今回もその教訓が生かせなかったということになるのである。これから年末年始を自宅で過ごせないということは、非常にお気の毒としか言いようがないが、何よりも生きているということが大事なのではないか。

さて、今回はこのようなこととは全く関係なく、オリンピックの事である。

<参考記事>

IOCがトランスジェンダー女性選手の五輪出場禁止を検討か 28年ロサンゼルス五輪から?

2025年11月11日 9時55分 スポニチアネックス

https://news.livedoor.com/article/detail/29958796/

<以上参考記事>

 IOCがトランスジェンダー女性選手の出場制限を検討している背景には、競技の公平性を確保するという理念が根底にある。IOCの医科学委員会は、男性として思春期を経験した選手が、ホルモン治療を受けた後でも筋力や骨格、心肺機能などにおいて女性選手と比べて優位性を持ち続ける可能性があるとする科学的レビューを発表した。このレビューは、テストステロン値の低下が競技能力に与える影響を分析したものであり、身体的な差が完全には解消されないという見解を示している。

 また、IOCは女子カテゴリーの保護を重視しており、女性選手が公平な条件で競技できる環境を維持する必要があるとしているす。この方針は、すでに国際陸連や世界水泳連盟などが導入している性別制限ルールと整合性を持たせる形で進められており、2028年ロサンゼルス五輪での導入が視野に入っている。

その様に感がれば、前回2024年のパリオリンピックのボクシングにおいて、トランスジェンダー女性の選手と競った女性は、その圧倒的な力に対して直ぐに棄権をした。このニュー師は大きく取り上げられたのであるが、このようなことから、調査が続けられているのである。

 この議論は、包摂性と公平性のバランスをどう取るかという、極めて繊細な問題を含んでいます。IOCはまだ最終的な決定を下しておらず、今後も科学的知見や社会的議論を踏まえた検討が続く見通しです。

まず、トランスジェンダー女性の競技参加を制限する動きは、女子競技の公平性を守るという名目で進められている。これは、思春期を男性として過ごした身体的特徴が競技上の優位性をもたらすという科学的知見に基づいている。しかし、この「公平性」の定義は、しばしば生物学的性別に基づくものであり、性自認やジェンダーの多様性を十分に考慮していないという批判もある。

 一方で、トランスジェンダーの人々にとって、スポーツへの参加は自己表現や社会的承認の重要な手段であるとされる。出場を制限することは、彼女たちの人権や尊厳を損なう可能性があり、社会的排除やスティグマを助長する懸念がある。特に、若年層のトランスジェンダーにとっては、学校や地域のスポーツ活動からの排除が、精神的健康や社会的つながりに深刻な影響を与えることが指摘されている。

 また、この議論は女性差別の構造とも密接に関係していることになる。女子競技を守るという名目で導入される性別検査や排除の制度は、過去に女性アスリートに対して行われてきたセックス・コントロールの歴史を想起させる。つまり、トランス排除のロジックが、女性の身体を「検証」し「管理」するという旧来的なジェンダー観を再生産しているという批判も存在するのである。

 さらに、各国の法制度や文化的背景によって対応が分かれており、国際的なスポーツの場で統一的な基準を設けることが困難になっている。この断片化は、選手にとって不透明で不安定な環境を生み出し、スポーツの本来の価値である「連帯」や「尊重」を損なう恐れがある

 このように、トランスジェンダー女性の競技参加をめぐる問題は、単なる競技ルールの問題ではなく、社会全体の価値観や制度のあり方を問う深い問いを内包している。

さて、アメリカはトランプ大統領が「性別は二つしかない」としている。そもそも基督教などは「神が与えた性別」を「人間が否定する」ということをしているのであるから、一神教の保守派の人々には認められない議論なのかもしれない。またkのように「保護」ばかりではなく「金メダルを欲しいということで、精神的なことも関係なく女性になって今う男性がいる」という制度の悪用のことも考える必要がある。あまりにも「性別を行ったり来たりできるような価値観」が難しいということなのであろう。

さて、「土曜日のエロ」としては「心が男性の人が、女性の競技に交じって女性の身体に密着した場合」とくに、よく言われる柔道の寝技などが起きた場合、どの様にするのであろうか。いやいや、なかなか難しい問題である。

「宇田川源流」【現代陰謀説】 中ロが衛星でヨーロッパを監視し未確認飛行物体を飛ばしている


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。現在このように普通に生きている中で、今まさに動いている陰謀ということを、現在公開されているニュースの中からその内容が見いだせるニュースをピックアップし、そしてその中にある「陰謀」を暴きだしてみたい、という内容である。もちろんニュースだけでは完全に不足していることから、それ以上の知識などが総動員されなければならないが、このブログではそこまでしようとは思っていない。それよりも「このような読み方をすれば、陰謀を読み分けることができる」ということをこの場で示したいと思っている。実際に、完全に見分けることは難しくても、ニュースの読み方を見てゆけばよいのではないかということとを考えている連載である。

 さて、陰謀というのは基本的には「戦争」に直結することが少なくない。結果論ではそのように物事がみえる。実際は「相手の国を、自国の思い通りにコントロールする」ということがあり、その場合、相手の国の事を考えて行うのではなく、自国の利益のために相手の国を使う、場合によっては相手国の政権を崩壊させるというようなことにつながるので、そのことが露見した場合に両国の関係は悪化し、その結果、「戦争」に繋がってしまうということがある。

 もちろん、善意による他国の介入というものがあるが、だいたいの場合、国の価値観が異なるのであるから、その価値観そのものを押し付けた結果を求められた場合、その内容が大きな問題として出てくることになるのではないか。またそのように外部からコントロールされていたことが明らかになれば、その外部勢力は当然に反発を覚えるということになる。

 そしてそのような陰謀の前には、相手国を観察するということが必要になる。その上で「戦争を覚悟した観察」を最後に行う必要がある。秘密兵器や、隠れた何かがあった場合は、戦争になって被害を被る可能性があるからだ。そのように考えれば、「陰謀を仕掛ける前」と「陰謀の終盤」のにかい、よく相手国を観察する必要があることは間違いがない。

<参考記事>

中ロの人工衛星、英独は「もはや無視できない」 どのような脅威なのか

11/11(火) CNN.co.jp

https://news.yahoo.co.jp/articles/c46d755b32e0c020d954d9280b13960e5742ccd7

<以上参考記事>

 近年、ロシア製ドローンや正体不明の飛翔体が欧州上空で相次いで観測され、空港の一時閉鎖や運航停止を招く事例が報告されている。これらの出現は単発にとどまらず頻度が増しており、欧州側では大規模な監視と識別の負荷が生じていると伝えられている。

 危機が示すのは複合的な脅威である。第一に領空侵犯や偵察によって軍事情報や政治的圧力が生まれる点、第二に無人機群や小型飛翔体の大量運用が従来の防空や管制の常識を覆し得る点、第三に空港や民間インフラへの直接的な影響によって社会的混乱や経済的損失が連鎖的に発生する点が挙げられる。欧州の首脳会議では、こうした事象を単なる事故や個別事案と見るのではなく、組織的な運用や戦術の一環として評価する議論が進んでいる。

 対応は短期的な被害回復と中長期の体系的対策に分かれる。即応段階では空港や航路の運用見直し、領空監視の強化、関係国間での情報共有や追跡能力の連携が行われている。中長期的には「ドローンに対する防護」や電子戦能力の強化、無人機検知網の整備、複数国にまたがる早期警報と対応ルールの策定といった枠組み作りが進められており、欧州全体で防空体制や対領空侵入ルールの見直しが加速している。

 今起きているのは単純な領空事件ではなく、無人機や小型飛翔体を巡る新しい安全保障上の挑戦である。対応は技術的対策だけでなく、法的・外交的整理と同盟内の情報協調、民間インフラの回復力強化を並行して進める必要がある。透明性のある事実確認と連携の強化が、誤認や過剰反応を避けつつ抑止力を作る鍵になると見られている.

 。中国の衛星や衛星関連能力が情報収集(監視・偵察)や通信妨害といった機能を急速に拡大しており、その活動が欧州の軍事・民間インフラや同盟軍の運用に影響を与えうると警戒されているという点だ。

 具体的には、中国は多数の小型・中型衛星を展開して地表観測・電波監視・マルチスペクトル観測などを行い、対地・対艦・対空の動きや通信トラフィックの把握を強化しているとの指摘がある。また衛星からの電波妨害や遠隔での機能無効化、あるいは物理的に破壊する対衛星兵器(ASAT)やジャミング能力の開発・実験が進んでいると報じられており、これが欧州側の警戒を強めている。

 こうした能力は軍事的な監視・標定(C4ISR)能力の向上と重なる一方で、衛星通信や航行支援、地上のライフラインに依存する民間分野にも波及する可能性がある。衛星の妨害や破壊は軍事通信だけでなく民間のブロードバンドや金融・電力インフラにも影響を及ぼすため、被害の広がりを懸念する声が出ている。

 欧州やNATOの対応は多面的といえる。欧州連合内では特定の供給・技術リスクに対する対処や対中交渉の枠組み整備が進められており、軍事面では宇宙空間の安全保障を強化するための協力や規範づくり、被害に強い運用や代替手段の整備が議論されている。NATOや個別国は宇宙を戦域として捉え、宇宙態勢監視や衛星防護、妨害時の回復力向上に資源を振り向ける動きを強めている

 結論として、報道が伝える懸念は技術の二面性と依存性に端を発しているのではないか。中国の衛星活動は欧州の監視や意思決定にとって情報優位を脅かす要因となりうる一方、衛星機能の妨害は民生分野まで影響を及ぼすため、軍民を横断するレジリエンス強化と同盟間の協調が安全保障上の課題になっていると整理できる。

では日本はどうすべきか。

 領空や宇宙空間での衛星・ドローン活動がもたらす複合的リスクに対して、日本は軍事的、外交的、技術的、法制度的、社会的な手段を統合した「全方位の備え」を進める必要がある。まず即応能力の強化として、空域監視と識別の精度を高めることが不可欠だ。従来のレーダー網に加え、光学・電波・信号情報を統合するマルチセンサーの常時稼働を確保し、自動化された追跡と脅威分類の運用を整えることで、早期発見から適切な対処までの時間を短縮できる。こうした監視能力は自衛隊単独ではなく、警察や航空管制、民間事業者との情報連携を前提に運用設計することが重要である。

 防護と抑止の面では、電子戦やサイバー防御、物理的迎撃手段のバランスを取る必要がある。電子妨害や通信遮断に対する耐性を民間・軍用双方で高めること、衛星通信の代替ルートや運用プロファイルを複数持つことで被害の波及を抑えること、限定的かつ適法な無人機対処能力を航空自衛隊や海上自衛隊、自治体の実働部隊に配備することが求められる。迎撃や妨害行為は誤認やエスカレーションを引き起こすため、明確な運用ルールと比例原則に基づく承認手続き、そして事後検証の枠組みを整備しておくことが安全確保につながる。

 同盟と国際協調は戦略上の柱である。米国や欧州の同盟・パートナーと宇宙・空域における情報共有の枠組みを深化させ、共同での早期警報体制や脅威評価、対処手順を合意することが重要だ。外交面では、領空侵害や無人機活動の事実関係を透明に提示するための外交チャンネルと検証メカニズムを維持し、国際法や民生インフラ保護に基づく規範形成を主導する姿勢が求められる。多国間の議論を通じて宇宙の軍事化や有害行為に対するルール作りを促進するとともに、被害が生じた際の共同対処や制裁の選択肢を外交的に整えておくべきだ。

 産業基盤と技術開発の強化も不可欠である。国産の小型観測衛星や電波・光学センサー、耐妨害型通信技術、衛星運用のセキュア化に対する中長期投資を拡大し、民間宇宙産業との連携を深めることで安定的な観測・通信能力を確保する。国内サプライチェーンの多様化と重要技術の国内保有は、外部依存による脆弱性を減らす。研究開発面では、人工知能を活用した異常検知や追跡アルゴリズム、妨害下での代替航法・通信の実用化を優先課題に据えると効果が高い。

 法制度と国内ガバナンスの整備によって、迅速かつ適切な対応を可能にする環境を作るべきだ。現行法の適用範囲を見直して領空・宇宙での新たな行為に対する対応手続きや責任分担を明確にし、必要な場合の行政命令や民間協力の法的基盤を整える。また民間インフラ事業者に対するセキュリティ基準と報告義務を整備し、重要インフラのレジリエンスを高めるための支援策や演習を恒常化することが必要である。

 国内社会の備えと情報発信も忘れてはならない。空港や主要インフラでの運用停止・遅延が社会的混乱を招く可能性があるため、民間事業者と行政が共通の対応シナリオを持ち、住民向けの危機情報伝達手段と復旧優先順位を定めておくことが最小限の混乱で乗り切る鍵になる。透明性を重視した説明と、誤情報を抑える速やかな公表体制が国民の信頼を保つ。

 最後に戦略的一貫性である。短期の対処策と中長期の抑止・回復力強化を並行させ、外交・防衛・産業・法制度・社会対応を時間軸で結び付ける国家戦略を策定し、国民的合意を得ながら実行することが重要だ。単発の事件への反応に終始するのではなく、宇宙および低高度空域を巡る新しい安全保障環境を前提とした持続的な国家能力の構築こそが、日本の安全と社会の安定を守る最善策となる。

「宇田川源流」【日本報道検証】 いま問われる「野党力」にみる立憲民主党不要論


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、皆さんの多くが感じていると思う「国会審議のくだらなさ」ということを見てみたいと思う。日本は「政治三流・経済一流」といわれ、英字的な羽後沖ができないことで世界的に有名であり、そのような中で「エコノミック・アニマル」といわれていたのであるが、最近では自慢の「経済」も、ダメになっていいていて失われた30年というような経済的な冷え込みから抜け出ることができなくなってきているので「エコノミック」も抜けてしまって、ただの「アニマル」になってしまっている。それらもすべて政治が悪いとするのは簡単なのであるが、実際その政治というのはいかがなものであろうか。

そもそも政治が経済をすべて面倒を見ることができるはずがない。経済活動自由の原則というものがあり、それが自由主義経済の根幹にある。そこに犯罪を構成しない限りにおいて政府が介入することはできない。そのようなことをすれば、社会主義国家の「統制経済」になってしまう。そのことから安倍内閣の時にも経団連に対して「賃金を上げるように要請」はしても命令などはできなかったのであろう。

さて話を国会に戻せば、そのような原則があるのであるから、政治ということでは限界があるのである。そのうえで、国会ではその内容を審議するということになるのだが、国会の真偽というのは、基本的には国会の各会派の質問を、三権分立の内閣が答えるということで成立している。当然に予算委員会であるならば、予算に関することになるのであるが、一応「何をやっても行政の予算に関係がある」ということになることと、予算委員会だけはテレビ中継が入るので、ここでスキャンダルをあげつらう野党議員がいる。そして、そのスキャンダルを上げて、政権が崩壊した例があるので、一部の野党は、予算委員会で予算や政治に関係ある質問をするのではなく、与党や内閣の印象を悪くするよう質問しかせずに、あまり建設的な質問をしない状態が続いているのである。

そのことに多くの国民は呆れている。

<参考記事>

“シカ質問15分”に国民呆れ、首相も「撤回しません!」ヤジ騒動に続き暗雲「#立憲民主党いらない」

2025年11月11日 9時10分 週刊女性PRIME

https://news.livedoor.com/article/detail/29958659/

<以上参考記事>

 とくにネットの中で上げられているのが立憲民主党の議員たちであろう。そもそも、所信表明演説のヤジ議員から始まり、衆議院予算委員会の西村議員による「奈良の鹿問題」、参議院の杉尾議員による「虚偽捏造疑惑質問」などが上げられている。杉尾議員のメールが2万通(本人の書き込み)が迷惑メールであるという。

ある意味で、国民からすれば現在は経済対策に対中問題、日米関係などやらなければならないことは山積しており、その内容に関して、政府を追及してもらいたいところであろうが、残念ながら立憲民主党の議員は「批判のための批判」をしていれば政権が転がり込んでくるというような感覚を持っているようであり、予算に関する質問や経済対策に関する質問をしっかりと行っている議員は少ない。祖の点で言えば、共産党の議員の方がしっかりとした質問をしているのではないか。

何しろ西村議員に至っては質問で15分も鹿の質問をしているのであるから、何か大きな間違いというか時間の使い方が間違っているというか、はっきり言ってしまえば予算委員会で質問するレベルではないということになるのではないか。そのようなことは誰も聞来たくないのではないか。

私の友人などは「恥ずかしくてすぐにチャンネルを変えた」「ばかばかしくて、あれで衆議院の歳費(給与)を税金からもらっているなんて許せない」というような意見が寄せられている。これが野党全体がこのレベルであるならば、その様に言われることもないのかもしれないが、野党第一頭であり次に政権を狙うなどと言っていながら、予算委員会の質問がこのレベルでは話にならないのである。そのような意味でネット上では「立憲民主党不要論」が花盛りになっている。

ではなぜこのようになってしまったのであろうか。一つには、小選挙区制で「敵を攻撃して印象を悪くすれば、自分に票が入る」ということが大きな要因であろう。しっかりと政策を訴える必要がなく、立憲民主党にすれば、自民党を批判すればよいということになる。そのような選挙をしていれば、楽かもしれないが、しかし、そのようにして国会の真偽をまともに行わなかったことから、日本の政治が停滞し、経済も悪化しているのであることは多くの有権者はわかっているのであろう。

もう一つは、その様に批判しかしていないので、立憲民主党の議員の多くは自民党のあら捜しをしていればよいだけで、政策に関して全く勉強をしていない。その点でいえば、国民民主党や共産党の方がはるかに勉強している。もしもこの言葉に嘘があるという人は立憲民主党の議員に政策に関する質問をしてみればよい。そもそも彼らが言っていることは、例えば外国人を無制限に入れてしまえとか、格差をなくせとか、それらはすべて共産主義の内容であり、民主主義を否定する立場の言葉であることが見えているのであろうか。蓮舫議員のと知事選挙の時にステッカー事件など、法律に違反してもよいというような、中国文化大革命時の愛国無罪思想に近い。そしてそのようなことをまともに主張をすれば票が入らないということを知っているし、民主党の中には共産主義に今日非反応を持っている人も少なくないので、あえて政策を語っていないということになるのであろう。要するに、国民のことを馬鹿にして、騙して政権を取るつもり満々なのであろう。

その国民も徐々に気づいてきている。選挙が「多党化時代」になってきて、多くの政策をしっかりと主張する正統が出てきたことによって、批判しかできない正統が淘汰されることになるのではないか。

できれば、批判のための批判しかできない生産性の低い議員は、早く淘汰されてほしいものである。