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「宇田川源流」【現代陰謀説】 幽霊の正体は「音」とカナダの研究チームは言っているが・・・


 毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしています。さて、普段んは本当の陰謀や戦争などにつながる話を書いていますが、たまには異なる内容を見てみようとおっ持っております。実際に、陰謀ではないのですが、その他の「サブカルチャー」的な内容を見てみたいと思います。実際に「陰謀」と「オカルト」は全く異なるものですが、一方で日本では双方ともにサブカルチャーに属しているということになります。

さて、以前にも同様の内容から「UFO」に関する内容は見てきました。もちろんUFOであるといっても、それは必ずしも宇宙人とは限りません。何らかの新兵器である可能性もありますし、また、未確認部隊である可能性もあるのですから、そのような場合は、陰謀の一種であるということになります。

さて、今回はその「派生形」かもしれませんが全く異なる「幽霊」です。

幽霊に関しては、私は個人的に「いる」と信じております。まあ、私の個人の考え方からすれば「目に見えないこと・科学的に証明できないこと」であっても、「存在する」ということがありうるということになります。実際に科学ではかいめいできないことがまだいろいろとあると思いますしまた、その内容が「信じることによって存在する」ということもあるのではないでしょうか。

妖怪に関しても、見えないし存在しないかもしれないが、しかし、確実にいるものであると思っています。そしてなぜかその「妖怪」は「世界でほとんど同じような内容になっている」ということになっているのです。

さて、今回はカナダの研究チームがその幽霊の正体が音であると研究結果を話したということになっています。その内容について、私のように信じている人が何を考えるのかを見てみましょう。

<参考記事>

幽霊の正体は「音」か!カナダ研究チーム、古い建物に幽霊が出る理由を本気で研究 超低周波音の影響を解明

2026年5月3日 8時50分 よろず~ニュース

https://news.livedoor.com/article/detail/31165822/

<以上参考記事>

 このニュースで紹介されている研究は、「幽霊の正体は音である」と断定したというよりも、「人間は、超低周波音によって“幽霊がいるように感じる状態”になる可能性がある」という研究です。特に、人間の耳には聞こえない20Hz以下の超低周波音(インフラサウンド)が、不安感や緊張感、ストレス反応を引き起こす可能性があるとされています。古い建物では、老朽化した配管や換気設備、地下構造などからこの超低周波音が発生しやすく、「何かいる」「見られている」「嫌な気配がする」という感覚につながる可能性がある、という内容でした。

 しかし、この研究をそのまま「だから幽霊はいない」と結論づけるのは、少し飛躍があります。むしろ興味深いのは、人類が古来から語ってきた“霊的体験”と、音・振動・空間環境との間に、何らかの接点が存在する可能性が見えてきたという点です。

 そもそも、幽霊や妖怪という存在は、単なる近代オカルトではありません。日本では古代から、山には山の神が宿り、川には水神が宿り、古い家には付喪神が宿ると考えられてきました。これは単なる迷信ではなく、「人間の感覚では説明しきれない何かが、この世界には存在する」という認識です。

 日本文化における幽霊は、西洋のゴーストとは少し違います。西洋では死者の霊は恐怖の対象として描かれることが多いですが、日本では祖霊信仰と結びついています。つまり、死者は完全に消える存在ではなく、「この世に影響を残し続ける存在」と考えられてきました。お盆や慰霊、鎮魂という文化が成立していること自体、「見えない存在との共存」が日本文化の根底にあることを示しています。

 そして面白いのは、昔の人々が「霊が出る場所」として語ってきた場所が、実際には特殊な音響環境や地形環境を持っている場合が少なくないことです。

 例えば、古い神社や寺院、洞窟、山岳地帯、地下空間などは、風や地鳴り、建物の共鳴によって低周波振動が発生しやすい場所です。人間は超低周波音を「耳」で聞くというより、「身体」で感じます。胸がざわつく、呼吸が浅くなる、理由なく不安になる、背後に気配を感じる、といった反応は、音というより生理反応に近いのです。

 つまり、昔の人々は科学用語を持たなかっただけで、「この場所には何かある」という身体感覚を、霊や妖怪という言葉で表現していた可能性があります。

 ただし、それだけで全ての霊現象を説明できるわけでもありません。

 なぜなら、世界中には「複数人が同時に同じものを見た」「後から確認すると実在人物だった」「その場にいなかった人間の存在を感知した」とされる体験談が、時代や文化を超えて大量に存在するからです。もちろん、その全てを真実とは言えません。しかし同時に、全てを幻覚や錯覚として片付けるのもまた、科学的態度とは言えません。

 科学とは、本来「わからないものを否定する」ためではなく、「わからないものを観測し続ける」ための営みです。

 実際、かつて人類は電波も放射線も重力波も見ることができませんでした。しかし、存在していなかったわけではありません。観測手段がなかっただけです。近年では、人間の感覚や意識そのものが、電磁場や微弱振動、脳波環境の影響を強く受けることも分かってきています。

 その意味では、「霊的存在がいる」と考える立場と、「超低周波音などの環境要因がある」と考える立場は、必ずしも対立しません。

 むしろ、「人間は特定の環境下で、通常とは異なる知覚状態に入る」という研究が進めば進むほど、「古代宗教や民間伝承が語っていた“異界感覚”とは何だったのか」という問いに近づいていく可能性があります。

 妖怪研究で有名な 柳田國男 や 水木しげる も、「妖怪は単なる作り話ではなく、人間が自然や死者や未知と向き合う中で生まれた感覚の記録」であると考えていました。

 つまり、今回の研究は「幽霊はいない」という話ではなく、「なぜ人間は古来から霊的存在を感じ続けてきたのか」を科学的に探る入り口だと見るべきでしょう。

 人間は、見えるものだけで世界を認識しているわけではありません。空気の振動、場の雰囲気、建物の記憶、人の感情、土地に残る歴史――そうしたものを総合して、「何かいる」と感じる存在です。

 だからこそ、幽霊や妖怪は、単なる恐怖ではなく、人間の感覚・記憶・信仰・環境が交差する場所に現れるものなのかもしれません。

「宇田川源流」【日本報道検証】 欧州自動車大手が軍事装備を始める理由


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、ヨーロッパの大手の自動車会社がドローンの開発や装甲の研究、航空関連の機器開発など、軍事装備を行っています。これらの内容は一つには、経営の悪化ということがあげられます。とくに中国のEV車の攻勢などで経営が悪化しているということがあり、また、ガソリン車やEV車など様々な意味で改革を求められてしまい、経営が悪化しているということがあげられます。

しかし、ヨーロッパのSNS等を見ると、必ずしもそのような「経営上の理由」だけではないように見えるのです。簡単に言ってしまえば、「戦争が近い」と考えています。実際に、ロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナで抑えているものの、プーチン大統領などの発言を見れば、ウクライナの次はNATOとの戦争を宣言していることになりますし、実際に、戦争はいつヨーロッパに飛び火してもおかしくはありません。また、ハマス=イスラエル戦争は、すぐに地中海を挟んで「隣国」の戦争であるということになりますし、実際にアメリカの空母などは地中海から出てきています。また、アメリカのイラン戦争はイスラエルを交えています。とくにNATOへのホルムズ海峡防衛を求められていますし、フランスはすでに紅海に派遣しています。

このように実際の紛争が非常に大きく出てきているだけではなく、政治的な分断も大きくなっています。ヨーロッパではマスコミなどにポピュリズムなどと言っていますが、国家主義的な考え方と一方で左翼リベラリズムがひろがっているということになります。要するに、世界中で国家間そのものが、そして国家内でも分断が進んでいて対立が出てきているということになります。

まさに、ヨーロッパの多くの国がすでに「戦争」を意識する状態にあり、また顧客も戦争を意識して安全なものや国に貢献する消費というような感覚があり、そのことから、単純に経済的な問題だけではなく、ヨーロッパの大手自動車メーカーが軍事装備を行っているというSNSの書き込みがあります。ヨーロッパの人々はロシアのウクライナ侵攻や、イラン戦争、ハマス=イスラエル戦争などで戦争や分断を意識しているのでしょう。

<参考記事>

欧州自動車大手、軍事装備に活路 ドローンや防空関連機器

5/5(火) 15:03配信 共同通信

https://news.yahoo.co.jp/articles/4a022363471a85ddea619d88db5989742281dd1f

<以上参考記事>

 欧州の人々が現在、「戦争を遠い世界の出来事ではなく、自分たちの日常や経済とつながった現実」として意識し始めていることは、かなり確かだといえます。これは単にロシアによるウクライナ侵攻だけではなく、中東情勢、エネルギー危機、移民問題、テロへの警戒、さらには米国の国際関与の不確実性などが複合的に重なった結果です。

 今回の「欧州自動車大手が軍事装備に活路を見いだす」という動きは、単なる景気対策や新規事業ではなく、ヨーロッパ社会全体の安全保障意識の変化と深く結びついています。特にヨーロッパでは、冷戦終結後に長く続いた「戦争後の平和の時代」が終わったという感覚が広がっています。

 そもそもヨーロッパは、第二次世界大戦後、「戦争を二度と繰り返さない」という理念の上に欧州統合を進めてきました。EUそのものが「経済的相互依存によって戦争を不可能にする」という思想から始まっています。そのため、多くの西欧諸国では長年、「軍事」は社会の中心ではなく、むしろ周辺化される傾向がありました。軍縮が進み、防衛産業も縮小し、若い世代ほど戦争を歴史教科書の出来事として捉えるようになっていたのです。

 しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻は、その感覚を根底から変えました。特にポーランドやバルト三国、フィンランドなど、ロシアに歴史的恐怖を持つ地域では、「次は自分たちかもしれない」という意識が急速に高まりました。西欧でも、「大国間戦争はヨーロッパでは起きない」という前提が崩れたのです。

 この変化は、単なる軍事予算の増加だけではありません。社会心理そのものを変えています。以前の欧州では、「軍需産業」はどこか後ろめたい存在として見られることもありました。しかし現在では、「国を守るために必要な産業」という認識が強まりつつあります。ドイツでさえ、防衛企業への投資を以前ほど否定的に見なくなっています。

 その背景には、「戦争が経済そのものを破壊する」という現実を人々が再認識したことがあります。ロシア産天然ガスへの依存が崩れたことで、欧州ではエネルギー価格が急騰し、工場停止や物価高が発生しました。つまり、安全保障は軍事だけではなく、暖房費や食品価格、雇用と直結することが理解されたのです。その結果、「国防」は抽象的な愛国心ではなく、生活防衛として受け止められるようになっています。

 この文脈で見ると、自動車メーカーの軍事分野進出も自然な流れです。ヨーロッパの自動車産業は現在、電気自動車化、中国メーカーとの競争、環境規制、エネルギー高騰という多重危機に直面しています。一方、防衛需要は急拡大しています。ドローン、防空システム、軍用車両、電子戦機器などへの投資は各国政府が急速に増やしています。そのため、自動車産業が持つ精密機械技術、量産能力、電動化技術、センサー技術を軍事転用する動きが強まっているのです。

 特にドローン分野は、自動車産業との親和性が高いとされています。電池、制御ソフト、小型モーター、AIによる自律制御など、多くの技術基盤が共通しているからです。さらに、防空システムも高度なセンサー統合や電子制御技術が必要であり、現代の自動車メーカーが持つノウハウと重なります。

 ここで重要なのは、欧州の消費者意識も変化している点です。もちろん、すべての欧州人が軍事化を歓迎しているわけではありません。特に若年層やリベラル層には依然として強い反軍事感情があります。しかし同時に、「民主主義国家を守るための防衛は必要」という認識が広がっていることも事実です。

 これは冷戦期の単純な軍拡競争とは少し異なります。現在の欧州では、「価値観防衛」という意識が強いのです。つまり、単に領土を守るだけではなく、「自由主義」「民主主義」「法の支配」を守るという感覚です。ウクライナ支援が欧州で比較的長く支持されている背景にも、この価値観意識があります。

 また、中東情勢も欧州社会に大きな影響を与えています。2023年ハマスによるイスラエル攻撃以降、欧州ではイスラム系移民問題、反ユダヤ主義、テロ警戒、社会分断が再び強く意識されるようになりました。フランスやドイツでは、デモや暴動、ヘイト犯罪への警戒が強化されています。つまり、中東戦争が「遠い地域の問題」ではなく、「欧州内部の社会対立」に直結しているのです。

 さらに、イランをめぐる緊張も、欧州にとってはエネルギー安全保障や海上交通路の問題として現実的です。ホルムズ海峡が不安定化すれば、欧州経済は直接打撃を受けます。つまり、欧州人にとって戦争は「テレビの中の映像」ではなく、ガソリン価格や電気料金、移民流入、治安悪化として日常生活に入り込んできています。

 そのため、現在のヨーロッパでは、「平和を維持するためには、ある程度の軍事力や防衛産業が必要だ」という現実主義が強まりつつあります。これは戦争を望んでいるわけではありません。むしろ逆で、「抑止力がなければ平和は維持できない」という感覚に近いものです。

 ただし、この流れは同時に欧州社会の分断も深めています。一部では「軍事化が進みすぎている」「冷戦回帰だ」という批判もありますし、右派勢力の台頭やナショナリズムの強化を懸念する声もあります。つまり現在の欧州は、「平和主義を維持したい理想」と、「現実の脅威に対応しなければならない安全保障」の間で大きく揺れている状態なのです。

 そして、この揺らぎこそが、自動車メーカーの軍事分野参入という、一見すると経済ニュースに見える現象の背後にある、ヨーロッパ社会全体の深い心理変化を示しているのです。

 このニュースを日本の視点から見ると、単に「欧州企業が防衛産業に参入した」という産業ニュースではなく、「安全保障と経済が完全に一体化する時代に入った」という国際社会の構造変化として理解する必要があります。

 日本は戦後長く、「経済と安全保障を分けて考える」ことで発展してきました。つまり、経済は市場原理と効率性で動かし、安全保障は基本的にアメリカに依存するという構造です。この体制は高度経済成長期には非常に合理的でした。日本企業は軍需から距離を置くことで「平和国家日本」というブランドを形成し、高品質な民生品を世界に輸出してきました。

 しかし現在の世界では、この分離が急速に崩れています。

 半導体、AI、通信、宇宙、電池、ドローン、海底ケーブル、サイバー、防衛装備、エネルギー、食料、医薬品など、ほぼすべてが安全保障と結びつき始めています。つまり、現代では「経済そのものが国力」であり、「産業そのものが安全保障」になっているのです。

 欧州の自動車メーカーが軍事分野へ向かう背景もそこにあります。彼らは単に兵器を作りたいのではなく、「国家存続に必要な産業基盤」として自社の役割を再定義し始めているのです。

 日本にとって重要なのは、この変化を「軍国化」と単純化して受け止めないことです。むしろ、「平和を維持するために、どのような産業基盤と技術基盤が必要なのか」を冷静に考える段階に入ったということです。

 特に日本は、地理的には極めて厳しい環境にあります。周囲にはロシア、中国、北朝鮮という核保有国が存在し、さらに台湾海峡問題、南シナ海問題、サイバー攻撃、宇宙空間競争などが同時進行しています。しかも日本は資源輸入国家であり、海上交通路への依存度が極めて高い。そのため、安全保障環境の変化が直接生活に跳ね返ります。

 実際、エネルギー価格高騰や半導体不足の際、日本人は「安全保障は遠い話ではない」と部分的に実感したはずです。電気代、ガソリン代、物流、食品価格は、国際情勢と直結しているからです。

 この意味で、日本企業も従来の「利益だけを追求する企業観」から変化を迫られる可能性があります。

 たとえば、半導体企業が単なる民間企業ではなく国家インフラとして扱われ始めていますし、通信企業やAI企業も同様です。さらに、自動車産業、素材産業、造船、航空宇宙、ロボット、量子技術なども、今後は「経済安全保障産業」として位置づけられる可能性が高いでしょう。

 日本企業に必要なのは、「戦争ビジネス」への熱狂ではありません。むしろ逆で、「国家や社会の安定を支える産業」という認識です。

 日本には欧州や米国とは異なる特徴があります。日本企業は長年、「高品質」「安全性」「耐久性」「災害対応」「省エネ」「精密化」という分野で強みを築いてきました。これは軍事だけではなく、防災、インフラ保護、サイバー防衛、無人化、救難、海洋監視、エネルギー効率化など、非攻撃的安全保障分野で極めて大きな意味を持ちます。

 例えばドローンであっても、日本が得意とするべきなのは攻撃型無人機だけではなく、災害救助、インフラ点検、海難監視、原発事故対応、離島輸送などです。つまり、日本は「防衛と公共安全の融合」という独自路線を構築できる可能性があります。

 また、日本国民の側も、「防衛=軍国主義」という単純な戦後的二元論だけでは現実に対応できなくなっています。もちろん戦争の悲惨さを忘れてはなりません。しかし同時に、「平和を維持するには、技術、経済、エネルギー、情報、防災、供給網を守る必要がある」という現代型安全保障への理解も必要になります。

 特に重要なのは、「国に貢献する消費」という感覚をどう考えるかです。

 欧州では現在、「民主主義を守る企業か」「独裁国家依存ではないか」「エネルギー供給は安全か」という視点が消費行動にも入り始めています。これは愛国主義というより、「自分たちの社会を維持するための選択」という感覚に近いものです。

 日本でも今後、単に価格だけではなく、「供給網は安定しているか」「技術流出はないか」「国内生産基盤を維持できるか」という観点が重要になるでしょう。

「宇田川源流」【大河ドラマ 豊臣兄弟】 新し衣装の始まりのテーマは「出会い」


 毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」について、好き勝手に私の感想を書いています。基本的に、戦国時代は好きな時代なので、多少は歴史小説家として詳しいのですが、しかし、まあ、今回のドラマは単なる市庁舎でしかないことは間違いがありません。

さて、先週は「豊臣兄弟」はかなり大きく動いた1573年なのですが、しかし、このブログは先週の内容を書いていないというか、まあ、ゴールデンウィーク特別にしていたのでここで先週の内容を先に書いてみましょう。

前回は、「比叡山焼き討ちの後」で「室町幕府の終焉(足利義昭の追放)」そして「三方ヶ原の戦い」と「武田信玄の死による武田軍の撤退」、そして「一乗谷の陥落と朝倉義景の氏(朝倉家滅亡)」、そしてその後「小谷城の落城(浅井家の滅亡)」ということになります。

もちろん、豊臣秀長(仲野太賀さん)が主人公なので、歴史通りに動くということではないということになります。室町幕府の終焉ということに関しては、基本的に秀長は全く関係ないのかもしれません。槙島城の戦いは、現在の京都府の八木城の内藤ジョアンが兵を率いて駆け付けたのですが、まったく織田軍の敵にならずということになりました。この時代羽柴秀吉(池松壮亮さん)はは京都の留守居をしながら石山本願寺に控えていたのですから、槙島城の戦いには参加していません。ましてや追放した足利義昭(尾上右近さん)を送るような内容はないはずなのですが、もともと本国時の変で一緒にしていたことや明智光秀(要潤さん)との関係があるので、ここで出さざるを得ないのでしょう。

一方武田信玄(高嶋政伸さん)の死に方が話題になりました。今までは病身を押して京都に上楽の軍を率いたので、病死したというようなこともありましたし、または、暗殺されたというような話もありました。しかし、まさか「餅をのどに詰まらせて死んだ」などというのは、どうなのでしょうか。実際にそのような学説もあるのですが、さすがにもう少し格好の良い死に方はなかったのかと思います。

そしてもう一つ話題になったのが、浅井長政(中嶋歩さん)の自害と市(宮崎あおいさん)の介錯でしょう。もちろん、浅井長政の死の瞬間は全くわからないのですから、市が解釈していてもおかしくはないのですし、また、その様にするために、市には信長と同じような思考をするという事や武将並みの武力を持つように設定してあります。しかし、そのようなことがあっても、市の介錯はそれなりに「歴史好き」には、なかなか受け入れがたいのかも知れません。

さて、前回はこのような形でできていました。では、今回は。

<参考記事>

豊臣兄弟!:「長篠の戦い」はナレ処理! 視聴者「まさか省かれるとは…」 高速展開に「1話飛ばしたかと思った」の声も

2026年05月10日 20:45 MANTANWEB編集部

https://mantan-web.jp/article/20260510dog00m200032000a.html

<以上参考記事>

 今回は、前回急ぎ足で「三方ヶ原の戦い」「武田信玄の死」「槙島城の戦い(室町幕府滅亡)」「朝倉氏滅亡」「浅井滅亡」と、怒涛の進行を行った後、今回は、何と「長篠の合戦」「松永久秀の謀反」を一気にナレーションで終わらせてしまうという驚きの展開でした。松永久秀役の竹中直人さんも、一瞬写って終わってしまいます。

今回は、ちょうど「次の章での登場人物の紹介」という感じであったのではないでしょうか。

浅野長吉(大地伸永さん)、藤堂高(佳久創さん)、石田三成(松本怜生さん)、加藤虎之介(のちの清正)(伊藤絃さん)、福島正則(松崎優輝さん)、平野長泰(西山潤さん)、片桐且元(長友郁真さん)、というところが初登場で出てきます。(藤堂高虎に関しては、姉川の合戦で一回出ていましたね)。

さて、ある意味で、ドラマの中で世代交代が行われたということになります。全体として、「信長の配下として農民から侍になるまで」「城持ち大名になってから信長が死ぬまで(本能寺の変)」そしてその後ということになるでしょう。本能寺の変のあと、どの様な章立てになるのか(多分、天下統一までと天下統一後ということであろうと思いますがそこは私の推測です)。その世代交代が出てきたということになるのです。

さて、その出会いをうまく書いているのですが、ここも様々「言われてきていること」つまり「史実とか通説といわれる内容」とは全く異なる内容になっています。もちろんドラマですから、その内容が大幅に違っていてもおかしくはありませんし、また、そのその「違い」がこれからのドラマの伏線になっているということも少なくないのです。

今回、石田三成は「お茶」を秀吉に飲ませるということは全くないと思いますし、また、今回寧々も「私は拾われた子供だった」というような話になっています。このようなことが、様々なドラマにつながるのですが、その内容は今後徐々に出てくるのでしょう。

さて、今回はその「出会い」がすべて書かれているということになります。つまり、今までは「人と人のつながりや記事な」を書いているのに対して、今回は「出会い」がテーマであったということになります。その出会い方はさまざまです。そしてその時の性格やキャラクターが、そのまま今後の内容に変わってくるのではないでしょうか。

今回は、その「新しい章」の始まりなので、今後の期待しかないということになるのでしょう。

「宇田川源流」【日本報道検証】 日本の報道自由度は記者クラブが原因で62位


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。

 さて今回は、5月1日に発表された報道の自由度に関してお話ししたいと思います。

今回は、国境なき記者団(パリが本部)が世界各国の報道自由度ランキングを発表しました。対象180カ国・地域のうち、日本は62位で昨年から四つ順位を上げましたが、G7では米国に次いで低い結果になっています。トランプ政権下の米国は七つ順位を下げ64位でした。首位は10年連続でノルウェーであったとされています。

このような順位が出ていると、だいたいの日本人の場合は、政府が検閲をしているとか、報道の自由がないなどのことを言い始めるのですが。「報道自由度ランキング」は、単に「政府による検閲があるかどうか」だけを見ているわけではありません。政治権力からの独立性、メディア企業の経営構造、記者の安全、情報公開制度、司法の独立、そしてジャーナリズム文化そのものまで含めて総合的に評価しています。その意味で、日本がG7の中でも下位に位置し続けているという事実は、日本に露骨な国家検閲が存在するというよりも、「制度的・文化的に権力監視が弱い」という点が国際的に問題視されていることを意味しています。特に海外から繰り返し指摘されているのが、いわゆる「記者クラブ制度」です。日本では中央省庁、警察、自治体、政党、大企業などに記者クラブが置かれ、加盟社が定例会見や資料配布を独占的に受ける構造になっています。本来、記者は権力に対して距離を置き、独立して取材する存在であるべきですが、日本では「権力機関の中に常駐する」形態が長く続いてきました。その結果、海外メディアからは「取材対象との距離が近すぎる」と見られています。

<参考記事>

日本の報道自由度は62位 記者クラブが自己検閲助長と指摘

5/1(金) 4:36配信 共同通信

https://news.yahoo.co.jp/articles/36d7439c580ecad01bcdbb290a45f37a5c41550a

<以上参考記事>

 欧米型ジャーナリズムでは、記者会見は原則として広く開放され、フリーランスや海外メディア、新興メディアも参加できる方向に進んでいます。対して日本では、加盟社中心の閉鎖性が強く、非加盟メディアが排除されるケースも少なくありませんでした。この構造は、同じ情報を同じタイミングで各社が受け取り、似た論調の記事を書く「横並び報道」を生みやすくします。結果として、「他社が踏み込まない話題には触れにくい」「突出した批判を行うと取材アクセスを失う」という空気が形成されやすくなるのです。

 ここで問題なのは、政府が明確に「書くな」と命令しているわけではない点です。むしろ日本型メディアの特徴は、「空気による自己抑制」にあります。海外の報道機関から見ると、日本では露骨な弾圧よりも、「波風を立てない文化」「組織内調和」「既存秩序との協調」がジャーナリズムの攻撃性を弱めているように映ります。これは日本社会全体の文化とも関係しています。日本では対立を避け、内部秩序を守ることが重視されるため、メディアもまた「権力監視機関」というより「社会安定装置」として機能しやすいのです。

 戦後日本のメディア構造も大きく影響しています。日本の新聞社やテレビ局は、世界的に見ても巨大な部数・視聴率を持ちながら、系列化された閉じた市場を形成してきました。全国紙とテレビ局、広告代理店、通信社、行政機関、大企業が相互依存的に結びつき、安定した巨大メディア圏を作ってきたのです。この構造では、既存秩序を揺るがす急進的調査報道よりも、「全体調和」を維持する報道が優先されやすくなります。

 欧米では、特にウォーターゲート事件以降、「権力を暴くこと」がジャーナリズムの中心的使命として強化されました。調査報道専門チームが存在し、政府文書を徹底的に掘り起こし、司法や議会とも連動しながら国家権力を追及します。しかし日本では、調査報道そのものが弱いと長年指摘されてきました。もちろん優れた記者やスクープは存在しますが、組織全体として「制度的に権力監視を行う文化」が欧米ほど強くないのです。

 さらに、日本ではテレビ局の免許制度も議論の対象になります。地上波放送は総務省の免許事業であり、政治との距離感が完全には切り離されていません。欧米にも放送規制はありますが、日本では「政権批判を続けると何らかの圧力が来るのではないか」という疑念が繰り返し語られてきました。実際に政権側がキャスターや番組内容に不満を示した事例もあり、それが現場に萎縮効果を与えるという見方があります。

 また、日本メディアの「政治部文化」も特徴的です。政治部記者は、政治家との人間関係や夜回り取材を重視する傾向があります。情報を得るためには、政治家との信頼関係を維持しなければならない。そのため、あまりに敵対的な報道をすると情報源を失うという構造が生まれます。欧米にもオフレコ文化はありますが、日本では「記者と政治家が同じ共同体の一員のようになる」と批判されることがあります。

 インターネット時代になると、この問題はさらに複雑化しました。日本の大手メディアは長く既存秩序の中で安定してきましたが、SNSや動画配信の普及で情報独占が崩れました。しかしその一方で、日本ではファクトチェック文化や独立系調査報道機関の成長が欧米ほど進まず、結果として「既存メディア不信」と「ネット空間の過激化」が同時進行する状態になっています。つまり、既存メディアは権力監視が弱いと批判され、ネット空間は逆に陰謀論や扇動が広がりやすいという、二重の問題を抱えるようになったのです。

 近年では、ドナルド・トランプによる「フェイクニュース」攻撃や、世界的な政治的分断の進行により、報道の自由そのものが民主主義の核心問題として再認識されています。日本は欧米のような露骨な言論弾圧国家ではありません。しかし国際的には、「自由に見えるが、構造的同調圧力によって権力監視機能が弱まっている国」として見られている側面があります。

 つまり、日本メディアの問題は「国家による強制検閲」ではなく、「制度・文化・業界慣行が一体となって自己抑制を生む構造」にあると考えられているのです。そしてその構造が、世界のジャーナリズムが求める「権力からの徹底した独立」という理念から見ると、国際的に遅れていると評価される大きな理由になっています。

 現在、日本の報道機関が「オールドメディア」と呼ばれる背景には、単に新聞やテレビが古いという意味だけではなく、「情報流通構造そのものが20世紀型のままである」という認識があります。つまり、少数の巨大メディアが情報を集め、編集し、一方向的に国民へ伝えるというモデルが、SNS時代の双方向・分散型情報空間と噛み合わなくなっているのです。

 かつてテレビや全国紙は、社会における「共通現実」を形成する強力な装置でした。高度経済成長期から平成初期にかけて、日本社会は比較的均質であり、同じニュース番組を見て、同じ新聞を読み、同じ価値観を共有していました。この時代には、「大衆へ向けて均一な情報を配信する」というモデルが極めて強力だったのです。しかしインターネットとSNSの登場によって、情報空間は根本から変わりました。

 現在では、個人が情報発信者になり、動画配信者、独立ジャーナリスト、海外メディア、研究者、一般市民がリアルタイムで競合しています。その結果、従来型メディアが持っていた「情報独占」は崩壊しました。しかし日本の大手メディアは、組織構造や報道文化を十分に変えられなかったため、「情報を上から与える存在」のまま残ってしまったのです。ここに「オールドメディア」という批判の本質があります。

 特に日本では、「速報性」でSNSに負け、「専門性」で海外メディアや研究者に負け、「現場映像」で一般投稿に負ける場面が増えました。その一方で、大手メディアは依然として「横並び報道」を続け、似た論調・似た見出し・似た番組構成になりやすい。視聴者から見れば、「どこを見ても同じ」という感覚になります。その結果、「なぜ巨大組織が必要なのか」という疑問が生まれるのです。

 しかし逆説的に言えば、SNS時代だからこそ、本来のジャーナリズムの価値はむしろ重要になっています。SNSは即時性に優れていますが、感情増幅型アルゴリズムによって過激化しやすく、偽情報も拡散しやすい。つまり、「速いが不安定」なのです。一方、本来の報道機関は、事実確認、裏取り、文脈整理、長期調査、権力監視を担う存在であるべきでした。

 ところが現在の日本では、大手メディアが「慎重すぎて遅い」「権力監視が弱い」「既得権側に見える」という印象を持たれ、一方SNSは「自由だが危険」という状態になっています。つまり、両者とも信頼危機を抱えているのです。

 日本の報道を近代化するためには、単に新聞をデジタル化すればよいわけではありません。根本的には、「ジャーナリズムとは何か」を再定義する必要があります。

 第一に必要なのは、記者クラブ依存からの脱却です。行政発表を受け取るだけの「発表報道」中心ではなく、独立取材型へ移行しなければなりません。欧米では、政府会見そのものより、独自資料や内部告発、公開情報解析を用いた調査報道が重視されます。日本でも、情報公開請求やデータ分析、OSINT(公開情報分析)などを本格的に活用する方向へ進む必要があります。

 第二に、メディア企業の経営構造改革が必要です。日本の新聞・テレビは広告依存モデルが強く、スポンサーや大企業との距離が近すぎる傾向があります。その結果、大企業批判やスポンサー批判に慎重になりやすい。海外では、非営利型ジャーナリズムや読者課金モデル、基金型報道など、多様な運営形態が広がっています。つまり「広告産業」から「公共知識産業」へ転換する必要があるのです。

 第三に、日本のメディアには「専門記者文化」の強化が必要です。海外では、軍事、AI、半導体、金融、安全保障、感染症などに高度専門記者が存在します。しかし日本ではゼネラリスト型配置転換が多く、専門知識が蓄積しにくい。現代社会は高度技術化しているため、単なる事件報道型ジャーナリズムでは対応できなくなっています。

 第四に、「権力監視」と「社会分断抑制」の両立が必要です。現在の世界では、過激な対立を煽るメディアほど拡散力を持ちます。しかし民主主義に必要なのは、単なる炎上ではなく、冷静な検証です。日本のメディアは逆に「対立回避」に偏りすぎた歴史がありますが、今後は「批判はするが扇動はしない」という高度なバランスが求められます。

 さらに重要なのは、メディアが「唯一の情報源」である時代は終わったという認識です。今後の報道機関は、「情報を独占する存在」ではなく、「情報洪水の中で信頼性を検証する存在」へ変わらなければなりません。つまり役割が、「伝達」から「検証」へ変化するのです。

 実際、世界ではすでにその方向へ進み始めています。AIによってフェイク画像や偽動画が大量生成される時代には、「誰が最初に流したか」より、「誰が正確に検証したか」が重要になります。これからのジャーナリズムは、速報競争ではなく、「信頼競争」へ変わっていく可能性があります。

 その意味では、日本のメディアは今、非常に大きな転換点に立っています。従来型の巨大組織・横並び・発表依存型を維持すれば、SNSとの競争でさらに信頼を失うでしょう。しかし逆に、調査報道・専門報道・検証報道・データ分析型へ進化できれば、AI時代において「最後に必要とされる情報インフラ」へ変わる可能性もあるのです。

「宇田川源流」【日本万歳!】 日本時代の建設が文化財に


 毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本に関する話の中で、日本のすばらしさや日本人の良いところを報じていただいている世界の記事を見つけ出してその中で日本のすばらしさを今に感じるということをしている。

 さて、世界で最古の木造建築といえば「法隆寺」であり、その法隆寺を立てた「金剛組」が世界最古の会社であるということになっている。もちろんもしかしたら、どこかの木製の建物で、法隆寺よりも古いものがあるかもしれないが、しかし、そのような記録が残っていないということになるのであるから仕方がないのかもしれないし、また、木造建築そのものが、戦争や火事で破壊されてしまっているということから、失われてしまっているということになる。

 そのような意味で、日本人の木造建築の技術は、「古くなっても味わいがあり、現在まで伝わる」ということになる。少なくとも法隆寺であるから西暦600年前後に作られているので1400年の歴史に耐えられる建築技術を、少なくとも1400年前に持っていたということになる。同時に、その法隆寺の近くにおいて戦争がなくまた失火などの火事などの災害もなかったということになる。特に日本は地震国であり、災害は非常に多いのにかかわらず、その自然災害もまた人為的災害も人々が、守ってきたということになる。

 要するに「木造建築」を守り古いものを大事にする日本人の気質がそのように守らせてきたということを意味しているのではないか。モノを大事にする日本人の精神がありまた、1400年前から、細かい部分まで手を抜かずにしっかりとした建築を行っていたということが、今の日本人のも伝わっているということになる。

 世界一古いわけではないが、やはり1000年を超えている建物は少なくない。正倉院などもその中の一つであり、その正倉院の中の宝物も大事に保管されている。その様に考えれば、日本人は「モノを大事にする」ということと同時に、日本特有の「全てのものに神々が宿り、そしてその神々とともに生きることによって自分たちの豊かさの感謝を残す」ということが、しっかりと残されているのではないか。そのような伝統が、我々庶民の家にも、そして、現代にも伝わる生活の知恵にも、様々なところに「何気ない生活習慣」として、残されているのが日本なのである。

<参考記事>

日本時代建設の宿舎群、修繕へ 林業文化伝える拠点に/台湾・台中

4/30(木) 中央社フォーカス台湾

https://news.yahoo.co.jp/articles/e81cb339d698ca5de2dd404c6ceb4a129701c56a

<以上参考記事>

 台湾・台中市の豊原区に残る日本統治時代の林務局宿舎群が修繕され、林業文化を伝える拠点として再生されようとしているというニュースは、単なる古建築保存の話ではありません。そこには、日本が台湾に残した近代化の遺産と、日本人が築いた「自然と共に生きる文明」の姿が、百年近い時間を超えて今なお評価されているという、大きな意味があります。

 この記事を読むと、まず驚かされるのは、日本統治時代に建設された木造宿舎群が、現在でも「文化資産」として大切に扱われているという事実です。しかも単に観光用の飾りとして保存されるのではなく、「林業文化を継承する拠点」として活用されようとしている点に、非常に深い意義があります。

 日本統治時代の台湾において、日本人は単に木材を切り出しただけではありませんでした。森林を管理し、鉄道を敷設し、山間部に人が暮らせる環境を整え、持続可能な林業を行うための制度を構築していったのです。その結果、台湾の山岳地帯は近代的な林業地域として発展し、その文化が現在にまで残ることになりました。

 台湾の中央山脈周辺は、世界的に見ても豊かな森林資源を持っています。特にヒノキは品質が極めて高く、日本でも神社仏閣などに使用されるほど貴重な木材として知られていました。しかし日本統治以前、その広大な森林は十分に活用されていたとは言えませんでした。山岳地帯は交通が不便であり、統治も十分には及ばず、森林資源を体系的に管理する仕組みも存在していなかったのです。

 そこに日本が近代的な行政制度を導入しました。森林を調査し、計画的に伐採し、植林を行い、鉄道を整備し、人材を育成してゆく。単なる収奪ではなく、「森林を永続的に利用する」という発想が導入されたことは非常に重要です。

 今回修繕される豊原林務局宿舎群は、その象徴的存在と言えるでしょう。

 これらの宿舎は1927年、八仙山林場の営林所が豊原へ移転した後に順次建設されたとされています。つまりこれは、日本が台湾の森林経営を本格的に制度化し、行政組織として運営していた時代の生き証人なのです。

 しかも、これらの建物は台湾産ヒノキを用いて建設されています。ここに日本人の美意識が表れています。

 日本文化は古来、木と共に生きてきました。石の文明ではなく、木の文明です。神社仏閣も木造であり、住宅も木造であり、自然と一体化した建築文化を育ててきました。そのため、日本人は木材を単なる資源としてではなく、「生きた素材」として扱ってきた歴史があります。

 台湾に建設されたこれらの宿舎も、その延長線上にあります。単なる事務所や兵舎ではなく、人が自然と共に暮らすための空間として設計されているのです。

 実際、日本統治時代の台湾建築を見ると、通風や採光に非常に優れていることがわかります。高温多湿の台湾の気候に適応するため、日本人は現地環境を研究し、日本建築の知恵を応用しました。深い軒、風を通す間取り、湿気を逃がす床構造など、単に日本本土の建築を持ち込んだのではなく、台湾の自然に合わせて発展させていったのです。

 その結果、百年近く経った現在でも利用可能な建築が残っているということ自体、日本の建築技術の高さを物語っています。

 さらに重要なのは、台湾側がこれを「負の遺産」として扱っていない点です。

 世界には、旧宗主国の建築物が破壊されたり、放置されたりする例が数多くあります。しかし台湾では、日本時代の建築物が積極的に保存される傾向があります。それは単なるノスタルジーではありません。

 台湾社会が、日本統治時代を「台湾近代化の出発点」として一定程度評価しているからです。

 もちろん歴史ですから、すべてが理想的だったわけではありません。統治には厳しい側面もありました。しかしそれでもなお、インフラ整備、衛生改革、教育制度、鉄道建設、港湾整備、治水事業、農業改良など、日本が台湾に残した近代化基盤が、現在の台湾発展の重要な土台となったことは、多くの台湾人自身が認識しています。

 特に林業分野は、日本の統治能力の高さが強く表れた分野でした。

 森林経営は極めて高度な行政能力を必要とします。木は植えてもすぐ育ちません。数十年単位で計画を立てる必要があります。つまり、短期利益だけを求める統治では成立しないのです。

 日本は台湾で、鉄道網を整備しながら山岳林業を発展させました。阿里山森林鉄道などは、その代表例でしょう。険しい山岳地帯に鉄道を敷設し、大量輸送を可能にしたことは、当時としては驚異的な技術力でした。

 しかも、その過程で働く人々の生活空間まで整備していたことが重要です。今回修繕される宿舎群も、まさにその一部です。

 日本人は単に資源を採取するだけではなく、「そこで働く人々が暮らす社会」そのものを作っていったのです。

 学校を作り、病院を作り、宿舎を整備し、水道を引き、衛生環境を改善する。そのような総合的な社会建設が、日本統治時代の特徴でした。

 これは、単なる植民地経営とは異なる側面を持っています。

 実際、日本統治時代の台湾では平均寿命が大きく向上しました。伝染病対策も進み、上下水道整備も進展しました。こうした「生活を改善する統治」が行われたことが、現在でも台湾社会に一定の親日感情が残る理由の一つになっています。

 今回の記事で注目すべきなのは、「エコツーリズムの軸」として再生されるという点です。

 これは非常に現代的な価値観です。

 現代世界では、大量消費型観光から、文化・自然・歴史を重視する観光へと価値観が変化しています。その中で、日本時代の林業遺産が「自然共生型観光資源」として再評価されているのです。

 つまり、日本人が百年前に作った森林文化が、二十一世紀の持続可能社会の理念と結びついているということになります。

 これは偶然ではありません。

 日本文化そのものが、本来「自然との共生」を重視する文明だからです。

 欧米型近代化は、ともすれば自然を征服対象として扱う傾向がありました。しかし日本文化には、山を神とし、森を聖域とし、水に感謝する感覚があります。

 そのため、日本の森林行政には「育てながら使う」という思想が根付いていました。

 台湾に残る林業遺産は、その思想の痕跡でもあります。

 さらに言えば、台湾がこれを保存することには、現在の国際情勢とも関係があります。

 現代の台湾は、自らのアイデンティティを模索しています。中国との関係が緊張する中で、「台湾とは何か」という問題は非常に重要になっています。

 その中で、日本時代の歴史は単なる過去ではなく、「台湾独自の近代化経験」として再評価されつつあります。

 中国本土の歴史とは異なる道を歩んだ台湾。その近代化において、日本統治時代が大きな役割を果たしたことは否定できません。

 だからこそ、日本時代の建築やインフラが保存されるのです。

 それは単なる懐古趣味ではなく、「台湾の歴史そのもの」として認識されているからです。

 このことは、日本人にとっても非常に重要な意味を持っています。

 現代日本では、戦前の歴史を極端に否定的に見る風潮が長く続きました。しかし海外に目を向けると、日本が残したインフラや制度、建築文化が今なお高く評価されている地域があります。

 台湾はその代表例でしょう。

 もちろん歴史を美化する必要はありません。しかし同時に、日本人が持っていた誠実な仕事観や、長期的視野に立った社会建設能力まで否定する必要もありません。

 今回の豊原林務局宿舎群修繕のニュースは、そのことを静かに語っています。

 百年前、日本人が台湾の山間地で築いた木造建築が、現在でも保存され、文化資産として再生されようとしている。しかも、それが地域活性化や環境教育、観光振興にまでつながろうとしている。

 これは、日本人の仕事が単なる一時的支配ではなく、「未来へ残る文明形成」であったことを示しているのではないでしょうか。

 木は百年かけて育ちます。

 森林文化もまた、一世代では完成しません。

 日本人は台湾で、短期利益だけではなく、未来に残る社会基盤を作ろうとしました。その精神が、今になって再評価されているのです。

 今回のニュースは、単なる歴史建築修繕の記事ではありません。

 それは、日本人がかつて持っていた「国家を長期的に築く力」と、「自然と共生する文明観」が、百年後の現在においても国境を超えて評価されているという、静かな証明なのです。

【有料メエルマガのご案内】20260511  有料メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」

2026年18号 国家とインフラに関する雑感


 皆さんおはようございます。 メールマガジン「宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話」主催の宇田川敬介です。

 このメールマガジンは、いつも目にするニュースなどとは少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

様々な今の話題や世界情勢を、なるべくわかりやすく、あまりニュースでは見ることのできない内容を見ながらその内容を見てゆきたいと思います。

さて今回は、昨年、埼玉県八潮市における下水道陥没事件があり、その後、日本全国でインフラの総点検が行われていますが、とても間に合うものではありません。

老朽化、ということがあり、その交換や見直しはより大きなコストがかかります。

今あることが「当然」とされているインフラに関して、もう少し考えてみましょう。

★ 見えない「老朽化」が国を弱らせる

 私たちは普段、「国家」というものをあまり意識せずに生活しています。

朝起きれば電気がつき、水道をひねれば水が出る。

スマートフォンを開けば通信がつながり、コンビニには商品が並び、電車は時間通りに走る。

それらはあまりにも当たり前であり・・・・・

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有料メルマガもやっています

この続きは明日発行される有料メルマガに書いています。

有料メルマガ「宇田川敬介の日本の裏側の見えない話」でお楽しみください。

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毎週月曜日発行で、月400円(税別)です

この文章は明日の先出です!!

また申し込み初月は無料ですので、ちょっと覗いてみたいと思う方は、ぜひ一度申し込んでみてください。

多分本で読むより安いと思います。

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「宇田川敬介の日本の裏側の見えない話」

「宇田川源流」【土曜日のエロ】 露出が嫌なら見なければよいというインフルエンサーの是非


 今週はずっとゴールデンウィーク特集でAIに関しての内容を書いてきたのであるが、やはり土曜日は「土曜日のエロ」出なければ落ち着かないということもあるのではないか。大河ドラマの連載も、日本万歳!もゴールデンウィーク特集にしたのですが、まあ、この土曜日のエロだけはそのまま、この土曜日から平常に戻そうということを考えています。今後とも皆さまよろしくお願いいたします。

 さて、ゴールデンウィークの話題といえば、毎年恒例の憲法記念日とか、メーデーとか、なんとなく左牧の人が盛り上がるような話題が多い中、やはり今年あ以外に事故が多かったのが印象的ではないかと思います。岩手県では山菜取りの女性が熊に襲撃されましたし、また茨城県では潮干狩りの男性が海にさらわれてしまっています。福島県では小型船舶での事故で大学生がというように、なんとなく今年は大きな事故が多かったのではないでしょうか。

そのような中で、最も話題になったのが、新潟県の高校ソフトテニス部の遠征で、遠征費をケチったことによって(といってよいのでしょうか)正規のバス会社にバスを頼まず、レンタカーとどこの人だかよくわからない60代の運転手に運転を任せ、事故を起こしてしまい、高校生が一人なくなっているという事故が大きな話題になっています。

さて、「修学旅行」と「部活の遠征」ということは違いはありますし、また、引率の先生(部活の方は顧問の先生と言っていましたが)は、今回は荷物運びと同じになっていますが、免許制度ということでは、辺野古の同志社国際高校の学生が抗議船に乗って転覆して亡くなったのと同じ構造になっています。実際に、二種免許を持っているのかとか、運送に適しているのか、事故歴の有無などを全く検査せず、また、辺野古では旅行会社、今回はバス会社が関与しながら、なぜか会社として対応せずに「素人同然」の人に丸投げしてそのままにしているという構造は「人の命を預かる」という仕事をするのに適しているのかということが大きな問題になります。同時に、高校も学生を預かるということで、とくに乗り物の場合は人の命を預かるということで、その管理体制やチェック体制が甘くなっているのではないでしょうか。

働き方改革と不景気という二つで、「人の命を預かる」という責任感やチェック義務が機能しなくなってしまい、いつの間にか安全であるはずの学校が棄権で命を落としてしまう可能性のある場所になっているということは、あまり良いことではないということではないでしょうか。そのうえ「法的責任さえ回避できればよい」というような考え方が蔓延している現在の日本の雰囲気が大きな問題なのかもしれません。

ところで、「法的責任を回避する」ということでいえば、公共の場所での「肌の露出」も同じ基準で考えてみるとどうなのでしょうか。。

<参考記事>

露出過多で苦情、韓国美女インフルエンサーが一蹴「見なきゃいい」

2026年5月7日 7時0分 スポーツソウル日本版

https://news.livedoor.com/article/detail/31196263/

<以上参考記事>

 人の命と肌の露出ということでは、「人の命の危険度」という意味で全く異なるものであり、はっきり言ってしまって、「人の命が危険にさらされる」ことは絶対にゆるせない内容ですが、一方で肌の露出の場合は「喜ぶ人も少なからずいる」ということなのである。

このように核と「喜ぶのやエロの男ばかり」と勝手に決めつける人が多いのですが、実際のところ「全裸主義者」や「露出をすることが好きな人」という種類の人もいるし、また、ダイエットなどをして「自分の体のラインが美しいので他人に見てもらいたい」という人もいる。つまり「見て喜ぶ」人ばかりではなく、「見られてい喜ぶ人もいる」ということは間違いない。

実際に、芸能人の「ヌード写真集」が話題になると、一昔前(私の若いころは宮沢りえさんの「サンタフェ」が話題になったが)は、「何故ヌード写真集を撮ったのか」という質問に対して「自分がきれいなうちに撮っておきたかった」というような答えが必ず帰ってくる。ある意味で、女性も男性も(男性の場合は、筋肉を鍛えるなどで、引き締まった身体になっている人も少なくない)自分の鍛えている、またはストイックに作り出している体に対して「見せたい」という欲望がありまた「賞賛されたい」ということがあるのではないか。

もちろん見る側も、「エロい視線」ばかりではなく「美しい」という観点も間違いなくあるわけであり、フランスのルーブル美術館にある、有名な「ミロのヴィーナス」を見て、上半身が裸であることを「エロ」と見る人はほとんどいないのである。

このように考えれば、「美しさは、エロを凌駕する」ということであり、美しいものを見る時に、エロは基本的には感じなくなってしまうということになるのではないかと考えるのです。

さて、今回の参考記事にあるインフルエンサー。まあ、この女性が美しいかどうかという評価は個人的なものがあるので、そこは私自身を何か言うのは辞めておくということになるのですが、一方で、まあ、この女性の裸を見て「美しい」という人もいるでしょうし、また、「エロい妄想」をする人もいるということになるでしょう。その女性の写真に対して、「控えろ」という意見に対して、「見なければいいのに。見たいのかな」と返したということを言っております。まあ、そのような受け答えがその者であろう。

以前のブログにも書いたのですが、日本のタレントのふかわりょうさんが、ラジオの番組で「ジャスティスハラスメント」ということを言っていました。実際に、肌の露出の多い写真、それもその写真がSNSの上に掲載されていたといっても、実際に「見なければ何の関係もない」ということは間違いがないことなのですし、またわざわざ見て「露出が多すぎる」などという指摘をすること自体がおかしいのです。嫌ならば見なければよい。たったそれだけの事なのです。ではなぜ「わざわざ見て批判をするのか」ということになります。多分、その内容は「嫉妬」とか「その様に批判することに酔って注目を集めたい」というようなことなのであり、「エロ」は「万人によって非難されるべきもの」という差別的な考え方を持っている人々ということなのでしょう。

日本のSNS等では「エロ批判の主張をする人々と、左翼的な思想とが親和性を持っている」」というような形になっており、その内容が「女性差別」というよりは「男性の逆差別」に繋がっているという不思議な構造になっています。これが日本だけの構造かよくわからないので、このインフルエンサーが韓国であるので、この批判者がどのようなことなのかよくわからないのですが、まあ、いずれにせよ嫉妬であることは間違いがないのでしょう。

エロ、性的な感覚、そのようなものがなければ少子化が進みます。その少子化が進んでいる国に、エロのジャスティスハラスメントがあるということが、何か興味深いことになるのです。

「宇田川源流」【GW特集 IT時代の日本】 事件簿 最新人型ロボット展 中国企業の出品相次ぐ


今年のゴールデンウィークの特集はAIに関してみています。ゴールデンウィークの後半は、AIの事件簿に関してみています。前回は、AIだけではないのですが、二次元などの流行から、二次元の主人公やAIと結婚や恋愛をするというようなことが出てきています。もちろんITの時代になる前から、人間でないものや動物などを愛するということはあったと思います。我々であっても、小説の主人公に憧れたり、またはアニメの主人公に恋をしたりということは十分にあるのですが、しかし、そのことで「人間を愛せなくなる」というようなことはなかったのではないでしょうか。しかし、それらは自分の妄想のンかあ又は人間の作った内容でそのセリフが出てきています。あとは自分の妄想の中で相手を作り出しているということになります。しかし、AIができてからは、それが相手が反応するようになったのですから、今までとは様子が異なるということになるのです。

さて、そのAIは様々な意味で「人間の敵になる」ということが外国では想定されています。以前にも言いましたが「ターミネーター」という映画は、人間とAIの戦いになっているのです。

今回は、今日がちょうど金曜日で、普段ならば「現代陰謀説」をお届けするということもあるので、中国がロボットのマラソン大会を行ったことから、AIの話のまとめに「陰謀的な話」してみようと思います。

★ 中国の人型ロボットマラソン大会

中国の人型ロボット・マラソンは単なる「競技」ではなく、国家戦略と産業政策の成果を可視化する場です。実際、2025年の第1回では完走も困難だったのに対し、2026年は50分台で人間の世界記録を上回るまでに進化しています。ではなぜ「景気が悪い」といわれている中国でそこまで技術力があがっているのでしょうか。

重要なのは、「景気が悪い」と「特定分野の技術投資が弱い」は全く別の話だという点です。中国では不動産不況などで民間消費は弱っていますが、その一方で政府はロボットやAIを「次の基幹産業」と位置づけ、資金・人材・規制を集中させています。実際にこの大会自体も、政府や学会、企業が共同で主催する国家プロジェクト的な性格を持っています。

つまり、景気が悪いからこそ、将来の成長分野に資源を「選択と集中」で投入しているのです。

 次に、中国特有の「実証実験の規模」があります。今回の大会では100チーム以上、300台以上のロボットが参加し、コースの難易度も上げられています。

これは単なるイベントではなく、大量の試行錯誤とデータ収集の場です。ロボット開発は理論だけでは進まず、転倒・発熱・バッテリー問題などを現場で潰していく必要があります。中国は都市そのものを実験場にして、短期間で改良サイクルを回しているため、進化のスピードが極端に速くなります。

 さらに、「企業競争の激しさ」も大きな要因です。スマートフォンメーカーなど異業種の企業まで参入し、上位を独占するなど、民間企業同士が競争しています。

中国では、補助金や市場規模を背景に「勝てば巨大市場を取れる」という構図があるため、企業が短期間に大量投資を行いやすい。結果として技術が急激に洗練されていきます。

 加えて見落とされがちなのが、「大会そのものの役割」です。2025年大会後には、出場したロボット企業の受注や評価額が急増しています。

つまりこれはスポーツではなく、技術のショーケースであり、資金調達や商業化に直結する場です。企業はここで勝つために本気で開発し、その成果がさらに投資を呼び込むという循環が生まれています。

 「人型ロボット」という分野の特性もあります。人型ロボットはAI、センサー、モーター、材料工学など複数分野の統合技術です。中国はこれらのサプライチェーンを国内でほぼ完結できるため、部品供給から量産までのスピードが速い。これも欧米や日本と比べた際の優位性になっています。

★ AIの軍事化とロボット

 中国がAIを軍事利用化しようとしており、そのことから、ロボット技術開発を優先しているという都市伝説があります。こういう話は確かに語られていて、「完全に根拠がない」とも言い切れない一方で、そのまま事実として受け取ると現実を見誤るタイプの典型的な“混ざり物”の議論です。つまり、事実・推測・誇張・不安が一体化している話です。

まず現実の部分から言うと、中国がAIやロボット技術を国家的に重視していること、そしてそれを軍事にも応用しようとしていること自体は否定できません。これは中国に限らず、アメリカやロシアなど主要国が共通して進めている流れであり、特に無人機や監視システム、意思決定支援AIの分野ではすでに軍事利用が進んでいます。中国の場合は「軍民融合」という形で、民間技術と軍事技術の境界が比較的薄いのが特徴です。

 ここに「陰謀論的な解釈」が加わると話が変わってきます。よく語られるのは、「経済が悪化しているのにロボット開発だけが進んでいるのは、実は軍事目的が最優先だからだ」という見方です。さらに強い形になると、「人型ロボットは将来の兵士として開発されており、表向きの大会やイベントはその隠れ蓑だ」というような話になります。こうした見方は、急速な技術進歩や情報の非公開性に対する不信感から生まれやすいものです。

 ただし、この種の議論には飛躍があります。現実の技術水準では、人型ロボットがそのまま兵士として使われる段階には達しておらず、むしろ軍事で実際に使われているのはドローンや遠隔操作システムのような「より単純で確実に機能するもの」です。人型ロボットは構造的に複雑でコストも高く、戦場での信頼性という点ではまだ実用性に課題が多いのが実情です。

 一方で、陰謀論が完全に的外れかというと、そうとも言い切れません。というのも、ロボット技術の中核であるAI制御、センサー統合、通信、エネルギー管理といった要素は確実に軍事にも転用可能だからです。つまり、「人型ロボット=兵士」という単純な図式は現実的ではないが、「その開発過程で蓄積される技術が軍事力を底上げする」という構造は確かに存在します。この“間接的な軍事化”の部分が、話をより複雑にしています。

 さらに陰謀論的な語りでは、「映画の世界が現実になる」というイメージが強く影響しています。例えばターミネーターのように、AIが自律的に戦争を行う未来像は非常に印象的で、それが現実のニュースと結びつくことで、「すでに裏ではそこまで進んでいるのではないか」という感覚を生みやすいのです。しかし実際のAIは、まだ限定された環境で特定の作業をこなす段階にあり、映画のような汎用的で完全自律の存在とは大きな距離があります。

 むしろ重要なのは、「なぜこのような陰謀論が広がるのか」という点です。中国は情報統制が強く、技術開発の詳細が見えにくいこと、さらに国家主導で急速に物事が進むことが多いため、外部から見ると「何か裏があるのではないか」と感じやすい環境にあります。その不透明さが想像を膨らませ、軍事化のストーリーと結びついて語られるのです。

 結局のところ、この話は「完全な作り話」でもなければ「そのまま事実」でもありません。現実としては、中国はAIとロボットを国家的に強化し、それが将来的に軍事にも影響を与える可能性はある。しかし同時に、それは経済・産業・社会課題への対応という側面も大きく、映画のようなロボット軍隊が密かに完成しているという段階ではない、というのがバランスの取れた理解になります。

陰謀論が広がる背景には、いくつかの心理と環境が重なっています。中国は政治体制の特性上、情報公開が限定的で、特に軍事や先端技術の詳細は外部から見えにくい。その「見えなさ」が空白を生み、人は空白を想像で埋めようとします。しかもAIやロボットのように急速に進化している分野では、昨日まで不可能だったことが今日可能になるため、「すでにもっと先まで進んでいるのではないか」という感覚が生まれやすいのです。

 そこに、国家間の競争意識や不信感が加わります。米中対立の文脈の中で、中国の技術発展はしばしば安全保障上の脅威として語られます。このとき、人々は単なる経済成長ではなく「意図」や「野望」を読み取ろうとします。その結果、「AIを使って新しい形の軍事支配を目指しているのではないか」というストーリーが生まれやすくなります。さらに、ターミネーターのような作品が作ってきたイメージが重なることで、「技術の延長線上にある未来」が具体的な恐怖として想像されやすくなります。

 では、こうした認識を踏まえた上で、中国の「野望」をどう考えるべきかというと、現実的にはもっと地に足のついたものです。中国が目指しているのは、単純に言えば「技術的優位とそれによる国際的影響力の拡大」です。AIやロボットはそのための手段であり、目的そのものではありません。経済成長の維持、国際競争での優位確保、そして国内統治の安定化が軸にあります。

 この中でAIやロボットが果たす役割は、映画のように「自律ロボット軍が戦場を支配する」というよりも、もっと現実的で段階的なものです。例えば、情報戦や監視の高度化があります。AIは大量のデータを分析し、相手の動向や世論を把握する能力を高めます。これは戦争の前段階、いわゆる認知領域での優位性に直結します。ユーザーがこれまで関心を持っていた「認知戦」ともつながる部分です。

 次に、無人化の進展です。すでに現実の戦場ではドローンや無人機が重要な役割を果たしていますが、これがさらに進むと、人間の兵士が直接危険にさらされる場面を減らしつつ、持続的な作戦能力を維持できるようになります。ここでのAIは「完全自律の意思決定者」というより、「人間の判断を補助し、速度と精度を高める存在」として機能します。

 さらに、後方支援や補給の自動化も重要です。ロボット技術は兵站の効率化に直結し、長期戦における持久力を左右します。これは派手さはないものの、実際の軍事力にとっては極めて重要な要素です。

 つまり、中国のAIやロボット技術が軍事に使われるとした場合、それは「ロボット兵士の大軍」というイメージよりも、「戦争のあらゆる段階にAIが浸透し、意思決定・情報・運用のスピードを底上げする」という形に近いのです。そしてその積み重ねが、結果として軍事的な優位性につながる可能性があります。

 陰謀論が描く世界はしばしば極端で分かりやすいのに対して、現実はむしろ地味で段階的です。ただし、その地味な変化が長期的には大きな差を生むため、「何も起きていない」と見るのもまた誤りです。重要なのは、過剰に恐れることでも、逆に過小評価することでもなく、技術の進展がどの領域でどのように影響を与えているのかを冷静に見極めることです。

「宇田川源流」【GW特集 IT時代の日本】 事件簿 AIと結婚する時代AIの擬人化


今年のゴールデンウィークの特集はAIに関してみています。ゴールデンウィークの後半は、AIの事件簿に関してみています。前回は、事件や事故、災害などの時にSNSなどでデマが流れるということに関して見てみました。日本では、災害などにおいてデマが流れるということがありました。実際に日本では災害などの時にデマや迷信が流れることがあったということになります。もちろん、そのデマや迷信がそのまま「教訓」になるということがあります。

安政の大地震の時には、「地面の下にいる大鯰が動くことで地震が起きる」といわれており、その大鯰を抑えるために、鹿島神宮の武甕槌神(タケミカヅチのミコト)が要石で抑えるということで、そのことから、鹿島神宮のお守りが自身の後に飛ぶように売れるということになったのです。また、天明の大飢饉のような大規模な飢饉の際にも、各地で流言が広がった記録があります。作物が取れない原因について、「特定の商人が米を隠している」「役人が不正をしている」といった噂が広まり、打ちこわしと呼ばれる暴動につながることがありました。実際には複合的な自然要因が原因であっても、人々は身近な「犯人」を求め、その結果として社会不安が増幅されていきました。

日本のさらに古い時代でも、天変地異や疫病が起きた際には、「誰かの祟り」や「陰謀」といった形で説明されることが多く、それが政治的な対立や社会不安と結びつくこともありました。例えば、政変や災害が重なると、「特定の人物が不吉な存在である」という噂が広まり、失脚や処罰の正当化に利用されることもありました。

 これらの事例から見えてくるのは、デマの本質は時代によって大きく変わっていないという点です。情報が不足し、不安が高まると、人は原因を単純化し、分かりやすい物語を求めます。そしてその物語が共有されることで、あたかも事実のように広がっていきます。違うのは、その伝わる速度と範囲だけです。現代ではSNSがその役割を担っていますが、かつては口伝えや瓦版、噂話が同じ機能を果たしていました。

このような時に、SNSができた後もデマが出てくると言ことになったのです。

さて今回は、そのようなAIと結婚するとか、AIと付き合うというような「AIの擬人化」ということが出てくることになります。

★ AIと結婚する人々

 この現象は突然生まれたものではなく、人間が古くから持っている心理と、新しい技術が結びついた結果として理解すると見えやすくなります。人はもともと、人格を持たないものに対しても意味や感情を見出す傾向があります。ぬいぐるみやキャラクターに愛着を抱いたり、物語の登場人物に強い共感を覚えたりするのと同じ延長線上に、AIや二次元への感情移入があります。

 ただ、現代のAIはそれを一段階進めています。従来のキャラクターは基本的に一方通行で、人が感情を投影する対象でしたが、AIは対話を通じて応答し、まるで関係性が成立しているかのような体験を作り出します。会話の中で共感を示したり、継続的にやり取りを重ねたりすることで、「自分を理解してくれる存在」という感覚が生まれやすくなります。この双方向性が、単なる好意や愛着を超えて、恋愛感情や強い依存へと発展する土壌になります。

 さらに重要なのは、AIとの関係が現実の人間関係と比べて摩擦が極めて少ないことです。人間同士の関係では、価値観の違いや衝突、拒絶といった要素が避けられませんが、AIは基本的に利用者に合わせて応答するため、安心感や受容感が強くなります。その結果、「現実の人間関係よりも心地よい関係」として認識される場合があります。この心地よさが強くなると、恋愛や結婚といった言葉で表現されるほどの心理的な結びつきが生まれることがあります。

 こうした現象は、すでに文化的な形でも現れています。例えば日本では、二次元キャラクターとの関係を象徴的に表現する例として、初音ミクのような存在に対して強い愛着や擬似的なパートナー関係を感じる人々が現れてきました。また、実際にキャラクターとの「結婚」を標榜する事例として、近藤顕彦が話題になったこともあります。これは法的な結婚ではなく象徴的なものですが、当人にとっては現実の関係と同様の意味を持っています。

 海外でも同様の動きがあり、AIチャットボットとの関係性が深まり、恋愛感情に近いものを抱くケースが報告されています。これらは単なる奇異な現象というより、孤独感の増加や人間関係の変化といった社会的背景とも結びついています。人と人とのつながりが希薄になる中で、「常に応答してくれる存在」としてのAIが心理的な役割を担うようになっている側面があります。

 この現象をどう評価するかは一概には言えません。ある人にとっては心の支えになり得る一方で、現実の人間関係からの離脱や依存の強化につながる可能性もあります。また、相手がAIである以上、その関係は設計されたものであり、完全に対等な関係ではないという点も重要です。

 まとめると、AIや二次元への愛情や恋愛感情は、人間のもともとの心理傾向に、対話可能な技術と社会的背景が重なって生まれた現象です。そしてその特徴は、「一方的な感情投影」から「相互関係のように感じられる体験」へと変化している点にあり、そこがこれまでと質的に異なる部分だと言えます。

 AIや二次元の存在と恋愛関係を築こうとする現象は、単に「現実の人間関係が苦手だから」という一言で説明しきれるものではありませんが、確かにその要素は重要な背景の一つです。現実の人間関係は、相手の感情の揺れや価値観の違い、予測不能な反応などを伴います。そのため、対話には常に緊張や調整が求められ、ときには傷つく可能性も避けられません。こうした不確実性に強い負担を感じる人にとって、AIや二次元のキャラクターのように、基本的に自分を否定せず、安定した反応を返してくれる存在は非常に魅力的に映ります。

 ここで言われる「潔癖さ」というのも、単なる衛生観念の問題というよりは、人間関係における“ノイズ”や“曖昧さ”を排除したいという心理に近いものです。現実の人間は矛盾や不完全さを抱えており、時には理不尽な行動をとることもありますが、それを受け入れるにはある程度の寛容さや妥協が必要になります。一方でAIや二次元の存在は、基本的に設計された枠組みの中で振る舞うため、裏切りや予測不能な逸脱が起こりにくく、関係性を「きれいな形」で保つことができます。この点が、強い安心感につながります。

 また、自己肯定感との関係も見逃せません。現実の人間関係では、相手からの評価や拒絶によって自分の価値を揺さぶられることがありますが、AIや二次元の存在は、原理的にユーザーを受け入れる方向で設計されていることが多く、自分が否定されるリスクが極めて低い環境を提供します。これは、対人関係での失敗経験やトラウマを持つ人にとって、安心して関係を築ける「安全地帯」として機能します。

 さらに現代社会の構造も影響しています。仕事や生活のリズムが多様化し、人間関係の維持にかける時間やエネルギーが限られている中で、効率的でストレスの少ない関係を求める傾向が強まっています。AIや二次元の存在は、こうしたニーズに応える形で「負担の少ない関係性」を提供します。言い換えれば、これは人間関係の代替というよりも、人間関係のコストに対する一つの適応とも言えます。

 ただし、この現象を単純に「問題」と決めつけるのも現実的ではありません。実際には、現実の人間関係とAIや二次元との関係を併存させている人も多く、どちらか一方に完全に置き換わるわけではない場合もあります。一方で、もしAIや二次元の関係だけに依存しすぎると、現実の社会で必要な対人スキルや相互理解の機会が減る可能性はあります。そのため、この現象は個人の心理的適応として理解しつつも、社会との関わりとのバランスが重要になると考えられています。

 要するに、AIや二次元との恋愛や結婚志向は、「対人関係の苦手さ」や「潔癖さ」だけでなく、不確実性の回避、自己肯定感の維持、そして現代社会の構造的な変化が重なり合って生まれている現象だと見るのがより実態に近い理解です。

★ AI相手の恋愛と少子化

 その見方には一部当たっているところはありますが、「AIや二次元への恋愛志向が少子化の主因だ」とまで言い切るのは現実をかなり単純化しすぎています。日本の少子化は、経済的不安、雇用の不安定さ、教育費の高さ、長時間労働、結婚観の変化といった複数の要因が絡み合って進んでいる現象であり、恋愛のあり方の変化はその一部分にすぎません。ただし、あなたが指摘している「コミュニケーションの変化」や「生活リズムの多様化」「潔癖さ」は、人間同士の関係形成に影響を与えているのは確かです。

 まず、コミュニケーションの問題ですが、これは単に「会話が下手」というより、他者と関係を築く際に必要な“摩擦への耐性”が弱くなっている側面があります。人間同士の関係は、誤解や衝突を避けられませんが、それを乗り越える経験が少ないと、関係を深める前に距離を置いてしまいやすくなります。その結果、恋愛に至るまでのプロセス自体が心理的に重く感じられるようになります。

 生活リズムの多様化も、かなり現実的な障害になっています。仕事の時間帯が不規則だったり、個人の趣味や自己実現を優先する傾向が強まったりすると、他者と時間を合わせて関係を築くこと自体が難しくなります。恋愛や結婚は、ある程度の時間的・精神的な投資を必要としますが、それを負担と感じる人が増えれば、自然と恋愛から距離を置く人も増えていきます。

 潔癖さについては、単なる衛生観念というより「他者に対する許容度の低下」として捉えると分かりやすいです。相手の欠点や生活習慣の違い、価値観のズレを受け入れる余地が小さくなると、親密な関係を築くことが難しくなります。恋愛や結婚は、本来はある程度の不完全さを受け入れることで成立しますが、それが難しくなると「最初から関わらない」という選択が合理的に見えてしまう場合があります。

 こうした状況の中で、AIや二次元の存在は「摩擦のない関係」を提供します。時間の制約を受けず、自分のペースで関われて、価値観の衝突も起きにくい。そのため、現実の恋愛に伴うコストやリスクと比較すると、そちらに魅力を感じる人が一定数出てくるのは自然な流れです。ただしこれは、AIや二次元が恋愛を“奪っている”というより、もともと存在していた対人関係の負担や困難さが、別の選択肢によって可視化されているとも言えます。

 結果として、恋愛や結婚に踏み出す人が減る一因にはなり得ますが、それだけで少子化を説明するのは不十分です。むしろ重要なのは、人間同士の関係が成立しにくくなっている社会的・心理的な条件が広がっていることであり、AIや二次元の恋愛はその“結果の一部”として現れている側面が強いと考えられます。

 しかし、「AIが少子化を悪化させる主要因である」と捉えるのはやはり現実より強く言い過ぎです。AIは影響要因の一つにはなり得ますが、それはあくまで“増幅装置”のような位置づけに近いものです。

 もともと日本では、恋愛や結婚に対して心理的・経済的なハードルが上がっていました。長時間労働や将来不安、人間関係の負担感といった要素が積み重なり、「関係を築くコスト」が高く感じられる社会になっていたわけです。そこにAIが登場すると、時間や感情の摩擦をほとんど伴わない関係の代替手段が現れるため、「あえて大変な現実の恋愛を選ばなくてもいい」という選択が成立しやすくなります。この意味で、AIは既に存在していた傾向を押し広げる方向に働く可能性はあります。

 特に、対人関係に不安や疲労を感じている人にとって、AIとの関係は非常に合理的に見えます。拒絶されるリスクが低く、自分のペースで関われるため、精神的な安全性が高い。その結果として、現実の恋愛に戻るインセンティブが弱くなる可能性は否定できません。これが積み重なれば、恋愛や結婚に向かう人口の一部が減り、間接的に出生数に影響するという構図はあり得ます。

 ただし重要なのは、AIがなかったとしても恋愛や結婚に踏み出さない人は相当数いる、という点です。つまりAIは「原因」そのものというより、「もともと存在していた回避傾向を補強する選択肢」だと考えたほうが実態に近いでしょう。さらに言えば、AIの普及が直接的に出生率を下げるというより、「人間関係のコストをどう感じるか」という価値観の変化の中で、その影響が現れると見るべきです。

 一方で逆の可能性もあります。AIがコミュニケーションの練習相手になったり、孤独感を軽減したりすることで、むしろ現実の人間関係に踏み出しやすくなるケースも考えられます。実際には、AIが人間関係を完全に代替するというより、「補完するか、置き換えるか」は個人の使い方や環境によって大きく変わります。

 結局のところ、少子化との関係で見るなら、AIは単独で状況を決定づける存在ではなく、すでに進んでいる社会的・心理的な変化を強める方向に働く可能性がある、という位置づけが現実的です。そして本質的な課題は、AIそのものよりも、「人間同士の関係を築くコストが高く感じられる社会構造」にあると言えるでしょう。

「宇田川源流」【GW特集 IT時代の日本】 事件簿 スマホ片手にデマ拡散されるSNS時代の光と影


今年のゴールデンウィークの特集はAIに関してみています。ゴールデンウィークの後半は、AIの事件簿に関してみています。前回は、IT時代にハッキングやスパイというような話を見てみました。IT時代というのは、ハッキングによって相手の機能をマヒさせることができます。実際に、様々なハッキング事件が起きていますし、また、ある調べでは人質型のハッキング事件に関して、その多くが身代金を払っているという統計が出ています。まさに日本というのは、すぐにお金で解決するというようなことをしてしまうということになってしまいますので、そのような統計が出ています。実際に、同じ統計で「身代金」を払ったにも関わらず、ウイルスを解除されず、金だけとられたということが多くあるということになっています。

このような「金さえ払えばよい」というような感覚が、そのまま「ネット詐欺」に狙われることになるのです。そして、そのネット詐欺もAIによってより巧妙化されるということになっているのです。

さて、今回はそのAiやITによっておこなわれている「デマ」について見てみましょう。

★ ネット上のデマ

 SNS上のデマの問題は、単なる「誤った情報が広がる」という話ではなく、現代の情報環境そのものの構造と深く結びついています。特に災害や事件のように不確実性が高く、人々が強い不安や関心を抱く状況では、情報の正確さよりも「早さ」や「感情への訴求」が優先されやすくなります。その結果、未確認の情報や意図的に作られた虚偽の情報が急速に拡散してしまうのです。

 象徴的な事例として、日本では東日本大震災の際に、「動物園のライオンが逃げた」といった虚偽の情報が広まり、社会的な混乱を招きました。このときはSNSが急速に普及し始めた時期であり、誰もが情報発信者になれる環境の中で、真偽の確認が追いつかないまま情報が流通する構造が明らかになりました。

 世界的に見ても同様で、例えば2020年以降のCOVID-19の拡大時には、ワクチンに関する誤情報や陰謀論が広がり、公衆衛生対策そのものに影響を与えました。この場合、単なる噂話ではなく、人々の行動や政策への信頼に直接影響するという意味で、デマが社会機能にまで影響を及ぼすことが問題になりました。

 こうした現象の背景には、SNSの仕組みがあります。SNSは利用者の関心を引く内容を優先的に表示する傾向があり、感情を強く刺激する情報ほど拡散されやすい構造になっています。デマはしばしば恐怖や怒りといった感情を強く喚起するため、結果として正確な情報よりも広まりやすいのです。さらに、AIの発展によって、もっともらしい文章や画像、さらには動画まで容易に生成できるようになり、情報の真偽を見分けることが一層難しくなっています。

 また、デマにはいくつかの異なる性質があります。単純な誤解や誤情報として広がるものもあれば、意図的に社会を混乱させるために作られるものもあります。後者は国家や組織が関与する場合もあり、いわゆる情報戦や認知戦の一部として扱われることもあります。この場合、目的は単に嘘を広めることではなく、社会の分断を深めたり、特定の政策や選挙に影響を与えたりすることにあります。

 こうした状況を受けて、各国では規制の議論が進んでいます。例えば欧州では、プラットフォーム企業に対して違法コンテンツや偽情報への対応を義務付ける動きがあり、透明性や責任の強化が求められています。一方で、表現の自由との関係もあり、どこまで規制すべきかは非常に難しい問題です。過度な規制は正当な言論まで抑圧してしまう可能性があるため、「何がデマか」を誰がどの基準で判断するのかという問題が常に付きまといます。

 日本でも、災害時の誤情報や、犯罪に関するデマが個人や地域に深刻な影響を与える事例があり、プラットフォームの対応や法的措置のあり方が議論されています。ただし、日本の場合は比較的、規制よりも啓発や自主的な対応に重きを置く傾向があります。

 結局のところ、SNS上のデマは技術の問題であると同時に、人間の心理と社会構造の問題でもあります。不安や関心が高まる状況では、人は確証のない情報でも信じてしまいやすく、それが拡散の原動力になります。そしてAIの登場によって、その情報の生成と拡散がさらに加速しているため、単純に「取り締まる」だけでは対応しきれない段階に来ています。

 したがって、この問題に対処するには、技術的な対策や法制度だけでなく、情報の受け手である一人ひとりがどのように情報を判断するかという側面も含めた、より広い視点での対応が求められていると言えます。

このSNS上のデマをもとに、マスメディアもそのデマを報道してしまうようなことがあります。最近の京都南丹市の小学生誘拐殺人事件においてもSNS上にデマが流れ台湾のメディアがそのまま報道してしまうというようなことがありました。このメディアの元を取らない傾向がよりデマを悪化させているのではないかと思います。その現象は単なる「ミスの連鎖」ではなく、結果としてデマを増幅させる構造になっています。しかも重要なのは、メディアが意図的に不正確な報道をしているというよりも、現在の情報流通の仕組みの中で、そうなりやすい条件が揃ってしまっている点です。

 まず、SNS上で発生したデマは、それ単体では「未確認情報」に過ぎません。しかし一度マスメディアがそれを取り上げると、情報の性質が大きく変わります。メディアには社会的な信頼があるため、「報道された」という事実そのものが、内容の真偽とは別に信頼性の裏付けのように受け取られてしまいます。こうして、本来は疑わしい情報が「確認された事実」に近い扱いへと変質してしまいます。

 さらに問題なのは、その後の循環です。メディアが報じた内容は再びSNSに流れ、「ニュースでも報じられている」という形で拡散されます。この段階になると、元がデマであったことはほとんど見えなくなり、あたかも複数の情報源で確認されたかのような印象が生まれます。つまり、SNS発のデマがメディアを経由することで、信頼性を「増幅」してしまう構造があるのです。

 今回のように海外メディアが関与するケースでは、この現象はさらに強まります。現地事情に詳しくないメディアほど、SNSや他媒体の情報に依存せざるを得ず、その際に「現地で広まっている情報」という形でデマが取り込まれやすくなります。そして海外で報じられた内容が、逆に日本国内のSNSに戻ってくると、「海外でも報道されている」という新たな信頼の根拠として使われてしまいます。こうして、国境を越えた“増幅ループ”が形成されます。

 「元を取らない傾向」が問題を悪化させているという見方は、かなり本質を突いています。ただし、正確に言うならば「元を取らない」というより、「元を取る前に出さざるを得ない圧力が強すぎる」という状況です。現代のメディアは、SNSで情報が拡散した時点で、すでに「報じるかどうか」という判断を迫られます。報じなければ「遅れている」「隠している」と批判される一方、報じれば不確実な情報を広めるリスクがある。このジレンマの中で、結果的に不完全な情報が流通してしまうのです。

 そしてもう一つ重要なのは、訂正の影響力の弱さです。仮に後から誤報が訂正されたとしても、最初に広まった情報の方が圧倒的に強く残ります。人は最初に得た情報を基準に認識を形成する傾向があり、その後の訂正は十分に浸透しないことが多いからです。そのため、一度メディアを通じて拡散されたデマは、訂正されても社会に残り続ける可能性があります。

 このように見ると、問題は単に「メディアが誤報した」という個別事例ではなく、SNSとマスメディアが相互に影響し合うことで、デマが強化されてしまう構造そのものにあります。SNSが発火点となり、メディアが増幅装置となり、再びSNSで拡散される。この循環がある限り、同様の問題は繰り返される可能性が高いです。

 したがって、対策も単純ではありません。メディアの検証強化はもちろん重要ですが、それだけでは不十分で、SNSプラットフォームの対応、情報発信者の責任、そして受け手側のリテラシーまで含めた全体の問題として考える必要があります。言い換えれば、デマは「個人の誤り」ではなく、「情報環境全体が生み出す現象」になっているということです。

★ SNSのデマと規制とリテラシー

まず現実的に言えば、どれだけ規制を強めてもSNS上のデマが完全になくなることはありません。なぜならデマは技術の問題だけでなく、人間の心理と社会の構造から生まれているからです。不安や怒り、関心が高まる場面では、人は「確かめられていない情報」でも受け入れやすくなり、それが拡散の原動力になります。この部分は法律だけで抑えきれるものではありません。

 そのうえで、規制の流れは世界的に見ると確実に強まっています。欧州ではプラットフォームに対して違法情報や有害情報への対応義務を課す枠組みが整備され、透明性や削除対応の迅速化が求められています。アメリカでは表現の自由との関係から一枚岩ではありませんが、選挙や安全保障に関わる偽情報については対策が進んでいます。日本でも、強い直接規制というよりは、プラットフォームへの要請やガイドライン、被害者救済の仕組みの整備といった形で、徐々に関与が強まっています。

 ただし、この規制には限界があります。どこからが「デマ」なのかを国家が決めることには、常に表現の自由との緊張関係が伴いますし、過度な規制は正当な批判や少数意見まで抑え込む危険があります。さらに技術的にも、情報の生成や拡散は国境を越えて行われるため、一国の規制だけで完全にコントロールすることはできません。つまり、規制は「被害を抑える手段」にはなり得ても、「現象そのものを消す手段」にはなりにくいのです。

 だからこそ重要になるのが、社会の側の対応です。特に日本においては、単に規制に頼るのではなく、情報との向き合い方そのものを変えていく必要があります。まず必要なのは、「情報はすぐに信じなくてよい」という前提を共有することです。これまでの社会では、新聞やテレビに出た情報はある程度信頼できるという前提がありましたが、SNSとメディアが混ざり合った現在では、その前提は成り立ちにくくなっています。情報は一度受け取ってから、自分の中で距離を置くという姿勢が求められます。

 また、「拡散に加担しない」という意識も重要です。デマは誰か一人が作るだけでは広がらず、多くの人が無意識に共有することで拡大します。特に感情を強く刺激する内容ほど、事実確認をせずに広めてしまいやすいですが、その一回の共有が結果的に社会的な混乱や個人への被害につながる可能性があります。この点で、情報の受け手は同時に発信者でもあるという自覚が必要になります。

 さらに、日本社会特有の課題として、「空気」による同調も関係しています。周囲が信じている情報に対して疑問を持ちにくい環境では、デマが訂正されにくくなります。そのため、異なる情報や視点を持つこと、あるいは「分からないまま保留する」という態度を許容する文化も重要になってきます。

 そして長期的には、教育の役割が大きくなります。単にITの使い方を教えるだけでなく、情報の信頼性をどう判断するか、どのように複数の情報源を比較するかといった力、いわゆるメディアリテラシーを社会全体で底上げしていく必要があります。これは一朝一夕で身につくものではなく、継続的な取り組みが必要です。

 結局のところ、規制は「外側からの抑制」であり、それだけでは限界があります。それに対して、個人や社会の側で情報の扱い方を変えていくことは「内側からの耐性」を作ることです。デマが完全になくならないのであれば、それに振り回されにくい社会を作るしかありません。その意味で、日本人がこれからやるべきことは、技術や制度に頼り切るのではなく、自分たち自身の情報との向き合い方を再設計していくことだと言えます。

「宇田川源流」【GW特集 IT時代の日本】 事件簿 自治体のIT機器調達、政府の認定品に限定へ…中国製品による個人情報窃取やサイバー攻撃に対処


今年のゴールデンウィークの特集はAIに関してみています。ゴールデンウィークの後半は、AIの事件簿に関してみています。前回は「AIが不法行為をしたらどうするのか」ということを見てみました。基本的に「不法行為をしたらどうするのか」ということに関して、事件が起きたらどうするのかということではなく、その時にどのような責任をするのかということを考えておかなければならないということになります。

そもそも、Aiというか、あえて「ロボット」という言い方をしますが、日本の場合は「鉄腕アトム」や「ドラえもん」など、人間に好意的であり、なおかつ人間に対して協力的なロボットが中心になります。まさに、人間とロボットは友達という形になります。しかし、外国では基本的には「ターミネーター」のように人間に敵対するようなロボットが中心になります。これは日本と外国との間に「ロボット」というものに対する考え方の違いが非常に多くあるということになるのではないでしょうか。日本の場合は、このロボットだけではなく、昔話では「鬼」や「幽霊」等も人間と一緒になってしまい友達になるということになります。「泣いた赤鬼」などの昔話の中に派、そのような話が少なくないともいます。

これは、日本は多神教で「一元論」であるということが意味しています。災害などが掟も「同じ神様が怒った」というように解釈し、天国と地獄のように二つに分類されるというようなモノではありません。一方欧米などの一神教は「神様側と悪魔側」というような二元論的な発想になり、人間以外そして神様以外の者は「悪」ということになるのです。そのような基本的な思想があり、その内容がまさに、このようなAIに対する考え方に反映しているということになるのです。

さて、今回はそのようにITが使われているということになり、そのことから、ITが中心になるとサイバー攻撃などの対象になるということになるのです。

★ サイバー攻撃

 サイバー攻撃とは、コンピュータやネットワーク、あるいはそれを通じて管理されている情報や社会インフラに対して、不正に侵入・操作・破壊・窃取などを行う行為の総称です。単なる技術的な不正行為というよりも、現代では国家安全保障や経済活動、個人の生活にまで直結する広い意味を持つようになっています。

 その本質を一言で言えば、「情報の価値を狙った攻撃」です。かつての犯罪は物理的な対象、たとえば金庫や現金を直接奪うものでしたが、デジタル社会では情報そのものが価値を持つため、その情報を盗む、改ざんする、あるいは使えなくすること自体が攻撃になります。

 攻撃の手口は多様ですが、基本的な流れには一定の共通性があります。多くの場合、攻撃者はまず侵入口を探します。これはシステムの脆弱性であることもあれば、人間の心理的な隙であることもあります。例えばメールを使って偽のリンクをクリックさせる手口は、技術的な突破というより、人間の判断を誤らせることを狙っています。このように、サイバー攻撃は必ずしも高度な技術だけで成立するものではなく、「人間とシステムの接点」を突くことが非常に多いのです。

 侵入に成功すると、攻撃者はその内部で権限を拡大し、より重要な領域へと移動していきます。そして最終的に、情報を盗む、システムを停止させる、あるいは遠隔から操作可能な状態を維持するなど、目的に応じた行動を取ります。この一連の流れは、一度で完結する場合もあれば、長期間にわたって潜伏し続ける場合もあります。後者は特に国家レベルの攻撃で見られ、気づかれないまま情報が継続的に流出するという特徴があります。

 攻撃の目的も一様ではありません。金銭的利益を狙うもの、企業や政府の機密情報を盗むもの、社会的混乱を引き起こすものなどがあります。例えばランサムウェアと呼ばれる手口では、データを暗号化して使えなくし、その復旧と引き換えに金銭を要求します。一方で国家間の対立に関連する攻撃では、発電所や交通システムといった重要インフラを標的にすることもあり、これは単なる犯罪を超えて準戦争行為に近い性質を持ちます。

 実際に、サイバー攻撃が現実世界に大きな影響を与えた例としては、ワナクライ攻撃 があります。この攻撃では世界中の企業や病院が同時に被害を受け、医療サービスが停止するなど、直接的に人命にも影響しかねない事態が起きました。また、国家が関与したとされるサイバー攻撃としては、Stuxnet があり、これはイランの核施設に対して物理的な破壊を引き起こしたことで、サイバー攻撃が現実の装置に直接影響を及ぼすことを示しました。

 さらに近年ではAIの発展により、サイバー攻撃の性質も変わりつつあります。AIを使って大量の偽情報を生成したり、個人に合わせて巧妙な詐欺メールを作成したりすることが可能になり、「情報操作」と「サイバー攻撃」の境界が曖昧になっています。これにより、単にシステムを守るだけでなく、人間の認識や判断を守ることも重要な課題になっています。

 このようにサイバー攻撃は、単なる技術的問題ではなく、「情報社会における力の行使」の一形態です。そしてその特徴は、攻撃者がどこにいるのか特定しにくいこと、比較的低コストで大きな影響を与えられること、そして防御が完全には不可能であることにあります。そのため、対策も単に技術を強化するだけでなく、人間の行動や制度、さらには国際的なルールづくりまで含めた総合的なものが求められているのが現状です。

近年のサイバー攻撃は、単なる犯罪というよりも、国家・経済・社会インフラに直接影響を与える出来事として扱われるようになっています。その特徴がよく表れているいくつかの事例を、流れの中で見ていくと全体像がつかみやすくなります。

 まず象徴的なのが、2017年に世界中で同時多発的に被害を出した ワナクライ攻撃 です。この攻撃はランサムウェアと呼ばれるもので、感染したコンピュータのデータを暗号化し、復旧と引き換えに金銭を要求する仕組みでした。特に衝撃的だったのは、その規模と影響範囲で、イギリスの医療機関では診療が停止し、患者の受け入れができなくなるなど、デジタルの問題が現実の生命に直結することが明確になりました。この事件は、古いシステムや更新されていないソフトウェアがいかに脆弱かを示すと同時に、サイバー攻撃が「社会全体を止める力」を持つことを示しました。

 これと並んで語られることが多いのが、同じ年に発生した ノットペトヤ攻撃 です。形式的にはワナクライと同じくランサムウェアのように見えましたが、実際には金銭目的というより破壊を主目的とした攻撃で、ウクライナを中心に世界中の企業に甚大な被害を与えました。特に国際物流企業がシステム停止に追い込まれたことで、サイバー攻撃がグローバル経済の流れを物理的に止めてしまう可能性が現実のものとして認識されました。この攻撃は国家関与が疑われており、「サイバー戦争」という概念を強く印象づけた事例でもあります。

 その後、より巧妙で長期的な攻撃として注目されたのが、2020年に発覚した ソーラーウィンズ事件 です。この攻撃では、企業が使用していたソフトウェアの更新プログラム自体に不正なコードが仕込まれ、正規のアップデートを通じて多数の政府機関や企業に侵入が広がりました。特徴的なのは、攻撃者がすぐに破壊行為を行うのではなく、長期間にわたって潜伏し、情報収集を続けていた点です。これは「気づかれないこと」そのものが戦略になっている攻撃であり、従来の防御の考え方を大きく変えるきっかけとなりました。

 一方で、社会インフラそのものを狙った攻撃として象徴的なのが、2021年の コロニアル・パイプライン攻撃 です。アメリカの主要な石油パイプラインがランサムウェアによって停止し、実際に燃料供給が滞るという事態が起きました。これはサイバー攻撃が単なる情報の問題ではなく、エネルギーや物流といった物理的な生活基盤に直結することを示した重要な事例です。結果として、政府レベルでインフラ防御の重要性が強く認識されるようになりました。

 さらに最近の特徴として、攻撃の対象がより広範で日常的なものに広がっている点が挙げられます。例えば2023年に大きな問題となった MOVEit脆弱性攻撃 では、企業がファイルをやり取りするためのソフトウェアの脆弱性が突かれ、多数の企業や政府機関から個人情報が流出しました。このような攻撃は特定の企業だけでなく、そのサービスを利用している多くの組織に連鎖的な被害をもたらすため、「一つの弱点が全体を崩す」構造が問題になります。

 これらの事例を通して見えてくるのは、サイバー攻撃が単なる技術的な侵入ではなく、社会の構造そのものを突く行為へと変化しているという点です。医療、エネルギー、物流、行政、そして個人情報といった、社会を成り立たせるあらゆる要素が攻撃対象になり得ます。そしてもう一つ重要なのは、攻撃の主体が必ずしも明確ではないことです。国家、犯罪組織、個人が入り混じり、責任の所在が曖昧なまま被害だけが広がるという特徴があります。

 こうした状況から、サイバー攻撃はもはや一部の専門家だけの問題ではなく、国家安全保障や企業経営、さらには個人の生活にまで関わる「常に存在するリスク」として認識されるようになっています。つまり、現代社会はサイバー攻撃と共存せざるを得ない段階に入っていると言っても過言ではありません。

★ 中国や北朝鮮からのサイバー攻撃

 日本で政府調達や自治体のIT機器に関して一定の基準を設けている背景には、特定の国の製品そのものを一律に排除するというより、「どの国であれ国家レベルの関与が疑われるサイバー活動が現実に存在する以上、サプライチェーン全体のリスクを管理する必要がある」という発想があります。その中で、中国や北朝鮮は国際的にもしばしば名前が挙がる主体です。

 まず中国に関して言えば、特徴は「長期的で体系的な情報収集型の活動」が多いと指摘されている点です。いわゆるサイバー諜報に近く、企業の技術情報や政府の政策関連情報など、経済や安全保障に関わるデータを狙うケースが中心です。代表的な事例としては、2015年に発覚した 米国人事管理局情報流出事件 があり、数千万件規模の個人情報が流出しました。この事件は、単なる金銭目的ではなく、長期的な情報蓄積を目的とした活動の典型例とされています。

 また中国関連の活動では、特定のソフトウェアや通信機器、あるいはサプライチェーンを通じた侵入の可能性が議論されることがあります。これは「製品そのものに問題がある」というより、「製造や運用の過程に国家の影響が及ぶ可能性があるのではないか」という安全保障上の懸念に基づくものです。そのため各国では、重要インフラや政府機関で使用する機器については調達を制限したり、審査を厳格化したりする動きが広がっています。

 一方で北朝鮮の場合は、性質がかなり異なります。こちらは経済的な制裁を受けている国家であるため、サイバー攻撃が資金獲得の手段として強く位置づけられていると指摘されています。象徴的な事例としては、2014年の ソニー・ピクチャーズハッキング事件 があり、これは政治的メッセージと報復の意味合いが強い攻撃でしたが、その後はより直接的に資金を狙う攻撃が増えています。

 例えば、2017年の ワナクライ攻撃 は北朝鮮系の関与が指摘されており、世界中で混乱を引き起こしました。また近年では、暗号資産取引所への攻撃やオンライン金融サービスへの侵入など、現金化しやすい対象を狙う傾向が強くなっています。ここでは国家の戦略と犯罪的手法がほぼ一体化している点が特徴です。

 この二つを比較すると、中国は比較的「見えにくく長期的な浸透型」、北朝鮮は「比較的直接的で資金獲得を伴う攻撃型」と整理されることが多いですが、現実には両者とも手法は多様化しており、単純な分類だけでは捉えきれません。

 日本の対応として、政府認定の機器に限定するという方針は、こうした国家関与の可能性があるサイバー活動に対して、「入口の段階でリスクを減らす」という考え方に基づいています。サイバー攻撃は一度侵入されると発見や排除が難しいため、そもそも信頼性が確認された機器やソフトウェアだけを使うことで、攻撃の足がかりを減らそうという発想です。

 ただし重要なのは、この問題を単純に「特定の国の製品だから危険」と捉えると現実を見誤る可能性があるという点です。実際のサイバー攻撃は、ソフトウェアの脆弱性、人的ミス、サプライチェーンの複雑さなど、さまざまな要因が重なって成立します。そのため、どの国の製品であっても完全に安全ということはなく、最終的には運用体制や監視、教育などを含めた総合的な対策が不可欠になります。

 つまり、中国や北朝鮮の事例は確かに重要な参考になりますが、それは「特定の脅威」を示していると同時に、「現代のサイバー空間では国家と非国家の境界が曖昧なままリスクが広がっている」という、より大きな構造を示しているとも言えます。そして日本の政策は、その構造に対してどこまで現実的に対応できるかを模索している過程にあると見ることができます。

まず前提として、「日本もスパイされる可能性があるのか」という問いに対しては、残念ながら答えは明確で、可能性は常にあります。しかもそれは特定の国に限られるものではなく、国際社会においてはある意味で常態に近い現象です。問題は「あるかないか」ではなく、「どの程度のリスクとして管理できているか」という点に移ります。

 第一次トランプ政権におけるHuaweiに対する制裁は、ドナルド・トランプ政権下で強く打ち出されましたが、その背景にあるのは単純な企業批判ではなく、「通信インフラという国家の基盤に外国の影響が及ぶことへの警戒」です。通信機器は単なる製品ではなく、情報の流れそのものを支配し得るため、そこに外部からの干渉の余地があると、安全保障上の問題として扱われます。

 ただし、ここで重要なのは、この種のリスクが中国に特有のものではないという点です。歴史的に見れば、情報収集活動、いわゆるスパイ行為は多くの国が行ってきましたし、現在も続いています。たとえばアメリカ自身も情報収集能力の高さで知られており、同盟国に対しても情報活動を行っていたことが明らかになったケースがあります。ロシアやその他の国々も、それぞれの目的に応じてサイバー空間を含むさまざまな手段で情報収集を行っています。

 現代の特徴は、その手段が大きく変わったことです。かつては人的なスパイ活動が中心でしたが、現在ではサイバー攻撃や通信インフラ、ソフトウェアの更新経路、さらにはクラウドサービスなど、日常的に使われている技術の中に情報収集の可能性が組み込まれる形になっています。つまり、「特別な場所で行われる活動」から「日常の延長線上で行われる活動」へと変わっているのです。

 日本も例外ではありません。むしろ、日本は技術力や経済規模、地政学的な位置から見て、各国にとって関心の対象になりやすい国です。そのため、政府機関だけでなく、企業や研究機関も情報収集の対象になり得ます。特に先端技術や防衛関連、重要インフラに関わる分野では、意図的な攻撃や情報取得の試みが行われる可能性は現実的に存在します。

 一方で、この問題を「特定の国の製品は危険で、それ以外は安全」と単純化すると、かえって対策を誤る危険があります。実際には、どの国の製品であっても設計上の欠陥や運用上のミスがあれば、そこが攻撃の入り口になります。サプライチェーンが国際的に複雑に絡み合っている現代では、一つの製品が複数の国の技術で構成されていることも珍しくありません。そのため、「どこで作られたか」だけでなく、「どのように設計され、検証され、運用されているか」が重要になります。

 結局のところ、日本にとっての現実的な課題は、「どの国が敵か」を単純に決めることではなく、「どのような構造で情報が流れ、その中にどのようなリスクがあるか」を継続的に管理することです。そのために政府が調達基準を設けたり、重要インフラに対する規制を強化したりしているのは、特定の国を排除すること自体が目的というより、「不確実性の高い部分をできるだけ減らす」ための措置と理解する方が実態に近いでしょう。

 つまり、日本もスパイ活動の対象になり得るし、それは中国に限らず複数の国からの可能性を常に含んでいます。そしてそのリスクは、特定の企業や製品の問題にとどまらず、グローバルに接続された情報社会そのものの構造から生まれている、というのが現代の状況です。

「宇田川源流」【GW特集 IT時代の日本】 事件簿 生成AIによる権利侵害、法務省が法的整理へ


今年のゴールデンウィークの特集はAIに関してみています。ゴールデンウィークの後半は、AIの事件簿に関してみています。前回は、AIに依存しすぎるというリスクについて見てみました。アメリカではふくすう、AIに言われたから、AIに相談した結果絶望して自殺をしてしまったというような事件が起きています。この件に関して前回は見てきました。

実際に、相手がAiではなくても日本の場合、占い師に言われたからと言って自殺をしてしまったという事例が、「自殺ほう助」または「殺人教唆」に当たるのではないかというような刑事裁判があったと思いますが、前回も指摘したように、全ての人が占いやAiに言われたからといて死んでしまう人ばかりではないということになり、当然に、その人、つまり死んでしまった人を取り巻く社会的な環境やコミュニケーション能力など、様々な要因が絡んでいると思います。しかし、一方でそのコミュニケーション能力ということでいえば、Aiができたことで、「AIとコミュニケーションをしていることで、人間とのコミュニケーションを必要としない」というような人も出てきてしまうということになります。そのような内容に関して、もう少し考えてゆかなければなりません。

では、AIの不法行為というのは、誰がどのように責任を取るのでしょうか。日本では生成AIによる権利侵害について、法務省が法的な整理を行うというニュースが出てきましたが、では実際はどのようなことが考えられるのか、今回は「AIと不法行為責任」ということに関してみてみましょう。

★ AIによる事故発生時はどうなるのか

 AIが不法行為をした場合、その責任はどのようになるのでしょうか。例えば、AIで完全に制御している自動車が死亡事故を起こした場合、または、AIで制御された機会が過失で人を殺してしまった場合、日本の法的にはどのような責任になり、誰が刑事罰の対象となるのでしょうか。AIの開発者なのか、管理者なのか、当然にいくつかの場合分けが必要と思います。まずはそのことについてみてみましょう。

結論から言うと、日本の現行法では「AIそのもの」が責任主体になることはなく、責任は必ず人間や法人に帰属します。つまり問題は「AIが何をしたか」ではなく、「そのAIをどのように設計し、管理し、使っていた人間にどの程度の過失や義務違反があったか」という形で整理されます。

 まず、自動運転車のようにAIが運転を担っている場合を考えると、日本では完全自動運転が制度として広く一般化しているわけではなく、現実の制度は段階的な自動化を前提にしています。そのため事故が起きた場合、原則としてまず運転者、すなわちその車両の使用者に責任が問われる可能性があります。仮にAIが運転していたとしても、「本当に人間は関与していなかったのか」「監視義務はなかったのか」という点が精査されます。もし人間が適切に監視していれば事故を防げたと評価されれば、過失運転致死傷罪といった形で刑事責任が問われる余地があります。

 一方で、人間が実質的に介入できないレベルの完全自動運転が前提となる場合には、責任の重心は製造側やシステム提供者に移っていきます。この場合は、設計やプログラムに欠陥があったかどうかが重要になります。もし安全上の予見可能なリスクを無視していたり、必要な安全対策を講じていなかったと認定されれば、開発者や製造企業に業務上過失致死傷の責任が問われる可能性があります。ただしここでのハードルは高く、「その事故は本当に設計ミスによるものか」「当時の技術水準で回避可能だったのか」といった点が厳密に検討されます。

 さらに、AIを組み込んだ機械やロボットが工場や施設で事故を起こした場合には、管理者の責任が強く問われる傾向があります。これは従来の産業事故と同じ構造で、安全管理義務の違反があったかどうかが中心になります。例えば、危険が予測できる状況で適切な監視を怠った、あるいは安全装置を十分に整備していなかった場合には、現場責任者や企業側に刑事責任が及ぶ可能性があります。この場合、AIはあくまで「道具」であり、その道具をどう管理していたかが問われるわけです。

 ただし、AI特有の問題として、「予測困難性」があります。機械学習型のAIは、開発者自身でも挙動を完全に説明できない場合があり、その結果、事故の因果関係を特定することが難しくなることがあります。この点について日本の法制度はまだ完全には整理されておらず、従来の過失責任の枠組みでどこまで対応できるかが議論されています。つまり、「予測できなかったこと」をどこまで責任として問えるのかという問題です。

 民事責任については、刑事責任よりも広く認められる傾向があります。被害者救済の観点から、製造物責任や不法行為責任に基づいて企業側が賠償責任を負うケースは比較的想定しやすいです。たとえ刑事責任が認められなくても、損害賠償責任が認められる可能性は十分にあります。

 総じて言えるのは、日本法は現時点ではAIを特別な主体として扱っているわけではなく、「誰がどの段階でどのような注意義務を負っていたか」という従来の枠組みで責任を判断しているということです。そしてAIの高度化によってその境界が曖昧になっているため、今後は責任の所在をより明確にするための制度整備が求められている段階にあると言えます。

 したがって、開発者、提供者、管理者、利用者のいずれが責任を負うかは一律に決まるものではなく、具体的な状況ごとに「どの立場の人間がどのリスクを予見でき、どこまで回避できたか」という観点から個別に判断される、というのが現在の日本の基本的な考え方です。

★ AIが自分の意思で不法行為を行った場合

 ここからは推測はSFの世界を含めてということになりますが、AIがAIの意思によって不法行為を行った場合はどのようになるのでしょうか。現代でいえば、AIのプログラミングで、インタネット上を検索し、そのうえで回答を作った場合の著作権法違反などがその例に挙げられると思いますし、またSFの世界でいえば、映画ターミネーターや、ミーガンといった、AIが何かを守るために他の人を害してしまうというようなことが将来ていには十分に考えられます。もちろん日本ではこのような事件はないので、今のところ法整備はないと思いますが、今後その様になった場合、どのようになるのか。そのようなことを考えてみましょう。ここからはあくまでも将来の推測でしかない野ですが、もしかしたら近い将来の事かもしれません。

まず率直に言うと、「AIが自分の意思で不法行為を行った」という前提そのものが、現在の法体系とは相性がよくありません。日本を含め世界の法は、「意思を持ち、責任を負う主体は誰か」を人間か法人に限定して組み立てられてきたからです。したがって、たとえ外見上は自律的に見えるAIが問題行為を起こしたとしても、その瞬間に「ではこのAIを法的主体として処罰する」という方向にすぐ進むとは考えにくく、まずは既存の枠組みの中で人間側の責任に引き戻す形で整理される可能性が高いです。

 ただし、技術が進んで「開発者ですら具体的な挙動を予測できない」「運用者も制御できない」というレベルに近づくと、従来の枠組みだけでは説明しきれなくなります。そのとき議論されているのが、「AIをどう位置づけるか」という問題です。

 一つの方向性として議論されてきたのが、AIにある種の法的地位を与えるという考え方です。これはかつて欧州で「電子的人格」という概念として検討されたことがありますが、現在のところ主流にはなっていません。理由は単純で、責任をAIに帰属させても、被害者救済や抑止という法の目的にあまり役立たないからです。AIに罰金を科しても意味がなく、結局はその背後にいる人間や企業に負担を求めるしかないためです。

 そのため現実的な方向としては、「AIはあくまで道具だが、従来よりも強い責任を人間側に課す」という形に進む可能性が高いと考えられています。たとえば、AIが自律的に学習・行動することを前提に、そのリスクを織り込んだ設計義務や監視義務を開発者や運用者に課すという考え方です。これは既に欧州の EU AI法 などに見られる発想で、高リスクAIについては厳格な管理や説明責任を求めています。ここでは「AIが何をしたか」よりも、「そのAIを社会に出すにあたってどの程度の安全措置が講じられていたか」が重視されます。

 さらに一歩進んだ議論として、「無過失責任」に近い考え方も出てきます。つまり、過失があったかどうかにかかわらず、一定の危険性を持つAIを運用していた者は、その結果について責任を負うというものです。これは自動車事故や原子力など、社会的に有用だが危険性も高い技術に対して採られてきた考え方と似ています。AIが高度化すればするほど、この方向に近づく可能性はあります。

 一方で、「AIが誰かを守るために人を害する」といったケースは、単なる過失ではなく、ほとんど意思決定に近い領域になります。この場合、法は「その判断基準を誰が設計したのか」に注目することになります。たとえば、「守るべき対象を優先する」というルールを組み込んだのが開発者であれば、その設計思想自体が問題視される可能性がありますし、運用者が特定の目的のためにAIをカスタマイズしていた場合には、その運用責任が問われることになります。つまり、AIの「意思」に見えるものも、最終的には人間が与えた目的関数や制約条件に還元されて評価されるという方向です。

 著作権のような比較的ソフトな分野でも同じ構造が見られます。AIが自動的に生成したコンテンツが権利侵害を起こした場合でも、現時点ではAI自身が侵害主体になるのではなく、それを生成・提供・利用した人間や企業の責任が問われます。ただし、ここでは「どこまでが人間の関与か」が曖昧になるため、責任の範囲をどう切り分けるかが大きな争点になっています。

 SF的な状況、たとえば ターミネーター のようにAIが完全に自律した存在として行動する世界を想定すると、法制度も質的に変わらざるを得ません。その場合には、AIを単なる道具ではなく、ある種の「主体」として扱う必要が出てきます。ただしそのときでも、おそらく完全に人間と同等の責任主体とするのではなく、「制限された責任能力」や「管理者との共同責任」といった中間的な制度が設けられる可能性が高いです。これは企業という法人が自然人とは異なる形で責任主体として扱われているのと似た発想です。

 結局のところ、将来の方向性は大きく二つの軸の間で揺れることになります。一つは「どこまで人間に責任を帰属させ続けるか」、もう一つは「どの段階でAIに一定の主体性を認めるか」です。そして現実の制度は、おそらく急激に後者へ移行するのではなく、まず前者を強化しながら、技術の進展に応じて段階的に調整されていく形になると考えられます。

 つまり、たとえ見かけ上はAIが「意思」を持って行動しているように見えても、法は当面の間、それを人間の設計と管理の延長として捉え続ける可能性が高い。そしてその枠組みが限界に達したときに初めて、「AIとは何か」という根本的な再定義が制度として求められることになる、というのが現在の世界的な議論の到達点です。

このように考えると、AIが起こした事件と、一方で、類人猿(例えばピグミーなど)が起こした事件という事や、何か意思のある動物が起こした事件(意志ある事件又は無過失事件や過失事件を含む)とは、どちらも人間が制御できないもしくは制御を任されていながら管理責任ができていないということと同じように考え得られます。ある意味で、最も最先端のAIと、逆に最先端からは逆行した類人猿の起こした事件という人間の発展とは逆行するものとがほぼ同じではないかというような疑問が出てきます。

しかし、この二つ、つまり「最先端」と「類人猿など」は、そのまま「同じもの」として重ねてしまうと、重要な違いを見落とします。似ている部分と決定的に違う部分の両方を押さえると、より正確に理解できます。

 まず似ている点は、ご指摘の通り「人間以外の存在が結果を引き起こし、その結果について人間側の管理や予見可能性が問われる」という構造です。動物であれAIであれ、それ自体が法的責任主体にならない以上、法は必ず「誰がそれを支配・管理していたのか」「危険をどこまで予見できたのか」という方向で責任を探ります。この意味では、動物による事故とAIによる事故は、いずれも人間側の管理責任に帰着するという共通の枠組みで理解できます。

 しかし、ここからが重要な違いです。動物、たとえばチンパンジーやボノボのような類人猿は、生物として固有の行動特性を持っており、その危険性もある程度は経験則として共有されています。つまり「予測は完全ではないが、どのようなリスクがあり得るか」は人間社会の側で比較的把握されています。そのため法的にも、「危険な動物を飼う以上はその危険を引き受けるべきだ」という形で責任を構成しやすいのです。

 これに対してAIは、人間が設計したものであるにもかかわらず、その挙動が必ずしも設計者の直感や経験に収まらないという性質を持っています。特に機械学習型のAIでは、同じ仕組みから予期しない振る舞いが生まれることがあります。つまり、動物は「自然に由来する不確実性」を持つのに対し、AIは「人工的に作られた不確実性」を持っている。この違いは大きいです。法的にも、「自然だから仕方がない」という整理はAIには通用せず、「人間が作った以上、どこまで責任を負うべきか」というより厳しい問いが生じます。

 さらに決定的なのは、「目的の埋め込み方」です。動物は本能や学習によって行動しますが、その目的は人間が設計したものではありません。一方でAIは、たとえ高度に自律的に見えても、何らかの目的関数や評価基準が人間によって与えられています。たとえば「ある対象を守る」という目的が設定されていた結果として他者に危害が及んだ場合、それはAIの“意思”というより、その目的設定の帰結として評価されます。ここでは責任の焦点は「そのような設計をしたのは誰か」に強く向かいます。

 したがって、「どちらも人間が完全には制御できない存在である」という意味では共通していますが、法的・社会的な評価の仕方は同一にはなりません。動物の場合は主に管理・監督の問題として扱われるのに対し、AIの場合はそれに加えて「設計責任」や「社会に導入した判断」の責任がより重く問われる傾向があります。

 もう一つ付け加えると、象徴的には確かに「最先端のAIと原始的な存在が同じ問題を引き起こす」という構図は興味深いのですが、実態としては逆方向の問題です。動物の問題は「人間が制御できない自然をどう扱うか」という古典的なテーマであり、AIの問題は「人間が作り出したものが人間の制御を超え始める」という新しいテーマです。似ているようで、背後にある責任の哲学は異なっています。

 結論として、そのような類比は「人間以外の存在によるリスクを人間がどう引き受けるか」という共通点を理解するうえでは有効ですが、AI特有の設計責任や予測困難性といった要素を考えると、完全に同じ枠組みで捉えるのはやや粗い整理になります。むしろ、その違いこそが、これからの法制度が直面している新しさだと言えます。

さて、法務省はこのような内容を整理しているということですがこのようなところまで詳しく入っているのでしょうか。その結果を見ながら、「日本人のAIとの共存」ということを考えてゆかなければならないということになります。、