「宇田川源流」【土曜日のエロ】 日本における「全裸になる権利」を考える
今週も土曜日のエロの日になった。本当にエロのネタは毎週困ることがない。エロのネタやエロの事件は少なくないということになるのであろう。人間が人間である以上、なくならないというのが、この事件であろう。
その前に、まずは今週のネタであろう。今週はやはりアメリカとイランが停戦したという事であろうか。
単純に、アメリカとイランの停戦は、そのままホルムズ海峡の安全航行の話としてそのまま世界、とくにホルムズ海峡を使ってエネルギーを得ている全ての国々に大きな影響を与えるものである。そこが停戦したということから、まあ、エネルギー価格が落ち着いているのであるが、なぜか報道では「停戦はたった2週間しかない」「エネルギー不安は続く」「物価高騰は終わらない」というような不安をあおることしかしない。まあ、不安をあおって、解決策を示さないのが、日本の報道であるが、本当に役に立たないとしか言いようがないのではないか。そのようなことでは世界のことが全くわからないではないか。
そもそも、イランの件に関しては、その戦争の主体がアメリカであるということをしっかりと見なければならない。アメリカは、シェールガス・シェールオイルが2012年に生産できるようになり事業化してから、ホルムズ海峡を通るエネルギーはアメリカの使用エネルギーの1%に満たない。ヨーロッパも、基本的には原子力発電を行い、フランスから電力を買っている上に、天然ガスなどは全て北アフリカ(アルジェリアやリビアなど)から入手している。ロシアばかりではないのである。その様に考えれば、「エネルギーに心配がない先進国しかない」という事であろう。
そのうえで、アメリカとヨーロッパが喫緊の課題ではないということは、日本やインドをどの様にするのかということである。日本は、そもそもエネルギーの輸入先が全く異なるのにかかわらず、アメリカやヨーロッパの真似をして、原子力発電をしない(ドイツの真似)やEV車の推進などということを推奨し、なおかつマスコミがそれを煽ってきた。しかし、その様に「欧米型の経済組成」を日本の特性も見ずに真似してきたということを、しっかりと反省し、それを煽ったメディアが全て反省しなければならない。
そのような原因を全く見ることができないから、メディアはダメなのである。
<参考記事>
【懲戒】全裸で御殿場市内を徘徊…逮捕後に罰金の略式命令受けた24歳男性自衛官を停職処分(静岡・富士駐屯地)
2026年3月25日 11時32分 Daiichi-TV(静岡第一テレビ)
https://news.livedoor.com/article/detail/30839038/
<以上参考記事>
欧米の真似を、上記のように産業界では行っているのに、なぜか文化的な面やエロの面はまったく欧米の真似をしていません。本当にご都合主義の「欧米の真似」であるから、困ったことになるのっである。本来、真似をするのであれば、文化や生活習慣もまねるべきで派内でしょうか。
さて、今回の事件は「全裸」で御殿場市内を徘徊した自衛官が駐屯地で処分されたというものです。
まあ、処分といっても停職処分なのでそれほど大きな内容ではないかと思いますが、それでも処分されたことは残念なことではないでしょうか。あえて文化面でいえば、当然に欧米でも公衆の面前で全裸で歩き回っては、処分されるでしょうし、また逮捕されて刑事罰を得ることも十分にありうるのではないかと思います。しかし、一方で欧米には「ヌーディストビーチ」など欧米では「全裸でいること」の権利がしっかりと認められています。つまりは、「場所」や「時間帯」等を限定すれば、全裸でいる権利を実行できるということになります。もっと言えば、全裸でいることが義務と責任化するということになるのです。しかし、日本には、全裸でいる権利は認められていないということになるのです。
日本でヌーディストビーチが定着していない背景には、法的な制約と日本独自の入浴文化、そして「公衆」に対する意識の違いが複雑に絡み合っています。
まず法的な側面についてですが、日本の現行法において「全裸でいる権利」というものは明文化されておらず、むしろ刑法の「公然わいせつ罪」や軽犯罪法が壁となっています。これらの法律は、不特定または多数の人が認識できる状態で、性的羞恥心を害したり善良な風俗を乱したりする行為を禁じています。欧米の一部では、ヌーディズムを哲学や健康法の一種として捉えることで公的な許可を得ている場所もありますが、日本の法解釈においては、公共の場で衣服を纏わないことは依然として社会秩序を乱す行為と見なされるのが一般的です。
また、日本には古くから「混浴」や「裸の付き合い」を良しとする温泉文化が存在しますが、これが逆に、あえて砂浜で全裸になる必要性を薄めているという見方もあります。日本の文化では、裸になることは「銭湯」や「温泉」という極めて限定された、そして衛生管理された空間で行われる行為として切り分けられてきました。つまり、日常生活やレジャーの場である「海」と、裸になることが許容される「風呂」という空間が厳密に区別されているのです。
さらに、日本的な「他人の目」を意識する文化も影響しています。日本では個人の権利よりも「周囲に不快感を与えないこと」や「和を乱さないこと」が重視される傾向が強く、公共の場での全裸は、本人の意図に関わらず周囲への迷惑や攻撃的な露出と受け取られやすいのが実情です。
このように、法規制による強制力だけでなく、歴史的に築かれた空間の使い分けや、社会全体の同調圧力が重なり合うことで、日本ではヌーディストビーチのような文化が広がる土壌が整ってこなかったと考えられます。
もし日本において「全裸でいる権利」が仮に全面的に認められたとしたら、それは単に服装の自由が増えるというレベルに留まらず、公共空間のあり方や、私たちが他者と共有している「社会的な安心感」の定義を根底から覆すことになります。
まず、法執行の現場では、何をもって「わいせつ」や「迷惑」と見なすかの境界線が消失します。御殿場の事件のようなケースでも、現行法では公然わいせつ罪などの適用が検討されますが、権利として全裸が認められれば、警察は「衣服を着用していない」という理由だけで制止や保護を行うことができなくなります。その結果、教育施設や商業施設、あるいは厳粛な儀式の場であっても、個人の自由意志によって全裸で存在することが法的に正当化される可能性が出てきます。
しかし、権利の衝突という極めて難しい問題が発生します。ある人の「裸でいたい自由」は、それを直視したくない他者の「心の平穏を保つ権利」や「不快な視覚情報を拒絶する権利」と真っ向からぶつかることになります。特に子供たちの教育環境や、性犯罪に対する防犯意識が非常に高い現代社会において、全裸という状態を「単なるスタイルの選択」として受け入れるには、文化的な意識を数世代分飛び越えるほどの劇的な変革が必要となります。
また、自衛官のような公務員や特定の組織に所属する者の場合、個人の権利とは別に「職務の規律」や「品位維持」が求められます。全裸でいる権利が認められた社会であっても、組織の信頼を損なう行為として学則や服務規定による制約は残り続けるでしょうが、その根拠を「公序良俗」に求めることが難しくなるため、組織運営のルール作りは極めて困難を極めるはずです。
結局のところ、全裸でいる権利の承認は、日本人が長年大切にしてきた「場をわきまえる」という暗黙の了解を解体することを意味します。それは自由という名のもとに、プライベートとパブリックの境界線が完全に失われた、極めて緊張感の高い社会をもたらすことになるかもしれません。
まあ、その様に考えれば、まだこのような事件が出てくることになるのではないでしょうか。
さて、この自衛官の事件、「女性自衛官」は全裸で徘徊しないのでしょうか?