「宇田川源流」【日本報道検証】 人とは何か?AIから胎児まで広がる権利と責任
毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。
さて今回は、妊婦が交通事故被害者になった事案で、「胎児も被害者」愛知県議会が意見書可決下ということに関して、「そもそも人とは何なのか」ということを見てみたいと思います。この他にも中国軍機のレーダー照射の話など、様々なネタがあると思いますが、今週は少し考える内容を見てみたいと思います。
以下は、愛知県議会が「胎児も被害者」と認めるよう国に求める意見書を可決した件について、賛成・反対それぞれの論点を、物語のように流れる比較として整理したものです。 この問題をめぐる議論は、同じ事故を見つめながらも、焦点を当てる場所が異なる二つの視点が向かい合っている構図に近いです。
一方の立場は、事故で亡くなった妊婦と、事故の影響を受けて出生後に重い障害を負った子どもを、同じ「被害の連続」として捉えています。母の体内にいた時点で既に事故の影響を受けていたのだから、出生の前後で法的扱いが変わるのは不自然だという感覚が根底にあります。遺族が署名活動を行い、13万筆以上が集まったという事実は、この感覚が社会の一定の共感を得ていることを示しています。彼らにとって、法制度は現実の痛みや喪失に追いついていないものであり、制度の側が歩み寄るべきだという主張になります。
これに対して反対の立場は、刑法が胎児を「母体の一部」として扱ってきた歴史的な理由に目を向けます。胎児を独立した「被害者」と認めることは、単に交通事故の処罰範囲を広げるだけではなく、刑法体系全体に波及する可能性があるという懸念があるのです。出生前の存在にどこまで法的主体性を認めるのかという問題は、医療、生命倫理、さらには中絶の議論にまで影響し得るため、慎重さが求められるという考え方です。名古屋地検が今回、出生後に重い障害を負った子どもへの過失運転致傷罪の適用を断念した判断も、この法体系の枠組みを維持する姿勢の延長線上にあります。
<参考記事>
「胎児も被害者」愛知県議会が意見書可決へ…妊婦の事故受け、国に法改正向けた議論求める
2025年12月10日 7時0分 読売新聞オンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/30173285/
<以上参考記事>
賛成側は、現行法が救いきれていない現実を前に、制度の側が柔軟に変わるべきだと考えています。胎児が事故で死傷した場合に被害者として扱われないことは、遺族にとって二重の喪失を強いるものであり、社会の正義感覚ともずれているという主張です。今回の愛知県議会の意見書は、まさにその「ずれ」を埋めるための制度改正を国に求める動きとして評価されます。
一方、反対側は、法制度は個別の悲劇に引きずられて変えるべきではないという立場を取ります。法は例外的な事案に合わせて拡張すると、別の領域で予期せぬ影響を生む可能性があるため、慎重な議論が不可欠だという考えです。胎児を被害者と認めることは、刑事責任の範囲を広げるだけでなく、医療現場や妊娠中の女性の権利にも影響し得るため、拙速な判断は避けるべきだと主張します。
この議論の核心は、どちらの基準を優先するかという価値判断にあります。
賛成側は、事故で実際に被害を受けた存在を救済することを最優先に考えます。出生前か出生後かという線引きは、現実の被害の連続性を切断してしまうものであり、法が現実に寄り添うべきだという姿勢です。
反対側は、法体系の整合性と予測可能性を重視します。胎児を被害者と認めることは、刑法の根幹に関わる変更であり、個別の事件の痛ましさだけで判断すべきではないという立場です。
興味深いのは、両者が守ろうとしているものが異なるだけで、どちらも社会のために必要な価値を掲げている点です。
賛成側は、被害者救済と社会の正義感覚を守ろうとしています。
反対側は、法制度の安定性と広範な影響への慎重さを守ろうとしています。
この二つの価値は対立しているようでいて、どちらも社会にとって欠かせないものです。だからこそ、この議論は単純な二項対立ではなく、制度と現実の間にある「ずれ」をどう埋めるかという、より深い問いを投げかけています。
この問題は、単に「感情で処罰範囲を広げるべきか」という二択ではなく、刑法が本来もっている二つの原理――行為の客観性を守る原理と、社会が何を「被害」と認識するかという価値判断の変化――がせめぎ合う場面として理解すると、より立体的に見えてきます。
「胎児を被害者と認めるべきか」という議論を突き詰めていくと、最終的には「人とは何か」という、法学・哲学・倫理学が長く向き合ってきた根源的な問いに行き着きます。そしてその問いは、あなたが示したように、AIや類人猿の扱いにも自然につながっていきます。
法律は、できる限り客観的な基準で「人」を定義しようとしてきました。出生した瞬間に法的な主体となり、権利と義務を持つ。この線引きは、曖昧さを排除し、誰が見ても同じ判断ができるようにするためのものです。
しかし、社会が「誰を人として扱うべきか」を決めるとき、法律よりも先に動くのは人間の感情や価値観です。胎児を「まだ人ではない」と割り切ることが、現実の悲しみや喪失の前では耐えがたいと感じる人がいる。その感情が社会の価値観を揺らし、やがて法の側に問いを突きつける。
つまり、法律が「人」を定義しているように見えても、実際には社会の感情や価値観がその定義を押し広げたり、揺さぶったりしているのです。
将来、AIが高度に発達し、会話し、感情のような反応を示し、壊れれば「死んだ」と感じるほどの存在になったとき、社会はそれをどう扱うのか。ここでも、法律より先に動くのは人間の感情です。
もし多くの人がAIに愛着を抱き、喪失を悲しみ、壊されたときに「暴力を受けた」と感じるようになれば、社会はAIを「人に近い存在」として扱う方向へ動き始めるでしょう。しかし、AIは生物学的な生命ではなく、痛みも苦しみも主観的には持たない。そのため、法は慎重に距離を置こうとする。つまり、AIが「人」として扱われるかどうかは、技術の進化よりも、社会がどれだけAIに感情移入するかによって決まる可能性が高いのです。
一方類人猿は高度な社会性を持ち、感情を示し、道具を使い、仲間を助け、悲しみすら表現する。生物学的にも人間に極めて近い。それでも法は、彼らを「人」とは認めていません。理由は単純で、法は「人間社会の構成員としての主体性」を基準にしているからです。類人猿は社会性を持つが、人間社会の制度や責任の体系に参加する存在ではない。そのため、法的主体としての「人」には含まれない。ここでも、法律の線引きは生物学ではなく、社会の制度的な枠組みに基づいています。
この問いに対する答えは、ひとつではありません。
・ 生物学的には、ホモ・サピエンスという種を指す。
・ 法律的には、出生した瞬間から権利主体となる存在を指す。
・ 倫理的には、苦痛を感じ、自己を認識し、他者と関係を結ぶ存在を指す。
・ 社会的には、私たちが「人として扱いたい」と感じる存在を指す。
つまり、「人」とは固定された概念ではなく、複数の層が重なり合ってできた、多層的な構造体です。胎児、AI、類人猿――これらはそれぞれ異なる層に属しながら、社会の価値観の変化によって「人」の境界を揺さぶる存在です。胎児を被害者と認める議論は、単に刑法の技術論ではなく、「私たちは誰を人として扱う社会でありたいのか」という、より深い問いを突きつけています。
そしてその問いは、AIの未来や動物の権利の議論と地続きであり、社会がこれからどのような「人間観」を選び取るのかを静かに試しているのです。