「宇田川源流」【お盆特別:日本人と戦争】(4) なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか
「宇田川源流」【お盆特別:日本人と戦争】(4) なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか
今年のお盆休みは、戦後80年ということで、日本人と戦争についてゆっくりと考えてみたいと思います。このお盆特別連載は、日曜日も土曜日もなくそのまま継続しようと思っていますので、よろしくお願いいたします。なお、「戦争」という特集をこの時期にしますが、大東亜戦争に関する内容は参考にしながらもその内容を書こうとは思っていないので、あくまでも現代人として戦争をどのように見るかということを考えましょう。
さて、個人的なことですが、今回の連載に関しては「生成型AI」を使ってみたいと思います。私としては初めての試みですが、「生成型AIによる下書きを、私が改定する」というやり方で実験的に使ってみたいと思っております。なお、生成型AIは本格的に使っているわけではないので無料で勝手に入ってきた(と言っては失礼ですが)Copilotを使ってみようと思っております。何か普段との違いがあると思った方は、そのような事情と拝察いただければありがたいです。
さて、4回目は「なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか」として、2025年日本が置かれた世界情勢を見てみましょう。なおここではあえて「大東亜戦争」という表記を使います。これは、一つには昭和4年の上海出兵以降日中戦争(日華事変同じ)や満州事変などを含む一連の戦争と真珠湾攻撃以降の対米戦争は一連の戦争であったということ、そしてもう一つはその一連の戦争に関して1941年12月10日の大本営政府連絡会議で、対米英戦争とそれに関連する戦争を「大東亜戦争」と呼称することが決定されたことから、この呼称を使おうと思います。
★ 昭和初期の政治や経済の動き
1929年の世界恐慌は日本にも深刻な打撃を与え、農業と中小企業が収縮しました。政府は片岡直温内閣の下で緊縮財政をとり、公共投資を削減、輸出保護策として高率関税を導入したものの、デフレと失業は解消されませんでした。そもそも、昭和恐慌は、日本にとっては負の遺産がかなり重なったところでの国際経済的な事案であるということになります。1923年、この昭和恐慌から6年前に関東大震災があり、首都機能が完全に失われその復興に多大な震災手形(現在でいう復興国債)を発行しており、その償還期が来ているときに、アメリカ発の恐慌が始まったということになります。またこのアメリカ発の恐慌も、黒死病といわれる、今でいうコレラが第一次世界大戦で世界中に蔓延したことが一つの要因になるということになります。現在でいえば、東日本大震災と津波の6年後に新型コロナが世界で猛威を振るって世界恐慌になったというような感じで考えていただければよいのではないでしょうか。
これに対して陸軍青年将校らは「官僚主導の無策」を批判し、1931年の満州事変へ暴走を後押しすることになります。今ここに書いたように、実際「無策」であったかどうかは不明ですしそもそも予防できたかどうかという観点でもなかなか難しかったと思います。また軍部が政治を行っていても恐慌を避けられていたとも限りません。その様に考えれば、「官僚主導の無策」というのは、ある意味で軍部の「大義名分」でしかなかったということになります。しかし、あえてここに問題を提起すれば、この時代は、天皇陛下が現人神として存在し、その神の権限をいただいて政治をしているという事が憲法上の建前でありまた、統帥権干犯問題などから、軍は天皇直属であって政治(内閣)に従う必要性はないというような感覚が有ったので、そのような意味で軍と政治がライバル関係的になってしまっていたというような背景が、軍部の暴走を後押しした感じになります。政党政治は5・15事件等を契機に軍部の台頭により次第に影響力を失い、統帥権の独立を盾に軍部が事実上の国政決定権を掌握してゆくことになるのです。
それともう一つここで断っておかなければならないのは、「満州事変」です。「経済政策(恐慌対策)が無策であるから満州事変を後押しした」という論理ですが、まさに戦前のこの時代は「欧米の植民地」時代であり、例えば今のインドネシアやベトナムと貿易をしたくても宗主国であるフランスやオランダなどと交渉しなければならないということになります。世界恐慌によって、欧米各国は全て自分の植民地を囲い込んだ「ブロック経済」になってしまいますが、日本のような後発国は、植民地が少ないので恐慌から抜け出すことがかなり困難になってしまうということになります。当時中国という国は、混乱していたために、欧米各国が入れ食いの状態であったところ日本が満州国を建国して植民地を広げるということを考えたのです。もちろん、「植民地を広げる」というような感じばかりではなく、「日本の派閥争いとは別な理想郷を作る」というような感覚を持った軍人も、また、本当に五族協和・八紘一宇というような共栄圏を考える人も少なくなかったと思います。
★ 経済的な内容
恐慌に対応した日本は、1930年代初頭から産業復興のため公共事業を拡大し、同時に重化学工業の育成に着手しました。1931年以降は満州での権益拡大を狙い、鉄道敷設や鉱山開発を進め、資源確保を国家的課題と位置づけたのです。この資源確保が後になって南部仏印進駐や南方資源地帯進出ということにつながるのです。中国への市場依存が強まる中で、1937年の日中全面戦争勃発は国内資源配分を一層軍事優先に傾け、民需は抑制されることになります。1939年以降、欧州で再び戦争が激化すると、米英からの石油・鉄鋼禁輸制裁が実施され、経済は「生存圏」確保の圧力に直面することになります。
満州事変(1931年)は軍部の独走を許す転機となり、1936年の二・二六事件以降は陸海軍が政党内閣を潰し、「統帥権干犯」論を振りかざして内閣を交代させることになります。当時は「内閣」がそろって天皇から認証するということになったので、大臣が一人辞表を書いて辞めてしまえば、そのまま内閣総辞職となってしまう。陸軍も海軍も内閣の中に陸軍省と海軍省が有ったので大臣を内閣に排出していたが、軍の都合で陸軍大人や海軍大臣などが辞めてしまえば内閣総辞職になってしまうということになるのです。
1937年に広がった日中戦争は、軍部が軍事指導と外政を一体的に担う体制を確立させました。1939年以降は「大東亜共栄圏」の建設構想を掲げ、資源・市場を確保するためアジア侵略を正当化する宣伝が強化されました。アジアはアジア人で独立すべき、つまり欧米の植民地を許さない「植民地解放」ということが日本人の目標になるのです。そのことは昭和恐慌後植民地を広げるというようなことで経済を好転させるとした考え方と同じでありまた、その後各国が植民地を囲い込んでブロック経済になったことで日本が恐慌から立ち乗るのが遅れたという事にも由来していることになるのです。
日独伊三国同盟(1940年9月)や満州事変以来の膨張路線は、英米の警戒と経済制裁を招区ことになります。1941年7月、米国は対日石油輸出を全面禁止し、英蘭も資源先への輸出を封鎖する「ABCD包囲網」を形成します。資源切迫により日本は外部からの交渉余地を失ってゆきます。外交的譲歩は「植民地インフラ確保」「自存自衛」の観点で主張されたましたが、米国は石油転用禁止を譲らず、最後の平和的解決は暗礁に乗り上げることになるのです
このようにして、日本は戦争になったということが言えます。
★ 国際関係
1930年代後半から日本は国家存立の危機に直面していたといえます。国内市場は縮小し、対外原料輸入ルートは英米系が抑え、満州・華北に依存する経済は先細りとなっています。そもそも満州や華北は、石炭の産地であるので鉄鋼などの産業にはつながるのですが、軍は兵器は石油ですから石炭では役に立たないということになるのです。軍部は「生存圏」の拡大こそ国防の要と考え、政党政治の打破を進め、政治・経済を一元的に軍需優先へと再編しました。外相近衛や陸相東條は交渉余地を模索したものの、石油禁輸や金融制裁を前に「戦わなければ資源を確保できない」「停戦すれば国家滅亡」という窮地に追い込まれたのです。
最終的に日本が選んだのは、真珠湾攻撃を含む対米英戦争ということになります。これは外交的に追い詰められた「最後の切り札」であり、自らを「東亜新秩序」の担い手と位置づけて盟主国を打倒し資源ルートを確保する挑戦でもあったのです。戦争回避の道は、国内の軍需産業と軍部の論理、そして連合国の譲歩なき制裁によって完全に断たれ、結果として「戦わざるをえない」選択が日本を大戦へと導いたのです。
★ 日米開戦と日本(明日以降につないで)
さて、このような経緯で戦争をするということになった。日本の場合は、どちらかといえば戦争に巻き込まれたというか、戦わされたというような感じになる。ではなぜ日本は負けたのか。そのことを明日以降見てゆこう。
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