「宇田川源流」 本木雅弘演じる斎藤道三と尾美としのり演じる土岐頼芸の会話から出てくる二人の背景とにじみ出てくる二人の大名の人間性を楽しむ「麒麟がくる」
「宇田川源流」 本木雅弘演じる斎藤道三と尾美としのり演じる土岐頼芸の会話から出てくる二人の背景とにじみ出てくる二人の大名の人間性を楽しむ「麒麟がくる」
NHK大河ドラマの「麒麟がくる」の中で、本木雅弘氏の演じる斎藤道三が話題だ。
NHK大河ドラマの場合、主人公そのものも話題になることがあるが、意外と、そのわき役が話題になることが少なくない。また、意外と脚本の段階で主人公にはイメージがあるのであまり過激なことはさせることができないが、わき役は「主人公との対比」をもって、そのセリフなどをしっかりと書くことができるので、意外とキャラクターが作りやすいということもあるのかもしれない。
実際に、「真田丸」の時には、草刈正雄演じる真田昌幸がかなり話題になり、「真田昌幸ロス」が話題になったし、また昨年の「いだてん」でも、役所広司演じる「加納治五郎」はかなり話題になった。実際に真田昌幸は、真田幸村(信繁)の父親であるし、また、加納治五郎は、いだてんの主人公金栗四三を見出した人である。そのように、「主人公の上の立場の人」というところが非常に大きく描かれ、そこに素晴らしい演技をする人がくると、かなり話題になるというような方程式が出来上がっているような気がする。
今回も、斎藤道三は、主人公明智光秀の主君筋に当たる。正確に言えば自分の父が早く死んでしまい、叔父明智光安が形式的に家を守っている形になっているが、その明智家の主君が斎藤道三となり、実際に、明智光秀に様々な影響を与えた人ということになる。
つまり、ある面で「明智光秀の師匠」に当たる人が斎藤道三であり、後の明智光秀の策謀や人をうまく操る(悪い意味だけではなく)術などの師匠的な存在が、まさに斎藤道三である。
前半は、明智光秀が、「成長する」という状況の中に入ってくるのであり、その成長において影響を与える人物として「印象に残る演技をする」必要があり、その演技がやはり大きく光るのである。
当然にそのようなことから本木雅弘氏の演技が非常に注目を浴びる。
「麒麟がくる」本木雅弘 斎藤道三“怪演”に再びネット戦慄「操り人形に毒は盛りませぬ」先週の毒殺に続き
俳優の長谷川博己(42)が主演を務めるNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(日曜後8・00)の第3話が2日に放送され、美濃の守護代・斎藤道三役の俳優・本木雅弘(54)の“怪演”が2週連続で話題に。インターネット上には「怖い怖い怖い」「サスペンスや」などの声が相次ぎ、再び視聴者を恐怖で震え上がらせた。
大河ドラマ59作目。第29作「太平記」(1991年)を手掛けた池端俊策氏(74)のオリジナル脚本で、智将・明智光秀を大河初の主役に据え、その謎めいた半生にスポットを当てる。物語は1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」だった時代から始まり、それぞれの誕生を丹念に描く。
第2話(1月26日)、道三は尾張の織田信秀(高橋克典)と取引した美濃の若き守護・土岐頼純(矢野聖人)を毒殺。頼純は娘・帰蝶(川口春奈)の夫だったが、容赦なかった。
この日の第3話。道三は、より操りやすい土岐頼芸(尾美としのり)を新しい守護に擁立しようと画策。頼芸が「守護がいようが、いまいが、守護代のそなたがすべてを取り仕切っているではないか。今や土岐家は、そなたの操り人形じゃと皆が申しておる。今さら守護など。まだ、そなたに毒は盛られたくはない」と拒むと、道三は表情一つ変えずに「操り人形に毒は盛りませぬ」。鷹の絵を描く頼芸の筆が止まった。
SNS上は「何、このしびれる会話」「マムシの本音炸裂」「名言出ました」などの反響。
その後、頼芸は、道三の長男・高政(伊藤英明)と廊下で2人きりになり「そなたの父はアテにならぬ。わしの頼りとするのは、そなたじゃ。我が子と思うて頼りにしておるぞ」とささやく。しかし、この様子を道三が目撃していた。
このシーンも「道三が怖い。いつから会話を聞いていたのか」「ヒソヒソ話をすると、振り向けばそこにいる道三が。もはやホラー」「家政婦は見たって感じだった」などと話題を呼んだ。
2/2(日) 20:45配信スポニチアネックス
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200202-00000263-spnannex-ent
配役的に「スーパーサブ」的に明智光安役の西村まさ彦が、斎藤道三との距離感などを演じ、また、守護代として斎藤氏と、本来の守護である土岐頼芸を第三回では尾美としのりが演じる。身分としては土岐頼芸が上、しかし、実力は完全に斎藤道三が上という微妙なところを演じる。
実際に、刑事ドラマで言えば「たたき上げのベテラン刑事」と「階級は高いが操作の仕方がわからない若手の上司」というような感じであるが、時が戦国であれば、その組織などは全くなく下剋上の世の中であるので、何かがあれば簡単に殺されてしまう世の中だ。
逆に言えば、尾美としのり演じる土岐頼芸は、「実力がないのに生きているだけで儲けもの」というような感じなのであるが、やはり当時の「武士の魂」はそのようにならない。実際に、斎藤道三に反発した土岐頼純(矢野聖人)は、前回毒殺されているのである。
やはり守護であれば少なくとも美濃国に号令をかけなければならないし、部下にいちいち遠慮をしながら物事をするなどというのは煩わしいとなるのが、現在の話でも同じではないのか。まさに、その「邪魔者は殺してしまう」というような斎藤道三と、殺されてしまうかもしれない実力のない上司である土岐頼芸をうまく演じている。
尾美としのりしといえば、もちろん盟友であり、様々なところに出てくる。私の引用では「鬼平犯科帳」のうさぎ役が最も彼の演技の中では印象が深い。ちょっとコミカルで調子が良くなるが上司である長谷川平蔵(中村吉右衛門)には全く頭が上がらない、少々情けない役という感じ。
この尾美氏の雰囲気が、実力者を怖がりながらも何とか調子よく立ち回るという土岐頼芸のイメージにぴったりである。すごみのある本木雅弘しと、なんとなくそのすごみを「いなす」漢字などはなかなか面白いし、絶妙な駆け引きになっているのではないか。
頼芸が「守護がいようが、いまいが、守護代のそなたがすべてを取り仕切っているではないか。今や土岐家は、そなたの操り人形じゃと皆が申しておる。今さら守護など。まだ、そなたに毒は盛られたくはない」と拒むと、道三は表情一つ変えずに「操り人形に毒は盛りませぬ」。鷹の絵を描く頼芸の筆が止まった。<上記より抜粋>
まさに、「操り人形に毒は盛りませぬ」の一言の瞬間の、表情一つ変えない演技は、さすがだ。表情を変えないということは「当然のこと」というような、それどころか「操り人形にならなければ、すぐに殺してしまう」というような凄みを感じる。この感覚をうまくテレビ画面の中で出しているのであるから、やはり凄い。そしてその凄みを出す尾美氏の演技もすごいのだ。
実際に、ドラマというのは、このようなやり取りの会話の中にお互いの心やその背景が現れる。当然に歴史学者からすれば、このような会話があったかどうかは全くわからない。しかし、その会話の中に「斎藤道三という人物の背景」がにじみ出てくることに面白みと深みがあるのではないか。そのような表現のできるドラマが見れることは幸せであるし、そこに感じ入る人も少なくないので、ネット上で話題になるのではないか。
また次回が楽しみになった。
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