「宇田川源流」【日本報道検証】 ルールを守らない外国人が日本にいるという現実
「宇田川源流」【日本報道検証】 ルールを守らない外国人が日本にいるという現実
毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます
さて今回は、「ルールを守らない外国人が日本にいるという現実」という題名で、現在の日本における外国人事情を見てきたいと思います。記事とは関係がありませんが、高市内閣においては外国人の入国に関して、ルールを守る外国人に関しては貴重な労働力又は経済的な発展に欠かせない人材として受け入れることを表明していますが、一方でルールを守らない入国、または外国人の犯罪に関しては、厳しく取り締まるということを政策のっ一つの柱にしており、岸田内閣の時のような「外国人は日本の宝」などとしていた李、その政策を引き継いだ石破内閣などとは一線を画しているということが言えます。
そのような中で外国人と日本人の摩擦が増えてきています。今回は二つの記事を取り上げました。
池袋のスーツケース放置については、豊島区が昨年度に区道や公園、ごみ集積所などで約290個を確認しており、民泊・ホテル周辺で目立つこと、外国人観光客が買い替えたスーツケースを放置したとみられることが報じられています。一方、これは「外国人なら誰でも不法投棄する」という話ではなく、あくまで一部の観光客による問題です。豊島区は多言語で処分方法を知らせ、今年度中に罰則付き条例を制定して来年度から施行する方針です。
もう一つは川越のモスクについて、重要なのは「イスラム教だから撤去される」のではないという点です。市街化調整区域に建物を無許可で建築したことが問題であり、市は2024年10月に工事を確認して以降、行政指導を繰り返し、最終的に都市計画法に基づく撤去・使用停止命令を出しています。川越市長も「都市計画違反が理由であり、国籍や宗教とは一切関係ない」と明確にしています。
外国人の増加によって、従来はあまり問題にならなかった日本社会のルール・生活習慣・行政制度との摩擦が目に見えるようになってきたのではないでしょうか。
<参考記事>
池袋で相次ぐスーツケース不法投棄、民泊・ホテル利用の外国人観光客が放置か…「中身わからず怖い」通報も
2026/10/03 11:30 読売新聞社
https://www.yomiuri.co.jp/national/20261003-GYT1T00129/
無許可「モスク」に市が撤去命令 埼玉・川越、来年9月期限
10/1(木) 18:05配信 共同通信
https://news.yahoo.co.jp/articles/19ddc7128d4539e5e5b1ff7a1e422b93e228eb04
<以上参考記事>
スーツケースなら日本の廃棄ルール、モスクなら都市計画法という、日本で生活・活動する以上、国籍に関係なく守るべき共通ルールが問題になっています。川越市も宗教や国籍ではなく、都市計画法違反を理由に撤去命令を出しています。
一方、「人権を守る」という立場からすると、外国人を差別や排除から守ることは重要です。しかし、それは「外国人には日本のルールを守らせてはいけない」という意味ではありません。むしろ法の下の平等とは、外国人だから特別扱いすることではなく、外国人にも日本人にも同じルールを適用することです。
その意味では、「外国人に日本文化を教える」ということをもっと積極的に行ってよいと思います。ただし、「日本人と同じ文化になれ」ということではありません。宗教、食事、服装、言語などは自由であってよい。しかし、公共空間の使い方、ごみの出し方、騒音、建築、交通、契約などについては、日本のルールを守ってもらう。この区別が重要です。
政府もすでに、外国人に日本の法律だけでなく、生活上のマナーや文化、習慣を説明する「対話型オリエンテーション」などを始めています。つまり、今後必要なのは「外国人を排除すること」でも「外国人だから大目に見ること」でもありません。
「日本に来るなら、まず日本のルールを知ってもらう。分からない人には多言語で教える。教えた上で守らなければ、国籍に関係なく公平に処分する」という仕組みです。
さらに、外国人コミュニティ自身にも、日本のルールを母国語で周囲に伝える役割を担ってもらうことが重要でしょう。
結局のところ、目指すべきなのは「日本文化への同化」ではなく、「文化は多様でも、法律と公共ルールは共通」という社会です。
「外国人の人権を守ること」と「日本人の生活を守ること」は、本来対立するものではありません。文化は自由、法律は共通。そしてルールを守ることを国籍によって免除しない。これが、今後の外国人との共生における基本原則になると思います。
さてここは私のかなりうがった見方ですが、日本の左翼主義者や人権主義者の中には、日本の文化や伝統を軽視する勢力があります。実際に共産主義における唯物史観は、伝統や文化などの見えない価値に関して無価値と評価することが言われており、その思想にかぶれた人々が人権派として外国人を保護していることがあるので、物事を複雑化させてしまっている部分があるのではないでしょうか。もちろん、一部に思想史的な根拠がありますが、「左翼・人権派=日本文化を軽視する」と一般化するのは正確ではありません。しかし、日本の外国人に関する対立の中に、このような思想的な対立が包含されていることも事実なのです。
マルクスの史的唯物論では、社会の歴史的変化を生産力や経済構造から説明し、宗教・道徳・政治・文化などを経済的な「土台」と関係する上部構造として捉えます。したがって、伝統や宗教などを、それ自体が超歴史的・絶対的な価値を持つものとしてではなく、社会的・歴史的条件の中で形成されたものとして分析する傾向は確かにあります。
ただし、ここから「マルクス主義者は文化を無価値と考える」と直接結論するのは行き過ぎです。マルクス自身も文化や宗教を単純に無意味としたわけではなく、それらが社会や人間にどのような役割を果たしているかを問題にしていました。
むしろ日本で問題になり得るのは、人権を「個人の権利」という観点だけから捉え、共同体が長い時間をかけて形成してきた慣習・文化・秩序を軽視する思想的傾向です。そこに外国人問題が重なると、「外国人の権利を守ること」が先行し、「日本社会に参加する以上、日本のルールや慣習を理解してもらう」という側面が弱くなる場合があります。
ただ、これは「人権そのもの」の問題ではありません。人権と文化・伝統は本来両立できます。
したがって重要なのは、「外国人を守るか、日本文化を守るか」という対立ではなく、外国人の人権を保障しながら、日本社会の歴史・文化・法律・生活習慣を尊重することも同時に求めるという発想でしょう。
言い換えれば、問題なのは「人権派だから外国人を擁護する」ことではなく、人権を「義務や共同体への責任を伴わない権利」だけとして理解してしまうことなのだと思います。しかし、これ等の「権利」だけを強調し、なおかつ、日本の文化を軽視するような動きがあり(国旗国歌などを軽視する動きなどに代表される)、それらが、「日本の文化を破壊することを一つの権利として保護する動き」があることが、一般の日本人の反感を買い、かえって外国人が不利益を被っている部分もあるのかもしれません。
権利を主張するならば、当然に義務と責任が伴う。
当然のこの考え方ができない人々が問題を大きくしているということではないでしょうか。
0コメント