「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 写楽と歌麿が蔦屋の下に集まる
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 写楽と歌麿が蔦屋の下に集まる
ま週水曜日はNHK大河ドラマ「べらぼう」に関して、感想を書かせてもらっている。本当に素人の感想でしかなく一視聴者のモノなので、あまり参考にもならいのかもしれないが、すでに11月、あと4回しかない大河ドラマである。蔦屋重三郎を演じる横浜流星さんやていを演じる橋本愛さんの髪(もちろん鬘の事ですが)に白いものが少し混じるようになっているのがなかなか感慨深いものである。
さて、今回は「その名は写楽」ということから、東洲斎写楽について少しうんちくをご披露しよう。
東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月に突如として登場し、約10か月の短期間におよそ百数十点(約145点)の役者絵を蔦屋重三郎のもとで刊行して姿を消した謎の絵師である。韓国などでは写楽は韓国人で、一次江戸に行っていた時代に日本で活躍し、その後韓国に戻って絵師になっていたなど、かなりとんでもない説が出てきているのであり、韓国に行った時には驚いたものである。それくらい写楽に関してはあまり詳細なことがわかっていない絵師であるということになる。
写楽の活動は極めて短く、その作品群は時期ごとに様式が変化したことが研究で示されています。初期には黒雲母摺を用いた大首絵で鮮烈なデビューを飾り、やがて全身像や複数人物、相撲絵や武者絵へと展開していた。写楽の描写は役者の個性や素顔を誇張して写し取り、当時は賛否が分かれたものの、後世に大きな影響を与えた絵師である。
蔦屋重三郎は写楽の唯一の版元であり、写楽作品の制作・刊行はすべて蔦屋率いる地本問屋で行われたとされている。蔦屋は歌麿らを擁した出版人として知られ、写楽を大胆に売り出すことで役者絵市場に挑戦した一方、当時の市場や規制、評価の変動により商業的には必ずしも成功しなかったと伝えられている。
写楽の正体については諸説があり、能役者説や複数人の工房制作説などがあるものの決定的な証拠はなく、今日も研究者の関心を集め続けている状態である。写楽の黒雲母摺や誇張表現が当時の受容と評価を左右した点は特に重要であるとされている。
<参考記事>
【大河ドラマ べらぼう】第45回「その名は写楽」回想 「2人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵を見たい」 ていの言葉が日本アート史屈指のミステリー「写楽」を生んだ 大ピンチの舞台エンタメを活性化させた絵師たち
2025.11.23 美術館ナビ
https://artexhibition.jp/topics/news/20251123-AEJ2785856/
<以上参考記事>
今回のドラマは、前回の「平賀源内は生きている」という展開から、その源内の戯作が、今まで関係してきた人々の内容を含めて松平定信(井上裕貴さん)がまとめたものであるということが明らかになる。冒頭の場面で、まだ平賀源内(安田顕さん)が生きているのではないかというようなことを考えながらかなり落ち込んでしまう蔦屋重三郎は、自分の手元から、徐々に人が離れてゆく、その蔦屋の悲しさが、「戻ってくる」ということに関する一筋の光のようなものを感じたのではないか。
実際に、今まで蔦屋が関わってきた人々の多くが離れてしまっている。瀬川(小芝風花さん)誰袖(福原遥さん)などの吉原の人々や、寛政の改革でいなくなった恋川春町(岡田天音さん)など、ネタをくれる人から絵師から、作家まだ様々な人が諸子百家のごとくいたのだが、それが皆抜けてしまった。そして大黒柱であった喜多川歌麿(染谷将太さん)もいなくなってしまったのである。そこに、自分の原点である平賀源内が戻ってくる、生きているということになれば、そこは喜び以上に自分の支えになるのではないか。よくかんがえてみれば、蔦屋重三郎が本の道に入ったのは、吉原を盛り上げたいという一途な思いで平賀源内を頼り、吉原細見の枕書きを書いてもらったところ、そして、その後「耕書堂」という名前をもらったところからであるから、平賀源内に対する思い入れは人一倍大きなものがあったのではないか。
さて、その平賀源内を騙った松平定信に頼まれて、世の中を混乱させるということになる。その時にちょうど倹約令で芝居町が傾いており、江戸としてはエンタメがまた危機を迎えていた。その芝居町の「役者絵」を「平賀源内風に仕上げる」ということで、多くの作家に書かせ、それを「写楽」と名づけるということが今回のポイントであろ王。
しかし、その絵ができない。
「歌麿がいたらなあ」と思うところで、その歌麿も今までの蔦屋との仕事が全く異なるということに迷いが出てきているところであった。自分の仕事は、蔦屋が様々な注文を付け、それに応える形でよいものができてきていたということを改めてよくわかるのである。この歌麿のことは作家にはよくある内容であり、一人でできていたと考えるが、実者サポートメンバーが非常に重要であったというようなことがやっとわかるということになる。そしてそのことを気づかせてくれたのが重三郎の妻ていであったという、なかなかうまくまとめた感じではないか。
そのていと歌麿の会話が、非常に秀逸である。今回のドラマのポイントは、歌麿が蔦屋の元に戻ってきて、写楽と二枚看板ができるという事であろう。そしてその立役者がていであったというストーリーである。その中で、今まで蔦屋の下を離れ散った人々を見て「出家します」とていが言うと、しばらく間をおいて歌麿が「嘘だろ」という。ていは、少し悲しい顔をしながら、「嘘です」と認めた後で「私の本音を申せば、『見たい』。2人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵というのものを見てみたく存じます。私も本屋の端くれ。性というものでございましょうか」というのである。
まさに、この「見たい」という言葉は、純粋で、そして画家や出版社の心を最も大きく動かすものではないか。歌麿は、ていを通して、多くの江戸の人々の言葉を聞いたのではないか。そしてその言葉が、歌麿を蔦屋の元に戻らせたのであろう。何か、自分にできることは何か、そして自分とはいったい何なのか、そして仲間と一緒に何かを成し遂げることの大事さを、そしてその仲間と一緒にいて面白いことをすることを、多くの人々は望んでいるのである。その多くの人の心に気づかせてくれる。それが今回のメッセージではないか。
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