「宇田川源流」【日本報道検証】 日本の教育が危ない!という記事をしっかりと考えるべし
「宇田川源流」【日本報道検証】 日本の教育が危ない!という記事をしっかりと考えるべし
毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。
さて今回は、「日本の教育が危ない!」ということをしっかりと考えてみたと思います。
以前、日本の教育に関して、このブログで連載をしてたことがありますが、基本的に今の日本の日本の教億というのは、完全に世界から取り残されており、なおかつ世界で全く評価されていない。ついでに言えば、その「学歴」優秀者が今の政治も経済も「牽引」(私は牽引ではなく「妨害」としか思えないのであるが)しているのであるから、日本が衰退していても全くおかしくはない。そもそも学歴的秀才、参考記事にある「受験秀才」が優秀であるならば、間違いなく「失われた20年」などという経済的な全く無意味なバブル崩壊後の経済失速を起こすはずがないし、日本の経済はすでに世界を凌駕する内容になっていておかしくはないのである。
参考記事の中では、日本型学歴社会の問題点として次の二つを挙げている。
一つ目は、「経済的な裕福なところが、受験に有利」ということである。しかし、この事はあまり関係がないので今回は無視する。ちなみに、「子育て世代の援助」とは、この部分を政府が補助して拡充するということなのであろうが、そもそも、もう一つの問題点が大きいので、あまり意味がないということになるのであろう。
二つ目は、「問題を探し出す能力を養っていない点」これは、受験勉強で与えられた問題の正解を求める事ばかりを行っており、何が問題なのかということ、問題の所在を見つける訓練が全くできていないということである。
単純に言えば、社会に出て、「現象に不満」がある人は少なくないが、その現象について「何が問題なのか」ということを見分ける能力がなければ、その問題の正解にたどり着くことが出来ない。同時に、「何が問題なのかを見つける事ができない」人は、一つの問題点の解決で満足してしまうが、残念ながら、その問題点の解決が他のところでひずみを生み、そのことで問題がより大きな問題を引き起こすことが少なくないのである。はっきり言って「バカの連鎖」が発生してしまうということになる。
<参考記事>
なぜ「日本の受験秀才」はAI時代に通用しない…教育が全然違う「米国との致命的な差」
11/17(月) ビジネス+IT
https://news.yahoo.co.jp/articles/9cd635e702eb3bde1301369dbf7b92f8f8d93c27
<以上参考記事>
そもそも「受験秀才」ということ自体が大きな問題で、「受験」は「現実の問題に即して行われているのか」ということが大きな問題であろう。何が問題なのか、そしてその問題にどのようなアプローチをするのか、ついでに言えば、その問題の内容に関して、解決方法が他の問題を引き起こさないかなどの再検証が行われているのかなどが重要なのであろう。
そのような意味で、安倍内閣時の文部科学大臣に就任した萩生田光一氏は、大学受験をすべて論文形式に行うということを主張したのであるが、現場の反対で頓挫することになった。実際に、数千人の論文を採点することができるのかと言ことはかなり困難を伴うし時間的な制約も存在する。しかし、一方で現在のマークシート方式が正しいのかと言えば全く間違いということになろう。
このようにして、「受験秀才」が出来てしまうが、では、今、例えば景気が良くならないということに関して、この「受験秀才のエリート」である人々は何の皆生tもできていない。バブル崩壊による就職氷河期の始まりが1994年と言われている。つまり、就職氷河期の「受験エリート」は既に、50代の半ばで部長または取締役クラスになっている。財務相で言えば部長や局長クラスである。その間、ずっと「経済の悪化」にあったわけでありなおかつ、自民党だけではなくその簡に民主党政権などもあったということになったのであるが、残念ながら景気浮揚は全く起きていない。これは、「受験秀才エリート」が「現在の日本の経済政策において何の役にも立たなかった」ということを意味しているのであり、「正解のない、またどこが問題かもわからない複合的な問題を、受験秀才が解決できない」ということを意味している。
さて、AIの時代になり、過去のデータベースをすべて横断検索したうえで、思考をして解答をくれる生成型AIが徐々に発展してきている。その中において「受験秀才」という存在は必要が無くなってしまうということを意味している。そもそも「受験秀才」とは、私が普段言っている定義に合わせて言えば、「今までの解答や解法を全て記憶し、その答えをマークシートの中から選んで塗る」ということの天災でしかない。つまり「優秀者=記憶力の良い人」でしかなくて、頭の良い人(世の中では「地頭の良い人」というらしい)ではない。では逆に、社会の問題で、「正解がある問題」が存在するであろうか。それは「NO」である。なぜならば、「正解が存在する場合は、その正解を行えばよいだけで、そもそも問題にはならない」のである。そのように考えれば、「受験秀才」は「実社会で何の役にも立たないことばかりを大学まで学んで社会に出る」のであり「社会で本来的に優秀な人物は、エリートの中には存在しない(そのような観点でエリートは選ばれていない)」ということなのである。
当然に「受験秀才」の「強み」は「AIにとってかわられるもの」であり、それ以外の人間力がなければ、何の意味もないということになってしまう。そのようなAI時代というか、本来であれば、本来的に必要な教育を行うべきであり、その為には学校教育全体が改革をすべき時代になっているといえる。
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