「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 追い詰められる定信と復活をかける蔦重

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 追い詰められる定信と復活をかける蔦重


 毎週水曜日はNHK大河ドラマ「べらぼう」について、素直な感想を勝手に書かせていただいている。この時期、つまり一年に一話である大河ドラマは、この10月の末や11月は徐々に幕を閉じる「晩年期」のお話になってきてしまうのであるから、様々な結末や人の死、別れなどが出てくる。毎回思うのであるが、大河ドラマにおいて「人の死」は、「最期は一人なのだ」というような感覚になる。なんとなく、人の死というのは書かれなくても、最終回に向けて徐々に人が去ってゆく。もちろん、新たな人も入ってゆくのであるが、縁の深い人や主人公に影響を及ぼした人がいなくなったり、第一線を引退してゆく姿を見るのは、何かさみしく思うものだ。

さて、まずはその前に歴史の内容であるが、今回は「松平定信(井上裕貴さん)の失脚」ということに関して見てみよう。これだけ厳しく寛政の改革を成し遂げたのであるが、しかし、徐々に改革が行き詰まってきていることはわかるのではないか。その史実についてみてみようと思う。

 松平定信は江戸後期に老中(実務的には幕府の実力者)として寛政の改革を主導したが、1793年ごろに権勢を失い老中職を退くに至った。失脚の核心には、改革が既得権層に与えた衝撃と朝廷・大名・幕閣内の政治的対立、そして一連の事件や人物錯綜がある.

 寛政の改革以前、幕府政治は田沼意次らの政策で利潤拡大や商業奨励が進み、それに伴う既得権益と腐敗の問題が指摘されていた。定信はこうした流れへの反動として、倹約・天明・寛政の時代にまたがる一連の「改革」路線を掲げ、享保以来の家臣統制や幕政の倫理回復を目指した. 改革は旗本や大名、町人層に直接作用し、政治経済上の利害を揺さぶったため、抵抗勢力が内部に残存していた.

 定信の政策は財政引き締め・倹約奨励・人事刷新・学問統制(古義学奨励)など多面的であり、各地の大名家・幕臣の収入構造や藩政の慣行を変更するものだった。特に旗本・御家人の扶助と家格調整、藩財政への干渉は既得の家政運営や系譜的な権力配分に影響を与え、反発を招いた. 加えて、定信は朝廷や公家儀礼への配慮も強め、将軍権威と朝廷との関係を巡る感情的反発も無視できなかった.

 定信権勢の後退に影響した具体的な事象として、寛政期の一連の政治事件や「尊号一件」などの院政・公家絡みの問題が挙げられる。とくに大名側の内部抗争や、田沼派に近い勢力と定信派との汚職・政策対立が再燃したこと、また地方での不満が幕府中枢に向けられたことが決定打になったと説明されている. これらが累積して定信の政治的基盤を弱め、1793年に老中の職を辞すに至ったとされる.

 定信の失脚には、家格・家督継承・養子縁組など江戸時代特有の家制度が深く関与している。前任者や側近、あるいは対立する大名家の家督事情が定信の権力維持を脆弱にし、特定の藩や家の利害調整がうまくいかなかったことが結果に響いたと指摘されている. 家格に基づく勢力均衡が崩れると、幕閣内で責任追及や政策撤回を求める政治圧力が強まった.

 定信は老中を退いた後も寛政の改革で残した制度的・思想的遺産が注目され、近年の研究では一方的な失敗論に留まらない再評価が進んでいる。一方で、改革が短期的に多くの既得権を毀損したため、即時的には強い反動を招き、政治的に押し出される形になったという評価が支配的である.

 参考文献と史料の要点は現代の解説・研究に基づくもので、定信失脚の背景には政策面・人脈面・制度面が複合的に絡んでいることが史料から読み取れる.

<参考記事>

「べらぼう」母子の会話に涙腺決壊…立ちまくるフラグに悲鳴

10/26(日) シネマトゥデイ

https://news.yahoo.co.jp/articles/b763c03b6cc249d08194219632d3bdb3bec80d9b

<以上参考記事>

 さて、故人の話で申し訳ないが、先日改めて白河に旅行に行ってきた。なんとなく、見てきたのであるが「南湖公園」「南湖神社」等を見て、また白河の小峰城等も見てきた。もちろん、小峰城公園の中にある歴史博物館には、「べらぼう」のコーナーなどもあり、「松平定信の文化力」というような特集もあった。松平定信は老中を退き、その後藩政に尽くした後「楽翁」と号して、現在も残る南湖公園を作り、庶民も講演の中に自由に入ることのできる公園を作っている。

またさまざまな文化の内容を残しており、文学作品や、絵画等を残したり、意外なものでは甲斐武田家(武田信玄)の「盾無しの鎧」の複製なども残しているのである。ドラマの中では、一橋治済(生田斗真さん)等と対立し長荒「正しい世の中」を造ろうと尽力しているが、実際は、少なくとも書等に残された文字は、ぴったりと書き始めがそろった(まったく罫線などもない紙で、透けている裏側もすべて書き始めの行がそろっている)し、またすべての文字が右からが少し極端とも思えるほどの上がり方をしているところを見れば、多分かなり几帳面で神経質であり、あれだけの改革を行うのには、かなりの覚悟と思い切りがあったのではないかという気がする。几帳面で神経質な人の特徴として、「自分でできることは他の人にもできないはずがない」と考えてしまい、何事もそろっていなかったり、掃除ができていなかったり、歪んでいたりということを許せないし、そのような人が許せない正確になってしまう。今でも、何かゴミが落ちていると、人を注意したり、他人の机の上がそろっていないことを見て神経質に注意するような人もいるのであるが、まさにそのような人物であったことがうかがえる。

そのような人と、「おおらかで、楽しく過ごすこと」という蔦屋重三郎(横浜流星さん)はどうしてもあわなかったのではないか。多分、人間のタイプが全く異なる人であったのではないかという気がする。

その蔦屋重三郎を形作ったのが、つよ(高岡早紀さん)である。母親であり常に陰で蔦屋重三郎を見守り、蔦屋重三郎に何か言われながらも、自分の経験で自分の息子を助ける。最近では、蔦屋と離れてしまっている喜多川歌麿(染谷将太さん)の間を取り持つようなことをしていたのであるが、そのつよの体調が悪くなる。しかし、そのつよの体調が悪くなりながらも、「死の伏線」といえるような、シーンが話題だ。御授記の「参考記事」がまさにその内容になっているのであるが、初めて髪結いのつよが、蔦屋重三郎の髪を結い、そして、出生の秘密などを話し、おたがいがわかり合う。蔦屋重三郎も「おっかさん」と呼ぶというようなところだ。

親子って、最後の最後まで分かり合えない。最も身近な存在でありながら、いや身近な存在であるからこそ、もっとも邪魔でありまたライバルであり、助け合う存在なのではないだろうか。それだけに最も分かり合うことができない存在なのではないか。

今回の大河ドラマでは、田沼意次と意知の親子、一橋治済と徳川家斉(城桧吏さん)などの親子が出てきているが、もっとも生き生きと二人の会話がある親子関係ではないか。初めのうちはつよは、蔦重を捨てた母親というような感覚になるが、そうではなかった、意外にいい人だったんだというような感じになる。

そういえば、この「べらぼう」はどうしても親子の関係が良くない親子ばかりである。歌麿の親子関係もあまりよくないし、家族関係が良くない状態が、何か作品に良い影響を出しているかのような感覚が見えてきてしまう。その感情の起伏が、人の感情に訴えるものがあるということなのかもしれない。

さて、この親子関係がどのようになるのだろうか。

宇田川源流

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