「宇田川源流」【日本報道検証】 「支持率下げてやる」というカメラマンのいる報道は信用できるか
「宇田川源流」【日本報道検証】 「支持率下げてやる」というカメラマンのいる報道は信用できるか
毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます。
さて今回は、先週話題になった、自民党高市新総裁に関して、その取材前に「支持率下げてやる」などと発言した時事通信社のカメラマンに関して、「何がいけないのか」そして「その時事通信社の報道を今後信用できるのか」ということを見てゆきたいと思う。
時事通信のカメラマンが取材中に「支持率下げてやる」と発言し、それが放送やSNSで拡散した結果、報道の公平性や中立性への疑念が高まった。
まず、報道機関への信頼が損なわれてしまう。視聴者はニュースを「事実に基づく情報源」として受け止めていますが、記者やカメラマンの私的な意図が混ざると、「どこまでが純粋な取材結果なのか」が分からなくなる。次に、世論形成がゆがめられてしまう。本来、中立的に伝えられるべき事実や発言に、媒体側の意見や感情が介在すると、視聴者は意識せずにそのバイアスを受け入れてしまい、自分の判断を誤るリスクが高まることになる。
さらに、有権者の政治参加意欲にも悪影響があるということが大きな問題だ。「マスコミがあらかじめ特定の結果を望んでいる」と思い込むと、情報収集に疑念を抱き、選挙や議論への関心が薄れ、民主主義の根幹である有権者の参画が阻害されることになる。加えて、政治家や政党の正当な評価が難しくなる。扇動的な見出しや背景の隠蔽によって政策の良し悪しではなく、メディアの印象操作で支持率が左右されると、本来問われるべき論点がすり替えられてしまうのではないか。
こうした事態を防ぐためには、視聴者自身もメディアリテラシーを高め、情報の出所や編集過程を批判的に検証する姿勢が重要である。また、報道機関には厳格な内部チェックと透明性の確保が求められる。
<参考記事>
【高市総裁会見】マスコミの「支持率下げてやる」大炎上、 特定求める動きも… “発言者は誰なのか?” 元新聞記者に聞いた
10/8(水) LASISA
https://news.yahoo.co.jp/articles/ba41fdda9dde0fcce7e9bf9d3bc384eebf2451d2
<以上参考記事>
現在「オールドメディアの敗北」と呼ばれる状況が生まれている背景には、多層的な要因がある。そのうちの一つが、時事通信のカメラマンが取材中に口にした「支持率下げてやる」という姿勢に象徴される、結果先行・誘導型の取材体質であることは間違いがない。 まずは自己目的化した取材姿勢が大きな問題になる。つまり、新聞社・テレビ局が「望む結果」を先に掲げ、その実現のために切り取りや編集を駆使すると、情報が武器化される。視聴者はやがて「本当に中立な事実なのか」と疑念を抱くようになる。その様になると、視聴者が「大手メディアは自社の都合で世論を操作する」と感じ始め、一度失った信用を回復できない。情報源としての価値が急速に低下することになる。
オールドメディアの敗北は、そのままデジタル時代への適応失敗ということも言われている。オールドメディアは長年のフォーマットに固執し、双方向性やリアルタイム検証を取り込めていない。その結果、SNS上のユーザー投稿や独立系検証サイトに視聴層を奪われた。当然に、ネットメディアはそのような偏向的な報道をしているものもあるが、初めから、個人の意見であるということを承知したうえで見ている場合が多く、そのことから、オールドメディアが「集団で偏向報道をしている」ということになれば、その信用を失い、ネットメディアの多様性のある取材を期待するようになる。取材者自身の“願望バイアス”が内側から漏れ出すと、編集方針の裏側まで視聴者に透けて見える。とくに「支持率を下げる」という露骨なコメントは、メディアの公平性に傷をつける決定打となる。
ではあるべき選挙報道・政治報道の姿とはどのようなものであろうか。
本来報道本来の役割は、起きた事実を誠実に伝えること。その上で必要な背景や因果関係を解説する。どちらがニュースで、どちらが解説かをあいまいにしないということが重要になる。
その中の透明性の担保ということでいえば、政策や候補者発言の出典、世論調査の実施方法や母集団、誤差幅を明示し、読者・視聴者自身が正確な判断材料を持てるようにすることが重要になる。与野党や市井の声をバランスよく拾い、1社・1番組だけに露出が偏らないようにする。単に「取材しやすい相手」の発言だけを扱うことを避ける。そして自らの報道を定期的に検証し、誤報や切り取りがあれば速やかに訂正・謝罪を行う。第三者のファクトチェックと組むことも有効である。
また、候補者の政策や政党公約が、国民の暮らしや地域経済、環境・社会福祉にどう影響するかを具体的に示し、「誰にとって何がメリットか」を掘り下げるということも重要ではないか。
こうした基本に立ち返ることで、視聴者や読者が「メディアが自分の意見を先取りしている」と感じることなく、情報をもとに自ら考え、判断し、投票行動に結びつけられるようになる。民主主義の根幹を支える健全な政治報道の再構築には、オールドメディア自身の覚悟ある改革が不可欠である。
しかし、そのようなあるべき取材の種型、報道の姿とは全く異なる内容になり、そして、多くン人は時事通信の報道に関して「中立公平ではない報道をしている」というような感覚になる。その感覚が強まり疑念となり、その疑念はやがてメディア全体への不信に波及することになる。短い映像や音声だけが切り出されると、編集後の文脈がまったく伝わらず、「真実を隠して印象操作している」という印象を持たれてしまう。こうした印象はSNSの拡散力によって一気に可視化され、不信感が広がる。
一度失った視聴者の信頼は取り戻しが非常に困難になる。視聴者が「もうとっくに信じていない」と感じれば、ニュース番組の視聴やウェブサイトへのアクセスが減り、広告主も中立性に疑問を抱く媒体への出稿を控えるようになってしまう。これにより通信社や放送局は収益面で大きな打撃を受けることになるのである。
さらに、ある社の一連の不祥事が報じられると、同業他社も「自分たちの報道も疑われるのでは」という連鎖的な信用低下に見舞われます。結果として、オールドメディア全体がブランド価値を失い、民主主義社会で不可欠な「公正な情報源」としての地位を根底から脅かされることになるのではないだろうか。
このようにして、この記者はメディア全体の価値を失い、なおかつ民主主義そのものの勝を下げた、いうなれば「民主主義の敵」なのである。そのような人物を取材の場にいさせることの方が大きな問題なのではないか。その出処進退をしっかりと開示すべきではないか。
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