「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 ピンチをチャンスに変えた蔦屋重三郎と内助の功
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 ピンチをチャンスに変えた蔦屋重三郎と内助の功
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について書いている。いよいよ終盤となったドラマで、歴史的には、蔦屋重三郎(横浜流星さん)は松平定信(井上裕貴さん)の寛政の改革に翻弄され、失意のうちになくなってゆくということになっているのであるが、その中で、脚本を書いている森下佳子先生が、どのように「多くの人に希望を与える物語として締めくくるか」ということが興味が持たれている。
実際に、今までの大河ドラマであっても、歴史上は不遇な終わり方をしている人も少なくない。例えば「真田丸」の真田信繁であっても、大坂の陣で敗戦の中で最後には自害して果てている。しかし、その場面を描かずに、最後の場面では兄である真田信之に弟信繁の死が伝えられるシーンで終わっている。また、明智光秀を描いた「麒麟が来る」では、明智光秀なのだから、織田信長を本能寺の変で殺し、裏切り者の汚名を着せられて、山崎の合戦で敗北し、坂本城に戻るときに、小栗栖の森の中で農民に殺されたということになっている。もちろんその詳細はよくわかっていないのだが、それを、大河ドラマの中では、死んだかどうかもわからない行方不明ということにして、丹波国で見かけたということにしている終わり方にさせた。
さて、では蔦屋重三郎はどのようになっているのか。とりあえず史実とされる伝承を見てみよう。
寛政の改革下で蔦屋重三郎(1750-1797)は、江戸の町人文化を牽引した風雲児として一世を風靡しました。幼少期の記録は乏しいものの、20代半ばに地本問屋(大衆向け出版・出版物問屋)として独立し、吉原や浅草の遊里文化を背景とする浮世絵版画や洒落本、黄表紙といった読み物ジャンルを次々と世に送り出しました。役者絵や美人画を美麗に仕立てるセンスは当代随一と評され、喜多川歌麿や東洲斎写楽、葛飾北斎ら有望な絵師と組むことで、蔦屋作品は版元の枠を超えた“ブランド”として大衆の支持を得ました。
一方、寛政の改革(1787‐1793)が打ち出した贅沢禁止令や出版統制は、蔦屋の事業基盤を直撃します。改革開始当初は“文武奨励”を謳いつつも、贅沢絵画や洒落本を“風紀を乱す頽廃文化”とみなした幕府は、蔦屋の看板作家が手掛けた新版画や黄表紙の多くに検閲をかけ、販売停止・回収を命じました。特に歌麿の美人図や写楽の役者絵は、寛政3年(1791)頃から「淫ら」「虚飾」として弾圧対象となり、蔦屋も事務所を家宅捜索され、かなりの罰金を科されました。
逮捕や罰金だけでなく、締めつけは付き合いのある絵師や彫師にも波及し、制作体制は混乱を極めます。人気絵師を抱えながら突然発行が認められなくなるため、次々と企画倒れに追い込まれ、在庫は膨大な赤字を生みました。芥川や洒落本市場が萎縮する中で、蔦屋は新ジャンルの探究に必死で舵を切るものの、幕府の監視は厳しく、売れ筋商品の復活は叶わず、借財だけが重くのしかかりました。
重圧は身心にも及びます。多忙を極めるなかで健康を害し、最晩年には療養のかたわら再起を図ったものの、資金繰りは改善せず、苦心惨憺の末に享年48で病没しました。没後、蔦屋の屋号は惣兵衛(無嗣の弟子)らに引き継がれたものの、黄金期の輝きは失われ、坂本隆一による再建にも幕府の目が光ることで、往時の勢いを取り戻すことは叶いませんでした。
蔦屋重三郎の歩みは、江戸の町人文化を活性化させた功労と、幕政による理不尽な統制が併存したドラマそのものです。寛政の改革によるメディア統制の先例は、情報空間におけるプラットフォーム規制やコンテンツ検閲の歴史的原型としても示唆を与え続けています。
<今夜のべらぼう>第39回「白河の清きに住みかね身上半減」 絶版に連行…蔦重の運命は? 鶴屋は怒りをあらわにし
10/12(日) MANTANWEB
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd4ffe4c48be53d703ef4c71eef8ffc3db5ea04e
<以上参考記事>
今回は蔦屋重三郎が松平定信の寛政の改革に抗っている中で、「教訓本」として出した遊郭風俗本を、取り締まられるということが主題になっています。その寛政の改革は、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と、今回御白洲(裁判)の中で蔦屋はこの狂歌をうたった。この狂歌は、松平定信による「寛政の改革」の厳しさを皮肉ったもので、「白河の(清くきれいすぎる)政治に魚(人々)も住みかねて、もとの濁りの(賄賂政治で自由闊達だった)田沼が恋しい」という意味です。改革によって質素倹約が強いられ窮屈さを感じた江戸庶民が、田沼意次時代の自由で活気のある世を懐かしんで詠んだ歌ということになります。
この狂歌を当時松平定信が知っていたかはは定かではありませんが、このようにドラマの中で演出している、そしてその風潮が徐々に幕閣の中にも広がってゆくということは、なかなか興味深いところではないかと思う。その様に演出して、その狂歌が読まれた江戸の町と、幕閣上層部の「感覚の違い」をドラマ化してゆくということは、最もわかりやすいやり方なのではないだろうか。
当然に松平定信は、蔦屋重三郎に対して怒りを覚える。それが「身上半減」となる。俺迄そのような刑罰はない。全部没収は、田沼意次が鳥山検校に対して行っているが、半減というのは全く行っていないのである。そしてその内容を蔦屋重三郎は太田南畝(桐谷健太さん)に笑われることで、逆に「最大のピンチをチャンスに替えてゆく」ということになるのである。この「行政や社会の風潮というようなピンチを、自分の考え方ひとつでチャンスに変える」というのは、ある意味で、今年のドラマの一つのテーマではないか。詳しく回は忘れてしまったが、以前にもそのことを描いた覚えがある。そして現代の若者の「どうせ何をやっても無駄」というような「何も私邸名にもかかわらずあきらめてしまう現代人」に対する強いメッセージのような気がするのである。
もう一つは、このドラマならではなのは「内助の功」であろう。蔦屋の妻てい(橋本愛さん)は、ある意味で本の虫であり、そして、知識も十分にある。しかし、このていさんは、蔦屋のような底抜けの明るさとポジティブさがないという状態ではなかったか。当時江戸時代の「女性は家庭内に」というような感じがあり、また史実では全く蔦屋重三郎の妻のことなどは、いたかいないかも書かれていない。
そのていが、柴野栗山(嶋田久作さん)に、長谷川平蔵(中村隼人さん)の紹介で会いに行き、蔦屋重三郎の助命嘆願に行く。その時の会話はすべて「論語」から出されているということがまたなかなか面白い。
これは、蔦屋が「ただ無知でなおかつ儒教の考え方もわからずに本をだしていた」「政府に反発していただけ」というような感覚から、当時の幕閣を「しっかりとした儒教の考え方を知った上で、本を出版している」ということを知らしめることになりまた、蔦屋のような黄表紙本の出版社の中に、しっかりとした儒学の心得のあるものがいるということ、それも女性で知識を持つものがいるということを知らしめた場面である。そして、柴野栗山は、松平定信に対して、蔦屋がピンチをチャンスに変えたことを黙認するように伝えるのである。
まさにていの「内助の功」は「様々な意味で幕府も、そして当時の江戸文化も変える力があった」ということになるのではないか。
そのような歴史に書かれていない部分をドラマで知ることができるのが、なかなか興味深いのではないか。
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