「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 誰袖を笑顔にするためにという思いが次の物語の伏線に
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 誰袖を笑顔にするためにという思いが次の物語の伏線に
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」に関して好き勝手な感想を書かせ射ていあ抱いている。一応歴史小説を書いているということから、なんとなく多くの明さんとは異なる作り手側の話が書ければよいと思っているが、なかなかうまくいってないのかもしれない。まあその辺は気にせず書いてみたい。
さて、一応れきししょうせつかなので、史実に関する内容を一つ。今回は古川雄大さん演じ、なおかつ普段は「北尾正演(まさのぶ)」といわれてあまり山東京伝といわれないこの人をちょっと見てみよう。
山東京伝(1761年‐1816年)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した戯作者・浮世絵師であり、町人文化の粋を体現した人物として知られる。本名は岩瀬醒。江戸・深川木場に生まれ、後に京橋銀座へ移り住む。若年期には浮世絵師・北尾重政に師事し、絵師としての腕を磨いた後、黄表紙や洒落本の挿絵を手がけるようになる。18歳で黄表紙『開帳利益札遊合』の挿絵を担当したのを皮切りに、戯作者としても頭角を現し、22歳で発表した『手前勝手御存知商売物』が出世作となった。
京伝の号は「京橋の伝蔵」に由来し、江戸城紅葉山の東に位置することから「山東」と名乗った。彼は蔦屋重三郎との協業により、黄表紙や洒落本の分野で数々のヒット作を生み出す。代表作には『通言総籬』や『仕懸文庫』などがあり、吉原遊郭の風俗や町人の生活を洒脱かつ風刺的に描いた。これらの作品は庶民の人気を博す一方、幕府の風紀取締りの対象となり、寛政の改革下で出版統制が強化されると、京伝は手鎖50日の刑に処される。
この処罰を受けた後も創作意欲は衰えず、読本という新たなジャンルに挑戦。『忠義水滸伝』や『善知安方忠義伝』など、歴史や伝奇を題材にした作品を発表し続けた。また、銀座に煙草入れの店「京屋」を開業し、自らデザインした商品が「京伝好み」として人気を集めるなど、商才も発揮した。
山東京伝は、江戸庶民の笑いや風刺精神を文学に昇華させた先駆者であり、自由な表現の象徴的存在である。彼の作品は、後の戯作作家や落語家にも影響を与え、江戸文化の継承と発展に大きく貢献した。幕府の規制に抗しながらも筆を折らず、粋と風刺を貫いたその姿勢は、今なお高く評価されている。
<参考記事>
「べらぼう」 福原遥「蔦重のおかげで、亡くなった後も意知さんはずっと自分の側にいてくれると思えるようになりました」
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」誰袖役・福原遥インタビュー
2025.08.03 ステラnet 編集部
https://www.steranet.jp/articles/87597
<以上参考記事>
『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』という、江戸の町人・艶二郎は、自惚れと色男願望に取り憑かれ、吉原遊びや偽心中など奇行を重ねて浮名を流そうとするが、ことごとく失敗し盗賊に襲われ丸裸に。滑稽な行動を通じて当時の浮薄な風潮を風刺した黄表紙の代表作。この江戸時代の黄表紙本の傑作がどうして生まれたかということを書いている。
人間「案じ」(思い付き)が過ぎるとこうなるという話を、本作は面白おかしく滑稽に描き、その中で当時の有名人や流行した音曲、吉原の有様などの世相を取り上げている。
さて、この本が実は意中の人田沼意知(宮沢氷魚さん)を失った花魁誰袖(福原遥さん)の笑顔を取り戻すために、多くの戯作者が集まって、知恵を絞って創作されたというストーリーである。その中には、初めのうち男ばかりで作った話しや、江戸に出てきた人を小バカにするような話では、一部の人が面白いと感じないということを、てい(橋本愛さん)や、浅間山の噴火で江戸に焼け出されてきた小田新之助(井之脇海さん)などが意見を出し合い、そして、最後には「今のある内容を全て逆にして笑いに変えてしまう」ということを思いつくという話になっている。
今ある内容を逆にするということは、貧しく、そして出世や家名を上げることを望んで、結局それがかなわずに田沼意知を殺害し、そして、潜伏させられた佐野政言(矢本悠馬さん)を、佐野世直し明神として奉っている雰囲気を、そのまま茶化してしまうというような感じであろう。
その作品を一つ作るのに、今まで蔦屋重三郎(横浜流星さん)に対立していた鶴屋(風間俊介さん)が「青本ならば山東京伝でしょう」という感じで人選を行い、そして、その内容を多くの作家が集まって話をして作ってゆくということになる。
まさに、この「話し」こそが作品の中で最も重要で、多くの人が共感できるということは、その人々がその内容を実体験としてもっていなければならないという事でありまた、その多くの人の経験をその様にまとめ上げて、その中のおかしさや面白味を出してい行くかということが先品のポイントになる。多分、この作品を作った森下佳子先生自身が、作品を作るにあたって、もしかしたらこの「べらぼう」という作品を作るにあたって、このような体験をしていたのではないか。
その様に考えれば、例えば恋人が殺されるということはなくても、恋人を奪われて、恨んでいる女性の友人がいるとか、その人を励まそうとして知恵を絞る友人たちがいるなど、様々な現代にもある情景が浮かび上がってくる。その内容を見てゆけば、様々なところで面白いさ作品が、自分の身近な出来事に感じられ江戸時代が自分の廻りに展開しているように見える。そのような作品を作っているということになるのである。
この「べらぼう」の面白さとはそのようなして生まれているという事であろう。
しかし、さすがにその内容が最後に「次の展開に結びつける」という言うことにつながる。この江戸生艶気樺焼が、松平定信(井上祐貴さん)が読んで、この創作の世界を「風紀が乱れる」として取り締まる機運が立ち上がることになる。つまり、田沼時代から寛政の改革という次の場面へのつなぎにうまく使っている。そして蔦屋重ざっぶろうや山東京伝にとって、不遇の時代につながるという伏線に置き換えているのである。
ある意味で「人を本当に感動させる」本は、「一人を笑顔にする」という純粋な思いから生まれるという事であろう。そして、その純粋な思いは、純粋ではない人々にとって、また政治的に利用できる内容になってしまうということではないか。そのことこそが、何か今の世の中にも通じる皮肉を持っているのではないか。そんなドラマに仕上がっている。
0コメント