「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(8) 昭和の次の100年は
「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(8) 昭和の次の100年は
今年のゴールデンウィークは、昭和100年ということもあって「昭和」を見ています。
本自治う5月6日が、ゴールデンウィークの最終日となっています。そのように考えれば、何となく残念な感じがしますが、まあ、一応昭和に関してもう一度見てみようと思います。
さて、本日は全体のまとめとして「昭和」ということを見てみようと思います。
題して「昭和は遠くなりにけり」です。
★ 昭和という時代
私から見て、昭和という時代は、ある意味で「やっと明治維新が終わった」ということではないかと思います。日本の歴史で「新」という感じが使われている出来事、もちろん固有名詞などは除きますが、「年号と『新』という漢字」が使われている出来事には共通があるということになります。「大化の改新」「建武の新政」「明治維新」この三つの出来事がその内容にあります。この三つの出来事は、いずれも「他の人が政治の権力を簒奪している」状態であり、そのうえで、天皇が自らの手で皇室に権力を戻し、天皇親政を行ったということになるのです。大化の改新の場合、それまで蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿という蘇我氏が専横していたということになります。この大化の改新だけは、天皇自らが行ったのではないのですが、中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我石川麻呂が組んで蘇我蝦夷と蘇我入鹿を誅殺し、その後皇極天皇の申請の形になっていたのです。本来ならば天皇親政のはずですが、この大化の改新だけは中大兄皇子が皇太子として政治を行っています。しかし、中大兄皇子は皇太子の中になり、その後そのまま天智天皇となっていますのでやはり天皇親政と同じです。建武の新政については後醍醐天皇による武力蜂起で鎌倉幕府を、そして、明治維新は薩摩藩や長州藩を中心にした戊辰戦争によって明治天皇が、それぞれ天皇親政を行っています。
しかし、これ等の天皇親政は、「いつ終わるのか」ということが見えていません。「大化の改新」の時は、そのまま摂関政治が始まるまで天皇親政が続くことになります。一方「建武の新政」はそのまま足利尊氏が北朝を作り南北朝時代に突入してしまいます。そして、そのまま室町幕府の時代になってしまうということになるのです。
では明治維新はいつまで続くのでしょうか。
通常の歴史書などでは、明治維新というのは「戊辰戦争が終わるまで」というようなことを言う人もいれば、「大日本国憲法が成立するまで」というようなことが言われることもあります。伊藤博文が内閣総理大臣に就任して、民主政治が始まったというような感覚になっているということではないかと言われているのです。しかし、実際に「天皇中心の政治体制」というのは、実は大日本帝国憲法下でずっと行われることになります。昭和初期にあった、軍縮条約と統帥権干犯問題などは、まさに天皇親政を軍部がうまく使った政治的な内容ではないかという気がします。そのように考えていれば、一部大正デモクラシーなどの事がありますが、しかし、昭和の少なくとも昭和22年の日本国憲法の施行までずっと続いていたのではないかという気がします。このように考えると、天皇陛下が「象徴天皇」というようになったのと同じで、その表現が変わってしまったことによって大きく国の形が変わったように見えます。また、皇室も「開かれた皇室」として民衆の中に入るような形になっていったのではないでしょうか。
昭和とは、そのような意味で「国のトップから、国の形を変えていった時代」であるということが言えるのではないかと思います。
★ 国民が馬鹿になれば国が亡ぶ政策「民主主義」
以前にも申し上げたかもしれません。
坂本龍馬が「船中八策」を提案したということがあります。もちろんその内容そのものが創作であるというような説もありますが、しかしその創作であるという話は別にしておいて、「船中八策」が実在するという前提でお話ししましょう。その船中八策を大阪で酒を飲んでいた(一説には女郎遊びをしていたという話もあります)の高杉晋作に持っていったといいます。その高杉晋作は「色々な話はよい。しかし、こいつ(一般普通選挙制度による議会政治)は良くない。こいつは一見よいように見えるが、国民がバカになったら国が亡ぶっていうもんだろう。こんなのは絶対に認められない」ということを言っています。もちろんこのことがあるので、西郷隆盛は明治6年に学制を作ったということになるかもしれませんが、しかし、高杉晋作の言葉をうまく行けなくなっているということになるのです。
ある意味で、民主主義という方法は必ずしもすべてにとって良いとは言えません。実際にポピュリズムに走ったり、衆愚政治というようなことになった場合などが少なくないということになります。古代ギリシアの思想家プラトンは、民主主義は「次善の策以下」であり、本来は「哲人政治」を行うべき、つまりしっかりとした見識や知識を持ち、なおかつその政治を私利私欲を無くして公平無私な政治を行うということができる「哲人」が主体の政治を行うべきということを主張していました。
実際に、明治維新以降のしばらくの間は、維新の元勲と言われる人々、例えば維新の三傑や伊藤博文など松下村塾出身者、そして三条実美などの公家という「哲人政治」が行われていたのです。しかし、それが民権政治になり、そしてその後軍部の独裁を招いたということになります。そしてその結果が戦争というような形になってしまっているかもしれないと歴史上は言われています。私はそれだけではなく「国民全体がバカになって国が亡ぶ方向にもっていった」ということであろうと考えております。軍隊というのは、派閥や政治とは異なり、自分の実力次第で上層部に上がることのできる組織であるということになりますので、その「実力の判断」が戦争中の功績なのか、または、軍事の政治なのか、または軍事力を使いながら行た外交なのか、それとも占領地の施政ナノかはよくわかりませんが、その中で戦闘中の功績ということばかりに大きな比重が置かれてしまえば、「バカになった国民出身の軍人」は政治的な観点や世界を俯瞰した内容を全て無視して、またはそのような観点などは持たずに、戦闘行為を行うようなことになるということになるのではないでしょうか。まさにそのような内容が「軍部の暴走」ということの正体かもしれません。しかし、その軍隊であっても国民全体を敵に回すことは出来ないので、当然に、国民の支持がなければそこまでの暴走はできません。そのように考えれば、当然に軍部の暴走ということが、そのまま国民の「無作為的な支持があった」と解釈すべきではないでしょうか。
そのような「バカな国民」がそのまま「普通選挙」を行う世の中が昭和の後半です。そしてその制度が破綻し、そしてその内容が資本主義ということでそのままおかしな話になるということになるのです。そして「失われた30年」そして民主主義的な政治が徐々に衆愚政治化しているということになるのではないでしょうか。
★ 民主主義の次は何か
要するに「民主主義の次」の萌芽が出るのが昭和100年の意味ではないかという気がします。まさに、昭和100年、その100年は日本の場合、100年の前半で軍部という「エリート主義(つまり軍部の暴走ですが)」が崩壊し、なおかつその後の民主主義とそして資本主義が昭和の終焉、そして平成に入って崩壊し続けているということにあるのです。その崩壊の社会からの再生が、これからの次の100年に向けられた内容ではないでしょうか。
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