「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(7) レトロブームと時代の流れ
「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(7) レトロブームと時代の流れ
今年のゴールデンウィークは、昭和100年についての雑感を考えています。そして、その昭和100年の雑感は、ゴールデンウィークの後半にはやわらかいネタで見てみたいと思います。
本日は「レトロブーム」ということについて雑感を見てみましょう。
令和になって「平成レトロ」という言葉が出てきています。昭和どころか平成が既にレトロとなっています。平成元年は1988年ですから私からすれば、10代ではあってもそれほど昔というようなことではなかったのです。しかし、「レトロ」なのです。
★ 何故「平成レトロ」なのか
私の10代の頃、例えば、昭和60年、今から40年前になりますが、その時代に30年前の昭和30年に関して今のような「昔という感覚」がなかったのではないでしょうか。平成レトロということを言うと、基本的には今の人々はなんとなくよくわかるということになるのでしょうが、しかし、「昭和レトロ」というような言葉も存在するのがなかなか面白いところになります。
そもそも「レトロ」とはどういう言葉なのでしょうか。
レトロ
[名・形動]《retrospectiveから》懐古的であること。古いものを好むこと。また、そのさま。「レトロなファッション」「レトロブーム」「レトロ趣味」
レトロ
デジタル大辞泉より
つまり「平成の商品や文化が今の人々にとって古い」ということになるのです。ある意味で、私のような昭和生まれからすれば、平成というのは携帯電話もなかったり(平成元年の時点では、携帯電話はなかったのです。まだ公衆電話全盛期ですね)携帯電話があってもインターネットの情報などがなかったり、またはSNSなどがなかったりというような状況であ田ということになります。インターネットなどもなく、パソコン通信というように言われていた時代です。現代の子供たちは「公衆電話の掛け方がわからない」とか「ダイヤル電話の掛け方がわからない」などということが言われていますが、実際に、それらの古いものは、ある意味で彼らの知識の外にあるものであり、なおかつ、そこから今の文化につながる何かが見えてくるということになるのです。そのように考えると「古い」ということが新しく見え、または、そこからの発展の道が、「他の道や他の発展の経路を見ることができる」ということになるのではないでしょうか。
もう一つの観点を見てみましょう。以前、オンラインサロンの連載の中で「Z世代の研究」をしたことがあります。大変公表で、様々な大学などからお問い合わせいただいていました。その中で「Z世代の特徴」として「レトロブーム」ということを挙げさせていただいていました。例えば、インターネットで何でもできデジタル処理できる時代に育ったZ世代は、写真を撮るといっても今ではスマートフォンの内臓のカメラでかなり画質の良い写真を撮ることができます。また、写真を撮ってすぐその場で写った写真を見ることができますし、また、それをメールなどで友人たちに送ることもできます。そのような中で「使い捨てカメラ(当時は『レンズ付きフイルム』と呼んでいましたが)写ルンです」が爆発的な人気になっていたことは皆さんもご存じなのではないでしょうか。デジタルの時代に、フイルムで、現像に出さないと何日もどんな写真が取られてかわからないというような状況で、自分が手を駆けたり時間をかけたりしないと、結果がわからないという「銀塩写真」を好むということになります。
このような現象から見るところ、「平成レトロ」というのは二つの意味合いがあるということになります。
一つは「古い」ということです。昭和はもっと古いということになるのでしょう。「昭和レトロ」と「平成レトロ」とは全く意味合いが異なるということになりますし、また、昭和は、我々大人世代(昭和生まれ・昭和の記憶がある世代)が「時代劇を見るような古さ」を感じているのかもしれません。ある意味で「時間の流れが非常に早くなっている」と言ことが言えるのではないかという気がします。そしてもう一つは「今の世代が、便利になれ過ぎてしまって、少し不便を楽しんでいる」「思い通りにならないことを、一つのおもしろさであると考えている」ということが見えているのではないでしょうか。
逆にいえば「昭和100年」というのは、技術の進歩や時間の流れの速さというか、地域と地域の繋がりの移動時間や情報伝達の速さという意味では、かなり速度が変わってきているということが言えるのではないでしょうか。100年、特に後半の50年ではその速さはかなり加速がついていたのではないかという気がするのです。
★ Z世代が見る昭和とは
Z世代、つまり、今の25歳以下くらいのイメージでしょうか。この世代というのは、当然に昭和の時代を知らないだけではなく、その親の世代もZ世代の若い方の人々の親で、早く子供を産んだ人であれば、親世代も昭和に生まれていても昭和の記憶がないということがあるかもしれません。そんな状態で、Z世代の人々に「昭和」ということを聞けば「既に歴史の世界」というようなことを言われます。私から見れば明治時代のような話でしょうか。年代的には近いのだけれども、実際に歴史の教科書でしか見たことがないというような状況になっているのではないでしょうか。
では、その時代というのはどのように映っているのでしょうか。ある意味で「玉手箱」的な時代ではないでしょうか。今、普通に使っている技術のほとんどが昭和の時代にできている技術ではないかと思います。電話、テレビ、動画、カメラ、自動車・・・今も使っている商品の多くの技術は、昭和の技術でありなおかつ「不便であったにもかかわらず元気のある時代」ということになるのではないかと思います。もちろん、不便であるということを昭和の人々は全く感じていないということになります。それは、それ以上便利な世の中を知らないのですから、当然に、自分たちが不便であるというようなことは感じません。そもそも不便というのは、同時代に自分たちよりも便利であるか、または、便利であるという状態を知っている状態である必要があり、その為に比較して自分たちが不便であるということを感じなければならないということになります。昭和の時代は、以前よりも自分たちが便利になっているという自覚があるだけではなく、自分たちでその時代を作ってきたという自負があったのです。
多分、現代の人々は昭和の「活気のある昭和時代」に対するあこがれがあるということになるのです。一方、平成は「失われた30年」と言われる経済停滞の状態が現代と同じであり、ある意味で馴染みやすいのかもしれないと思います。まさに「昭和レトロ」と「平成レトロ」とは、現在空の見た目は、30年前と40年前で同じ日本の同じ時代を生きているにもかかわらず、現代人から見てその違いが出るということになるのです。
まさに「レトロ」でありながら、何かが違うということになります。時代の流れの速さは、まだ早くなってゆくのではないでしょうか。そのような中で「昭和」という激動の時代が見えてくるのではないでしょうか。
0コメント