「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(2) 大東亜からウクライナまで戦争と昭和
「宇田川源流」【GW特別連載:昭和100年雑感】(2) 大東亜からウクライナまで戦争と昭和
毎年ゴールデンウィークとお盆休みは、ニュース解説の性格上、ニュースがほとんどないので、何かのネタで一つの連載を汲んでいる。酷いときは「ゴールデンウィークのエロ」等、土曜日のエロの拡大版をやってみたりしていたのであるが、それはそれなりに評判が良かったのである。
しかし、毎年必ず言われるのは、「ゴールデンウィークの間に憲法記念日があるのに、憲法の話がないのは何故だ」と言われることがあります。もちろん、間に、こどもの日(菖蒲の節句)がありますので、その内容はオンラインサロン等で話をしているのですが、たしかにあまり憲法に関して話をしたことがないような気がします。
その憲法に関して言えば、1947年、つまり昭和22年5月3日に施行されています。ある意味で、これも「昭和の話」です。そこで憲法の話も含めて、今回は「昭和100年」について話をしてみたいと思います。
前回は、まず昭和に関する私の個人的な感想を見てみました。連載なので、個人的な感想を書く余裕があるので、普段は解説という事しかできていないのですが、珍しく私の感想を書いてみました。もちろん私の場合、前回も書きましたが、昭和の時代に生まれたどころか、思春期という人格形成時代がすべて昭和であったということから、「昔はよかった」という老人のごとく、私はある意味の懐古主義的な郷愁を感じているという感じがあるのではないかと思います。皆さんとその内容を共有できるかどうかは別にしますが、そのような主観でこの後も進めてゆきたいと思います。
さて今回は「昭和と戦争」ということを考えてみたいと思います。
やはり昭和の時代に関して言えば、戦争を避けてみることはできません。しかし、普通「昭和と戦争」というと、日本の参加した(日本が戦った)戦争だけが語られることが多いような気がします。実際のところは朝鮮戦争以降、ベトナム戦争、フォークランド紛争、など様々なところで日本人は戦争を経験(もちろん国としてではなく日本人が戦争を体験しているという意味)ですし、湾岸戦争・イラク戦争以降は、徐々に日本も「平和に貢献する」というように世界の戦争に繋がるようになってきていたということになります。
そのようなことから、それらの「戦争」についての「昭和の日本人」の考えを見てゆこうと思います。
★ 外に向かった矛先から内への矛先に
昭和20年までの「日本人の戦争観」というのは、間違いなく「日本から外に向かう」ということではなかったでしょうか。ある意味で、明治維新以降、日本というのは「欧米列強から半分強制された不平等条約の解消」ということが国家の大きな目標になっていたと思います。実際に、日本というのは「平和を謳歌した江戸時代の260年」で大きく技術的にもそして政治的にも、国際感覚的にも遅れてしまっていたということになります。そのような状況から考えれば、「国際社会に出てゆく」ということは「切り拓く」というような感覚が強かったのではないでしょうか。
ここで考えなければならなかったのは、海外に出れば、そのほとんどが「欧米の植民地であった」ということです。現在のように経済的な交流(貿易)があるわけではありませんし、また、時間的にも通信手段があるわけでもなく飛行機の移動もないということになります。そのような情報も物流も今よりもはるかに遅い中で、海外に出れば必ずどこか、日本より強い国である欧米の植民地しかなかった日本にとって、そのような中で日本の良さを広げることにはおのようにすべきかということになるのです。
そのように考えれば、日本はまずは欧米と戦って勝ってゆかなければならなかったしまた、その戦いによって欧米に力を認めさせなければならなかったという戦いであったと思います。
そのような意味で戦前までは「外に向けた矛先」であったと思います。まずは欧米の植民地になっていない朝鮮半島や中国を目指し、そして、その併合や独立を認めないということで、第二次世界大戦に繋がってゆく流れになってゆきます。
この戦争は明治時代に、欧米と当たらない形で日清戦争そして、欧米と比肩する実力になった日露戦争となってゆきます。しかし、そこで「不平等条約の解消」が出来てしまい、そのまま「日本の理念や平和を世界に広める」というような理念に代わっていってしまったということになるのではないでしょうか。大正デモクラシーなどを経て、軍部が「存在感を示す」ということであったと思いますが、一方で昭和恐慌や大正末期の関東大震災の傷が言えていない中で、国内の不満を外国に出してしまう「排外主義外交」が「戦争」という形になっていったような気がします。
戦後、「敗戦」だけではなく「日本本土が焦土と化した」という反省から「軍の放棄」「戦争放棄」「天皇の人間宣言」というようなことになります。しかし、あくまでも放棄しただけですし、人間宣言だって、そのことで崇敬の念を失ってよいという話にはなりません。しかし、日本国民というのは「反対側に触れる」ということになります。政権も社会党左派の片山哲内閣が発足するなど、急激な左傾化をしてしまうということになるのです。この事で「矛先をすべて国内に向けてしまう」ということになっていったということになります。この残滓が「自衛隊は人殺し」などという、恩知らずな共産党議員の発言に繋がってゆくのでしょう。極端に反対に触れることが歴史的に正しいということを狂信的に進める時代遅れな感覚が、安保騒動や大学紛争を起こし、そして、極端な軍事力嫌悪や原子力へのアレルギーが起きてしまうということになるのです。
しかし、「戦後派の内閣」である安倍内閣(初めての戦後生まれ内閣です)になり、戦中生まれにもない戦争アレルギーや極端に戦前の反対に触れた左傾化内閣ではない状態になって、あらためて「内に矛先が向いている戦争感覚」がおかしいということをに気づくのではないでしょうか。
これが戦争の意識における昭和100年史ではないかと思います。
★ 「平和」とは「主権を失っても生き延びることなのか」という疑問
そもそも、平和とは、「戦わないこと」ということを定義であるといいます。そのことから、日教組教育の行き過ぎた教育ではと競争で最後に手を繋いでみんなでゴールするなどの間違った教育が出てきてしまっています。そのようにして「みんなで」などと言いながら、片方で競争社会・契約社会の国際社会への進出が標榜されていたのですから、無菌室から、急に病原菌の中にノーガードで出されるようなことになってしまったのではないでしょうか。競争社会で生き残ることのできない人を作り出していた教育は、今もそのまま残され、いつの間にかそれがSDGs担っているというような感じではないでしょうか。「自分らしくある」のは構いませんが、「他の人がいる」「社会という存在がありその構成員である」ということを無視してよいという話ではないのですが、そのようなことは、全く見えていない人々の風潮がそのまま今の社会を形作ろうとしていることが、何となく危惧を覚えます。
さて、平和に話を戻しましょう。「戦わない」ということは「相手が攻めてきたらどうするか」ということになります。そのことは、フォークランド紛争でも、また2022年のウクライナでも、また、湾岸戦争でも同じで、その時に国家を守る戦いをすることを否定するのかということになります。
「攻めないでください」などと言って、戦争が無くなるのであれば、そのような人が今もすぐにウクライナやガザに行って、その様に訴えてくればよいでしょう。ミサイルはそのような訴えで止まりません。まあ、止まるかどうか、台風や犯罪相手にやってみてもよいかもしれませんが、結果は火を見るよりも明らかです。
ではそのように攻められて、占領された場合、日本人は「極端な話で言えば奴隷になる」ということです。つまり「主権や人権を失って、それでも戦わないことが正しいのでしょうか」という疑問になります。アメリカなどに連れてこられた奴隷は、会話を禁止され、打楽器を鳴らすことや足踏みで音を出すことによってコミュニケーションをとっていました。まさにそのような苦しみを日本人に与えるということが正しい「平和」なのか、よく考えてみなければなりません。
平和が、「戦争がないこと」ということは良いのですが、現在の世界情勢では「戦争がないこと」というのは「戦って、または軍事的に装備を整えて、相手が攻めて来ないようにすること」ではないかと思います。これは、プライバシーを犠牲にしながらも、防犯カメラを多く着けるということと変わらないことであり、そのことを日本人は「やっと気づきだした」ということではないでしょうか。ある意味で、「昭和100年」というよりは、「戦後80年」で、やっと反対側に極端に振れたところから戻ってきたということではないかと思います。なお、私から見れば、まだまだ足りないような気がしますし、経済分野や資源分野での安全保障は全くできていないということになるのではないでしょうか。
★ 戦争しない国から「攻撃させない国」へ
このようにして「攻撃させない国」となったのは、ある意味で岸田内閣の「防衛三文書改定」空であるということになりますが、そのような土壌に、日本の国論を変えていったのが、安倍内科っからであるということは言うまでもありません。その前の民主党内閣の「悪夢の3年半」には、そのようなことは全くできなかったということになるのです。
日本人の戦争というのは、自分たちの戦争ということでは大東亜戦争だけですが、実際には、その戦争において必ずその国に日本人がいて、その日本人が非難するということが行われています。そのような経験から、「戦争がどのように始まるのか」ということもありますし、戦争になって人々がどのようにパニックになるか、そして、それがどのように日本に伝わるのかということが、ノウハウとして見えてくるのではないでしょうか。
その様に「他国の戦争を体験する」ということで、日本は「平和に対する考え方を、時代に合わせてきている」ということになるのではないでしょうか。そしてそれに合わせて、防衛大綱などを見直してゆくということになっています。
当然に国民もその認識が変わってゆくのですが、その認識の変化は、かなりゆっくりしているのではないかと思いますし、いつまでも昔のまま、古い体質で報道している化石のようなマスコミやジャーナリストなどもいますので、非常に難しいなか価値観が変化してきているということになるのではないでしょうか。
現代になって、国民の多くは「戦争を体験(戦争をしている国に行ったことのある人という意味)した人ほど、平和は守るものであるという認識が強く、中途半端に体験した人や逃げる事しかしていない人は極端な戦争反対に繋がる」という感じになっています。逃げるだけだから、恐怖に支配されてしまいます。そのことが「卑屈な日本」というような思想ができてしまっているのではないでしょうか。
真に国際人になるための条件を、昭和の100年は形成してきた、日本人のための100年であったと思います。
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