「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 旧体制の象徴的な株仲間を演じる皆さんの面白さ
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 旧体制の象徴的な株仲間を演じる皆さんの面白さ
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について、見た感想のようなことを書いている。まずはそのドラマのことに入る前に、当時の基礎知識ではないかドラマに関連する江戸時代のことを見てみよう。
さて今回は人物ではないのであるが、毎回しっかりと出てきている九郎助稲荷について見てみたい。この九郎助稲荷は、第1回では綾瀬はるかさんが姿を現して、非常にチャーミングな狐様になっていたい、またその時に江戸時代なのにスマートフォンを持つ綾瀬はるかさんが出てくるなどという、なかなか面白い演出になっている。ある意味で「心の声」や「ナレーション」を全て兼ね備えた、このドラマの俯瞰的な存在として使われている。
さて、この九郎助稲荷、江戸時代に吉原遊廓の廓内にあった稲荷社で現在は「吉原稲荷」(東京都台東区千束三丁目)の中に合祀されている。稲荷神社であるから当然に商売繁盛があるのだが、それだけではなく吉原の鎮守であったことから縁結び、所願成就、五穀豊穣の神様となっている。
この神社は、吉原の京町二丁目の隅、最下級の女郎がいる羅生門河岸の稲荷長屋の隣にあったと古地図などには書かれている。吉原内にはほかにも稲荷社があったが、この九郎助稲荷が最も人気があり、花魁などの信仰を集めていた。私個人の感想としては他の開運稲荷や榎本稲荷、明石稲荷なども綾瀬はるかさん的な人がでてきて、経堂でナレーションをしたり四人で共演してくれればうれしいのであるが、まあ、キャストと予算の都合で難しいのかもしれない。
千葉九郎助という者が、天から降りたという狐を地内に祀り、それが「田の畔稲荷」と呼ばれてあがめられていたという。慶長年間の末ごろ、遊郭ができるとともに旧吉原に遷され、明暦年間に浅草に廓が移転するとともに、新吉原へと遷された。要するにもともとは日本橋の近くにあったものが、「吉原の固有の稲荷」担ったということなのであろう。
九郎助へ礼参りする二十七(川柳)
当時の川柳である。二十七歳で女郎が年季奉公が明けるので、二十七の女性が、九郎助にお礼参りするというのも、なんとなく感慨深いものがあるのではないか。
<参考記事>
【べらぼう】蔦重と対立する鶴屋喜右衛門 演じる風間俊介の〝悪役〟ぶりに「ワクワクする」
2/16(日) 20:46配信東スポWEB
https://news.yahoo.co.jp/articles/376f234d6779048cb67448c5f7b2905cf24feaaf
<以上参考記事>
今回は幕府側は出てこないので、そのはなしはないじょうたいである。その代わり蔦屋重三郎(横浜流星さん)と地本屋の人々との争いが中心に阿描かれるということになります。現在でも「既存の業者」と「新規参入の業者」との間で主導権争いがあったり、またはやり方の違いや、団体に入るか入らないかの問題があるなど、様々な問題があります。そのような業界の話ばかりではなく、同じ会社の中でも、「過去のやり方」と「最先端のやり方」で「ジェネレーション・ハラスメント」などが存在しており、そのことで若者が苦労したり、逆にベテランが隅に追いやられたりというような問題がありますが、まさにその内容を蔦屋重三郎を通して「新規に参入する若者の視点」で見ているのではないでしょうか。私のようなオジサンにはそのように見えてしまうのである。
その「古いタイプ」「ベテラン」を演じているのが西村屋を演じる西村まさ彦さんと、鶴屋を演じる風間俊介さん。この二人の悪役ぶりがなかなかおもしろい。鶴屋に関してはまた改めて詳しく紹介しようと思うが、しかし、この地本屋の仲間がそのまま本屋となる蔦屋の敵として立ちはだかる。ドラマの中のセリフでも「敵と戦う」というように蔦屋重三郎が話しているしまた、西村屋の頃場で「吉原の金」というようなセリフもあったので、単純に地本屋や、よし和rの本という利益を、地元の人々を入れずに独占したいということであり、一方で、蔦屋は自分の自由に、というか吉原のために本を出さなければならないというように考えているということになる。
そしてやはりここでも出てくるのが「花の井」(小芝風花さん)であろう。吉原債権が多く売れるのは、「新たな花魁の襲名披露があった時」ということから、名跡で実績のあった、それでもその名跡は、20年も引き継ぐ人がなく、なおかつ縁起が悪いとされている「瀬川」であった。
「吉原の事を考えているのは、蔦重だけじゃないんだよ」
この言葉の意味が非常に重たくかんじるのは私だけであろうか。ある意味で「吉原の人々が、縁起が悪いとかそういうことをすべて無視して、いつの間にか頑張っている蔦屋重三郎のペースに巻き込まれ、そして、いつの間にか手伝っている」というような感じが、現代の人々にもうまく響けば非常に良いメッセ維持ではないか。
現代の人々これは若者だけというのではなく日本全体がそのような感じがあると思うのであるが、何となく「やる前から諦めてしまう」と異様な風潮があるのではないか。五里霧中でありながらがむしゃらに前に進むというような人が少なくなってしまっているような気がしてしまい、そして日本全体がそのような雰囲気になってしまっているから、いつまでも不景気から、抜け出せないのではないか。今の日本がいつの間にか「忘八」で、「やる前から何となく収まってしまって、諦めて新しいことをしなくなってしまっている」という風潮と重ね合わせれば、その今の日本の閉塞感をうまく抜け出す方法が、蔦屋重三郎のやり方なのではないだろうか。そのがむしゃらさが、何か新しいものを生み出すし、また花の井のような「あまり目立たないけれども悩みや頑張りを支えてくれ、共有してくれる人がいる」という形になるのではないか。その様なメッセージが見えてくるような気がする。
戦国時代や幕末とは異なり、人が死ぬというような話はあまりない。太平の世の中の江戸時代である。しあkし、その太平の世の中であるだけに、何か小さく収まってしまう人がいる。しかし、そうではなく、現代の世に新たな技術も出てこない時代に、あるもので頑張ろうとする人がいるということではないか。そのような気持ちで見れば、このドラマから受け取れるメッセージは少なくないのではないか。
吉原であるからとか、性売買であるとかそのようなことで否定的な意見を出している人々を散見するが、そのように否定ばかりしていることこそ、「諦めて何もしない」つまり「日本の長きの不景気を肯定している」という態度にしか見えないのは私だけであろうか。
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