「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 長谷川平蔵の捕り物と蔦屋重三郎
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 長谷川平蔵の捕り物と蔦屋重三郎
毎週水曜日は、大河ドラマ「べらぼう」について、本当に視聴者の感想を書かせてもらっている。今回の内容はなかなか面白いし、吉原というあまり今までの時代劇では書かれない内容がしっかりと書かれているのがなかなか面白い。特に江戸時代の太平の時代の大河ドラマというのもなかなか少ないので、「政治的なドラマ」「ビズネスドラマ」として、現代の人に訴えるものが少なくないのではないか。
今回は平賀源内(安田顕さん)がでなかったので今回の主役である鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助さん)について、見てみよう。
鱗形屋孫兵衛は鱗形屋の三代目で、元文年間から鱗形屋の三代目としての活動が確認され、黒本・赤本・吉原細見、さらには正月の宝船の版画も手がけた。寛延年間以後は、京都の八文字屋本の江戸での販売権を万屋清兵衛から一手に引き継ぎ、その他の上方で出版された絵本類も数多く刊行している。
安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙の出版の先駆けとなり、同年には江戸の黄表紙30余点のうち10余点、翌安永5年(1776年)には30余点のうち10余点という具合に安永年間の黄表紙出版をリードした。
しかし、安永4年(1775年)5月に大坂の版元・柏原与左衛門、村上伊兵衛が刊行していた『早引節用集』を『新増節用集』と勝手に題名を変えて、無断で鱗形屋で売るということをしてしまう。今回のドラマで出た内容である。ちなみに「節用集」とは、今風に言うと国語辞書のことである。訴訟の結果、板木71枚、摺込本3400冊の内売れ残り分2800冊が没収され、12月には徳兵衛が家財欠所及び十里四方追放、孫兵衛が急度叱及び過料鳥目二十貫文などの処罰を受けた。さらに、旗本某家の用人が遊興のために主家の重宝を質入れしたのを仲介したことが発覚し、孫兵衛は江戸所払いに処せられ、安永10年(1781年)頃まで江戸に戻ることができなかった。このことがきっかけで、出版や本を扱うことは禁止されていなかったが、現代と同じで信用がなくなり、取引ができなくなったところも少なくない。そして結局は鱗形屋は没落し、孫兵衛は寛政年間まで版元を続けた後廃業に追い込まれることになる。
当然に鱗形屋の系列であった蔦屋重三郎(横浜流星さん)も大きな影響を受けることになるのである。
<参考記事>
『べらぼう』ラストに逮捕劇 ネット「このまま退場?」「鬼の平蔵が仕事した!」【ネタバレあり】
2025/02/09 佐賀新聞
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1405939
<以上参考記事>
今回は上記にも書いた鱗形屋の「偽版」事件がかかれ、そこに長谷川平蔵(中村隼人さん)をうまく絡めている。もともとは、吉原細見の次の一手として青本を改良して、吉原を舞台の物語を作るということを提案する。まさに、現代でも「町おこし」をするということは、今回の青本と同じように、その地を舞台にしたアニメなどを作ってもらうということになる。福岡の竈土神社などは、「鬼滅の刃」で部隊にはないっていないが非常に多くの人が訪れているし、また、現在の観光でいえば、その舞台になったアニメのキャラクターがそのままそこに存在するような形になっていることは少なくない。「聖地巡り」のような観光は少なくなく、それが国際的になれば、「スラムダンク」の場面の聖地巡りで江の島電鉄の踏切がオーバーツーリズム問題になってしまうということになるほどの賑わいを見せる。まさに、そのようなことを今から300年前に蔦屋重三郎が考えていたということになるのである。
そのような中に起きたのが「偽版」事件である。
実際にこの事件に長谷川平蔵が絡んでいたというような記録はないと思うが、うまくここに絡め、そのうえで蔦屋重三郎がその時に鱗形屋に来ていて、それを長谷川平蔵が救うという形になる。そしてそのまま二人で会話をして、蔦屋重三郎が以前から知っていたということを告白するということになる。
「濡れ手で粟餅」という不思議なダジャレをしながら、その内容を「明るく」描くというのはなかなか面白い手法である。
一方江戸城内では、松平武元(石坂浩二さん)が莫大な費用がかかる日光社参を提案する。田沼意次(渡辺謙さん)は、予算の無駄遣いを理由に、徳川家治(眞島秀和さん)に中止を訴えるというような流れになる。ある意味で松平武元は、田沼意次の功績である「金蔵の再建」を妨害するということであり、それを田沼意次が何とか切り抜けてゆくという事であろう。
田沼意次と、蔦屋重三郎、双方ともに今までの様々な問題を、それも過去の遺物と思えるような権威や、伝統や文化、そして株仲間や幕府をめぐる権力争いというような内容から無理難題を押し付ける。そのような中をうまく、知恵を使って切り抜けてゆくということの痛快さを描いてゆく物語になり、田沼意次と蔦屋重三郎がうまく重なって見えてくる。もちろん置かれた立場も、抱えている問題も、その影響力の大きさも違うが、そのような意味で二人とも同じ悩みを抱えた二人でありそれが同じように様々なことを考えてゆく。そして尊「新しい潮流」を見て支援する平賀源内や長谷川平蔵のようなひとが出てくる。そしてその人々が身分を捨てて一緒になれる場所が吉原。そういった感じでうまく物事がつながるようになってきているのではないか。そのような「上も下もない」「上も下も抱えている問題は同じ」というようなメッセージが見えてくる。
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