「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 松平定信と田沼意次の確執をうまく絡めたドラマ
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 松平定信と田沼意次の確執をうまく絡めたドラマ
毎週水曜日は、大河ドラマ「べらぼう」について書いている。今回は、田安賢丸、後の松平定信(寺田心さん)に関する「養子縁組」に関する内容が描かれた。一方蔦屋重三郎(横浜流星さん)に関しては、重三郎自身が苦労し作り挙げた「吉原美人画」が、本屋たちの結託されてその功績をすべて取られてしまうという、今の日本のビジネス界でも十分にありうる話が書かれている。
さてそのような物語の前に、今回は、ドラマの中で石坂浩二さんが渋い演技を見せている「松平武元」について、どんな人物か見てみたい。本来、松平定信について解説する方が先と思うが、大変失礼な言い方であるが、早めにこの役に関して解説をつけておかなければ、役の中でなくなってしまい出てこなくなってしまうと困るので、先にこの内容を見てみようと思うのである。そのうえ、松平定信になる田安賢丸が「じい」と呼んで信用しているようなところであるから、興味深いところであろう。
松平武元(たけちか)は、常陸国府中藩の第3代藩主・松平頼明の四男として誕生した。享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。一応記録上は、松平武元と田沼意次が対立したような記録はないのである。
ちなみに、蔦屋重三郎が「一目千本」を出版したのは安永3年(1774年)、これに対して松平武元が死ぬのは安永8年(1779年)である。そして享年は61歳であるから、今夏のドラマで出てきたのは、56歳とか57歳、ちなみに私が今年56歳になるので、当時の数え年で言えば、ほぼ同じということになる。このように書いていて今の私と石坂浩二さんの役柄が同じであるというのは、いささかショックである。もちろんドラマであるし、江戸時代のその年齢はかなり老けて見えるのかもしれないが、何となく今の私もあのような年齢に見られているのかと心配になるものであろう。
<参考記事>
横浜流星の悔し涙に詰まった『べらぼう』の醍醐味 “工夫”のぶつかり合いがもたらすもの
2025.01.26 22:15 RealSound
https://realsound.jp/movie/2025/01/post-1909467.html
<以上参考記事>
さて物語の方を見てみよう。前回も見てみたが、物語は二つの流れがある。
一つは田沼意次(渡辺謙さん)と、田安賢丸との間の確執ということから物事が始まる。田沼意次は、自分の都合のよいように人事を動かしたいと思っており、それに対して古い体質の人が抵抗しているという構図である。ある意味で「田沼政治」と日本史で習う「賄賂」政治ということになっているが、現代はかなり見直されていて、幕府の根幹であった米本位制から貨幣経済への意向をいち早く実現したということになるのではないか。初回のセリフの中から見えるが、そもそも米を商人に売って、金銭を手にするのであるが、その米をいくらで買うかということを、幕府が決めることができないのであるから、当然に、商人がもうかって、幕府はじり貧になって行く。そのことをおかしいと気づいたのが田沼意次だ。「武家は食わねど高楊枝」というようなプライドを重視する層と、そうではなく現状に合わせて改革するという田沼派との考え方の違いが、この根本である。
その田沼意次に力を貸しているのが平賀源内(安田顕さん)ということになり、これが蔦屋重三郎との接点になる。
その蔦屋重三郎も、田沼意次と同じで「新しい商売のやり方」を、それまでの伝統や格式とは切り離して考える。田沼意次が「幕府の為」であれば、蔦屋重三郎は「吉原の為」ということで知恵を絞り、利益度外視で動いていたということになる。
その内容が今回の『雛形若菜』ということになる。これについて金銭面でも考えるのであるが、なかなかうまくゆかない。その中で版元・西村屋与八(西村まさ彦さん)がバックに付いた話ならと進まなかった話が着々と決まっていく。そして版元にならないかというようになる。現代の話でも「良い話」があり、調子に乗ってやっていたということになり、平賀源内に「耕書堂」つまり「書で社会を耕す」というようなことを伝えられ、が善やる気を出すのである。
様々な事件があって、それを乗り越え出てきて来る。その後に、お披露目の時になると、鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)と鶴屋喜右衛門(風間俊介)が表れる。そして江戸市中で本を売るには、彼らが所属する仲間内に入っていないと無理だという。
業界が新規参入を拒むというのは、よくある話であり、江戸時代の彼らに限った話ではない。様々な意味で、理不尽なことを言われたり、または新しいアイデアだけを取られてしまって、うまくゆかなくなったということも現代にも少なくない。そのような現代社会をうまく風刺しているところがドラマなのである。そして、そのような理不尽を、大人たちは「吉原の為」という大義名分をその時になって出して治めてしまう。目の前に利益が見えてくれば、そのようにして横取りをする。このような構造が、社会をダメにし発展を差せなくなるのであるが、蔦屋重三郎はそれでもあきらめなかったからドラマになるのである。
ある意味で、現代の人々に「数回の理不尽に負けずに、諦めずに行動せよ」というメッセージがある。それが少なくとも今回というか、この大河ドラマ「べらぼう」のテーマなのではないだろうか。頑張らないと、「米本位制」に戻ってしまう。そのような内容になっていたのではないかという気がしてならない。
現代に「蔦屋重三郎のような人がいれば」というような感覚で見てしまう。それが素直な感想になってしまう。
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