「宇田川源流」【日本万歳!】 訃報 マスコミの大先輩である渡辺恒雄さん逝去
「宇田川源流」【日本万歳!】 訃報 マスコミの大先輩である渡辺恒雄さん逝去
毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。
さて、「万歳!」としながら訃報をお届けするのは、かなりの不謹慎であると思うが、「万歳!」はコーナー名(連載名)であるので、外せないのでお許し願いたい。
以前にも大山のぶ代三の逝去の時には、その訃報をこのコーナーでお届けしたが、その人の功績が日本を大きく発展させたとか、日本の文化に寄与したというようなことの場合には、やはり訃報であっても扱ってゆきたいと思うのである。
さて、今回の訃報は読売新聞主筆の渡辺恒雄さんである。
渡辺恒雄さんに関して言えば、その功績には様々な意味で賛否両論がある。特に政治や報道に関しては、「今の政治を作った(そのような政治を許した)ことに渡辺恒雄氏の問題が大きい」などというようなことはよく言われる。中には「読売新聞は正力松太郎氏以降、ずっとアメリカの工作員であった」などという陰謀論的な内容も存在するのであり、ある意味で左翼的な感覚の人々の中には批判のための批判を繰り返す人もいる。しかし、そのような話ではなく、素直に「功績」をたたえることをしてみてはいかがであろうか。無くなった方に対して、その様に素直に功績をたたえ死を悼むのが、日本の文化である。
<参考記事>
渡辺恒雄さん死去 98歳 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆
2024年12月19日 19時56分 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241219/k10014672231000.html
<以上参考記事>
私は、正確に言えば渡辺恒雄さんとは三回会っているらしい。しかし、私の記憶にあるのは2回である。
一応三回の一回目は、私が中学三年生の頃、学校を休んで当時総理大臣であった中曽根康弘総理のパーティーに言ったことがある。当時は首相官邸で自民党党大会の後パーティーをしていて、そこに屋台が並び、好きなものを食べてよかった。私は中学三年生であり、そして制服を着ていたにも関わらず、中曽根首相は私に近寄ってきたのである。まあ、大人ばかりのパーティーに学生服を着た人間がいるのであるから、珍しかったのであろう。その時に、ビール瓶を日本持ってきて「乾杯しよう」といったのだ。中学三年生の少年にビール瓶のラッパ飲みで乾杯というのも困ったものだ。しかし、当然に私はそれに応じた。その時に、横にいたのが当時幹事長をやっていた二階堂進氏と、そして渡辺恒雄主筆であったらしい。いや、その写真が残っているので、間違いなくそうなのである。その時に「おい、本当はビール飲んじゃいけないんだぞ。まあ、今日はいいけど」といったのが、多分渡辺恒雄氏であったのだろう。
あと2回は、国会新聞編集次長になってからである。
「国会新聞社」という会社名から、政治の話をすると思っていた渡辺氏に、「巨人ファンです。子供の頃、王貞治選手の756号を後楽園球場で見ました」といったところ、急に渡辺恒雄氏の顔が変わったのを思い出す。「君は、政治の話と野球の話のどちらが良い」と聞かれたので、「もちろん、野球の話です。いや巨人の話です」といった。渡辺氏は身を乗り出して巨人軍の話、それもまずは長嶋茂雄氏の話と王貞治氏の話をした。
私の子供の頃の住んでいた家の隣が、「田沼一郎」という、巨人軍の最初の通訳の人であった。戦後、巨人軍というのは「純血主義」といって、日本人ばかりを使い外国人選手を取らなかった。もちろん少しごまかしている部分があり、与那嶺要選手などはハワイ生まれでウォーリー与那嶺といわれていたし、戦前はスタルヒンなどもいた。しかし、一応国籍は皆日本人であったのである。しかし、大スター長嶋茂雄の引退というのは、非常に大きなもので、巨人軍は初めて現役大リーガーを入団させたのである。それが三振ばかりであまり使い物にならず、「大型扇風機」といわれた「ジョンソン」であった。その通訳を務めたのが田沼氏であったのだ。
そのような縁で、巨人軍の試合はよく見に行ったのであるが、当時は東京ドームではなく、後楽園球場であったので、秋空の中で見に行って、王貞治選手の756号、当時世界一の記録を見に行ったのである。
その話をしたところ「そうか、あの球場いたのか。すごかったろう。王はそういう選手なんだ」と言っていたのだ。まあ、今から45年位前の話。渡辺氏も王貞治選手の756号の頃は50代前半であったに違いないのであるが、しかし、やはり興奮気味に話をしていた。
「野球愛」ということが「巨人愛」担っていたのかもしれない。巨人が強くあることと「野球が多くの人に楽しまれること」というのは、多分、渡辺氏の中では同じであったのではないか。「力道山よりも強く」ということを渡辺氏の出た言葉の中に出てきたのが印象的である。その時は興奮して話をしておられ、秘書の方が「次の予定が」と言っていたが「巨人の話を止めるのか」といって、一応次の人が誰かを手帳などを見て確認した後「待たせておけばよい」といって、延長して話を射ていたのが興味深い。
そして三回目は今の読売新聞の最上階にあるレストランで食事をしているときに、たまたまあった。その時に挨拶をした。すでに車椅子であった渡辺氏は、わざわざ車いすを止め数分間話をしてくれた。その時は「政治」の話であったが「野球も政治も、強くあるべきものが強くなくなった」ということを嘆いておられたのことが印象的であった
渡辺恒雄氏といえば、あった人を飲み込む要は迫力のある人物だった。そのように言う人は少なくない。しかし、「何事もあるべき姿を信じ、そして、そのあるべき姿が日本を発展させ、そして、素晴らしい結果になる、そして将来の子供たちが笑顔で暮らすことができる」と信じていたので、その情熱が迫力を作り出していた。巨人も、政治も、同じように考えていたのだろう。その為に、「一生懸命やり、それでも失敗したり至らなかった人には、ねぎらいの言葉をかけ怒らなかった」と言い「成功しても、良い結果を生んでも手抜きをする人にはかなり怒った」という話を聞く。それが本来の、上に立つものの姿なのではないか。
亡くなられた方に教えを乞うというのは難しいが、しかし、その残した言葉や行動から心を学ぶことはできる。我々は、そのようにして、道は違っても、「日本をよくする」ということに向かって、真摯に努力をしなければならないのではないか。良い意味でも、そうではない意味でも、日本の将来を常に見据えた人物であったと思う。
改めて、ご冥福をお祈り申し上げます。
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