「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 8 長州ファイブ
「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 8 長州ファイブ
令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。そのことから、今回のゴールデンウィークは、日本の幕末ということに関して見てみたいと思っている。
ゴールデンウィーク中は、いつもの連載もすべて止めて、ゴールデンウィーク特別を書いている。本日は5月5日こどもの日で、なおかつ日曜日であるが、日曜小説ではなく、ゴールデンウィーク特別を行っている。ちなみに、ゴールデンウィーク私自身は何の予定もなく、ほぼ毎日寝て過ごしていたのである。まあ、どこに行っても混んでいるし、たまには家でゆっくりと寝るというのも良いのではないかと思いそのようにしていた。だから何か他の記事を書くことも何でもできるのであるが、一応ゴールデンウィークはあまり難しい話ではなく、「職業・作家」としての内容で通してみようと思っている。
さて、今回は「長州ファイブ」ということで、私としては今回萩に行くまでは全くこの呼称を知らなかったのであるが、萩観光と萩の取材旅行の「旅土産」として、この内容を書いてみたい。もちろん歴史に関する内容である。
★ 長州ファイブとは
そもそも「長州ファイブ」とは何か。萩市の博物館で「これから長州ファイブのビデオを放映します」と案内があったので、私が感じたのは、「平日なのに、地元の戦隊ものヒーローのショーでもあるのか。いや、平日だからビデオなのかな」と思ったのが実態である。まあ、何か地元の特産などを付けた「ゆるキャラ」と「戦隊ヒーロー」は、地元町おこしの定番であり、まあ、そのいっかんであろうかとおもった。何しろ萩市の博物館は、入り口は歴史博物館というよりは、萩周辺の生物やダイオウイカの展示があるので、そのような想像をしても別段おかしくはない。またそれらの展示が子供でもわかりやすいような工夫がしてあるので、「長州ファイブ」なるヒーローがいて、おもしろく地元の歴史や地理を教えるということも蟻かなと思った。
しかし、違った。
実際には、ばっちり歴史である。そこで、萩市のホームページよりその部分をそのまま抜粋させていただく。
<以下抜粋>
長州ファイブ
日本が欧米列強の植民地化の危機にあった幕末期、国禁を破って命がけで英国へ渡った長州出身の5人の若者たち。
彼らはそこで西洋の近代文明を積極的に学び、帰国後は、日本の近代化・工業化の舵取りとしてそれぞれの道で顕著な功績を残しました。
近年彼らの評価が高まり、「長州ファイブ」と称えられるようになりました。
19世紀なかば、産業革命により富強を遂げた欧米諸国が東アジアへ進出し、日本を取り巻く環境が激変しました。
とくに日本は、嘉永6年(1853)のペリー来航後、開国か攘夷(じょうい)※かで大きく混乱していました。
※攘夷=外敵(外国の侵略)を撃ち払って入国させないこと
その混迷が続く文久3年(1863)5月10日、萩藩(長州藩)は下関海峡を通航する外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行します。
しかし一方で萩藩はその2日後、5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣しました。
彼らは国禁を破って命がけで密航し、日本人で初めてロンドン大学に留学を果たしたのです。
5人は、攘夷の実現には海軍術を身につけた「生きた器械」が必要だと考え、英国へ渡りました。
彼らは、強大な軍事力を有する欧米に打ち勝つためには、欧米に渡って最新の知識・技術を学ばねばならないと考えたのです。
ところが現地に到着すると、日本と英国との国力があまりにも違うことに気づき、攘夷は不可能であることを悟ります。
こうして彼らは、攘夷を捨てて開国主義へと転じ、欧米の近代文明を積極的に学んで日本を強い国に発展させようと決意したのです。
初代内閣総理大臣 (内閣の父)
伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
1841~1909
吉田松陰が主宰した松下村塾で学ぶ。英国留学から帰国後、倒幕運動に参加した。
維新後、政府の参与に登用され、岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。
明治6年(1873)参議兼初代工部卿(こうぶきょう)となり、日本の工業化の礎を築く。
内務卿を経て、明治18年に初代内閣総理大臣に就任。
その後枢密院(すうみついん)議長として憲法草案の審議に携わるなど、明治憲法発布および立憲制確立に尽力した。
計4度組閣し、元老として政界に重きをなした。
初代外務大臣 (外交の父)
井上 馨(いのうえ かおる)
1835~1915
藩校明倫館で学ぶ。英国留学から帰国後、倒幕運動に参加した。
維新後、政府の参与に登用され、明治3年(1870)造幣頭(ぞうへいのかみ)となり、大阪の造幣寮(明治10年造幣局と改称)開設に尽力。
大蔵大輔や工部卿を経て、明治12年 外務卿となり、欧化政策を進めて鹿鳴館(ろくめいかん)時代を現出し、第一次伊藤内閣の初代外務大臣となる。
農商務・内務・大蔵大臣などを歴任し、元老として政界に重きをなした。また財界にも幅広く尽力した。
工部卿 (工業の父)
山尾 庸三(やまお ようぞう)
1837~1917
箱館(現 函館市)で洋学を学ぶ。英国留学から帰国後、明治3年(1873)工部省の設置に尽力する。
翌年政府に建白書を提出し、工学教育を担う工学寮(明治10年工部大学校と改称、現 東京大学工学部)の創設を実現して、工学頭兼測量正に就任した。
明治5年 工部大輔、明治13年 工部卿に昇進し、製鉄・鉄道・造船を中心とする日本の工業化に多大な功績を残す。
その後は工学会(現 日本工学会)の会長として後進を育成し、盲唖学校の設立にも尽力した。
造幣局長(造幣の父)
遠藤 謹助(えんどう きんすけ)
1836~1893
萩藩の博習堂(西洋兵学研究機関)で学ぶ。英国留学から帰国後、慶応2年(1866)藩主が英国人と会見した際に通訳を行う。
明治3年(1870)造幣権頭(ごんのかみ)となり、大阪の造幣寮(明治10年造幣局と改称)で貨幣鋳造の近代化を推進。
しかし、お雇い外国人キンドルと意見が合わず、明治7年 大蔵大丞に転任する。明治14年 造幣局長となり、技術者を育て、日本人の力だけで銅貨鋳造に成功した。
局内の桜並木を「通り抜け」として市民に開放した。
鉄道庁長官 (鉄道の父)
井上 勝(いのうえ まさる)
1843~1910
箱館(現 函館市)で洋学を学ぶ。英国留学から帰国後、明治4年(1871)鉱山頭兼鉄道頭に就任。翌年鉄道頭専任となり、新橋・横浜間に日本初の鉄道を開通させた。
明治10年鉄道局長となり、大阪に工技生養成所を設立し技術者を養成、日本人の力だけで京都・大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネルを完成させた。
工部大輔などを経て、明治23年 鉄道庁長官に就任。明治29年 機関車の国産化を目標に汽車製造合資会社を設立した。
<以上抜粋 https://www.hagishi.com/oidemase/greatman/chosyufive/>
吉田松陰以降、長州藩は海外への渡航(視察)して、日本と海外の違いを目の当たりに氏、海外を学ぶということを考えていた。吉田松陰は、外国船に乗り込もうとして失敗しているし、木戸孝允は海外渡航根以外を出している。高杉晋作は、公務で上海に視察旅行に行っている。そのような中で海外に「留学する」ということを行卯に当たりこの五人に白羽の矢が立ったということである。
白羽の矢が立ったということは、ある意味で「優秀であった」ということであるが、もう一つの観点として「藩の要職にあったわけではなく、また、外国でなんらかの形で帰ってこない(当時は病死などもあるし、殺されてしまう危険性も少なくない。何よりも、帰国時に幕府につかまって刑死してしまう可能性もある)可能性もあり、そのような意味で、藩に撮って優秀ではあるが現時点で必要ではない人物」というのが選考基準である。そのうえで、精神的にタフで多少の苦労にめげないということと、長州藩に忠誠心が向いていて佐幕派ではないということが重要なポイントになるのではないか。
そのような意味でこの5人が選ばれた。
何しろ下関で外国と戦争している2日後に横浜から出港するというのであるからなかなか興味深い。片方で「攘夷」と言いながら、片方で「外国の技術を学ぶ」ということをするのである。まあ、そのような意味では、反論そのものが矛盾しているようにみえるが、ある意味で「外国に追いつき追い越せ」ということと「和魂洋才」ということは、変わっていなかったのかもしれない。この辺も吉田松陰の影響であったのだろうか。
ある意味で、このような五人の行動を行わせた毛利敬親という君主が最も素晴らしかったのではないか。今は着に行くとどこでもこの長州ファイブを見ることができる。
★ キャラクターシート
はっきり言って五人分のキャラクターはなかなか難しい。しかし、この5人は既に、萩市内で様々なところで映像化されてしまっている。しかし、その一人一人の物語ということに関しては。なかなか出てきていない。ちなみに私は、伊藤博文と井上馨に関しては、政治家としてあまり高い評価をいしていない。山県有朋の言うように、「高杉晋作には遠く及ばない」という感じであろうか。しかし、言い方は悪いが「凡人が努力と信念で何とかする」ということを、あまり苦労するのではなく、「皮肉屋」的な書き方をするとおもしろいのではないかという気がするのである。五人のキャラクターをうまくすると、本当に「戦隊もの」的な作り方だできるので面白いかもしれない。
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