「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 最終回 木戸孝允

「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 最終回 木戸孝允


 令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。そのことから、今回のゴールデンウィークは、日本の幕末ということに関して見てみたいと思っている。

さて、本日でゴールデンウィークも最終日である。長かったような、短かったような、そんな感じではないか。毎週月曜日は「日本万歳!」なのであるが、先週と今週は連載をお休みしてゴールデンウィーク特別の蓮井にしている。ゴールデンウィークも最終日ということは。この連載も最終回ということになる。何となく、以外に好評だったので、もう少し精査して、今後またこのような連載も面白いのかもしれないというような気がしている。まあ、また取材旅行などに行ってみたり、あるいは過去の作品のキャrクターシートを公開するような感じでも面白いのかもしれないが、その内容を見てみればまた何かおもしろいのかもしれない。

さて今回は萩取材旅行の内容の最終回ということで、やはり「維新の三傑」の一人、木戸孝允、昔の名前は桂小五郎を書いてみたい。色々と謎が多い人物なので、その内容を見てみよう。

★ 木戸孝允

天保4年6月26日生まれで藩医和田家の子供であるが、幼少の時に藩士桂家の養子になる。吉田松陰の門弟で江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学んでいる。安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となっている。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った。

基本的に池田谷事件(多くの尊王攘夷の志士が新選組に切られた事件)辺りから、尊王派の中心人物とみなされ、常に命を狙われるのであるが、しかし、そのような中で基本的医常に逃げている。「逃げの小五郎」というようなあだ名が出てくるくらい逃げ足が速く、同時に運が良かった。

ある意味で、これ等の人々の中で「運が良い」というのは、一つの才能であろう。少し時代は違うが、日露戦争の時に、バルチック艦隊と戦わなければならない日本の連合艦隊司令長官に、海軍が東郷平八郎を推挙する。この時に、明治天皇は、何故当時の艦隊司令をやっていた上村彦之亟等ではないのかという質問を行ったところ、山本権兵衛は、「統合は何分、運のいい男でございますから」という解答をし、明治天皇の許可を得ている。当時舞鶴鎮守府将軍でほぼ引退に近い東郷を「運が良い」ということで連合艦隊司令長官に任命した当時の海軍と明治天皇の英断は、やはり評価すべきであると思うが、同時に、運が良いということが、「神に見放されていない」ということと考えて、それを価値に結びつけるというのは、なかなかおもしろい。当時は化学一辺倒ではなかったので、そのようなことが往々にしてあるのであろう。その意味では、桂小五郎も「運のよい男」なのであった。

まさに、この男は、ある意味で「この男の行くところに事件があるが、しかし、この桂小五郎だけは常に無事になっており、また、逃げることがうまかった」ということであり、同時に、その運が良かったということである。

はっきり言ってどの陰謀にも桂小五郎が入っているし、私が書いた「天狗党」に関しても、その首謀者の藤田小四郎を口説き落とし、反政府・討幕・攘夷の軍を挙兵させたのは、桂小五郎である。桂小五郎は、維新の三傑に数えられるが、実際には彼自身は全ての場面に存在し、そして自分の足で苦労をしたが、彼が成し遂げたものはなく、他の人に成し遂げさせたことで物事が出来上がっているのではないか。

そのような意味で、桂小五郎がやったものは、「薩長同盟」である。しかし、これも長州藩の中心として行っているモノであって、彼が主体的に行ったものではなかろうか。

私の感覚で言えば、「常に足で現場にいてすべてを見ている人であるが、吉田松陰や高杉晋作のような天才ではなく、努力と足で稼ぐ秀才」ではなかったかという気がする。そのことから、彼自身の内容はほとんど功績として彼が単独で行ったものは彼から発せられた内容が見えていない。そのことがまさに彼の性格を持っている。

★ 木戸孝允評

では同時代の人々はどのような人物と映っていたのであろうか。

吉田松陰は「桂は厚情の人物なり。此節諸同志と絶交せよと桂の言ふを以って勉強守之」と言っている。天才であるとか頭が良いというものではなく「厚情の人物」というような評価を与えている。ある意味で「相手を否定せず、また相手を説得するということに非常に長けていた」ということではなかったか。

同様の事は松平春嶽も言っている。「木戸と大久保とを比較すれば、維新の際の父母とも言うべきである。大久保は父であって、物が言いがたいが、木戸は母であって、話を聴くことが上手であった。大久保は一向面白みのない人であるが、木戸なら誰でも話ができる」ということである。

後輩にあたる伊藤博文は「木戸公は才識に富んで居る方の人で、どっちかと云えば寛仁大度にして、識量のある人と云ってよい。大久保公の方は所謂沈毅にして忍耐の方で、容易に進退することをしない人である。木戸公はどっちかと云えば識の高い人だから、識に依って事物を判断して往こうと云う人ゆえ、自ずから忍耐の力は大久保公に一歩を譲って居った。その代り識力の方は大久保公も一歩を譲って居った」と言っている。

要するに、色々な人とはなしができ、その藩士によって得た知識を組み合わせてその内容をシッカリと形にしてゆく「秀才型政治家」ということになろうか。そのような意味でストレスが非常に大きな内容になるということではなかった。

木戸孝允はそのような感覚からストレスフルな生活をしていたものと思い、大腸がんであったと考えられ、晩年はその癌が肝臓に転移し、それが元でなくなっている。

ちなみに、明治10年、明治維新を作田人々がみな、子の10年のz年後に亡くなっている。西郷隆盛も西南戦争で、木戸孝允は病気で、大久保利通は紀尾井坂の変で襲撃され死んでいる。ある意味で時代を作った人は、この時代を作る役目を終えて見なこのよからたいじょうしてしまったようなきがする。実は、教育と思想の分野で非常に甲をなした私が上梓した本の主人公山田方谷も、10年に亡くなっている。そのように考えると、この時に明治10年が、ある意味で「時代の変わり目」であった。逆に言えば、様々な役目の人物があり、その人b栂幕末から幕府を倒し、明治天皇の治政の基盤を作るということを行い、そして後進に邪魔をしないように身を引いて行く。

まさにそのような人物であったのではないか。

★ キャラクタシート

 この人を演じるのは、「陰謀策謀家であるが人的魅力のある人」もっと言えば「詐欺師」と演じられる人である。二面性があり、その中で心的に苦労しながら人前では笑顔を作れる人物というのがこの内容ではないか。ある意味で、キャラクターシート的には、あまり明るくなく温厚な人物ということになるので、老成した笑顔のチャーミングな男性というような感じになり同時に「雄弁ではあっても聞き上手」という人であるということになる。そのような人物であれば、当然に、プライベートとの二面性もあるので、そのようなことも書かなければならない。ある意味で「木戸孝允のプライベート」を焦点をあてて書いたら面白いのかもしれない。

宇田川源流

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