「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 6 吉田松陰
「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 6 吉田松陰
令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。そのことから、今回のゴールデンウィークは、日本の幕末ということに関して見てみたいと思っている.
ゴールデンウィークの後半である昨日から、先日取材旅行に行ってきた萩、長州藩の人物について書いている。昨日は、毛利敬親について考えてみた。今回の幕末殿の特徴は、私がこの人物を物語で登場させる場合のキャラクターというようなことまで考えてみたいと思っている。その意味では、もちろん多くの人の「反論」があると思う。まあ、人物というのは、当然に人間であるからよい面も悪い面もあるし、同じ内容が人によってよく映ったり悪く映ったりする。そのように考えれば、当然にその内容に関して、反論や賛同があってしかるべきであろう。
さて、そのような意味でまた賛否別れる人物は、吉田松陰である。
★ 吉田松陰とキリストの類似点
吉田松陰という人物は非常によくわからない。しかし、現在萩観光に行けば、基本的には吉田松陰「推し」であり、維新の三傑といわれた木戸孝允(桂小五郎)などは全く関係ないという感じであろう。伊藤博文にしても、また、山県有朋にしても、維新以降明治時代に活躍した人々はすべて「松陰門下」ということになっており(もちろん真実なのであろうが)、同時に、その影響を受けたなどという人物も少なくない。単純に「吉田松陰門下でなければ、長州藩士にあらず」というような感じである。
もちろんほかの反にもそのような人物は少なくない。備中松山(現在の岡山県高梁市)における山田方谷なども同様の内容であり、その影響力を強く残した人は少なくない。しかし、吉田松陰が不思議なのは、「約2年間しか人に教えていない」ということなのである。
たった2年間でこれほどの影響力を与える人物とはどのような人なのか。ある意味で「キリスト」に近いのかもしれない。ここでキリスト教を信じている人にとっては不謹慎かもしれないが、あえて「吉田松陰」と「キリスト」の共通点を見てみよう。
もちろん主張している内容は宗教ではないし、吉田松陰は紙に言及しているわけではないので、二人の内容は全く異なるし、また、片方は神(神の啓示者)であるが、片方は一藩士でしかないので、その意味でも全く異なる。
しかし、まずはその主張が開明的でわかりやすいということは二人の共通点で郎。同時にその内容は、今までの古い価値観を完全に打破するものである。もちろん、キリストの方は宗教や神の関する内容でありまた神話の世界の内容に関しての主張であったのに対して、吉田松陰は同様に「神君」といわれてはいたが、徳川家康以降の江戸幕府の伝統と文化260年の内容に反対する内容であった。実際に本当の神の言葉なのかどうかではなく、ある意味で当時の人bとの心の中には、それまでの宗教の話もまた、神君家康の掟も、「金科玉条」のごとく犯してはならないものばかりであったはずで、そこに切り込んだということは、少なくともその時代の人々に対する影響力としては似ていると思われる。
二つ目には、キリストも吉田松陰も、実際にその人自身が人々や門下生に、教えたのはかなり短い期間であった。吉田松陰は、最も長いと解釈しても2年間、松下村塾を開いてから安政の大獄で投獄されるまでは1年少しでしかない。キリストも同じで、さすがに二年ということはないが、やはり処刑されるまでには数年しかない。そのような意味で直接の言葉が少ないということがもう一つの類似点になる。
そして三つ目には、二人とも処刑されたという事であろう。ここは議論の余地はない。キリストは、十字架に貼り付けになったし、また吉田松陰は刑死している。
四つ目は、その門下生がその偉大さを話している。文章などが残っているということになるのであるが、その解釈などもすべて門下生が行う。キリストに関しては、13人のうち一人が裏切ったことになっており、残りの12人の「使徒」が布教をした。一方の吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄随だけではなく、初代の総理大臣の伊藤博文も、日本陸軍の父である山形有朋も日露戦争時の首相の桂太郎も、主だった人はすべて松下村塾の出身者で、その人々が松陰神社を建立している。このように考えれば、「使徒」「門下生」がしっかりとその功績を伝えているというのが共通点ということになる。もちろんそこは門下生の功績が素晴らしいということもあるし、また、その人々が一様に師匠のことを素晴らしいと話した。そういうことなのであろう。
そして最後の共通点として、二人とも若くして死んでしまっていることから、「伝説」になっているということではないかと思う。その主張が、政治権力によって虐げられたということから、ある意味で何のマイナスのことが見えなくなり、善い事だけがすべて大きな内容になったのである。ある意味で、赤穂浪士の荻生徂徠の論理ではないが、「死んで名を残すことで後世まで伝説が残る」ということになったのである。もちろん元が立派な人物であったと思うが、それ以上に伝説になり、同時に陋習を晒すことなく、現在までよい記憶が残っているということになるのである。
★ 吉田松陰の実像
吉田松陰は非常に素晴らしい才能の持ち主であったが、どうじに「身分制」「鎖国」というこの二つの「因襲」を廃止することの重要性を考えていた。吉田松陰の育ち方の中で、何がこのような思想にしたのかはよくわからないが、しかし、彼の学んでいる思想はそのような思想になることに近いのではないか。
吉田松陰に影響を与えた思想は、次のとおりである。
魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。
王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。
文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった。
九州の平戸藩に遊学し、葉山左内のもとで修練し、江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ。東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
ある意味で「情報」の重要性と戒告的な考え方をしていたようであり、また陽明学的一元論を行動の原理に持っていたのではないか。そのように考えれば、吉田松陰の考え方はかなり見えてくるのではないか。
吉田松陰の考えは、「情報を持つこと」「身分制をなくして平等であること」などがあり同時に「尊王思想に基づく一君万民の考え方をしっかりと持っていた」というような感覚ではないか。この考え方が、そのまま高杉晋作の「奇兵隊」につながる内容になるのではないか。そして上記のように伝説になるということが、そのまま現在にまでその思想を純粋な形で伝えているということではないか。
★ 吉田松陰のキャラクター
さて、私が小説にこの吉田松陰を登場させるとすれば、まずは破天荒な人物として描くと思う。何よりも、「常識的な人物ではない」ということと同時に、「人間的な魅力があった人」というよな事ではないか。つまり、人間的な魅力が無ければ、人を引き付けることはない。そのように考えれば「冗句も言えて、面白く、人に愛される人物」であるということになるのではないか。そしてその内容が、「常識的な人物」「保守的な人物」に嫌われる「お調子者の鋭い人物」ということになるのではないか。
非常に素晴らしい才能の持ち主だが、しかし、その学問的または政治的または経済的なすばらしさよりも、人間性のところに重きを置いているということではないか。
さすがに、キリストに似せて書く、などということは私もここに書く気はないが、キリストも似たような人物であろう。日本のような律儀で不文律が多い国には、そのような人材は少ないので、そのようなちょうどよい人物がない。しかし、そのようなキャラクターを作り出すということになるのではないか。
0コメント