「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 5 長州藩主 毛利敬親
「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 5 長州藩主 毛利敬親
令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。そのことから、今回のゴールデンウィークは、日本の幕末ということに関して見てみたいと思っている。
ゴールデンウィーク前半は、幕末という時代について様々感じることを書いた。今回は4月17日から取材旅行で山口県に行ってきたので、「長州」という藩の人について考えてみたい。
その第一回は、やはり、幕末の藩主毛利敬親である。
毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げた長州藩主である。毛利親著の長子で世襲家老家一門八家の一つである福原家当主・福原房純の養嗣子である福原房昌(のちの毛利斉元)の長子として生まれた。天保7年(1836年)6月12日、教明は萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸にいたとき、俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。洪水があって3か月とたたない天保7年(1836年)9月8日に父が死去し、その跡を継いで12代藩主となった毛利斉広も幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずで死去した。どうもこの時期、疫病が流行っていた上に、洪水によって衛生的に良くない状態であるので、多くの人が疫病の犠牲になったのであるが洪水の影響で客殿に避難いていた敬親は疫病の難から逃れたのではないか。
兄毛利斉広は、非常に優秀で、萩藩の多くの人が期待した人物であった。しかし、その兄が早くに亡くなってしまったことは、多くの人の失望を招いた。逆に言えば、敬親からすれば、失望の中、あまり期待されずに藩主になったということである。これは、まだ18歳と若い敬親にとっては、かなり厳しい状態であり、後々までコンプレックスになっていたのではないかと思う。
さて、私の興味は、「薩長」と言われているが、この聴衆の毛利敬親は、全く出てこないということである。はっきり言ってしまえば、薩長土肥と言われる四藩のうち、肥前佐賀藩は、技術革新などが早く強かったので、後になって引き入れられ、それまでの幕末に政治的な動きはしていないどころか、「藩鎖国」をしていたくらいであるから、全く何もしていないので、鍋島氏が全く出てこないということは理解できる。しかし、積極的に尊王の旗を掲げ、また藩が主体になって下関で外国船に大砲を撃ちかける(いわゆる下関戦争)などのことを起こしており、また、二度にわたる長州征伐への対応などがあり、本来ならばその先頭に立つはずの藩主敬親が、ほとんど出てきていない。それどころか朝敵の汚名を着せられてそのままになっている。そのような状況でありながら、長州藩の藩士は明治維新で活躍しているという、非常に不思議な「人物」なのである。
★ 毛利敬親の藩政改革
幕末から、この明治維新の間に、毛利敬親という人物は何をしていたのか。何を考えていたのか、藩士との関係はどうであったのかということが非常に気にかかる。島津斉彬や島津久光、土佐藩の山内容堂とは全く異なる人物なのである。
この意味で毛利敬親の政治姿勢は同であったのか。藩主就任後の天保9年(1838年)、初めて国入りをした時に家臣団に書いた訓示で、「思いがけなく家督を継ぎ、当惑している」「これまで藩主になる見込みのない部屋住みだったため、前藩主の直伝もないまま藩主になった」「若年で経験不足の自分一人で判断せず、補佐の家臣たちと分け隔てなく相談して政務にあたる」と率直な気持ちと決意を述べているというエピソードがある。そのうえ、この発言にある通り、が、これは、本人が自分の事を最もよくわかっているというものではないのか。逆に言えば、この発言がそのまま実行された藩主ではなかったか。そのうえで、藩の財政があまり良くないことはよくわかっていた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという。
このように、毛利敬親の前にあったのは、間違いなく「財政再建」と「人材育成」そして幕末にある「技術の近代化」ということであろうか。これ等を行うに当たり、毛利敬親は、自分が先頭に立つのではなくそれを行う人物を育成しそれを任せるということができた。任せることができる人物は、自分が英傑であるということよりも非常に強い。
毛利敬親は、まずは財政再建において村田清風を登用する。村田は、藩校明倫館では優秀な成績を修め、学費免除の上、明倫館書物方となり、その後小姓として藩主の近くにいた。その後敬親まで5代の毛利家藩主と共に動いている。財政再建策として三七ヵ年賦皆済仕法(家臣団の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの)を採った。これは家臣と商人との癒着を防ぎ、身分の上下の区別を付ける目的もあった。次に、藩はそれまで特産物である蝋を専売制にしていたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許した。その代わり、商人に対しては運上銀を課税した。さらに、この頃の下関海峡は西国諸大名にとっては商業・交通の要衝であったが、清風はこれに目をつけた。豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、越荷方を設置したのである。越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、いわば下関を通る貿易船などを保護する貿易会社である。このような清風の財政改革により、長州藩の財政は再建されていった。要するに藩士の癒着を防ぎ、そのうえで下関の海運に関して指定業者制度と税金を課したということになる。癒着の防止と専売制、そして新規課税は、どの時代も財政再建の中心となる。
しかし、このような改革は、逆にそのことで利益を上げていた人々の反発を買うことになる。そのようなことで、長州藩も「保守派」と「正義派(後の討幕派)」との間で対立が深くなる。
しかし、毛利敬親は、自由に物事を言わせながら、最終の決断をすべて自分自身で行ったということから、この難局を乗り切る。逆に言えば、部下に自由に行動させて、そこに予算まで作るが、大きなことはすべて自分で決断するということになっているのである。藩において藩主の決断は、最終決定であるから、その決断を覆すことはできない。まさにそのことが、この長州藩の最も大きな力になったのではないか。
もう一つの人材育成に関しては、江戸に文武修業の場である藩校・有備館を建設。領内の実態調査を実施し、天保14年(1843年)には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも努めた。敬親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年(1849年)に国許の藩校である明倫館の改革をも断行した。
そのうえで、ペリー来航に衝撃を受けた敬親は周布政之助を登用する。周布政之助は、家老益田家の分家であり藩の幹部、一時期長州藩の実質指導者。下級藩士だった吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、大村益次郎らを抜擢し、明治維新の基礎人事を起こした人物である。藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱え、藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後、敬親は周布を重用し藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始することになる。
しかしこれらの改革と、藩士を自由に行動させたことが、禁門の変を起こさせ、本来は尊王思想で、孝明天皇の意向に従って攘夷を行っていたのに、いつの間にか朝敵になり、また、幕府から長州征伐の対象となってしまうということになる。ある意味で、自分で決断しながら部下の暴走を抑えられなかったということではないか。この長州征伐においても、家老三人を切腹させ、そのことで毛利敬親は改易などを免れている。なお、この文章はずっと「敬親」と書いているが、この長州征伐までは、将軍家慶の偏諱で「慶親」と名乗っていたが、長州征伐の時に「慶」の辞を取り上げられ、それ以降「敬親」と名乗っているのである。
その後も前に出ることなく、部下に任せていた。
毛利敬親とはそのような人物ではなかったか。
★ 小説に書く場合のキャラクター
今回のゴールデンウィーク特別は、私が小説に書く場合にこの人物のキャラクターをどのようにするのかということ、ある意味でプロットよりもキャラクターシートを仮に作ってみたい。
さて、毛利敬親は、「コンプレックスを強みに代えた人物」という感じで書くのが最も面白い。ある意味で「自分は兄(後に養父)に遠く及ばない」というコンプレックスが、全てであり、それが良い方に出たり、悪い方に出たりというような感じで書く。禁門の変なども、その暴走を抑えることができないのは、真木和泉や久坂玄瑞が優秀であり、自分にはない良さを持っているからというような感覚があったのではないかと推測する。
逆に、それらをすべて受け入れることによって、「自分はいつ死んでも構わない」というような感覚を持っていたのではないか。ある意味で「自分が死ぬ」ことはそのまま「自分より優秀な人が藩主になる」というようなことになる。それは、妻との間の一男三女が、全て夭折してしまうということもあり、自分はそのような運命にあるのではないかという気がするのではないか。そのようにして「自分は残すものがない」ということから、様々なことが挙げられる。
そのようなキャラクターであるから、ある意味で、同郷の安倍晋三元首相などと同様に考えてみればよいのかもしれない。
さて、問題は敬親の正妻で、兄で養父斉広の娘毛利都美子のキャラクターであろう。ここはもう少し悩みたいところである。
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