「宇田川源流」 単なる歴史ではなく「物語」を望む観光客
「宇田川源流」 単なる歴史ではなく「物語」を望む観光客
少し経済の話をしてみたい。さて、「歴史遺産」や「日本遺産」等への登録が一つの政治的なテーマになっている場所は少なくない。「○○遺産」となることで何が得をするのかということは別にして、少なくとも遺産としてその施設の内容を保護し、そして未来に残すという義務が生じるのである。しかし、海外はそのようなことは全く考えていないで、例えば戦争で破壊してしまったり、あるいは、歴史を残すというような感覚は全く持っていないということになる。そもそも、韓国などは、南大門など自分達の歴史であっても簡単に燃やしてしまうし、また中国などは、そもそも「共産主義」ということ自体が歴史などを全く重視しないということを基盤とする思想「唯物史観」を持っているのであり、その施設が「現代に生きる自分たちの即物的な欲求を満たさなければ価値がない」と考える思想を持っている。そのようなことから、韓国や中国の人々または日本人であっても共産主義者といわれる人々の中には、(決して全員とは言わないが)歴史的価値を全く感じない人があり、その様な歴史の遺産を重視しないような思考の人が少なくないということになるのである。日本の国内でもそのような事件が発生し、またギリシアやイタリアの歴史遺産に落書きをするなど、全く大事にしない事件が発生している。
さて、ではその価値というのはいったい何なのであろうか。実際に、私のように歴史が好きな人にとっては、歴史そのものの価値をなんとなく感じているのであるが、しかし、そうではない人々に関して言えば、歴史の価値などは語る必要もないという感じであり、また、そうではない人でも「歴史」ということにン関して価値を感じているということになるのではないか。
ではその「歴史」の価値というのはいったい何なのであろうか。
富岡製糸場がピンチで「入場無料」? 「入場者が激減し、採算ラインを下回っている」
1月初旬のある休日、群馬県富岡市にある世界文化遺産・富岡製糸場の周辺には上州名物の空っ風が吹いていた。連休とあってか、ひっきりなしに訪れる見学者。もっとも、その何割かは無料の入場者だ。
「製糸場の見学料は大人が千円となっていますが、もともと富岡市民は無料です。これに加えて1月1日から1カ月間、市民が同伴すれば市外在住者も1名が無料になるキャンペーンを始めました。狙いとしては、都会などから帰省している人たちが家族と一緒に来てくれるという想定でしょうか。実際、正月三が日の出足を見ている限りでは去年よりも良いと思います」(富岡市の世界遺産観光部富岡製糸場課)
ちなみに、富岡製糸場には国宝となっている建物が3カ所もある。東置繭所(ひがしおきまゆじょ)もその一つで、壁のレンガは、当時の職人がフランス人技術者から製法を教わって懸命に作ったものだという。近代日本の黎明期、輸出するものがなかった明治政府が、必死に坂の上の雲に向かって走っていた様子がありありと伝わる。
だが、富岡製糸場が明らかにしている入場者数の推移を見ると、世界遺産登録となった2014年度がピークで約133万7千人。この年は敷地が人で溢れるほどだったが、以降、右肩下がりで、コロナ禍で20年度には17万人台にまで落ち込んでしまう。その後は盛り返しており、23年度は37万人程度になりそうだ。それでも、施設の維持保全のためには足りないのだという。
製糸場の運営は国や県の補助金と、見学料収入、お土産品の売り上げなどで賄われています。採算ラインといえるのは45万~50万人でしょうか」(同)
何とかあと10万人ほど増やそうと、今回、無料キャンペーンに踏み切ったわけだが、もちろん、それで収入が劇的に増えるわけではない。
「強力なライバルが暫定リストに」
世界文化遺産を担当する文化庁の担当記者が言う。
「日本にある世界遺産は25。そのうち文化遺産は20あり、さらに彦根城や鎌倉、奈良の飛鳥など強力なライバルが暫定リストに入っています。07年に登録となった島根の石見銀山も見学者が減ってきており、かつての盛り上がりはありません」
良質な絹糸を生産するという富岡製糸場の役目は1980年代に終わっている。だが、新たに担うことになった地元振興という役目は、なかなか重荷である。
「週刊新潮」2024年1月18日号 掲載
2024年1月21日 6時6分 デイリー新潮
https://news.livedoor.com/article/detail/25735594/
歴史ということに関しては、様々な内容が存在する。一つには自分たちのルーツということがわかる。そしてそのルーツということに関して言えば、自分たちの民族性や自分たちの考え方などの集合体でありその内容をどのようにkンが得てゆくのかということが重要になってくるということになる。要するに「自分たちの考え方がどうしてこのようになっているのか、自分たちがいまなぜこのように考えるようになっているのかということの足跡」である。しかし、その様なものではあまり面白くないし、そもそも人間が無意識でいるところの内容を、そのまま意識して考えるということは、一般の人はしたくない。
その意味でいうと、これれらの歴史遺産には、一部の歴史家以外には価値がないというような感覚になる。しかし、その様な話ではなく、その場所が物語になっているということが重要なのではないか。
つまり、一般の人々にとっては「物語」が重要なのであり、そして多くの人はその物語を求める。その様な意味でいえば「富岡製糸場」に関して言えば、山本茂美の『あゝ野麦峠~ある製糸工女哀史~』の部隊となっているが、しかしそれ以外の部隊にはなっていない。もちろんなんでも小説の舞台にしてよいというものではないし、アニメの「聖地巡礼」のような形にしてよいという話ではないのかもしれな。しかし、一方で歴史を知るということは、そのままその歴史に関して現代人感覚でわかりやすくドラマ化しなけレば、なかなかその内容が入ってこない。現代の人々の歴史観というのは、まさに歴史そのものをそのままにしながら、そ恋物語性を全く感じない人が少なくない。
毎週水曜日に書いている大河ドラマなどでは、「歴史と違う」などというような意見が多数寄せられるのであるが、しかし、一方で「歴史」を学び、また親しむためには、その歴史に近い「物語」として現代の人々の感覚で理解させるようにしなければならないのではないか。そしてそのような「物語の解釈」があるから、同じドラマ、同じ物語でも全く異なる内容のものが出てくるのである。
その様に考えれば、「保護する」だけではなく、「その遺産に親しむ」というということをしなければならないし、また、その内容をいかに考えて自治体だけではなく、多くの人が親しみながら遺産を保護するのかということが重要になってくるのである。そしてそのような感覚がなければ、遺産の保護は負担にしかならないということになるのである。歴史にはあならず「物語」を現代の人々に伝えられる人を使うべきであろう。
その様に考えれば、しっかりと物事を見てゆかなければならないのではないか。
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