「宇田川源流」【宇田川版教育論】 受験勉強の弊害をいつ日本は直せるのか

「宇田川源流」【宇田川版教育論】 受験勉強の弊害をいつ日本は直せるのか

 毎週水曜日は「宇田川教育論」か「大河ドラマ」に関してお話をさせていただいている。ニュースの解説ばかりでは肩が凝ってしまうので、一週間の真ん中は少し気を抜いた話ができるようにということで、大河ドラマに関しては「現在よりも過去について、そしてテレビドラマということに関して話をする」ということを、また「宇田川教育論」に関しては「若者を教育するということを通して、日本の将来を考える」ということをテーマにしている。要するに水曜日は、いつの間にか「現在ではなく、過去や未来を語る日」というようなテーマになりつつある。もちろんそのようなことをはじめから企画したわけではないのであるが、いつの間にかそのようなテーマになっている。

今週も「教育論」をお届けしよう。

さて日本の学歴社会は解消されたというが、本当であろうか。実際に、社会そのものは学歴社会ではなくなってきているような気がするのであるが、逆に、学生は「受験」ばかりで話にならなくなってきているのではないか。本来、学校というのは、進学塾や受験予備校とは異なり、人間らしさや、道徳ということを、勉強(体育や家庭科などを通してという意味も含めて)を通して行うべき場所であり、その意味で単純に成績だけが重視されるような場所とは異なるというような解釈をしていたが、どうも最近ではそうではないようだ。基本的に中学や高校が受験での合格率を気にし始め、そしてどのような大学に入るのかということを公表するようになっている。

基本的に大学受験において、体育や家庭科、または性格や道徳が問題になることはほとんどなく、また、受験の場合は「記憶力が良ければ合格する」「受験のマニュアル通りに、テクニックを覚えれば合格する」というような状況になってしまっていて、しっかりとした学びができるものではない。はっきり言うが私自身、それなりの進学校にいたし、またそれなりの大学を出ているが、社会人になってこの年齢まで「円周率」というものは全く使ったことがない。文系であるが故であるとは思うし、当然にそれ以外の数学の計算方法、微分や積分なども、全く使わないで生きている。それでも生活が成立しているのである。

ではなぜ「いらない知識」を勉強しなければならないのか。

モーリーがあえて言う。「日本の″受験教育″はもう終わりにしたほうがいい」

 『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、日本の受験偏重教育と、現代社会とのミスマッチについて考察する。

* * *

 私は「東京大学とハーバード大学に同時合格した」という紹介のされ方をすることも多いのですが(もう40年以上前の話です)、近年よく考えることがあります。

 昭和から続く日本の受験偏重教育は、もう終わりにしたほうがいいということです。

 確かにこのシステムは、かつてはメリットも大きく、機能していたのでしょう。個人的にも、「戦争」といわれる受験の過程で手に入れたものがないわけではありません。

 例えば理不尽に対するタフさは身についたでしょうし、若い時期に、苦い薬を飲むように無理やりにでも基礎学力を染み込ませたことは貯金になっています。実際にそれらが役に立ったことも少なからずありました。

 しかしながら、それを踏まえてもなお、やはり今の時代においては弊害のほうが大きいと思うのです。

 特に重大な「毒」は、受け身の姿勢をとことんインストールされること。そして、「この世界で知るべきことはすべて試験の問題に出る」という条件付けがなされ、世界観が「井の中の蛙」になることでしょう。

 基本的に日本の入試(大学、高校、中学問わず)は、何をすれば高い評価を得られるか極めて明白な、シンプルなルールのパターン化された点取りゲームです。

 閉ざされた誰もがその対策に全力を注ぎ、それ以上のことをしようとしない。すると、与えられた課題に対しては好パフォーマンスができても、頼まれてもいないことを突き詰めて考えたり、「答えのない問題」や「答えが複雑で状況に応じ変化する問題」に太刀打ちできる釤能動的な想像力・創造力釤は身につきません。

 言い換えれば、現状維持あるいは右肩上がりのリニア(直線的)な社会では強いけれども、現代のような激しい変化への対応力には大きく欠けるということです。

 これをシステムの面から見ると、シンプルなペーパーテストの点数だけで合否を決める現状の「一律平等」な入試問題では、「唯一の正解」がない複雑な課題を解決するために経験、洞察、見識を総動員して「主観的に判断する」能力は判定できない、ということになります。現実世界(特に変化の激しい時代)では、それこそが最も重要な能力なのですが。

 個人的な経験をいえば、東京大学にほんの少しだけ通った後、ハーバード大学に転校すると、自分の想像力や学習方法(試験に出る内容だけを要領よく最低限学ぶ)が硬直化していたことを思い知らされました。

 日本の受験戦争で「模範的」とされる学習と、アメリカの名門大学で放り込まれたディベート教育、人文と科学をクロスオーバーさせる教育とはまったくの別物だったのです。

 あくまでも印象論ですが、ビジネスの世界でも、変化の速度が指数関数的に上がり始めた2000年代以降はその影響が強く出ているように感じます。

 グローバルレベルでイノベーションの重要性が叫ばれる中、日本の起業家たちの多くは基礎研究でのブレークスルーや新ジャンルの開拓よりも、サービス設計の妙手でビジネスを成功させようとしている。もちろんそれでも成功するのは大変なことだと思いますが、既存の枠の中での最適解を探ることは、イノベーションから最も離れた行為だという見方も成立するでしょう。

 ビジネスに限らず、国際情勢やグローバルな事象に対して日本人が徹底した無関心に陥りがちなのも、「テストに出ないから」という発想の延長線上にあるように思えてなりません。

 もうひとつ付け加えるなら、戦前から継承されてきた日本社会の「出る杭は打たれる」「異端者を排除する」といった閉鎖性も、受験という統一ルールが金科玉条になり、「一億総中流」の幻想が強固に構築されたことで、いまだに負の遺産となって染みついているように思います。

 文部科学省は20年度以降、学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」を推進していますが、一方で受験ビジネスはさらに活況を呈しているようです。

 しかし、決まった答えに最短距離で行きつく能力が高く評価され、回り道をする知性が貶められるのは昭和40年代の環境設定。今の時代に必要なのは、自分でゼロから基本原理を考える(つまり「WHY」を設定し探求する)能力を幼い頃から身につけ、柔軟に発想できる能力を養うことだと思います。

 とにかく「まずは世界を見ろ」と言いたいところです。

2023年9月4日 6時50分 週プレNEWS

https://news.livedoor.com/article/detail/24922139/

 さて、モーリー・ロバートソン氏については、基本的に賛成できることと賛成できないことがあるが、今回の意見に関しては賛成できるところが多い。日本の受験教育というのは弊害が大きく、同時に、自由度が少なく、また、「回答がない世界のはずなのに回答を追い求めてしまう」というようなことができてしまう。そのような状況では話にならないということになるのです。はっきり言って受験でうまくいっても、また良い大学に入学することができても、社会に出てグローバルな世界では全く役に立たない人間になってしまうのである。

特に重大な「毒」は、受け身の姿勢をとことんインストールされること。そして、「この世界で知るべきことはすべて試験の問題に出る」という条件付けがなされ、世界観が「井の中の蛙」になることでしょう。<上記より抜粋>

そもそも、記憶することしか学ばないのである。数学も公式を覚えろと言われ、また、化学なども化学式を覚えろと言われる。英語に至っては、会話をしたり、耳で覚えるのではなく英単語と文法を覚えるという。そもそも日本語を話すときに文法通りに話している人は、今の日本の中、例えばテレビで見る人々の中で何人いるのであろうか。逆に文法通りではなくても、相手に伝わるというのがコミュニケーションであり、英単語を覚えるよりも、若者の間で流行している略語を覚えたほうがコミュニケーションはスムーズに行われてしまう。つまり、若者社会には通用しない内容を一生懸命教えているのであり、そのうえで「大人はZ世代を学んでいる」というようないびつな状況になっているのではないか。まともに若者とコミュニケーションをとれない大人が、若者に記憶を押し付けているというのが、日本の教育の現在の姿なのであり、そのようなことは全く役に立たない。単純に「一夜漬け」が得意になるだけである。

もうひとつ付け加えるなら、戦前から継承されてきた日本社会の「出る杭は打たれる」「異端者を排除する」といった閉鎖性も、受験という統一ルールが金科玉条になり、「一億総中流」の幻想が強固に構築されたことで、いまだに負の遺産となって染みついているように思います。<上記より抜粋>

まさにこのことも同じで、他の人と同じことを記憶しているのであるから、他の人と同じということに安心感を覚える。論文試験などでは、他の人と同じであれば「盗作疑惑」が出てきてしまい、大学教授になっても自分でオリジナルを作ることができずに盗作論文を出してしまうような人が少なくない。そのようなことで日本ははずかしくないのか。日本の教育界は本当にくるっているとしか言えない。

まさにそのような受験地獄、そしてグローバル社会では全く役に立たない「受験教育」を行っているのが文部科学省である。多分、文部科学省を解体しなければうまくゆかないのかもしれないが、そのような乱暴なことをできる人もいない。何しろ、官僚や、政治家も、今の受験教育のエリートであるから、話にならないのである。

このようなことから、世界の大学ランキングでは日本の大学の順位が毎年落ちている。正解のない世界に、正解があると信じその正解を求める学生しか来ないのであれば、大学が研究機関としてまたは教育機関として発展するはずがない。

教育現場の人々は、「どのような社会に活躍した人がいるか」ということを、中学でも高校でも大学でも、誇るころで、「入学大学や偏差値」を自慢しないようにすることから始めたらどうか。

宇田川源流

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