「宇田川源流」 「サイバー攻撃をされるかもしれない」ということに備えがなかった日本企業とその「平和ボケ」
「宇田川源流」 「サイバー攻撃をされるかもしれない」ということに備えがなかった日本企業とその「平和ボケ」
「平和ボケ」ということが話題になっている。もちろん、ウクライナ情勢に関してそのようなことを言われているのであるが、てれ美の解説者などを見ていると、日本人の平和ボケに関しては、かなり救い難いところまで来ているのではないかという気がしないでもない。
まず、私の立場だけを、ここに書いておく。もちろん、オンラインサロンや有料メルマガにはしっかりと書くのであるが、最近ニュースもウクライナばかりで、コロナ一色の時のようにどこを見てもそのニュースばかりであるから、とりあえずこのブログでも書いておくことにする。
今回のウクライナの問題に関して、ウクライナにはウクライナの事情、ロシアにはロシアの主張があるということはまず理解すべきであり、その両論を併記するようにしっかりと比較的に主張を精査する必要がある。そのうえで、「主張の正しさ」ということではなく、今回はロシアがとった「手段」が悪かったということにほかならない。戦争・軍事的な殺戮をもとに、正義の主張をしても、ロシアの正義を理解する人はいないということになる。よって、手段という意味ではロシアが一方的に悪いということになろう。そして、その手段論の批判に対して、ロシアのプーチン大統領は情報を封鎖する、言論を封じるという手法をとった。もちろん、この「手段」も悪いということになる。
我々が論じるときは、当然に「主張」と「手段」を分けてみるべきであり、その手段に対してどのように制裁を加えるのか、また和平交渉や停戦交渉において「主張」をどれくらい考えるのかということを見なければならないのである。
現在のマスコミで、「主張」と「手段」をしっかりと分けて話をできている人はほとんどいないのではないか。その上、先日も書いたがネットの中ではディープステートなどというような単語が飛び交って全体が陰謀論になってしまっているものまで出てきている始末である。はっきり言うが、陰謀論などは、事件の解決に何の役にも立たない。まずは戦争が起きていて、そこに対して何らかの影響力を持つ原論、いや、そうではなくてもSNSという世界が見ている空間の中で発言をするのであれば、せめて自分の思ったことに加えて、解決に役立つ内容や考え方を示すべきではないのか。意味のない陰謀論を書いても、解決にはつながらないのではないか。
まさに感情論的戦争反対や、意味のない陰謀論を見るたびに、「日本は平和である」と感じてしまうものなのである。
サイバー攻撃受けた部品会社に「脅迫メッセージ」…トヨタ国内全工場を停止、2日から稼働再開
トヨタ自動車は1日、仕入れ先部品メーカーのシステム障害により部品供給が滞った影響で停止した国内全14工場28ラインについて、2日から稼働を再開すると発表した。被害を受けた小島プレス工業(愛知県豊田市)は1日、サイバー攻撃によるウイルス感染と、脅迫メッセージを受け取ったことを発表した。
小島プレス工業は車の内装に使う樹脂部品などを製造している。2月26日夜、社内サーバーの障害を検知し、ウイルス感染と脅迫メッセージを確認した。同27日、再攻撃を防ぐため、外部とのネットワークを遮断。トヨタと部品の受発注などをやりとりするシステムも停止したため、納入業務が滞ったという。警察にも経緯を説明している。
稼働が停止したトヨタの元町工場(同市)では3月1日午前、工場内の従業員の姿はまばらで、正門を出入りする車両も少なかった。全工場停止の影響は1万3000台に上るという。
松野官房長官は1日午前の記者会見で、トヨタ自動車の工場停止について、「原因はサイバー攻撃だと承知しているが、それ以上は調査中だ」と述べた。ロシアによるサイバー攻撃の可能性については言及しなかったが、「ウクライナ情勢を含む昨今の情勢から、サイバー攻撃のリスクは高まっている」と指摘し、対策の強化を呼びかけた。
2022年03月01日 10時54分 読売新聞
https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12213-1496789/
さて、平和ボケといえば、日本のサイバー攻撃に関しても「平和」以外の何物でもない。そもそもこのサイバー攻撃そのものは、間違いなく「犯人」がいるのであって、陰謀論ではないけれども人為的な内容である。もちろん、その攻撃をしてきた人々の狙いは何なのかということまでふくめて、解析をしてゆかなければならない。
さて、日本の場合「何が平和ボケなのか」ということを定義しなければならないのではないか。そもそも「サイバー攻撃は、武器による攻撃と同等の攻撃と見て問題ないのではないか」ということが最も重要であり、時代が変わったにもかかわらず、70年前の国会答弁やせんそうのけいけんによる定義で戦争を定義づけていること自体がナンセンスである。つまり、戦争をしていない、また戦争に関して議論をしていない日本の場合、その戦争という行為に対してアップデートができていない。極端な話、いまだにグラマンの機銃掃射とB-29の爆撃で人が死ぬと思っているのではないか。ちなみに、B-29も当時グラマンといって恐れられたF6Fヘルキャットも、すでに現役を引退しており、博物館以外で見ることはほとんどない(式典か何かで飛ぶことはあるようだ)。あえてこのようなことを書いたのは、日本の戦争や防衛ということに関する考え方が「博物館に飾られるレベル」つまり「古すぎて現代には全く通用しない」ということに他ならないのである。
現在のように、会社の会計も、顧客管理も、また、生産管理からロボットの運用も、それどころか発注や会議内容まで、ほとんどすべてにコンピューターが使われている。もちろん日本の戦後どころか私が子供のころであった50年前は、まだそんなことはなく、人間がアナログで頑張っていた時代である。しかし、時代は変わった。そのコンピューターが止まれば、当然に全てのものが止まってしまう。また、すでにコンピューターに頼り切っている現在の日本人の生活において、それが無くなった時にアナログに戻して対応できる対応力は存在しないのである。
それならば、コンピューターやサーバーをしっかりと守ればよいが、ここになぜか「会社単位」ということになってしまい、国を挙げて、または企業グループや取引先を上げて守り抜くというような「集団で大きな敵と戦う」という姿勢が全くないのである。
商業主義になってしまえば、競合他社がハッキングされている間が商売のチャンスになる。しかし、国家として、それは最大の問題になり、また、その問題において損失はイメージまで入れれば計り知れないということになるのである。
なぜ日本人は「守る」ということに消極的なのであろうか。それは、国内において「私たちはやっていました」という「想定外」に対して責任を負わないという謎の文化があるからにほかならない。想定外が発生しても、そこに対応をして、被害を最小限に食い止めるということが重要であり、それができないのであれば、危機管理などは全く役に立たないということになるのである。
これが日本人の危機に関する意識なのである。今までは、逆に、このような認識で何とか日本は国家を維持できていた。しかし、今後そのような認識で対応できるのか。そのことをしっかりと考えなければならないのである。
0コメント