「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 「最高の主従関係」に書かれた徳川慶喜と渋沢栄一の「ドラマ的人気」

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 「最高の主従関係」に書かれた徳川慶喜と渋沢栄一の「ドラマ的人気」


 水曜日は大河ドラマ「青天を衝け」について、私の感覚で書きたいことを書いている。今年の大河ドラマ「青天を衝け」も今回が第40回、全41回なので次回が最終回ということになる。

 最終回が近くなると、渋沢栄一が若いころから一緒に出ていた人々がどんどんと死んでいってしまう。今回は、従兄渋沢喜作、伊藤博文、徳川慶喜、井上馨が死んでしまう。まあ、伊藤博文に関しては殺されてしまうということになるが、それ以外は天寿を全うするというようなことになる。徳川慶喜に関しては後半に書くので、それ以外のところで、ドラマとして話をできる内容を考えてみたい。

 まずは伊藤博文の死である。これは有名な安重根によって殺されるテロ事件であり、在日韓国人などはその安重根を英雄視する向きもあるが、しかし、どう考えても犯罪者は犯罪者である。ドラマとしては「突然死んだ」というのは、そのままそれまでの志やその人の役目の将来が消えるということを意味する。もちろん本物の人間でもそうであるが、しかしドラマではなおさらその色合いが強くなる。自分で幕を引くのではない。今回は平和を希求する渋沢栄一に対して、伊藤博文の「理不尽な死」は、間違いなく「戦争」や「迫害」ということを排除する大きな力になったに違いない。このことが伏線になり、サンフランシスコでの演説で日本人の様々な話が出てくる。そしてもう一つは、公判で第一次世界大戦に向かう大隈内閣に対して、日本の先行きの危険性を言うようになる。

 伊藤博文との会話である「日本は攘夷を捨てきれていない」という言葉は、実は現在の日本人にも当てはまることなのかもしえれないと、何か気づかされる内容ではなかったか。

 そして渋沢喜作。渋沢喜作は天寿を全うし、なおかつ栄一の嫡男となる渋沢敬三に大きな影響を与えた人物ではないか。「人には向き不向きがある」とし、その後「血洗島」で獅子舞を見るシーンで昔を回想する。当時の「獅子舞」で千代を取り合った栄一と喜作が、そのまま元に戻り、「路線の違い」、つまり「武断派と文治派」という違い、そして文治の人が常に発展を求め、武断の人間は何か潔く途中で「切り上げる」ということを知っているのである。そのことを、獅子舞という「二人がわかり合った少年時代」とそしてまた様々な経験を経て元に戻った内容をコントラストで描く。脚本家や演出家の非常に素晴らしい「映像」が、何となく心を打つのではないか。

 ある意味で、この大河ドラマが、戦争も何もない経済ドラマであるのに、視聴率が高く、そして、感動を与えるということがよくわかる内容ではないか。

『青天を衝け』草なぎ剛、慶喜として最後に見せた晴れやかな笑顔 吉沢亮の名演説も

 2021年2月からスタートした大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合)も残り2回という、ゴール目前のところまできた。前回、実業界からの引退を宣言した栄一(吉沢亮)だったが、第40回「栄一、海を越えて」でも彼はそのスピードを落とすことなく日本のためにと走り続ける。

 民間外交に力を注ぐ栄一は兼子(大島優子)らを連れて渡米。91日間で全米60都市を訪問するアメリカ大陸横断の旅に出る。視察団の団長として日米親善に努める栄一の目的は、日本人労働者を敵と見なす排日の差別根絶。旅の途中、伊藤博文(山崎育三郎)が暗殺されたという訃報に衝撃を受けながらも、栄一はアメリカの経済人に向けての演説を続けていく。

 用意していたスピーチ用の手紙を置き、栄一は伊藤の死、そしてこれまで多くの友を亡くしてきたことを伝える。栄一の脳裏に浮かぶのは、円四郎(堤真一)、長七郎(満島真之介)、平九郎(岡田健史)、西郷(博多華丸)、五代(ディーン・フジオカ)、弥太郎(中村芝翫)といった人物たち。「相手をきちんと知ろうとする心があれば無益な憎しみあいや悲劇は免れるんだ」──そう言って、栄一は排日運動が盛んなアメリカ西海岸を名指しする。「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」という『忠恕』の教え、つまりは真心と思いやりは日本に広く知れ渡っていた。互いが心を開いて手を結び、皆にとって幸せな世を作る。それを世界の信条にしたいという栄一の思いは、アメリカの人々の心を打つ。タフト大統領(ニール・ギャリソン)に言われた「ピースフルウォー(平和の戦争)」という言葉をあえて引用しながら、栄一が叫んだ「ノーウォー」。徐々に熱を帯びていく息を呑むような吉沢亮の芝居はもちろんのことだが、「ノーウォー」を頭上から捉えたカメラアングルも筆者としてはシビれるポイントだった。

 この演説シーンと同じく、実業団が用意した通称“100万ドル列車”に乗って栄一らが都市を移動していく場面は、パリ編で活かされたグリーンバックでの撮影の手法が取り入れられている。杖を使った吉沢の老いの芝居にも引き込まれながら、せっかく息のあってきた大島優子とのやり取りももうすぐ終わりなのかと一抹の寂しさを覚えた。

 15分拡大版の第40回は前半の約30分をたっぷりアメリカ編として、後半の約30分をさらなる友との別れとして描かれている。栄一の幼なじみとしてともに育ち、生涯の相棒と呼ばれた喜作(高良健吾)はこの第40回でその生涯を閉じる。最期の舞台は血洗島。一時は道を違えたこともあったが、こうして大正という時代まで生き長らえることができた。それだけでいい。美しい夕陽のオレンジに照らされた2人が肩を組んで笑いあっている姿に、そんなシンプルなメッセージを感じた。血洗島獅子舞のシーンは、第2回をフラッシュバックさせる見事な演出。かつての幼少期から青年期へと一気にタイムスリップしたのも血洗島獅子舞だったが、2人が揃えばいつだってあの頃に戻るという栄一と喜作の変わらない関係性を表してもいる。

 そして、慶喜(草なぎ剛)もまた自身の伝記『徳川慶喜公伝』の完成を見届け、77歳の天寿を全うする。鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡を選び、その責任から「いつ死ぬべきだったのか」を常に自身に問いてきた慶喜。しかし、今思うのは「生きていてよかった」ということ。慶喜は「話ができてよかった。楽しかったな」と栄一に優しく語りかける。吉沢はインタビューの中で「この作品のテーマを慶喜が語ってるシーン」と話していたが(参照:吉沢亮、草なぎ剛から受け取った多くの刺激 『青天を衝け』栄一として走り抜けた時間)、第40回で強く描かれているのは「生きる」という至極単純で、悟りの境地に達するほどに難儀なメッセージ。ただ、「快なり!」と父・斉昭(竹中直人)のセリフを連呼する慶喜の晴れやかな笑顔を見ると、その説得力は一層増す。

 喜作、慶喜との別れの一方で、この第40回では栄一の孫・敬三(笠松将)が本格登場する。度重なる放蕩の末に、篤二(泉澤祐希)は渋沢家から廃嫡。その跡継ぎとしての責務は敬三へとのしかかっていくことになる。幼い頃から生物学者になることを夢見ていた敬三は、父の篤二とは違ってどこか無邪気で、あっけらかんとしている。しかし、栄一という偉大すぎる祖父から直々に頭を下げられるということの重大さに、さすがの敬三も表情を曇らせる。「これは決して命令ではない」とはいえ、それはもはや半強制的な命令である。

 最終回「青春はつづく」においても、栄一はまだまだ止まらない。敬三の視点から見た栄一の物語として描かれながら、時代は次の世代へと受け継がれていく。

12/20(月) リアルサウンド

https://news.yahoo.co.jp/articles/38616c06e2c07b0cb80dee2c4036ad924ef6e8fa

 人間は、生きている間に、何か大きな目標があったり、人としての役目がある。これは、前回の徳川慶喜のセリフであった。そのことがあってから、渋沢栄一の人生はまた大きく変わることになる。また、その「役目」ということがあるから、役目の途中であきらめなければならなかった幕末の志士や、伊藤博文(今回出たので)など、様々な人物の人生のコントラストが出てくることになる。それが渋沢家の中で「喜作と栄一」そして「栄一と篤二」という従兄・親子の間でもコントラストが出てくるということになるのである。

 人間は、その「役目」のなかで、一喜一憂し、そして今回の渋沢喜作のセリフにあるように「人間には向き不向きがある」ものであり、渋沢栄一に「潔く死ね」と書かれてもそれでも分かり合えるということが見えてくるのではないか。その役目の中で「自分の重さにつぶされてしまう」篤二と、逆に「何も語らないことで役目を全うする」という徳川慶喜のコントラストも見逃せないのではないか。渋沢栄一の視点から見て、様々な人物のコントラストが魅力的に書かれている。

 そういえば、この物語の最初は、渋沢栄一が、徳川慶喜の前に現れるところから始まったのである。つまり、この物語は渋沢栄一の一生を描いたドラマでありながら、もう一人、「徳川慶喜の一生」を書いたものであり、そして「幕府側の人々にとっての明治維新と明治という時代」が書かれていたのではないか。いや、明治という時代というよりは「文明開化」ということになるに違いない。

 鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡を選び、その責任から「いつ死ぬべきだったのか」を常に自身に問いてきた慶喜。しかし、今思うのは「生きていてよかった」ということ。慶喜は「話ができてよかった。楽しかったな」と栄一に優しく語りかける。<上記より抜粋>

 まさに、「生きていてよかった」「快なり」という言葉によってすべてが表現されていたのではないか。しかし、それは「よき理解者である渋沢という人物がいて、話すことができたことが、その話す相手がいる、分かり合える相手がいるということが非常に重要なのではないか。そして、その「分かり合える仲間が様々なコントラストを出して、日本国の発展を彩っていた、知恵を尽くして様々な立場で力を尽くしたことが、今の世の中に生きる人々に、感動を与えながらも様々な思いを与えるのではないか。

 来週が最終回である。最後どの様になるのか。非常に気になるところである。

宇田川源流

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