「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 戦争はなくても「新しいものを作る」というワクワク感の演出と「江戸時代の義理」

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 戦争はなくても「新しいものを作る」というワクワク感の演出と「江戸時代の義理」


 水曜日は大河ドラマ「青天を衝け」について書いている。大河ドラマも、明治時代になり、「合戦」や「陰謀」というものがほとんどなくなってしまい、明治維新の中の様々な内容が書かれるようになった。ある意味で、「大河ドラマ」としては新境地の場面ともいえるかもしれないが、今まで、問えば「八重の桜」で会津戦争が終わった後や、「花燃ゆ」でも明治になってから、ということで、何度か書いている。しかし、合戦をあまりにもドラマティックに書いてしまったために、平和な時代がうまく欠けなかったこと、そして、合戦の後遺症を抱えた「悲しみ」というような感覚で書いてしまっているので、ドラマ全体が暗くなってしまった印象がある。そのために、視聴率も徐々に下がり続け、あまり面白い展開にはならなかったのではないか。

 しかし、明治時代初期は、そんなに暗い時代であっただろうか。

 もちろん、世の中的には、川上音二郎の「オッペケペ節」があったり、そのうち民権運動が出たり、不平士族の反乱があったりというような話が出てきているが、しかし、一般の人々からすれば「四民平等」であり、また「文明開化」出会って、これから何が起きるだろうという、明るい、活気に満ちた時ではなかったか。

 もちろん、戊辰戦争に負けた人々は、それほど明るい未来を思い描いてはいなかったと思うし、また、親族などが死んで可なり苦しんだり、現在で言えば、PTSDにかかっているような人も少なくなあったのではないかと思う。実際に、会津の西郷頼母の一家のように、赤子から祖母まで、一家の女性全員が自害するというような場所もあったくらいだ。当然に悲惨な思いをした人も少なくなかったし、そのようなものではないにしても、例えば、岡山(当時の備中国)津山藩の植村正芳のように、幕府の命令を藩が受けて、藩に命じられて大砲の鋳造をしていたにも関わらず、明治維新になって明治政府から疑われたくないということで、切腹させられてしまうような武士もいたのである。また、日本人は悲劇が好きである。「好き」というと語弊があるかもしれないが、平凡な話や日常よりは、悲劇を話し、そのうえで、それをかわいそうといって語り継ぐ方が自分たちの幸せを実感できるようである。そのことから、なぜか、「悲劇ばかり」が長く語られてしまう。

 そのために明治時代を扱う大河ドラマは、今まで、暗くなってしまったのである。

『青天を衝け』“惇忠”田辺誠一、“栄一”吉沢亮と再会し新政府へ参加 「胸熱展開」と反響

 俳優の吉沢亮が主演を務める大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合/毎週日曜20時ほか)第29回「栄一、改正する」が3日に放送。栄一(吉沢亮)と再会した惇忠(田辺誠一)が新政府を手伝う決意をした展開に、視聴者からは「胸熱展開」などの声が寄せられ、反響が集まっている。

 明治政府に出仕した栄一は、各省の垣根を超えた“改正掛”を設置。栄一は大蔵省に勤めながらその掛をまとめることになり、国づくりにまい進する。前島密(三浦誠己)は、飛脚便制度を提案し、栄一たちはその名称を「郵便」と名付ける。

 栄一は家を尋ねてきた惇忠(田辺誠一)と久しぶりの再会を果たす。栄一は製糸場を建てるため、蚕に詳しい惇忠に新政府に来てくれないか、と訴えるが、惇忠は「平九郎(岡田健史)は新政府に殺されたんだ。首を斬られ、さらされ、いまだ亡骸も見つからねぇ。その政府に手を貸すなど、平九郎にどう顔向けしろというんだ。お前はよくても俺にはそんなことはできねぇ」と断る。

 そんな惇忠に栄一は、自分たちも異人を焼き払おうとしたではないか、と訴え「もう侍の世はごめんだ。壊すんじゃねえ。作るんだ。俺は平九郎に顔向けできなくてもできることをする。己の手でこの国を救えるんならなんだってやる」と強い自分の意志を伝える。

 明治4年には、いよいよ郵便制度が開始。無事に切手が貼られ、判が押された手紙が前島の後を継いだ杉浦譲(志尊淳)の手元に届くと、栄一と杉浦は「届いたぞ!」と声を上げ、抱き合って喜ぶ。栄一は慶喜(草なぎ剛)に文を送っていた。そしてそんな中、惇忠は新政府を手伝う決意をして栄一の元へ。栄一は「あにぃ…来てくれたのか。そうか。そうか…」と笑顔を見せるのだった。

 栄一の強い思いと、惇忠の新政府参加に視聴者からは「あにぃの本領発揮や!!」「胸熱展開」「あにぃに向けた言葉の重さは今の世に通じる」「ジーンと来た」「あにぃが来てくれたことに涙」などの声が続出。また、郵便制度の開始という展開にも「郵便アツイ~」「明治はドラマに満ちてる」「手紙を出したくなる」などの声が寄せられ、反響が集まった。

2021/10/4 18:00 クランクイン

https://www.crank-in.net/news/94744/1

 冒頭にも書いたが、実際には、「明るい」はずの明治維新である。ある意味で、日本人が最も好きな「改革」をした、それも天皇が主導して改革を行った歴史上三回しかない「新」のつく出来事である。大化の改新・建武の新政・明治維新の三つ。この三回が最も大きな内容ではないかという気がするのである。

 そして、それまでとは異なり、欧米諸国の内容を取り入れて、どんどんと新しいことが始まる時代である。同時に、戊辰戦争の人々も徐々に許されて復帰していったということになる。

 史実を紐解いてみると、実際には、「政治を行う人がいない」ということが大きな内容であったようだ。実際に、日本国を動かすのは、可なりさまざまな人材が必要であるし、その人材の組織が必要になる。そのために、薩長の人々だけではとてもなんとかなるようなものではない。そこで、幕府は明治2年ごろから「旧幕臣」や「佐幕派の藩の人材」を積極的に登用することにしている。大久保利通内務卿がそれを中心に行い「国家公務員制度」として、成立させたのである。もちろん、そのトップは公家と薩長で治め、実質の動きは中間管理職以下の官僚に任せるというような形になったのである。現在、「公家と薩長」が「国会議員」となっただけで、現在の政治システムとあまり変わりがない状態である。明治二年にその制度を作り出し、そして現在にまで成立させているのであるから、名人人々のバイタリティはすごいとしか言いようがない。

 さて、今回はその中で、「前島密による郵便制度」ということが出てくる。ここでも「親族」ではなく「徳川慶喜」に手紙を書く渋沢栄一。ある意味で、「渋沢栄一の忠誠心」ということが見え隠れするのではないか。新政府に勤めた旧幕臣というのは、ほとんどがこのような感じであったと思う。もちろん、私が小説にした「山田方谷」のように、筋を通して、別な道に進んだものも少なくない。しかし、新撰組の一部の人は、名前を変えて警察官になっていたというような話もある。また、この時代、「教育者」として、幕府の正当性や自分たちの思想を後世に伝えるということを考えた人も少なくない。佐幕派で言えば、安中藩の新島襄も、また山田方谷もそうであるし、新撰組の生き残り江原素六の作った学校である麻布高校を私自身が卒業している。この後に明治6年の政変で、下野する大隈重信が作った学校が早稲田であり、なかなか興味深い。当時の人々の学の深さが見て取れるのではないか。

 そのようにして「新たな道」を進む人が少なくない中で、また、渋沢栄一の親族も徐々に戻ってくる。尾高長七郎と渋沢平九郎は、明治維新の中で死んでゆくが、尾高惇忠や渋沢喜作は、生き残り、そして渋沢栄一の事業を手伝うようになる。このシーンでの「新しい時代を作る」という説得は、ある意味で平岡円四郎のうけうりではないか。

 渋沢栄一の今回の大河ドラマは「明るく」これらを描き「希望」を書いている。そのうえ、人が成長するにあたり、父・母・親族はもちろん、平岡円四郎、徳川慶喜、パリでの人々、大隈重信、伊藤博文というように、様々な人々が、その成長に影響を受けているということが見えてくる。まさにこの「成長物語」こそ、大河ドラマのだいご味ではないだろうか。

宇田川源流

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