「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷にとっての平和とは
「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷にとっての平和とは
私の考える山田方谷の一生のクライマックスはどこなのか。多くの人は、山田方谷に関して「藩政改革」ということになるのであろう。現在出ている山田方谷に関する出版物の多くは、山田方谷による藩政改革が大きく取り上げられている。
実際に、彼ほど「住民に好まれる」「藩にも信用される」「幕府にも頼られる」という状況であり、そのような状況で行った藩政改革が成功しているのである。日本人の場合、改革の結果を残したということが良いというわけではなく、そのことによって誰からも、嫌われず、敵を作らなかったということが、最も価値があるのではないか。
そのような意味で言えば、経済改革ということ、藩政改革というのは、山田方谷という様々な苦労の中で様々な経験をし、そしてその経験の中で何かを得た人物のパーソナリティが、その中で自分が正しいと思った内容を行い、そしてその価値観が全ての人に受け入れられ、そのうえで結果が出たということに過ぎない。本来であれば、合理的に行ったり、どこかによって行ってしまうので、別なところである誰かに何らかのしわ寄せがいっているはずである。しかし、そのしわ寄せがどこにもいかないで改革を行うことができるということが、まさに、山田方谷のパーソナリティであり、その内容をいかに考えるのかということが非常に大きな問題になってくるのではないか。
ということは、多くの人がクライマックスと思っている藩政改革は、私にとっては山田方谷のパーソナリティの結晶であり、山田方谷のクライマックスではない。はっきり言ってしまえば、そのような結果論や、あるいはそれを成し遂げた技術論を称賛するのではなく、そのような結果を残した精神性や魂、つまりそれをすべて合わせて上記ではパーソナリティといっているが、それがどのように形成されているのか、また、それがどのように完成してゆくのか、そして、そのパーソナリティから見て、何が「正義」であったのかということを書く方が重要なのではないか。技術論を書くことなどは誰でもできる。藩政改革の手法をしっかりと学んでも、それが現代の世の中に何か役に立つわけではないのである。それ以上に重要なのは、ある事件、「A」という現象が起きたときに、「山田方谷というパーソナリティ」を通して考えれば「X]という結果が出る。その「山田方谷というパーソナリティ」を解明し、そしてそのブラックボックスが現在でも使えるのかということを考えた方が、またはいまにたようなひとがひつようならば、その「山田方谷というパーソナリティ」を再現し、またはそのような人物を作るには何が必要なのかということを考える方が重要なのではないかということを思うのである。
少なくとも私のような「小説家」という商売は、「結果」や「技術」を書くのではなく「人物」とか「魂」を描く商売ではないかと思うのである。もちろん、それが架空のものかもしれないし、私たち小説家の頭の中の出来事かもしれない。しかし、その小説家の中の頭の中の「山田方谷というパーソナリティ」は、現代に生き、そして現代を変える力となって、現代の人々の中で再度活躍するのではないかという気がするのである。
さて、そのような意味で、ずっと「藩政改革」がクライマックスではないということを言っているのであるが、では、山田方谷の一生の中で、どこがクライマックスであるのか。私が思うところ、「備中松山城の無血開城」とそののちの「熊田恰の自決」ではないかと思うのである。虐に言えば、幕末の混乱期、そして多くの日本の人々が、それは農民も町人も、もちろん大名も武士も、自分の「志」に従うのか、あるいは、藩や村や町のことを考えるのか、何を基軸に考えて物事を判断するのかということを考え、そして自分の身の振り方を決めていたのだ。つまり、「周りを巻き込んで自分の考えに周辺を引きずり込んだ」のか、あるいは、「自分が周囲のためにできることをしたのか」ということが全く異なる物であり、同時に、祖の判断基準がそれぞれの人によって全く異なるということになるのではないかと思うのです。
例えば、現在NHK大河ドラマ「青天を衝け」のなかで主人公になっている渋沢栄一は、尊王攘夷ということで考えれば尾高淳忠に振り回され、また、江戸に行った尾高長七郎に流されというような感じになっていた。しかし、それが最後には自分の考え方を持つようになり、そして経済ということに繋がることになる。当然に、その判断基準の中には幼少のころからやっていた藍玉作りと、父渋沢市郎右衛門の言葉の影響が大きかったのではないか。要するに、人間のパーソナリティというのは、その時点における今まで生きてきた自分のすべての記憶やそこから出てきて自分の身になっている経験、本などを読んで知った疑似体験などの集大成になっており、その中には、幼少期の内容から江戸での体験などすべてが詰まったうえでの判断ということになるはずなのである。
では、山田方谷であればどうなるのであろうか。
ここからは何か記録(エビデンス)が残っているわけではないので、私の空想ということになる。まあ、空想なのか妄想なのかは微妙である。私なりに言えば、私というパーソナリティの中に、山田方谷の少なくとも私の所に集まった資料や、現在の高梁市の山田方谷が活躍した場所の空気を吸うことを取り入れて、その中で私なりの「山田方谷」という人物を出した結果が、私の小説の中に出てきているというように解釈していただくのが最もありがたい話である。
さてその意味で、山田方谷は幼いころに妹を、そして母の梶と父の五郎吉を失ってい舞うs。あえて妹を先に描いたのは、梶と五郎吉を失ったのは、山田方谷にとっていつなのかということは、まだ私の中で判断できていないのである。五歳で丸川松隠のところに行った時なのか、あるいは、梶と死別して父五郎吉が連れ戻しに来た時なのか、あるいは父五郎吉も死んだ時なのか、それとも、その後勉学の道を一度休んで丸川松隠の所を辞去し、西方の自宅に戻った時なのか。これのどれが山田方谷自身にとって「訣別」となったのか、そこはわからない。いずれにせよ、山田方谷自身の心の中には、常にこの状態が入っていたに違いない。
ある意味で、山田方谷のこの時代の経験と徳川家康の幼少期は同じではないかと思うのだ。徳川家康も、幼少期に人質に出され、その間に父広忠が殺されている。兄弟なども少なく、残りは親せきであった。
この徳川家康と山田方谷に共通することは、「命に対する敬意」というと大げさだが、「死別ということに対する、当時の人とは別な、現代人に近い感傷があるのではないか」ということであり、そして経済的に裕福にするのもすべて含めて、「人を殺さない」政治を心掛けたということが最も重要なポイントではないかと思う。その結果、徳川家康は戦国時代を終わらせ、山田方谷は江戸時代と幕末の混乱期を終わらせた、ある意味で、江戸幕府を滅ぼした(大政奉還の上奏文を起草したということは、そういうことであるという解釈も成り立つのではないかと思います)ということになるのではないか。「志」の中に「人を殺さない」ということが入ることの凄みは、このことではないかと思う。
多くの政治家は「人を守る」といいながら、戦争への道を進む。それは人を守るとしながらも、その「守る」範囲は「プライド」や「誇り」「地位」など他のことが入っているということになる。そして、その中には「自分自身が生き残ってその恩恵を受ける」ということに繋がっているのではないか。
それに対して、山田方谷や徳川家康のそれは、戦争の準備をし、戦う覚悟をしながら、最後には自分自身が全ての責任をもって死ぬということ、そしてもう一つは「最大限の汚名を受けるならば戦う覚悟は最後まで残しておく」ということではないか。つまり、自分自身の命と引き換えに多くの人の命を守る。その時の内容は戦争ではなく、自分自身が死ぬことというように、腹をくくっていたのではないか。
現在の日本の人々の「平和主義」というか「平和ボケ」と一線を画すのは「戦う覚悟があること」そして「最後の責任は自分の命で決着をつけること」という二つのことがしっかりとしていたのではないか。そして、そのようにしたうえで、勝算が立つまでしっかりと行う、すべてシミュレーションが出来上がっており、狂いがなくなるまで、徹底的に調査をし、そして人知を尽くすということがあるのではないか。戦争をしてもなるべく人が死なないようにする、そしてそのように備える。そのうえで、なるべく戦争が無いようにする。人が死なないように行う。自滅的な戦争はしない。このような鉄則がしっかりとあるのではないか。
このような原則、上記の流れで言えば「山田方谷というパーソナリティ」で考えれば、どのように平和を守ったのであろうか。
一つ目は、経済を活性化して、また義倉米を多く積むことによって飢饉があっても餓死者を出さなかったということが挙げられる。平和というよりは「人を殺さない」ということで考えれば、経済的な裕福ということ、また、食べる物があるということは、まさにそれが基本中の基本ではないか。そのことが山田方谷の最も重要な内容の一つであろう。ある意味で藩政改革といわれるものも、この中の一つに包含されるということになる。
次に、身分を超えて自分の田畑を守る、自分の家や家族を守る、自分の国を守るという意識を植え付け、そのうえで、平民(農民・商人など)から募集して民兵隊(里生隊)を組織した。ここでも槍や刀を持たせるのではなく、誰でもが取り扱える西洋銃や西洋の砲術を習い、そのうえで、それらの最新式の武器を持ったうえで、それを里正隊に持たせ、そして訓練させる。もちろんそれが危険なのかどうかは、山田方谷自身が庭瀬藩などに向い、自ら砲術を習ってきて、「農村出身の時分でもできる」「危険ではない」ということを確認したうえで行っていることが、山田方谷が庶民の命を大事にしていたことに繋がるのではないか。自分の体で試してみて、そのうえで、多くの人に広めるということは、まさに山田方谷のパーソナリティにある責任感から行われたものであったはずだ。
そして、そのうえで下級武士を地方や国境の農村に活かせ、田畑を耕させた。里正隊で人数が減った分を、今まで生産性のなかった下級武士を使うことによって合理的に行わせた。もちろん、その中には食糧の自給率を上げて基金の時も大丈夫なようにするというような考えが入っていたのではないか。
ここまで準備をしながら、幕末戊辰戦争になり、岡山藩などに囲まれたときは、誰も殺すことなく、藩内をまとめ上げ、そのうえで、松山藩を無血開城したのである。戦うのが怖かったのではないことは、「大逆無道」という降伏文書を見たときの怒りで、戦う事をいう事でも見えていることである。山田方谷は戦うことを恐れているのではなく、人の命を失うことを恐れていたはずだ。そのために最後は自分の首を差し出すという覚悟を決めている。そのようなやり取りの中に、「他人を殺してはならない。自分は死んでも構わない」ということ、そして大逆という汚名を着せられれば、それは死ぬことよりもつらいので戦うということを覚悟していたということになる。
さて、そののちに、熊田恰の事件があった。
熊田恰の事件に関しては無血開城後、大阪城から戻ってしまった熊田恰が、最終的に150名の藩士の命を助けるという条件で見事に自決したことだ。このことを聞いた山田方谷は「自分が死ねばよかった」と声を上げて泣いたという。決して命乞いをしているのではない。そうではなく、将来のある人々が死ぬことを最も恐れていたことがわかる。
河井継之助の墓碑の文書を頼まれた時には「書くも恥ずかし死に遅れ。」と断っている所を見れば、やはりそんなに死ぬことに躊躇はなかったと考えられる。
さて、私の個人の話になるが、私の父は軍に依願したものの、どうも体が「いびつ」であったために、軍隊に入ることができず、「死に遅れ」であったと自覚していた。その父を見ていればわかるが、死にたいのではなく、死ぬことを恐れなくなた、もっと言えば、他人のためにいつでも死ねるような人になったというような言い方をすればよいかもしれない。それも「大義」など抽象的なものではなく「この人」というような感じで具体的な人とその将来と比較して、自分が死ぬことは特に問題がないと考えていた。まさにそのような感覚が山田方谷にはあったのではないか。
つまり「山田方谷には具体的な平和の像」や「理想の未来」があり、その内容の実現のために、必要であれば自分が命を捨てることは何とも思わなかった。いや、そのために戦う覚悟があったという方が正しい。戦う覚悟がありながら、最終の局面まで戦うことを避けるように人知を尽くす。それが平和への道なのではないか。戦いを捨てることではなく、戦う覚悟で「具体的な平和」を守ることが、最も人間にとって重要であったのではないか。
そして、山田方谷は、それを最後まで実現した人物であったという感覚がある。それはやはり若いころの経験などの集大成であったのではないか。
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