「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 なぜ今の世の中に山田方谷が必要なの

「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 なぜ今の世の中に山田方谷が必要なの


 このゴールデンウィークは、私が4月9日に上梓した「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」について、そもそもなぜ私が山田方谷に惹かれ、そして、その生涯を小説にまとめたのか。そして、その小説を執筆するにあたり、どのようなことに留意し、大事にして書いたのかということにお付き合いいただいた。普段の私のブログを期待している皆さんにとっては、何か違うと思っている方もいたかも入れないが、ゴールデンウィークであったこともあり、また、私の個人のブログなので私の自由に書かせていただいた。

 さて、その特別企画も本日が最後である。明日からは、また元に戻した内容でブログを行うことにする。

 さて、では最後に何を書くかといえば、「なぜ今山田方谷なのか」ということであろう。山田方谷がどんなに立派な人物であり、また、素晴らしい人物で当ても、その人物が今の日本に必要であるのかということは別な問題なのである。

 さて、そもそも小説というものはどのようなものなのであろうか。

 小説はあくまでも「小説」でしかない。そもそも学術書でもなければ研究論文でもないのである。ある高名な歴史小説作家は「私の文書(ここでは歴史小説を指す)の中のカギかっこの中は、99%嘘か私の頭の中の妄想でしかない」ということを言う。実際に山田方谷などは、どこで何を言ったのかなどという記録が残っている場合があるが、しかし、それらも文語体で書かれている文書であり、どのようなニュアンスでどんな感じで言っているのかは全くわからないのである。そして、その前後のセリフに関して言えば、当然に想像でしかないのである。ましてや「○○はこう思った」など、内心の記述などは、完全に我々の妄想の世界でしかない。

 もちろん、完全な妄想ではないと、ちょっと強がりを言ってみる。基本的には「このようなことを実績として残している人はこんなはずだ」「この場面でこう言える人は、このような性格に違いない」場合によっては似たような性格の人をモデルにしてみるということもあるほどだ。実際にいる人をモデルにするなど、多くの人が共感できるような性格として考えているのである。

 しかし、まあ、それが実際の人ではないことは間違いがない。少なくとも、私自身は山田方谷という人物そのものは会ったことが無い(子孫はいるが本人はさすがに明治10年に死んでいるのである)。ということは、どんな人物であったのかは、当然に自分の頭の中の話をしなければならないのである。当然に山田方谷だけではなく、徳川慶喜も、板倉勝静も、当時の幕末の人々はすべて同様に架空なのである。しかしそのいずれも、私の小説の中に出てくる人々は、その資料やエピソードなどから、このような性格の人に違いないなどのことを吟味し、そのうえで人間と人間の相性などを考え、性格を設定しているのである。このような相性や性格を見るために、たまには占いの本を見てみたり、スピリチュアルな内容のセミナーに行ってみたり、人間の性格を設定するのは大変な話である。スピリチュアルの話までしたので、恥も関係なく話をすれば、それらの話を見ていれば、「神というのがいてすべての人のこのような性格を作るのは大変だ」と思ったことがある。世界中の人間の性格などを一人の全知全能の神がすべて決めるなどということはかなり難しく、まあ、神だからできるのかもしれないが、私などはとてもとてもやりたいと思わない。まあそれは余談である

 では、そのようなことまでして、小説で書くことは何か。上記に書いたように、ここに書いてあるのは「歴史」ではないのである。また多くの現代の書物がそうであると思うが、現代の人々が書いたものは、あくまでも現代の視点であり、当時の人が現代の本を読んだら、それが歴史書や研究所であったとしても「なんだこれは」ということになる。「エビデンス」をもとに書いているとしても、実はその「エビデンス」は「その書面を作った人の主観」が入っているので、当然に、そのか至る内容のファクト部分は同じであったとしても、その解釈やその動機は全く異なる可能性が高いのである。

 つまり、歴史書や研究所であってもそのような感じであるのに、小説という分野の文書が歴史、とくに「事実」をしっかりと書くような話ではないのである。では何なのか。文書というのは、歴史書であろうと、新聞であろうと、当然に小説であろうと、その文書を読む「読者」がいるものであり、その読者に読ませることで書いているものである。では、今回の小説の場合はどうであるか。当然に「現代の人々に当時の人々を題材としながら、その当時に存在した苦悩や事件に関する対応などを書いている」のであり、そのことを通して、現代の人が生きてゆく上でのなんらかの指針や、感慨、または心に何か訴える物があればよいというのが小説家の本分であり、この小説で歴史を学んでもらいたいとか、歴史を知ってもらいたいなどというものではないのである。

 もちろん、歴史に興味を持ってもらうことはありがたいことであるが、しかし、小説で歴史を語られても困るという感覚はある。歴史を好きになるきっかけとなるのはありがたいが、小説に書いてある歴史がそのままであるということになれば、銭形平次は銭を投げて捕物を行っていたことになるし、遠山金四郎は毎回毎回刺青を見せてお白州を勤めたことになってしまう。そんな歴史は残念ながら存在しないし、水戸黄門も全国の旅はしていないのである。

 このように考えれば、「小説」というのは「現代の読者に対するテーマ」があり、そのテーマを訴えるために、その時に応じて歴史上の人物が成し遂げた功績や、その題材を使って、現代の人が読む内容をしっかりと見るために書いているものであり、その内容が歴史そのものではない。ちなみに言っておけば、NHKの大河ドラマも同じであり、小説をもとにした創作物でしかない、場合によっては「小説という創作物」の上にもう一つ「創作」を行っているものがドラマなのかもしれない。

 では、現代の人に訴えたいことは何なのかということになる。

 さて、ここまで来てやっと本日の主題となる。

 山田方谷の実績はいくつか存在する。一つ目は「藩政改革」である。そのことはすでに見てきたように「合理性」と「役割分担」によって行ったということと、「現状の肯定」から始まりそれにブランディングを行ったことによって、米本位制の幕府の中で貨幣経済的な収益の改善を見込んだことになる。ある意味で、蔵屋敷の廃止などは、現代におけるアウトそーソングの廃止に近い感じであり、アウトソーシングがある意味で経営ひっ迫の原因になっていたということに他ならないということになる。これは、天保の改革において水野忠邦が行った改革(失敗に終わるが)の正反対のことを行ったのであり、そのことによって多くの人が潤ったということ間違いないし、藩や商人、庶民に全く負担がなくまさに「ウィンウィンの関係による改革」が行われたことがよくわかる内容である。

 第二に、あまりこのことは書きたくないが、ある意味でジェンダーの先駆けである。もちろん、山田方谷の場合、経営効率における合理性から「男女を区別する」のではなく「男性も女性も一人の人間である」という考え方からきているのであり、能力主義を使ったに過ぎない。よって、必要以上に女性を重視したり、あるいはフェミニズムに走るようなことはなかった。昭和になってのウーマンリブ運動が政治運動と結びついて行うものであり、この時代にはそのようなことはない。しかし同時に男女を完全に分けてしまっていることがそのままでよいのか、ということはまた異なる判断基準となる。そのように見えれば、何もジェンダーをことさら大きく言う必要なないのかもしれない。

 第三に「平和を作る」ということである。まさに、「何もしないで平和」などというような話は山田方谷はしていない。平和というのは、努力して掴むものであり、なおかつ戦って守るものであるということは山田方谷そのものが態度で示している。現在の日本のように、武装蜂起などということはしていないし、また「軍人しか戦わない」のではなく民兵を組織している。山田方谷の場合、その戦うにあたり必ず勝つ確率を追求し、なるべく人が死なないような戦い方をしていた、ある意味で、学問の徒らしく、孫氏の兵法の中にある「戦わずして勝つことを上策とする」ということを実践していたということになる。まさに「戦わないで勝つように、戦ってもよいような装備を整える、ということであり、そのことが無血開城の時に周辺の藩には大きな圧力になっているということがあり、そして、和平交渉も有利に進んでいるのである。

 さて、このように考えれば「藩政改革における経済復興」「能力主義(ジェンダーではなくあえて)」「平和」ということが挙げられる。そのうえで、この時代は「疱瘡(天然痘)」「虎狼痢(コレラ)」などの病気も多くそれらと戦ってしっかりと様々な対策をとっていた。飢饉も少なくなく、何よりも時代が変わるという不安感が社会覆っていた。では今どうであろうか。さすがに開国とか攘夷というような話はないが、コロナウイルスで多くの人が閉塞感があり、昔の飢饉のような感じで「失われた20年」といわれるバブル崩壊後の不敬機関があり、そして中国における台湾危機や韓国との竹島問題など「平和」をしっかりと考えなければならない状況にある。まさに、「幕末の混乱期」と「現代のコロナウイルス禍における日本」は、個別のファクトで考えれば別々かもしれないが社会を覆う物は同じなのではないか。

 その時に、山田方谷はどのように生きたのか、その周辺はどのように山田方谷を受け入れたのか、そのことが最も重要なのである。

 もっと単純に言えば、「幕末という激動の時代を生きた人々の生きざま」を学んで現代を有利に来てもらいたいと考えているのである。その生きざまの中に、山田方谷の行ったこれらのことが、「今の我々に」必要なのである。そのことをしっかりと認識して、歴史ではなく、我々へのテーマであると、我々に今必要なのは「山田方谷的なパーソナリティなのではないか」ということを考えていただきたいのである。

 

 長い連載であったが、これでゴールデンウィークの特別企画を終わりにしたいと思う。ありがとうございました。

宇田川源流

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