「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷と経世済民

「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷と経世済民


 山田方谷といえば、当然に藩政改革である。

 この時代藩政改革を行った人は少なくない。少し前であれば米沢の上杉鷹山が有名であろう。

上杉鷹山は、明和4年(1767年)から天明5年(1785年)の間であり、ウィキペディアによると、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。

さて、この上杉鷹山の場合は、その藩政改革の原資を本間家に借りている。本間家とは庄内藩酒田(現在の山形県酒田市)の豪商で、当時「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」などと都都逸が詠われるほどの豪商であった。要するに、上杉鷹山の改革はしっかりとした原資があり、それを貸してくれる行商があってこその改革であったといえる。

 さてあと二人例を挙げよう。幕末の薩摩藩を改革したのが調所広郷である。

藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。

当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して広郷は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

なお、薩摩藩の公表数字では50万両の貯蓄であった。この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。

ただし、調所が江戸に出仕した際、老中阿部正弘に密貿易の件を糾問され、その取り調べの最中に急死する。自殺とも、毒殺されたとも伝わる。この藩政改革はそれなりにインパクトが強いが、しかし、ご禁制の密輸を基盤にしたものであり、大きな問題になり、結局は調所広郷自身が死を賜ることになる。

 もう一人が幕末の長州藩の村田清風である。文化5年(1808年)、藩主毛利斉房の小姓として仕える。以後、斉房から毛利敬親まで5代の藩主の下で要職を歴任した。江戸にて塙保己一などから兵法や海防策を、また海保青陵の著述から経世論を学ぶなど、さらに知識を広げた。

藩主毛利敬親は政治的に暗愚で、何事も消極的で「そうせい侯」とまで呼ばれたほどでありそれをうまく使っての藩政改革である。長州藩は慢性的な借財に苦しんでいたが、清風は天保14年(1843年)に三七ヵ年賦皆済仕法(家臣団の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの)を採った。これは家臣と商人との癒着を防ぎ、身分の上下の区別を付ける目的もあった。

次に、藩はそれまで特産物である蝋を専売制にしていたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許した。その代わり、商人に対しては運上銀を課税した。さらに、この頃の下関海峡は西国諸大名にとっては商業・交通の要衝であったが、清風はこれに目をつけた。豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、越荷方を設置したのである。

越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、いわば下関を通る貿易船などを保護する貿易会社である。しかし、「三七ヵ年賦皆済仕法」は藩士が多額の借金をしていたことから商人らに反発を受け、また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が著しく減少したことにより、幕府からの横槍が入って退陣する結果となる。この改革も、商人たちからの反発を買ってしまい、うまくゆかなくなっている。

 これらの藩政改革はいずれも、「本間家」「密輸」「商人への負担」というように、どこかに負担をしいて行っている者であり、上杉鷹山はとにかく、他の二人は晩年には失脚させられてしまっている。要するに藩政改革のしわ寄せが、どこかに回されていることによって藩政改革が行われたということになる。そのうえ、上杉鷹山がちょっと時代が違うので除いて考えれば、この時にこのように商人や密輸業者のしわ寄せにした藩は、新政府側になっているのである。

 しかし、山田方谷の藩政改革は異なる。まずは財政再建を行っている。しかし、そのしわ寄せが他に回っていないということになる。そもそも5万石の石高で10万両の借金があった。一石は、米俵2.5俵分。1俵は約60kgです。一石は約150kg。さて、ちょっと値段が高めが計算しやすいので10Kg=5000円とすると、一石は約75,000円となり、一万石はなんと7億5,000万円。5万石は37億5000万円。しかし、これは、総生産高であって藩の収入とはならない。昔は四公六民であったことを考えると、年間の収入は15億となる。

 一方1両はいくらなのかということになる。しかし、これは物価がかなり違うので何とも言いようがない。日銀の計算なおどによれば、米価をもとに考えれば4万円程度、賃金で考えれば30万~40万円、傍の値段で言えば12万~14万円という感じである。これらの内容は当然に江戸の価格であって、大坂や京であれば似たようなものになったかもしれないが、各藩であれば地域差が出てくる。現在でも、例えば駐車場で言えば、銀座では10分600円(1時間=3,600円)であるが、備中松山のあった岡山県高梁市では、30分から1時間で100円という感じである。安くなるものばかりではなく、東京などではやっている者であれば物価が高くなるということになる。地域差を考えれば、当然にどのレートを使うかということは大きな問題になる。

 さて、この10万両の借金は、板倉勝職の奢侈な生活によるものであるということになっているが、当然にそれだけではなく、板倉家が松山藩に封じられたのちに溜まった者であろう。特に、これは本にも書いたが、そもそも武士の給与が米で払われるのに対し、世の中はすべて貨幣経済になっている。米本位制と貨幣経済という二つの基軸があり、祖音機軸が承認が握っていて武士が握っていないで商人の相場によって左右されるということになるのであるから、当然に、そこに経済的な問題が出てくる。当然に当時は価格制限法などもないので、相場に任せることになる。当然に江戸時代の四大飢饉が起きると、それに合わせて米問屋がコメの出荷を制限し、飢饉被害が大きくなるということになる。

 さて、このような事情から考えれば、10万両の内容は、ある意味で「賃金」であるというような感覚で見ればよく、当然に1両=30万円、10万両は300億円程度の借財があったと考えるのが妥当ではないか。もちろんこの計算方法には諸説あることになる。

 さて、当時、山田方谷の板備中松山藩は石高が実質1万8千石になっていたという。これも四公六民であるからそのようになっていたなどという人もいるが、当時の「貨幣経済」から考えれば、農民がの内を放り出して家内制手工業になっている部分は少なくない。単純に山田方谷の父が、そもそも搾油業になっていたのであるし、また荒れ地が多いということで屯田制を藩政改革で行っていたということになるのだから、実質的に石高は下がっていたと思われる。1万8000石であったとすれば、総生産が13億5000万円、藩の収入は5億4000万円となる。

 政府の歳入が5億4000万円で、300億の借金を返すとなれば、それはなかなか難しい、そのうえ、上記のようにその米相場は商人が握っているのであるから、なかなか松山藩の自由になるものではないのである。

 その中で山田方谷は、商人や密輸業者などに頼ることなく、藩政改革を成し遂げたのである。8年で300億を返し逆に300億円の貯金をしたということになる。単純に借金を返して溜めるだけで年間75億円必要である。そのほかに、当然に藩の侍の給与やそのほかの歳費が必要なのであるから、もっと多くの資金を作ったということになる。

 単純に山田方谷の内容は、「貨幣経済」であることを考えて歳入を家計経済に寄せたのである。つまり、農民が家内制手工業を行うことを否定せず、家内制手工業を逆に奨励し、その商品をブランド化して専売することによって歳入を増やしたということになる。備中鍬をはじめ、お茶(現在もある)、紙、たばこ、柚餅子など、様々なものが「備中」とか「松山」というようなブランドを使って売ることになった。現在の価格に直して鍬一つが3000円くらいであったが、備中鍬は40000円くらい。それでも日本中から感謝状が当時届いていたという。

 さて、この話が分かるであろうか。ここまでは普通に山田方谷の本に書いてあると思う。山田方谷の藩政改革は、このようにして「それまで江戸時代の人が考えなかった新しいやり方をした」ということになる。

しかし、私自身はそんなことに注目しているのではない。山田方谷のやり方は「現状を否定せず領民の生活に寄り添う」ということと、「現状をいかにして最も自分たちに有利にするかという本質を得たやり方」をしていることになる。

 ちょうど、天保の改革で水野忠邦が農業主義・米本位制に寄せた改革を行っているのに対して、山田方谷は武士側を変化させて、農民の実態生活側に改革を持ってきているのである。家内制手工業が多くなっているということになれば、当然にその領民の力を利用し、そこにブランディングと政府(松山藩)ができることを行って、その内容を最大限に財政再建、藩政改革に使ったのである。そのことが、上記のように収入を増やし、そしてそれを行っていった。

 当然に改革者特有の合理性は存在している。というよりは時代の変化に当たって、昔からの「慣習」を改革し、そして領内全て(武士や大名を含む)の意識改革を行い、身分などを解消していったのである。

 まずは貨幣経済を維持するために領民の家内制手工業をそのまま肯定する(領民を農業専業にさせず家内制手工業をやらせた)

 つぎに、武士の中で暇そうな人(下級武士)を農村部に送り、そのことによって屯田制を行った(家内制手工業による農業人口の補填を武士によって行った)

 そして、武士がいなくなったことによる兵力の補填として農兵部隊を組織した(家内制手工業であることから時間が自由になるので農兵をつくった)

 このように、まずは領民の生活を肯定し、領民の心をわかったうえで改革を行ったのである。そのように考えれば「長所を生かす」というような感覚の藩政改革を行っていた。いや、それこそ「民間活力の活用」であり、なおかつ「本当の意味の経世済民」なのではないか。

このように考えれば「どこかにしわ寄せをした改革」をした藩は、結局それまでの幕府のやり方に反対していることになり、そのために、それまでの幕府の秩序の中に於いて生きてゆくことはできなくなっていた。そのことから「尊王攘夷」に進むしかなかったというよりは「討幕派」にならなければ生きてゆけなかったのに違いない。

それに対して、上杉鷹山も本間家の財力に頼ったものの敵対的な関係になっているわけではない。山田方谷は大阪商人に待ってもらったものの、全く敵対的関係になっていないのである。そのように考えれば、米沢藩も備中松山藩も幕府を守る側に入っているということになる。その藩政改革のしわ寄せの在り方が、その後の幕末の幕府との距離感に繋がってくるのではないか。

 その意味では「体制の中にありながら改革を行う」というときには「領民の生活を肯定し、為政者側が変わって対応することによって行うというような、模範的な改革を行い、それは経世済民の本来の姿、四書五経に書いてある王道なのではないかと思うのである。

 当然に、小説の中では山田方谷がそのような考え方に至る「育ち方」をしっかりと書いているつもりである。まずは幼少期の育ち方、そしてその次の油商を継いだ時の経験、そして昨日の文書にも書いたが、身分制というものに対する「庶民」からの視点だ。

それらと身近な人の考え方などが、大きく影響しているのではないか。しかし、これは「創作」だけではなく、多分山田方谷の本当の姿がこうなのではなかったかという気がするのである。

宇田川源流

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