「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷と身分制の克服

「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 山田方谷と身分制の克服


「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」を書いていて思うのは、ある意味で、現代に山田方谷が生きていれば、このような苦悩はなかったのではないかということである。

単純に、山田方谷ではどうにもならない、天才では解決できない内容が少なくないということではないか。そのどうにもならないことの一つが「身分制」であったと思う。ある意味で、身分制というのは、山田方谷にとって学問や自分の努力で何とかなるものではないというような判断だったのではないだろうか。

山田方谷が、藩校有終館の学頭となり、そして次期藩主の板倉勝静の講師(侍講)となって、領国内を視察した時に自分の生まれた西方も同行することになった。その時に山田方谷は「昔の仲間が自分の事を見て、偉くなったらよそよそしくなったと誤解しないでほしい」というような内容の漢詩を作っている。このような漢詩があるということは、山田方谷は二つのことを強く意識し、なおかつ彼自身の力でそのことが全く改善されないということを悟っていたということになる。

その一つは「身分制がある」ということ、そしてもう一つはその身分によって差別的または仲間外れ的な感覚が多くの人に生まれてしまい、それを個人の努力では仕方がないという「同時代の人の感覚」ではなかったか。この漢詩を見て、私はそのように感じるのである。

現代でも同じような事はあるのではないか。高校の頃の同級生が皆立派になって社長になったりあるいは医者や弁護士になっている中で、自分だけは何か不遇であったり、無職やフリーターであった場合、一緒にいて本人たちは高校時代の時と変わらないつもりでも、自分の方は何か気後れしてしまったり、あるいは、うまく話題が合わなかったり、もっと大きなところでは、金銭的な感覚が全く異なってしまったりということがあるのではないか。

このようなことは、「ママ友」といわれる中で、様々に出てきたりすると思う。現在でも、ネットのニュースやSNSの書き込みなどには、そのような内容が出てきていることが少なくないのではないか。現在は身分制度はないものの、金銭的な内容や社会的なステータスのようなものはあり、その内容が自分の努力とは異なる部分で、全く異なる何らかの心理的な作用を作り出してしまうことは少なくないのである。

当然に、そのような身分制的な感覚は山田方谷には少なからずあったと思われる。少なくとも新見藩の藩校思誠館の中に会って、備中松山藩のなかでも武士でもない農村部の中で、それも農業ではなく搾油、油商をやっているというようなところの息子が、武士に混ざって学問をしているのである。

当時の学問に関する感覚は、また別な機会(もちろんこの連載期間中)に行うことにするが、しかし、少し触れておけば、当時の学問は「本来ならば稼げるように手に職を付けたり仕事に関係することを行うべきであり、学問などは金持ちの道楽で将来金にならない」と思われていたのである。まあ、当時の金持ちが詩吟や歌舞伎を習いに言っていたのと同じではないか。

それでも、武士は学問を習っていた。ある意味で教養がなければならないと思われていたのではないかという気がする。当時の武士は、すでに260年の平和の時代が続いており、武士といいながらも剣術を使って誰かを斬るということは無くなっていた。当然に、そのような中では、戦争などはないので、甲冑なども「身だしなみ」の中の一つであったと考えるべきである。

ある意味で現在の中では「礼服」特にほとんど着ることもない「燕尾服」のような物で、正式な内容であれば着ていなければ「違和感がある」ということになるが、普段は着る必要のないものというような感じになってしまっていたのではないか。

戦国時代であれば、農兵であっても持っていたものが、すでに平和の時代が続くと無用の長物になってしまっていた時代である。武士の内容は「武士の家計簿」というような映画があったが、まさに、犯罪の取り締まりや城の警護以外は、ほとんどがデスクワークになっていたと考えるべきであり、そのためには「読み書きそろばん」だけではなく、財政の話から政治の話まで様々な学問が必要であったと思う。しかし、当時の学問は、現在のように「政治学」とか「経済学」というように分かれていなかったために、それらの学問のすべてが「四書五経」で行われていたと考えるべきではないかと思うのである。

しかし、そのようなことも武士の階級であるから必要であった話であり、武士でなければ必要ななかったと考えられる。四書五経は、当然に「王者の学」であり「帝王学」である。つまり「為政者が民を治めるための学問」であり、農民や商人といった「支配される側の学問」ではないのである。そのように考えれば、支配される側の人々がこれらの学問を行うことは全く筆余が無かったというように思った方が良いのではないか。

山田方谷が生涯をかけて修めた「学問」は、そもそも山田方谷の生家の身分では必要が無かったのである。山田方谷が8歳の時、当時山田方谷が学んでいた新見藩思誠館に丸川松隠を尋ねて客人が来た。この客人が幼い山田方谷を見て、「お前のような幼い子供が何のために学ぶのか」ということを聞いたエピソードがある。この時に山田方谷が「治国平天下」と答えたのは山田方谷の事を研究している人ならば、誰でもが知っている話であろう。

では、あえて聞くが同じ年齢の板倉勝静が学んでいた場合、同じことを聞くであろうか。新見藩の関家の世継子が学んでいても、同じことを聞くであろうか。まずそのようなことはなかったであろう。丸川松隠の塾であっても、様々な子供が学んでいたに違いない。そのような中でなぜ山田方谷だけがそれを聞かれたのであろうか。当然に、山田方谷が幼く見えたということがあるのであろう。特別に小さい子供がいれば、一番小さい子供に聞きたくなるのは普通の事であり、なおかつその子が話しやすければ、その子に聞くことになろう。

しかし、それが板倉勝静であれば、聞かないということになる。つまり、「幼い子供」というだけではなく、「山田方谷がいかにも武士の子供ではなく農民の子供であったから聞いた」ということに他ならない。そのような子供にも容赦なく身分制が降りかかり、そして、その身分に関してある程度山田方谷を馬鹿にした質問が投げかけられていたに違いない。当然に、山田方谷はそのような不条理に立ち向かい、そして、その身分制度を変えようとしていたに違いない。

これは男女に関しても同じで、当然に、なぜ女性は学問を学んではいけないのかということも考えていたに違いない。単純に「農民と武士の差」という身分さだけではなく「男女」ということも考えていたのではないか。

その結果が、後に燐家の未亡人に言われ、その娘に学問を授けるということになる福西志計子ではなかったか。その福西志計子がまずは「裁縫所」を作り、それだけではなく、女学校に成長させて女性教育を行うというのは、ある意味で山田方谷の志を受け継いだということが言えるのではないか。そして、その福西志計子が、「神の下の平等」を強く訴えるキリスト教に帰依するというのも、なかなか興味深い所がある。

ある意味で、キリスト教の平等の考え方と、山田方谷の平等の考え方が同じであったに違いない。そのような教えの中で育った福西志計子が、何よりも山田方谷の志の最も良い「見本」になっているのではないか。

さて、このように「身分制を克服する」と言ことにしているが、実際は多分「平等」とか「実力主義」というような感覚が最も大きく山田方谷の中にあったのではないかと、福西志計子などを見ていると思えてくる。「実力主義」そのものが、やはり「効率化」とか「合理性」ということの最も強い支えになる。

そのことを考えれば、藩政改革も何もすべてこの平等と効率化、合理化によって構成されていたことがわかるはずだ。そしてそれは藩政改革の中で「質素倹約」を藩主板倉勝静にも使っていること、また、寺社奉行になった時に賄賂をすることなく自然に寺社奉行になれるなら、天の命じるところであり、就任を避けるではない」といっていることなどを考えれば、当然に、「賄賂」なども藩主にまで禁じていることが明らかになる。

まさにそのように「例外を認めない」「平等」ということが、山田方谷の一つの考え方の根底にあったことがわかるのではないか。農兵制(里正隊)や、下級武士の屯田制というのも、すべてこのように「能力に応じて道理的に職を振り分ける」ということを行っていたのではないかという気がするのである。

「着物を三回目洗うことはできない」というような例を挙げて、幕府が滅びるということを言ったのも、正井この身分制などで「硬直化した」ということが大きな問題ではなかったか。すでに社会は身分を超えて、農民が「新選組」を作ってしまい、また「士農工商」で身分が低いとされていた商人に頭を下げなければならない大名ということを考えれば、すでに制度そのものがおかしくなっているという「幕府制度の本質」を見抜いていたということに他ならないのではないかという気がするのである。

身分制ということが幕府にとって初めのうちは良かった。しかし、それが最後には時代に取り残されて、幕府そのものを滅ぼす遠因となっていたということを、合理的に見ていたのが山田方谷であったに違いない。その意味で身分制を克服することが、山田方谷にとって最も学問を学ぶ動機付けになっていたのではないかという気がするのである。

さて、私の小説である。

最大の問題は、上記に描いたことはすべて山田方谷の内心の事であり、ドラマや画像に現れるものではないということである。NHKの知り合いの所に行ったとき、山田方谷をドラマにしたいといったところ、「お前は、山田方谷役の役者が、45分(大河ドラマ1回分)正座して、無言で本を読んでいる、たまにページをめくる以外動きがない、そんなドラマに耐えられるか」と聞かれたのである。内心を表すには、「表情に出す」「行動に起こす」「文字を書く」「ナレーションで言う」という四種類しかドラマで表現する方法は存在しない。当然に、小説でも同じことになる。つまり、「方谷はこう思った」が連続する小説では、動きはないし、読んでいる人が面白くないということになる。

ではどうするか。

小説であることから「架空の人物」や「架空の事件」場合によっては「誇張表現」や「史実に無い事」を書いて、その事件や行動を通して心を書く以外にはないのである。同時に、場面を変えて、一つ目の事件を伏線にして、後の事件にするというようなことを使わなければならない。

要するに、何も記録がない場合は、「史実にない事件」を二つ捏造して、その二つの事件の山を関連付けて伏線として心を描く以外にはないのである。真面目に学んでいる人や、学者の皆さんには申し訳ないが、そのようにしても「心」を書くことの方が重要なのではないか。

この連載の冒頭に書いたように「テーマを変えてはならない」ということと「山田方谷の一生を書くのであって、その功績や結果をもたらした技術を書くのではない」ということなのである。

まさにそのような手法を使わなければならないほど、山田方谷のこの身分制の克服ということは、当時は文字に残せないほど奇異なものではないかと思うのである。この私の小説の技法に関しては、是非お読みいただいて感じていただきたいと思う。

宇田川源流

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