「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 天才とは何か(山田方谷に見る天才とは)

「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 天才とは何か(山田方谷に見る天才とは)


今回で第三回音「ゴールデンウィーク特別企画」である。山田方谷について考えてみる。さて、今回は山田方谷はどんな人物であったかということを書きたいのであるが、その功績などを書いてもあまり面白くない。一応、知らない人のために山田方谷については第一回に歴史人物事典の内容を抜粋しているのであるが、ここは私なりに「どのようなコンセプトで山田方谷伝を書いたのか」ということで見てみることにしたい。

まあ、エゴだとか、個人的に偏っているなどと言われるのであるが、ここは私個人のブログであるので、好き勝手に語らせていただきたいと思っている。

基本的に、私も人間なので、今後この「山田方谷伝」を書いたときの気持ちなどを忘れてしまうこともあるので、その時のための忘備録ということであろうか。そう思って、自分自身のために書き留めておくことを、そのまま皆さんに公開してしまうという感じである。

さて、一般に、人間の中で、功績を残す人とそうではない人がある。当然に、その功績を残せる人と、そうではない人の違いというのは、様々ある。しかし、功績を残していない人の方が素晴らしい人であったり、または、自分の感性とあっているということは、皆さんでもあるのではないか。

極端な例であるが、徳川家康よりも石田三成の方が好きな人が多いし、まあ、日本人でいえば、その例よりも三国志において、その後の中国を統一した早々や司馬仲達(魏の後の晋帝国の始祖)よりも、客観的には結局混乱に拍車をかけただけとも思える劉備や関羽や張飛の方が好きであるという人は少なくないのである。

このように考えると「功績」ということだけで、物事を計るのではなく、実際は「功績」というのは、その人おパーソナリティと、時代の要請、そして協力者や理解者の理解度ということの集合体の「結果」であり、実際にその人単体の内容ではなく、人・時・地の集合体であると解釈すべきではないか。

しかし、日本人というのはなぜか「結果」それも「成功例」においてそれを模範としてしまうことが少なくない。しかし、本来は、その「結果」や「技術」ではなく「パーソナリティ」などを掴んで学ぶべきではないかという気がするのである。

本来は「失敗」に学び、失敗しないようにすべきであって、成功から学ぶことは少ないはずではないか。そのように考えるべきであり、失敗から何を学ぶのかということをしっかりと身に着けるべきである。

野球監督の野村克也氏は「負けに不思議の負けなし」という言葉を残しているが、まさにこの言葉は金言であると思う(私が野村氏を好きというわけではない)。その金言に学べば、負けた方にこそ「失敗を繰り返さない」という教訓が残されているということになる。

では、山田方谷のように「成功した」もっと言えば「藩政改革を成し遂げた」という人には学ぶことはないのか。そうではない。「成功した人」の中では「成功した人の成功の要因を分析し、その成功の要因の中で、マネできること学べることを学ぶことは重要であるが、その中で「タイミング」や「環境」などを除いて考える必要があることは言うまでもない。しかし、その中で「個人」特に「考え方や発想」ということに関して言えば、当然に学べるところは少なくないのではないか。そのように考えているのである。

要するに「藩政改革のすばらしさ」や「技術」「手法」を学ぶのではなく、その精神を学ぶということが重要なのであり、また、その精神に至った、山田方谷自身の生い立ちや考えの根底、まあ、ある意味で言えば「哲学」(学術的な哲学という意味ではなく、山田方谷自身が行動の基本として常にまたは無意識に考えている内容)のような、ある意味で玉真の中にあるようなものを見るべきではないのか。技術などはいつでも古くなってしまうし、真似もできる。しかし、全く同じことをしても同じ環境や同じ時ではなければ意味がないのである。

さて、そのように考えてみると、この山田方谷について学ぶことは様々ある。そのうえで山田方谷を結論的に見てみれば「天才」なのである。

では、我々は「天才」の頭の中を解剖し、そしてその天才の心の中にある苦悩や誇りを探査しなければならないということになるのである。

さて、天才というのはいったい何であろうか。

正直に言って、「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」のテーマはこれである。もっと言えば、「天才はどうしてつくられるか、そしてその苦悩は何か」ということである。

兎角、天才というのは理解が不能であり、一般の中の人々の中に混ざらないように言われる。人間の分類学的に言えば、99.5%の「一般人」の端っこに、ほんの少しずつ「スグレ(天才)」と「ハグレ(落ちこぼれ)」がいるという。しかし、このハグレは、完全におかしなものではなく、ある意味でハグレの方がスグレよりも優秀である場合がある。

ニュートンは、幼少の頃「一般」に理解されずに馬鹿だといっていじめられていた。本当にバカなのだろうか。苦悩して、勉強をしてみたら止まらなくて、そのまま天才の名をほしいままにしているし、また、アメリカの映画で「フォレストガンプ」などは、まさに「ハンディキャップマン」が「勲章を得る」という話である。外国の事ばかりではなく、日本でも太宰治の人間失格の中で、小学校の中で主人公が唯一友人になる人物が、まさに「スグレとハグレを持ち合わせた人間」ではないかという気がするのである。

さて、この意味では山田方谷は阿璘といわれた幼少期以来、ずっと「スグレ」の道を歩いていた人物であり、また、非常に良いことに、彼の周辺にはその彼の「スグレ」をしっかりと理解する人物、まずは五郎吉と梶という両親、丸川松隠、佐藤一斎、大石源右衛門、板倉勝静というように常に近くにいたのではないかという気がする。また、そこを理解しつつ、山田方谷の「胸を借りたい」というような形で佐久間象山、久坂玄瑞、春日潜庵といった人物がいたのではないかという気がするのである。

では順風満帆であったかといえばそうではない。まずは親族の死。妹美知・母梶・父五郎吉は、方谷が十代の頃に死んでいるし、また、娘の瑳奇も早くに死んでしまっているのではないか。そのように考えれば、当然に、「身近な人の死」があり、その「死」と「悲しみ」を乗り越えるために、より勉学の中に身を没頭させていたのではないか。天才であると同時に、そこは心の平穏を保つための「砦」でもあったのかもしれない。そう、方谷が学んでいたのは、現実世界からの逃避でありそこに没頭することによって、様々な苦悩から一時でも離れようとしていたのではないかという気がするのである。

方谷は、私の想像では精神的にかなり強い人であったと思う。しかし、その精神的に強い人であり、様々な自分に対する罵詈雑言などは、全く意に介することはなかったと思うが、自分の家族や身近な人に対する悪評は絶対に許せなかったに違いない。同時に、そのことを顔に出さないようにしていたから、間違いなくひょうきんで、周囲を常に笑わせていたに違いない。

そのように考えれば、天才というのは、自分を理解されない中で、自分の質を落とし、周囲に溶け込みながら、周辺を自分がうまくコントロールして変えてゆかなければならない。自分の思う最悪の結論を必ず避けさせるように「周囲を気が付かれないうちにコントロールしていた」ということになる。

方谷がそのような術を持っていたということは、当然に「先が読める」それも「かなりの確率で先の予想が当たる」ということであり、なおかつ、その中で「人を陰で操縦する」ということができていたはずである。

日本人は陰で操縦するということに関してはあまり良いイメージを持たない。しかし、当時は身分的にも自分が目立ってはいけない場面が少なくなかったはずであり、陰で動かすということでなければ世の中を変えることが出来な場合も少なくなかった。今の世の中とは全く異なるのである。

そのように考えれば、そのような術を持っていたことも、彼の悲しみの中の妥協の産物の一つのなのかもしれない。もちろん、現在になって、そのような彼の妥協の産物があり、山田方谷が目立たなかったことが、今、山田方谷があまり有名ではなく、」大河ドラマにするにあたり知名度の問題が出てくるということになるのであろう。私の個人的な感想を言わせていただければ、その山田方谷の心の中の叫び、陰で操り自分が目立ってはいけないという時代背景を理解できないような人々が、今の世の中には多くなってしまったのではないか。本当の歴史をしっかりと見ている人はどれくらいいるのであろうかという気分になってしまうのである。

さて、このように見てくるとこのようなことがわかる。

・ 天才であった

・ 天才であったがために先が読めた(古人に学べという言葉を残している)

・ 自分が前に出てはならないということから陰で人を操る技があった

・ 身近な人を失った悲しみがトラウマになっていた

・ そのトラウマを隠すためにひょうきんで周囲を笑いに変えていた

・ (上記には書いていないが)当然に、自分には厳しくストイックであった

 このように見える。

 

 さて、この方な人物の小説を書くのは、簡単に思っていたが難しい。まあ、このように箇条書きにすればなんとなくできるのかもしれないと思うが、しかし、その心の中は分かるものではないのである。

何しろ、私自身が天才ではないのであるし、私のことを知っていて直接話したことがある人ならばよくわかると思うが、実際にストイックなどという言葉からは対極にいる人間である。そのように考えた場合、当然に「自分では絶対に考えないことを書かなければならない」ということになる。

通常、小説というのは、大なり小なり、自分の身近にいる人または自分自身がモデルとなり、そのモデルのサンプリングに基づいて、その人であればどのように受け答えをするかなどということを考えながら小説を書くものである。

 しかし、残念ながら、私の身近に「天才」がいないのである。まあ、ストイックな人は何人かいるのかもしれない。しかし、本物の天才は周辺にはいない。政治ジャーナリズムの中にいたが、私利私欲に塗れず、清廉潔白で、ストイックで、そして常に国家の事を考えているような人はいない。そのような人がいれば、日本はもっと良くなっているはずである。

 そのように考えて「自分の周りの人物をモデルにすることができない」ということに気付くのである。さて、では過去の小説などにあるだろうか。

例えば、諸葛孔明の小説は少なくない。しかし、ではその諸葛孔明が天才になり、世に名前を知られるまでの事はほとんどわからない。子供の頃の孔明を小説にしたものはないのである。竹中半兵衛であっても同じで、5歳の頃の竹中半兵衛がどのような子供であったのか、そのんな言い伝えは残っていない。このように考えると、「天才が育つまで」ということは誰も見ることができないし、今まで見ていないのである。またそのような小説が存在しないのである。多くの天才の小説は、天才が天才であって、多くの人の敬意を集めてからの事であり、その前提の上に様々なことを成し遂げてゆくということになる。

 では「天才はどう張って育ち、そしてどうやって作られてゆくのか」ということはかなり難しいテーマになる。そこで、今度は私の知りうる限りの「天才」、それもスポーツから、歴史上の人物から、全ての分野の人々の「天才」を集め、そのエピソードを集め、その内容をうまく加工して、その内容を入れていったのである。だから、様々な天才を知っている人であれば、当然に「あの人のエピソードだ」「どこかで聞いたことがある話だ」というような話が様々出てくると思う。これはひとえに私が天才ではないからそのようにしなければ文章が書けなかったということになる。誰のエピソードが入っているかは、講演か何かをしたときにオフレコで話すことにして、あとは読んだ人のお楽しみにしていただきたいので、ここではその話はしないようにしておこうと思う。

 さて、その天才の苦悩は、やはり私ではうまく書けていない可能性が高い。しかし、それでも人間である以上、いや普通の人よりも頭が良く、記憶力があるということが、かえって苦しめているのではないか。幼少期の記憶などがすべて方谷の頭の中に残り、普通では感じないような話まで全て出てきていたということになると思う。

人間は忘れることができるから、生きてゆけることができるなどという話を聞いたことがあるが、まさにそのような苦悩があるはずだ。要するに子供の頃の記憶がそのまま残って、様々なトラウマになっていたに違いない。それが、苦悩の一つになっていたに違いない。そして、天才であるから、他の人よりも責任を感じ、自分であっても避けることができなかったということが、そのまま自分の苦悩になってしまったに違いない。

 このように考えれば、「藩政改革」ではなく「無血開城」と「熊田恰の切腹」この二つが、間違いなく山田方谷のクライマックスであり、彼の精神の、もっと言えば、命を大事にする彼の苦悩の再興の部分ではないか。

 私の小説はそのようになっている。もちろん賛否両論あると思う。しかし、人間が最も素晴らしい時そして、最も苦悩するとき。その二つを方谷という一人の天才で表現できるのではないかという気がするのである。

宇田川源流

「毎日同じニュースばかり…」「正しい情報はどうやって探すのか」「情報の分析方法を知りたい」と思ったことはありませんか? 本ブログでは法科卒で元国会新聞社副編集長、作家・ジャーナリストの宇田川敬介が国内外の要人、政治家から著名人まで、ありとあらゆる人脈からの世界情勢、すなわち「確実な情報」から分析し、「情報の正しい読み方」を解説します。 正しい判断をするために、正しい情報を見極めたい方は必読です!

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