「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 伏線をたくさんつけた「麒麟がくる」の足利義昭と織田信長の間に挟まれる光秀の苦悩

「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 伏線をたくさんつけた「麒麟がくる」の足利義昭と織田信長の間に挟まれる光秀の苦悩


 大河ドラマが佳境に入ってきた。まあ、毎年のことであれば、この時期にはすでに最終の話になっているところであり、明智光秀の今年の話であれば、そろそろ本能寺の変か山崎の合戦のあたりであろう。しかし、今年はコロナウイルス禍の影響で、撮影ができないきかんっがあり、現時点で第36回が終わったところであり、全44回としてあと8週「麒麟がくる」を盛ることができる。

さて、今回の麒麟がくる。明智光秀役の長谷川博己さんの演技もさることながら、圧倒的な存在感があるのが、坂東玉三郎さん演じる正親町天皇ではなかろうか。三條西実澄役の石橋蓮司さんなどもかなりの存在感なのであるが、しかし、そのようなベテランがいる中でも、全く引けを取らない天皇の存在は、ある意味で当時の天皇という存在の大きさが見えてくるような気がする。もちろん現在存在感がないというのではなく、戦国時代といえば、とかく戦国大名と将軍に特化された物語のようになってしまう傾向にある。しかし、今回の「麒麟がくる」では、天皇や公家の世界をしっかりと書いているところが最も興味深いのではないか。「公家の世界」「幕府の世界」「戦国大名」「庶民」という様々な階層の乖離と関連性という全くの違い、そして堺正章さん演じる東庵先生や、門脇麦さん演じる駒、尾野真千子さ念じる伊呂波太夫など、架空事物であるも、その改装を裏でつなぐ人々の個性があり、物語が進んでゆく話の進め方は、なかなか面白い。

もちろん「架空の人物」というのは歴史上存在しなかったかもしれないが、しかし、そのような存在があったから、時代が大きく動いたのではないか。そのように思わせるものがありである。

さて、今回は武田信玄(石橋凌)の上洛開始と三方ヶ原、それに合わせた将軍足利義昭(滝藤賢一)と織田信長(染谷将太)の決部悦についてである。歴史的には松永久秀(吉田剛太郎)などがそれに呼応したことになっていたり、また義明が様々なところで暗躍したりということになっている。しかし「麒麟がくる」では、「人間の心すれ違い」ということから、これらのことが起きたというような形になっているのではあるまいか。

『麒麟がくる』光秀、義昭と決裂 長谷川博己が“心の叫び”を涙で表現

 俳優の長谷川博己が主演を務めるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(毎週日曜20:00~)。13日に放送された第36回「訣別」では、光秀(長谷川博己)と将軍・義昭(滝藤賢一)が決裂。義昭の信長(染谷将太)への憎悪に、光秀は挫折感を味わい、そして、「将軍か信長か」という過酷な選択を迫られ涙を見せた。

 演出を担当した一色隆司氏は「第36回は、光秀目線で話が進む回。その中でも最大のポイントが、クライマックスとなる将軍義昭との決裂のシーンです。前回の駒との話の中で義昭の葛藤と闇が描かれていましたが、今回は、そんな義昭の変化を光秀が義昭との殺陣のシーンで感じ、そして、ラストで決裂となるわけです」と解説する。

 これまでにもさまざまな生き物が登場している本作だが、今回は白鳥が登場。一色氏は「白鳥を和解のシンボルとして運び入れたものの、それを拒絶する義昭の信長に対する憎悪に、自分を信じて進んできた光秀は最大の挫折感を味わいます」と、白鳥の意味、そして、義昭と光秀の心情について語った。

 その後、「将軍か信長か」という過酷な選択まで迫られ、涙した光秀。一色氏は「台本にある光秀の落涙をどの様に表現するのか、長谷川さんといろいろと話をしましたが、長谷川さんは渾身の演技でそれに応えてくれました。そして、その芝居を受けて、滝藤さんも谷原さんも素晴らしいリアクションとそれぞれの思いを作り上げて下さいました」と俳優陣の演技を称賛した。

 撮影の中でのポイントは、「信長との敵対感を持つ義昭と三淵は、光秀のことをどう見るのか、義昭に盲目的について行くと答えられない光秀に対して何を思うのか」だったという。「台詞では、この回のモチーフとなる『鳥』というキーワードを使って、光秀への思いが語られていきますが、その一方で、滝藤さんとは、信長に対する憎悪が光秀に対する思いに影響するレベルなどを現場で議論しながら、このシーンを作り上げていきました」と明かす。

 さらに、「光秀が去った後の義昭には、単に光秀へのシンパシーだけではなく、決意した信長との戦への思いも盛り込んで、戦国時代の過酷さを表現していただくことを意識しました」と説明。「涙で表現された光秀の心の叫びが、どのように本能寺に続く終わりの始まりへの暗示となっていくのか」。それぞれの考えや立場が見えた回となった。

 義昭役の滝藤も、光秀との決別のシーンは印象深いシーンになったという。「長谷川さんの魂の叫びが聞こえて、俳優同士しか分からない時間が生まれたように感じました。光秀を感じているだけで感情があふれ出てくるし、何もかも受け入れられる、そういった瞬間を経験することができました」と振り返り、「互いの道がはっきりとした決定的なシーンでもあるので、最高の別れをしたという顔になっていたらいいなと思いますね」と語った。

2020/12/13 news.mynavi

https://news.mynavi.jp/article/20201213-kirin/

 ドラマで「心」を描くのは難しい。実際に、小説を書いている場合でも、「○○と思った」と書かず(つまりは心内描写をせず)その場の雰囲気や風景などで、人間の心理の移り変わりを書くことはかなり困難である。今回は「白鳥」という「平和の象徴」でありながらも「飛んで行ってしまう」生き物をうまく使い、それを受け取る受け取らないということ、一方で明智光秀の号泣ということ、一方の足利義昭が光秀を追わず、涙を流すという演出で様々なことが見えてきたのではないか。

その前に正親町天皇と光秀の会話があり、光秀おなかで天皇と将軍、朝廷と幕府という対比ができてしまい、信長の心の中が見えてきた光秀と、一方でその光秀の心変わりを許容する義明のコントラストは、非常にうまく書かれていたのではないか。

ドラマの中では今一つ、「不信感」というものが表現できておらず、足利義昭がなぜ信長と対立をしなければならなかったのかが書かれていない。しかし、今回のシーンで「単純に信長と義昭の対立」ではなく「調停を巻き込んだ三つ巴のすれ違い」というものが、表現できたのではないか。その意味では坂東玉三郎さんの演技である天皇の存在感は非常に素晴らしいものではないかと思う。

もう一つが、「坂本城ができたのに妻と子供を人質として今日にと留め置けという義昭の光秀に対する不信感」と、そのことに対して何も言わない光秀の妻煕子(木村文乃)であろう。私も「光秀京へ」という小説を書いて、最も気を使ったのが、煕子である。はっきり言って、光秀本人よりも、この妻煕子のいじらしいまでの控えめな態度と、それでも明るく振舞う姿は、本当にこのような女性がいたら男性は数倍はタラ宇¥九のであろうと思う、「妻の鑑」であると思う。この煕子が坂本城の天守閣に登った時、本当にどのように思ったのか、今となっては坂本城がなくなってしまっているので、どのような光景を見たのかは全くわからいが、しかし、内陸で育った煕子が大きな琵琶湖を見て何を思ったのか、またその喜ぶ顔を見て光秀が何を思ったのか、そのような心に思いをはせることこそ、最も歴史のだいご味なのではないか。

そのような、糟糠の妻であり最も大事な存在である子供たちを人質にするという、そのような猜疑心にまみれた義昭との訣別のシーンが、一つ、光秀の中では「自分が思い描いていた信長が幕府を支えて転嫁を平定する」という姿の終焉ではなかったかという気がするのである。それは単純に、光秀そのものが義昭と訣別するというのではなく、光秀が自分の理想と現実の乖離を引き留めることが出来ず、その自分の理想と訣別するということではなかったか。この「理想を失った光秀」が次に何をするのか。そのように考えた場合、本能寺の変は「信長では平安が望めない」、今回のドラマの主題では「信長のところには麒麟はやってこない」ということを、光秀が感じたということになるのではないか。

そのような「光秀の心の中の伏線」が今回しっかりと書かれていたのではないか。正直に言うと、あと8話で「小栗栖の藪」まで行くかどうかは微妙かなと思う部分もあるが、しかし、そのような「光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのか」という伏線は見えてきているのではないか。

宇田川源流

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