「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 NHKの大河ドラマによって教えられる「平和」

「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 NHKの大河ドラマによって教えられる「平和」


 先週大河ドラマに関する内容をお休みしたので、今週はほかに解体記事があったのだが、とりあえず、それは後に回して大河ドラマ「麒麟がくる」について考えてみよう。

今回の内容は、織田信長が斎藤竜興と戦って稲葉山城を奪取し、そして足利義昭が越前に来てこの後に朝倉義景と対面、一方で、京都では足利義栄が十四代将軍に就任したというような時代背景である。

今回の内容の中には、「平和」ということが「義昭」(滝藤賢一)「信長」(染谷将太)「駒」(門脇麦)「東庵」(堺正章)の立場で別々に語られている。いつも「戦争しないことが平和」とか「憲法9条が大事」などといい、戦争に関して悲惨で日本が悪いなどと補導しているNHKとは異なり、なかなか現代の内容にうまくはまった内容ではないか。そして、その中で「斎藤道三」(本木雅弘)の演じた言葉が、そのまま伏線となって今回に生きてきているという感じがあるのが興味深い。あくまでも「ドラマ」であり、史実と照らし合わせてここが違うなどということを言っていてはあまり良い話にはならない。そうではなく、あくまでも「ドラマ」としながら、当時の戦国武将が様々な育ちで、様々な内容を見る中で、様々な立場から「戦国時代の中の平和」をどのように考えたのか、そして、その平和の実現が、最終的に「本能寺の変」につながるというようなことになるのではないか。

いずれにせよ、歴史を先取りすれば、このような考え方の様々な影響があり、豊臣秀吉が最終的には日本の戦国時代を終わらせ、そして、その後徳川家康が江戸幕府を開いて260年の平和の時代を作るのである。この平和の時代が実現したのは、今回平和について語った人々の様々な考え方の結集であり、なおかつ、「平和の中にどのように国を発展させるか」といことが存在しているのである。

それが「ドラマ」という形でわかりやすく考えられ、伝えられているところがなかなか興味深い。

麒麟がくる:「褒められたい」染谷将太“信長”の承認欲求強すぎ 戦が嫌いではない理由に「魔王の片りん」?

 俳優の長谷川博己さん主演のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」(総合、日曜午後8時ほか)第25回「羽運ぶ蟻(あり)」が9月27日に放送され、長きにわたる斎藤龍興との戦に勝ち、ついに美濃を平定した信長(染谷将太さん)が、光秀(長谷川さん)を前に“承認欲求”の強さをのぞかせ、視聴者の関心を誘った。

 信長は「今川を倒したとき、そなたわしに聞いたな。美濃を平定したあとはどうするのか、と。わしは答えられなかった。何をすればよいのか分からなかったからだ。今も分からぬ」としながらも、「だが一つ分かったことがある。わしは戦が嫌いではない。今川義元を討ち果たしたとき、皆が褒めてくれた、喜んでくれた。戦に勝つのはいいものだ。わしはみなが喜ぶ顔を見るのがこの上なく好きなのだ。皆を喜ばす戦ならばいとわぬ。ただこの先、どこに向かって戦をしていけばいいのか、それが分からぬ」と告白する。

 直後、「周りは敵だらけ」で「美濃を取ったはいいが、これからは守らなければならぬ。また戦だ、きりがない」と本音をもらす信長。そこで光秀は「それではいつまでたっても戦を終わりませぬ」と切り出すと、上洛(じょうらく)して新しい将軍と幕府を再興すれば、武士が誇りを持てる平らかな世になりみんなが喜ぶと進言。さらに、かつて斎藤道三(本木雅弘さん)から託された“大きな国作り”の話を持ち出し、信長をその気にさせる……。

 一見、光秀と信長が、同じ“大きな国作り”に向けて意気投合したようにも思えるが、視聴者は信長の「わしは戦が嫌いではない。今川義元を討ち果たしたとき、皆が褒めてくれた、喜んでくれた」という発言に着目。SNSでは「戦が嫌いではない、のはいいとして、嫌いじゃない理由が! やっぱり根っこはそこなんだね」「この信長は承認欲求が強すぎるというか……」「承認欲求の塊じゃないか」「信長の戦が嫌いではないは戦闘狂ではなく、承認欲求やサービス精神から来るから厄介」などと反応。「魔王の片鱗が見えたね」「魔王の卵が孵化(ふか)してこのままでかくなりそうな不穏」「BGMも相まって完全に魔王の覚醒シーン」といった声のほか、「意気投合してるようで絶妙なところですれ違っているような会話に聞こえなくも。いやなんかすごいシーンだ」といった感想も書き込まれていた。

 「麒麟がくる」は59作目の大河ドラマ。1991年放送の「太平記」などで知られる池端俊策さんのオリジナル作。ドラマでは謎めいた明智光秀の前半生にも光を当て、戦国の英傑たちの運命も描く、エネルギッシュな群像劇となっている。

2020年09月27日 まんたんうぇぶ

https://mantan-web.jp/article/20200927dog00m200067000c.html

 そもそも「麒麟」とは平和をもたらす不思議な生き物であり、それがくるということは「戦国時代を終わらせて平和をもたらす」ということを意味する。では平和とは何か。

「駒」…貧しいものを救うこと

「足利義昭」…幕府を再考して武士を束ねること

「東庵」…他人に干渉せずに自分の役割を行うこと

「織田信長」…大きな国を作り他人が手出しできないようにすること

 このような感じになる。はっきり言っておくがどれかが間違えているというのでははない。この「平和」の問題というのは、見る人、見る立場、見ている範囲において全く異なり、この中のすべてが「正解」であるということが問題なのである。例えば今の日本は平和なのかということを言えば、日本は戦争に巻き込まれているわけではないし、暴力的な反乱などが起きているわけはない。そのために「日本国内と限定して周辺事項であれば平和」であるということが言える。しかし、一方で、「日本にもたらされる石油や、地下資源を発掘している中東やアフリカは内戦などを行っておりまた、途中の海も海賊などが出没していて問題がある」ということになる。そのような場合、つまり視点を日本の物や日本と関連のある国まで広げてしまえな、当然にその「平和」は崩れてしまう。ある意味で「平和は日本が巻き込まれていないだけ」でありまた「今後も巻き込まれないという保証は全くない」ということになるのである。そのように考えれば、全く「平和ではない」ということになる。ではそのような「今後巻き込まれない」ということであれば織田信長のような考え方になるべきである。

しかし、今回の内容は「織田信長が戦いが好き」というようなことになってしまい、また、「明智光秀(足利義昭に近い)との平和の考え方が異なる」ということに大きな問題が出てきてしまうということになる。まさに、本能寺の変の第一伏線がここに出てくるのであはないか。

ドラマとしては伏線になるのであるが、しかし、上記のように、今の日本にも完全に風刺できる内容であり、そのようなことを感じながら見ることができると、このドラマはなかなか面白い。時代劇というのは、「時代設定を変えたために、今必要なメッセージを直接的に示すことができる」ということであり、そのメッセージをどのように考えるんかということを受け取る「視聴者側の教養」も必要になってくるドラマなのである。

いや、今後が楽しみである。

宇田川源流

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