「宇田川源流」 いよいよ今週の日曜日から大河ドラマ「麒麟がくる」放映で「既成概念打破」をいうNHKの明智光秀像とは
「宇田川源流」 いよいよ今週の日曜日から大河ドラマ「麒麟がくる」放映で「既成概念打破」をいうNHKの明智光秀像とは
なんとなく毎週水曜日になんとなく大河ドラマに関して書いているような気がする。
まあ、それだけ大河ドラマに入れ込んでいるのであるが、実際に作家である私などは、すでにこのように「ドラマ」になっているときは、次の原稿を書いているのである。そのために、大変申し訳ないが明智光秀に関しては「昔の作品」ということになる。
よく、作家がその作品の映画やドラマ化においてインタビューを受けることがあるのだが、実際に「その直前に自分の本を読んでからインタビューに臨む」などという人は少なくない。一つの作品にこだわっているわけにもいかない。そのようなことをしていては収入が入らなくなってきてしまうので、どうしても次の作品を書かなければならないし、そのために調査や資料集めをしなければならないのである。
そのために少し明智光秀に関しては、徐々に消えつつある。ちなみに、次は何を書いているかということに関しては、また別の機会にすることにしたい。ちなみに来年の大河ドラマの主人公である渋沢栄一ではないことは確かである。
さて、今回の大河ドラマに関しては様々な話があるのだが、もっとも注目するのは「今までの解釈とは異なる明智光秀像」ということではないか。つまり「裏切り者」というものや「三日天下」というようなイメージではなく、何かほかの解釈を行った内容になるということをNHK自身が言っている。
「歴史」というものは「解釈」である。少なくとも現代社会に明智光秀に実際に会ったことはいないわけであるし、またその時代を体験した人もいないのである。そのように考えた場合、明智光秀像というのは、その時の文献に従ったものでしかない。
しかし、「文献」というのは、現代もそうであるが誰かが書いたものでしかなく、その書いた人の主観が大きく左右することになるのである。つまり、書いた人やその時代背景をしっかりと考察して、その立場などを見たうえで、文献の解釈を変えてゆかなければならない。そのような修正をすることによって「真実に近いもの」が見えてくるのではないか。
「麒麟がくる」長谷川博己 明智光秀は「今の時代に必要」 既成概念打破へ「本能寺から逆算しないで」
◇「麒麟がくる」主演・長谷川博己インタビュー
19日にスタートするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(日曜後8・00)。大河としては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた半生に光を当てる。主演を務めるのは俳優の長谷川博己(42)。目前に迫った初回放送を前に、今作への抱負を語った。
大河主演は今回が初めて。「座長として全体を見通しておかないといけないですね」と重責も感じている様子だが、「一つのキャラクターを一年間演じるという経験ができるのは大河ドラマだけ。そこで主役を務められるのは役者冥利に尽きます」と充実感たっぷりだ。
今作は池端俊策氏(74)によるオリジナル脚本。光秀を演じるにあたり、その人物像に迫ろうとしたが「調べれば調べるほど分からなくなった」と振り返る。
「光秀についていろいろな説があって、またそれを否定する説もあって…。なので、そうしたものを現場に持ち込まず、池端さんの脚本の中の光秀を演じようと決めました。最初はどうしても“光秀はこういう人間だろう”と逆算してしまいそうになりましたけど、そうしたことを一切考えずに演じた方がしっくりきましたね。『麒麟がくる』という作品の中で明智光秀像をつくりたい、という気持ちで臨めています」
過去にも池端氏が脚本を手掛けた同局土曜ドラマ「夏目漱石の妻」(16年放送)に夏目漱石役で出演している。「池端脚本」の魅力を「本当に繊細で、白黒はっきりしていなくて色合いがあいまい。“筆が踊っている”という感じがします」と語る。
一方、池端氏も「俳優・長谷川博己」の印象について同じ「繊細」という言葉を用いて表現する。「夏目漱石を演じていただいた時に、とても素敵な俳優さんだなと思ったんです。非常に繊細で、誠実で、優しさがあって。でも、どこか殺気のような緊張感もあるんです。そうしたところが、透明感と緊張感を持って時代を駆け上っていく光秀の人物像と簡単につながりました。“やっぱりこの役は長谷川さんだ”と思いましたね」。
多くの日本人に「本能寺の変で主君の織田信長を討った人物」というイメージが定着している光秀。そこで池端氏は「明智光秀が織田信長を討ったという劇的な事件は、江戸時代の思考によって逆臣による反乱劇というレッテルを貼られ、その印象が後世にまで残り光秀像が作られてしまいました。しかし、光の当て方により、光秀には別の顔があったのではないか、本能寺の一件は光秀と信長の関係を見直すことにより意味合いが一変し、歴史の転換点として深い意義を持つのではないか」と今作のキーポイントを説明している。
昨年6月のクランクインから半年以上が経過。池端氏の描いた光秀の人物像に魅了された長谷川は「違和感を感じる人がいるかもしれないですけど、光秀は今の時代に必要なヒーローなのかもしれません」と語る。
「上司にズバっと正直な意見を言い、知性と品性で突き進む人物は今の世の中にいたらいいですよね。池端先生もおっしゃっていたのですが、本能寺の変を起こした明智光秀から逆算して考えてほしくない。僕もそこは考えずに演じています。美濃という自分の国を守りたいという気持ちや、自分の血筋を大事にしたいという気持ちは現代の人間と同じだと思います。さらに光秀は尾張、堺などに行って、それらの場所も守ろうとする。それは、私たちが今の日本を守りたいと思う気持ちと同じだと思います」。
来週日曜日に迫った“出陣”の時。「昔の大河ドラマのような王道さもありながら、新しさもあり、現代性も感じられるような作品になっています。“なぜ今、明智光秀のドラマが必要なのか”ということも分かってもらえるはずです」と自信をのぞかせ、「現代の人たちに、令和の戦国大河ドラマをお見せできればと思っています」と熱く語った。
スポニチアネックス2020年01月11日08時01分
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20200111-0115
まずは長谷川博己さんである。
今回主人公の明智光秀を演じられる。さて、かなりさまざまな苦労があったことと思う。私が小説で明智光秀を書いた時は「排撃されそうな内部告発者の窮鼠猫を噛む行為が本能寺の変である」ということを言っていた。
実際に「本能寺の変で織田信長を殺した後、明智光秀はどのような日本運営をするつもりであったのか」ということは非常に興味深かった。事件というのは「事件そのものを起こす」という「衝動的犯行」というものがあるが、一方で「緻密な計画的犯行」も存在する。
伝えられるところ、本能寺の変の中で、織田信長が襲ってきたのが明智光秀と知ると「是非もなし」といったという。この言葉の解釈は様々あるものの、基本的には「明智光秀ならば逃げることはできない」と思ったということであることは間違いがない。そこで信長は頃合いを見計らって、寺に火を放ち、首を残さないように自害している。
このことからわかるのは、明智光秀が衝動的な犯行を行うような人ではないということである。つまり、綿密な計画を持った本能寺の変である場合、その後のことまでしっかりと考えていたはずであるし、そのことは、筒井順慶や細川幽斎に送った手紙の中にも書かれている。室町時代に、六代将軍を殺した「嘉吉の変」のように、将軍義教を殺した後、その場で自分たちも切腹するつもりでいた赤松満祐とは訳が違うのである。
このように考えた場合、当然に信長を殺した後のヴィジョンをもって行ったはずであり、それはなんであったのか、知る必要があるのではないか。
もう一つは、信長のところに来るまでの光秀である。どうも光秀は医者であったというのが今回の「麒麟がくる」の設定であるようだが、その内容は全くわからない。医師であったものが軍隊を動かせるのかなどはなかなか難しい。
いずれにせよ「中間管理職が内部告発をするにあたって、社長や役員と刺し違える覚悟で臨んだ」のが本能寺の変であり、ある意味で、今回のカルロス・ゴーンの事件と似ているのかもしれない。
「上司にズバっと正直な意見を言い、知性と品性で突き進む人物は今の世の中にいたらいいですよね。池端先生もおっしゃっていたのですが、本能寺の変を起こした明智光秀から逆算して考えてほしくない。僕もそこは考えずに演じています。美濃という自分の国を守りたいという気持ちや、自分の血筋を大事にしたいという気持ちは現代の人間と同じだと思います。さらに光秀は尾張、堺などに行って、それらの場所も守ろうとする。それは、私たちが今の日本を守りたいと思う気持ちと同じだと思います」<上記より抜粋>
長谷川博己さんの、この意見は非常に面白い。「自分の国を守りたい」「日本を守りたい」という気持ちが、様々な動きを明智光秀にさせてゆくということがうまく演じてくれるのではないか。
麒麟がくるに期待である。
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