「日曜小説」 マンホールの中で 2 第一章 4
「日曜小説」 マンホールの中で 2
第一章 4
「本当に苦労させやがる」
次郎吉は、さすがに自分の人の良さに呆れていた。まさか、泥棒をやっていて、狙っている家でもないのに、こんな何もない家に毎日のように忍び込むようになるとは思ってもいなかったのである。
「できれば専用の入り口を作ってもらいたいね」
さすがに、杉崎家の勝手口のカギを渡されても、そこのカギを開けてはいるつもりもない。まあ、便利ではあるが、何となく負けた気分になるのが困ったところである。
「何か収穫があったか」
「全く、爺さんも気楽なもんだよ」
次郎吉は普通にそのようなことを言った。善之助は少し悪いと思ったのか、何か茶箪笥から出そうとしたようであるが、しかし、この日は何もなかった。そういえば三日前に来たばかりである。その時はなぜか缶コーヒーがあった。
「それにしても、俺も幽霊の正体を探るとは思わなかったね」
「わかったのか」
「ああ」
次郎吉は、少し不敵な笑みをたたえた。
「爺さん、実は、先週の土曜日ここを出てから、今日の昼までずっと小林の家に忍び込んでいたんだ」
「ずっとって、どういうことだ。毎日ということか」
「いや、ずっとだよ。つまり二十四時間、ずっと。」
「トイレとか、食事はどうした」
何かわからぬが善之助はうろたえていた。まさかそんなことをするとは思いもよらなかったのである。
「爺さん、なんか変なことを考えているみたいだな。前、マンホールの落ちたときに、本物の泥棒ってのは、ずっと獲物を見張って、その家の内情から癖まですべて、もちろんその家の警備体制や人の出入りまですべて知るって言っただろ」
「ああ、そんなことを言っていたな」
数カ月前のマンホールの中。あの事件の日。杉崎善之助は事故からマンホールの中に落ちてしまい、そこで次郎吉と会った。そしてその時に本物の泥棒を称する次郎吉の話を聞き、次郎吉のすばらしさを感じたのである。まさにプロである。そしてその人生哲学や社会に対する考え方などを聞いて、善之助が今まで生きていた世界とは違う広さと深さを感じたのである。
そして、その時に本物の泥棒とは何かということを聞いた。確かに、すべて納得するまで、そして確実に仕事を仕上げられると、ずっと観察を続けるといっていたのである。
しかし、善之助は忘れていた。自分の家から次郎吉が何かを盗むことはなかったし、また、善之助自身泥棒の経験などはない。それどころか、善之助は元警察官でありそのあと議員をやっていたようなエリートなのだ。
「まあ、忘れちまったかもしれないが、納得行くまで何日でもその獲物のところにいるんだ。それが、様々なことを教えてくれる。いや、盗みの仕事というのは、その獲物が盗まれたい、俺のところに来たいというまで待つんだよ。いい女が向こうから告白してくるみたいに、ただひたすら近くで見ている。そして相手が落ちるのを待つんだ。そうすると、あまり苦労しないでよくなる。しかし、そうなる前に強引に盗みに入ってしまうと、女を取り合って修羅場になるみたいになってしまう。そんなもんなんだよ。だから、長い間獲物との間に会話しなければならない。三日間くらい寝泊まりを一緒にしても、そんなもんは短いもんなんだ」
善之助には分かったようなわからないような例えだ。そもそも、今回は小林さんの幽霊である。まあ、小林さんがその獲物ではなく、幽霊という実体のないものが獲物になる。その獲物と会話して幽霊から告白してくるのを待つというのである。いや、もしかしたら、次郎吉は普通の獲物の話をしているだけかもしれない。しかし、今回も何日もその場にとどまっていたのである。それは、今の話から言えば幽霊と会話するためでしかない。
「幽霊は盗めるのか」
次郎吉は笑った。近所の手前、電気もつけないで忍び込んできているのである。勝手口のカギをもらっても、扉を開けるところを見られることを避けるために、他から入っている。それなのに、この善之助の言葉には大声で笑うしかなかった。いや、笑い声を抑えることができなかったという方が正しいのかもしれない。
次郎吉にとっては、今回の小林邸は善之助に頼まれたから入ったのに他ならない。だから獲物などはない。しいて言えば、獲物は事件の解決であり、幽霊の正体を見破ることである。しかし、「泥棒」という言葉と「獲物」という言葉で、善之助は自動的に盗むというような発想になってしまっているのだ。
実際に人間とはそういうものなのかもしれない。泥棒が「潜む・潜入する」という単語と「獲物」という対象物を示す単語があれば、それがその人の依頼事項のために行っている行為であっても、自動的に「盗む」というように条件反射的に思考してしまう。このような思考のことを「思い込み」というのであり、その思い込みによって、様々な誤解とすれ違いが生まれるのである。
善之助の場合、その思い込みによるすれ違いが生じるが、次郎吉との関係において、基本的には包み隠さず心の中に浮かんだことを言うような関係になっている。そのために、すれ違いによる誤解が人間関係の致命傷になる前に、このように笑い話ができるのである。
概して人間関係というものはそのようなもので、実際に思っていることをそのまま口に出してしまった方が関係がうまくゆくし、間違っていても笑って済ませられることが多いのである。
「幽霊は盗めないよ。爺さん。まあ、盗めても盗もうとは思わないし、また盗むような気もしないしな」
「そうだろう。しかし今なぜ笑ったのだ」
「そりゃそうだろう。そもそも盗むことができないものを盗んだのかと聞かれれば、さすがに驚くし、また、どうやって考えたら幽霊を盗むことになるのか、その辺を考えたら面白くて」
「そうか。私もまだ面白いことを言って他人を笑わせることができるようだな」
「ああ、爺さんはまだ心は若いから、大丈夫だよ」
今度は二人で笑った。何か心の中の氷が解けたような感じだ。何か安心した時に出てくる笑いであった。
「ところで、食事とかは困ったのではないか」
「だから、恋人と……こういうことを言うから誤解するのか。爺さん、こっちも本物の泥棒だからその辺は心配してくれなくても大丈夫だよ」
「そうか。何か持って行ったのか、それとも小林さんのところの冷蔵庫から盗んで食べたのか」
「まさか、盗んで他人の物を食べるようなことはしないよ。携帯用の食事くらいはいつも持っている。」
「トイレは」
「借りる」
「小林さんの家のトイレをか」
「ああ、その辺でするわけにはいかないからね」
「でも、水洗の音とかが盗聴器で聞かれてしまったりするんじゃないのか」
「ああ、そうね。」
「大丈夫なのか」
「その時はどこにマイクやカメラがあるかわかっているから、そこに細工をしてからトイレに行くんだよ」
「なるほど」
善之助は感心した。要するに、先週の土曜日に小林さんのことを川沿いのマンホールの中で依頼し、火曜日には電波発信機の存在を見つけ、そして、それから三日間で、カメラやマイクの位置をすべて把握しているのである。さすがは本物の泥棒である。まあ、そのような泥棒でなければ、とっくに捕まっているのであろう。またそれくらい優秀であるから善之助自身次郎吉に惚れ込んだのではないか。
「爺さんさすがだな。マイクとカメラとこの前言ってから、もうそれがあたまのなかに入っていたのか」
「そりゃそうだ」
「それが飯とトイレで入るとは思わなかったな」
「我々は、人間が必ず行うこと、つまり飯と水とトイレ、この三つで人を考えるんだよ」
善之助の言う「我々」は、元警察官として言っているのか、あるいは、そのようなことを基軸にして議員の時に政策を作っていたということを言っているのかはわからない。いや善之助自身、自分が言っていながらその我々が誰だか特定できないで言っていたのかもしれない。しかし、次郎吉はそのことを指摘しなかった。いや、それはどうでもよいことであった。
次郎吉にしてみれば、確かにそのようなことを、自分の盗みに入っているときに気にしていたし、また、そこが人間と機械の最大の違いであることは間違いがない。人間が完璧ではないのは、感情という動物の本能的なことと、これらの人間としての摂理があるからに他ならない。
なるほどな。
次郎吉はそう思いながらも、それは声に出さなかった。善之助は目が不自由であるし、これだけくらい夜中に会っているのだから表情だけならば感情を読まれることはない。またもしもそのことに気づかれていたとしても、善之助は、特に指摘をしなかったであろう。
「で、幽霊は何だったんだ」
善之助は、少し間をおいて尋ねた。
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