「宇田川源流」 訃報 大勲位 元首相中曽根康弘氏死去

「宇田川源流」 訃報 大勲位 元首相中曽根康弘氏死去

 先週11月29日に、元首相で大勲位、中曽根康弘氏が101歳で亡くなった。100歳をこえているので、大往生であるというようなこともあるかもしれないが、やはり、まずはご冥福をお祈りしたい。

さて、中曽根氏が首相になったのは、1982年、1969年生まれの私が中学生の時である。当時、政治関係の仕事をしていた父に連れられて、学校をさぼり、自民党の党大会に行ったことがある。当時の自民党の党大会は、党大会の後、首相官邸の中庭に屋台を出して宴会をしていた。現在のように、誰でもがいけるようなものでもなく、何千人も来るようなものでもなかった。それだけに官邸の中庭で十分にことが足りた時代である。

中庭両側に並んだ屋台があり、そこで様々な料理が出されていたし、また、寿司などはその場で握っていたりする状態であった。政治家のパーティーにサラリーマンがいない、まだネットの世界もない時代、マスコミと一部の後援会のトップと、そして関係者以外はほとんど来ない、ある意味で自民党の党職員や関係者のお疲れさま会のような感じのものである。そこに学生服(うちの学校の場合は標準服といていたが)その服を着ていたのであるからかなり目立ったのではないか。

その時に、少し背の高い人が来て「君、学生か」といわれた。それが中曽根首相であった。

「はい」といってみ返したが、特に緊張するとかなかった。周りの人は首相であるから、かなりコバンザメのような人がいたと思う。

「君、政治家になるのか。

「目指しています」当時はそういっていた。

「大変だと思うが頑張れ。よし、乾杯しよう」

 そういって、ビール瓶を持った。当然に、首相官邸の中庭である。すぐにグラスなどは誰かが使ったものばかりになっていた。中曽根氏は私に満タンに入ったビール瓶を手渡した。一緒にいたのが、二階堂進氏と後藤田正春氏であったと思う。皆にやにや笑いながら、ビール瓶をもって、そのまま乾杯したのである。

そんな思い出のある首相だ。

中曽根元首相死去 「首相と恋人は私が選ぶ」「不沈空母」「死んだふり」「政治的テロ」…流行語になった名言も

 29日死去した中曽根康弘元首相は「政治家は歴史法廷に立つ被告である」「私の心の中には国家がある」「理想や目標を持たない民族は滅びる」など、政界や社会に警鐘を鳴らす名言を多く残した。

 憲法改正をライフワークとしてきた中曽根氏は「国民は国の前途を憂いつつマック憲法迎えたり。我が憲法を打ち立てて国の礎築くべき」などと現行憲法を批判する「憲法改正の歌」を自ら作詞し昭和31年に発表、36年からは「首相と恋人は私が選ぶ」をキャッチフレーズに首相公選制導入の改憲を訴えた。

 首相就任直後の訪米の際、米紙社主との朝食会で「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と発言したと報道された。中曽根氏は「高い壁を持った大きな船」との発言を「不沈空母」と英訳されたと語ったが、一昨年の外交文書で自ら「不沈空母」と発していたことが判明した。

 61年の施政方針演説では「『戦後政治の総決算』は戦後40年間のひずみや欠陥を是正し、21世紀に備えるものだ」と強調。

 自民党を大勝に導いた同年の衆参同日選では、衆院解散を野党が警戒する中、実施しないふりをして断行した。実は、同年のはじめから「死んだふりでいく」と決意していて、解散をすると「私が死んだふりをしたといわれるが野党は知らないふりをした」と述べ、「死んだふり解散」と言われるようになった。

 平成8年、衆院選が小選挙区比例代表並立制の下で行われると、自民党執行部から比例代表北関東ブロック「終身1位」を保証された。その後、党に「73歳定年制」導入の動きが出ると「わたしは『老兵は死なず、ただ頑張るのみ』だ」(12年)と現役続行に意欲をみせた。15年に小泉純一郎首相から議員引退を求められ、「政治的テロだ」と反発したものの、最終的には衆院選不出馬を表明。「暮れてなほ 命の限り 蝉しぐれ」と心境を詠んだ。

 後輩政治家への端的な批評も注目された。8年に鳩山由紀夫氏が祖父の一郎元首相の政治信条「友愛」を掲げて民主党を結成すると「愛とか友情とかリベラルとかソフトクリームのようだ」と一郎氏の政治姿勢との違いを皮肉った。

 小渕恵三首相を「中が真空だから、何でも吸い込む吸引力がある『真空総理』」、女性5人を閣僚に起用して発足した小泉内閣を「ショーウインドー内閣」、小泉氏の発言の手法を「物事を瞬間的に捉えて結論だけ言う『瞬間タッチ断言型』」、菅直人首相を「支持基盤はなく市民勢力を背景に生まれた『市民派政治家』」と評した。=肩書、固有名詞は当時

産経新聞2019年11月29日14時39分

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sankei/politics/sankei-plt1911290045


 もう少し思い出話を続けよう。

その時、当然にマスコミが写真をとった。何しろ学生服の中学生(当時から見た目は大人であったが)と、首相と官房長官と幹事長だ。その四人がビール瓶を持て乾杯し、そのままラッパ飲みをしているのである。そりゃ、いいネタだ。しかし、その時中曽根氏は、マスコミの写真をとった人々に向かってこういったのである。

「君たち、その写真を週刊誌に乗せて、総理が学生に酒をすすめたなどと書くのだろうが、それはやめなさい。私は何を言われてもかまわんが、この学生の将来を傷つけることは許さないからな」

 今で言えば、マスコミ対する圧力であろう。しかし、当時はやはり学生服でビールをラッパ飲みしていても怒られないような時代。この中曽根氏の言葉にマスコミは全く反発していなかった。皆笑顔でうなづくと「表には出しません」といっていたのである。

後になって、私の父が写真を一枚もらってきた。その時に乾杯している写真である。さすがにプロの手であって、うまい写真であるが、今はあの写真どこに行ったであろうか。

のちに、小泉純一郎氏が首相であったころ、日経新聞のフォーラムで、中曽根氏と、シンガポールのリ・クァンユウ氏、マレーシアのマハティール氏と世界経済や安全保障について話し合うフォーラムのパーティーでご一緒した。

「覚えていらっしゃいますでしょうか。あの時にビール瓶で乾杯した学生です」

 そういったところ、覚えてはいなかったが、少しして思い出していただいたようだった。まあ、政治家だからうまく話を合わせたのかもしれない。しかし、思い出していただいたのではないかと思うのはその後の言葉である。

「君、政治家になるのではなかったか。来るのを楽しみにしていたのに」

 あてずっぽうで言ったのかもしれないし、他の人と間違えていたのかもしれない。しかし、そういわれた私はかなり驚いたのも事実だ。

「申し訳ありません」

「いま、自分のできることで、日本国のために働きなさい」

 その言葉が、思い出される。

故人であるから特別に何か感慨を持って何かがあるというようなものではない。しかし、中曽根元首相というと、そのことを思い出してしまう。今まであまり他人の前で話したことのない話である。

自民党の党大会は、その後共産党が「桜を見る会」のように、「官邸の私的利用である」として指摘し、今では高輪プリンスホテルで行われるようになっている。しかし、そのようにした共産党は、徐々に支持層が失われ赤旗新聞尾購読者数が減ってきてる。

それに対して、自民党の党大会は、徐々に人が増えて、私たちが行っても飲み物一つ飲めないような状態になっているのである。何か時代は変わったと思う。

また、その中学生の当時一緒に写真をとった政治家の多くは鬼籍に入っしまった。後のフォーラムであっても、マハティール氏は現在も首相として頑張っているものの、やはり寂しくなっている。しかし、その政治かの言葉と志は残っているのではないか。またそのような志は、私たちそして若い人たちが、受け継いでゆかなければならないのではないか。

このほかにも、中曽根氏の秘書を務められた大河原氏との話など、様々な話があるが、またそのような話をする機会があるのではないか。あるいは、そのような話をしなくても、様々な言葉や志だけを伝えてゆけばよいのかもしれない。

宇田川源流

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