「日曜小説」 マンホールの中で 2 第一章 1
「日曜小説」 マンホールの中で 2
第一章 1
「で、今度は何ですか?」
毎度のことながら、次郎吉は、自分の人の良さに自分で驚くしかない。目の前にいる老人は、本来次郎吉の「本業」である泥棒を持ってくるのではなく、何だかわからない、街のボランテイアを頼みに来るのである。多少の手間賃はくれるものの本来の泥棒の収入に比べれば、微々たるものという言葉も顔を赤らめてどこかに隠れてしまう程のものでしかない。とはいえ、手間は泥棒とほとんどかわらないのである。全く、自分でも何でこんなことにつきあっているのか理解できないのである。
はっきり言って、断われば良い。毎回、次は断わろうと思っていても、なかなかその一言が口から出ないのである。次郎吉は、その一言が出ない理由を、自分の人の良さの中に求めていた。
「次は……」
善之助は、そんな次郎吉の気持ちを察することなく、口を開いた。
「まさか、また迷子の猫を探してくれというんじゃないでしょうね。」
「いやいや、あれは助かったよ。まさか、猫が、他で恋をして、子供を産んでいるとは思いもしなかった。いやいや、よかったねえ。結局、街の人が子猫を引き取って冬の寒さに凍えることなく、幸せに暮らしているよ。いくつもの命を救った、次郎吉さんはたくさんの命の恩人だよ。」
「猫の命ね」
次郎吉は少々腐ったように言ったが、善之助は全くその辺のことは気が付かないように得意げだ。この老人が喜んでいるのが唯一の救いだ。いや、自分でもわからないが、この老人を楽しませることが次郎吉自身の喜びになっているようだ。なにか楽しくなってきている。
マンホールと川の接続口にある小部屋。昔は何か資材置き場に使われていたのではないか。善之助と会った時のように真っ暗な中ではないにしても、殺風景な部屋の中には無機質な蛍光灯と、机と椅子しかない。電話もない場所だ。そのコンクリートの地肌が見えている小部屋の中で、善之助の満足そうな笑顔が唯一輝いている。それがまるで太陽であるかのように、次郎吉は何かまぶしく感じていた。
「次郎吉さん。あんたは本当に素晴らしい。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、極悪人でも蜘蛛の糸で助けてもらえそうになったではないか。次郎吉さんはどんなに悪いことをしても、猫が迎えに来てくれるに違いない」
「それはありがたい話だね」
正直な話、次郎吉にとっては全く興味がない。しかし、善之助にしてみれば、善之助自身が、次郎吉を正義の道に誘い、そして次郎吉を地獄に落ちる淵から救ったというような感覚を持っているのであろう。まあ、迷惑な話ではあるが、ありがたい話でもある。
自分が泥棒になって、そして相棒を失ってから、ずっと孤独であった。それまであまり他人と話すことなどはなかった次郎吉自身、何か人恋しい気持ちであったのかもしれない。そんな時に、まさに天から、いや、マンホールの中にいたときに地上から落ちてきたのである。何かわからないが、そこに運命を感じ、そして普段ならば話さないようなことまで話をしてしまった。そしてそれから、この目の不自由な老人がいつの間にか仲間であるかのような気持ちになっているのだ。
しかし、それにしてもあまりにもくだらない仕事を持ってきすぎだ。でも、なんとなく断れないのである。
「さて、次のお願い事なんだが」
仕事といわず、お願い事というのが、善之助の常であった。
まあ、「常」というほど、受けていないまだ三件である。しかし、泥棒仲間ならば「仕事」少し古い人ならば「お勤め」というような言い方をする。しかし、稼業ではない人間であることはこのような言葉の使いからでも何となくわかる。
「なんだ。」
「実は、また次郎吉さんが嫌がる仕事なんだが」
善之助は言いにくそうに口ごもった。また「くだらない」話なのである。
「いいよ。爺さんの話だから仕方がないしな」
「いや、そういってくれると思ったよ」
「他に、こんなことに力を貸す泥棒はいないだろう」
「ああ、でも今度は少し泥棒らしい話だ」
「ほう」
元警察官の善之助が、泥棒らしいというのである。今までの猫や落とし物とはわけが違うのであろう。
「少し興味深いね」
「それならば話しやすくなった」
次郎吉は少々あきれながらもそういうしかない。
「実は、老人会の小林さんだが、最近幽霊の声が聞こえるというんだ」
「幽霊だと」
猫を探すよりもよいという。しかし、それがよりによって幽霊とは驚いた。
「ああ、幽霊だと小林さんが言うんだよ」
「小林というのはどういう人だ」
「品の良いおばあさんだよ。まあ、未亡人というような感じかな。」
「おばあさんか」
「ああ、そうだ。死んだ旦那はかなりの資産家で、東京にいくつかビルを持っていたんだ」
「ほう、資産家の小林さんね」
「知り合いか」
次郎吉には、善之助の見えないはずの目が光った気がした。いや、警察官の時の取り調べの声になったといった方が正しいかもしれない。
「ああ、知り合いだよ。いや、わかるだろ」
善之助は、深く深呼吸をしたあと、笑顔を作った。
「私はもう警察じゃないから。また通報などをするはずもない。それに昔、たぶん大昔と思うが、家の中まで知ってくれていた人の方が安心して任せられる」
「昔のことは聞かないのか」
「もちろんだ。今は私が次郎吉さんに頼んでいるんだ。それも幽霊なんて言う、まあ普通の感覚から考えたらとんでもないことを。どんなに大切なものでも、幽霊に呪い殺されるのに比べればいいに決まっている」
次郎吉は、少し鼻で笑ったような表情をしたが、その表情は善之助には見ることはできなかった。
「まあ、わかった。それにしても幽霊か。」
次郎吉が見たところ、善之助は全く嘘を言ったり、冗談を言って困らせている雰囲気はない。また、小林さんという人が、嘘を善之助に言っているようなこともなかろう。もちろん、老人会の話である。最も確率が高いのは「ボケ」である。しかし、本当にぼけているのであれば、いくら老人会といえども、ここに持ってくるはずはない。そもそも適当に話し相手になって、そのままうまく言いくるめて帰してしまうか、あるいは保護者と称する家族を呼んで家に戻すであろう。そもそも、小林という人が次郎吉の記憶の通りであれば、当然に、かなりの資産家であり、お手伝いや家政婦の数人入るはずだ。次郎吉が昔、盗みに入った時は、警備員も住み込みの家政婦もいたほどである。
では、何が考えられるのか。
次に考えられるのは「空耳」または「幻聴」の類だ。未亡人ということは主人はこの世を去っているはずだ。つまり、未亡人そのものは寂しい思いをしており、また、死んだ旦那を追い求めるような内容になる。そのために旦那の声を聴くとか、あの世からの迎えがくるというような経験をする、いやそのような幻聴を聞くことは十分にありうる。
しかし、それであれば相談は「旦那が呼びに来る」であろう。つまり、次郎吉のところに来るのではなく、老人会であれば、寺や教会に行って旦那の成仏を祈る方が先だ。特に老人会など、どちらかといえばそのような幻聴に悩まされたり、あるいは、そのようなお迎えの経験を身近に感じている人が少なくないのであるから、経験上「幽霊」というような話にはならない。
そのように考えれば「第三者的」そして「敵対的」な感覚にある「幽霊」の声が聞こえるということは、間違いなく「お迎え」ではないということであるし、また、出てきているのは死んだ旦那の声でもないということになる。
もちろん資産家であるから、旦那の事業で恨まれていることがあるということは覚悟しているに違いない。しかし、そのようなことであれば、旦那が生きているときから恨みの声は聞こえているはずだ。つまり旦那が死んで、時間がたった今になってそのような幽霊の声が聞こえるというのはなかなか難しい。
つまり、何かほかの環境の変化があり、その環境の変化から、幽霊の声が聞こえるようになったというようなことではないか。
次郎吉の考え方から、合理的に考えれば、いくつか確認しなければならないことが出てきた。
「爺さん、その小林ってばあさん、何歳だ」
「レディに年齢を聞くようなことはしないが、だいたい傘寿であったと思う。」
「八十か。もしかして補聴器を最近変えたようなことは聞いていないか」
「補聴器か。何かを受信したということだな。次郎吉さん。私も当然にそれを疑って聞いてみた。補聴器は使っているものの、何年も使っているもので新しいものにも代えていないらしい。それが突然最近、幽霊の声が聞こえるようになったらしいんじゃ」
補聴器が、何らかの電波を受けてしまい、混線して他の声を聴いてしまうことがある。特に、金持ちの老人の場合、金属製の入れ歯か何かをして、その金属がアンテナの役目をしてしまい、補聴器が音声を拾うことがある。携帯電話の時代になって、なおさらそのような事故は少なくない。善之助もそのことはわかっていたので、小林さんにはそのことを聞いたらしいが、特に変わったことはしていないという。
しかし、次郎吉にしてみれば、その話がヒントになったのである。
「爺さん、わかった。調べてみるよ」
「何か当てができたのか」
「ああ。小林さんには、夜中に人がいるような気がしても、幽霊じゃないからといっておいてくれるかい」
「忍び込むんだね」
「それが仕事だからね」
「盗み話だぞ」
「それは改めて伺うから。」
次郎吉はそういうと、打ち合わせをしていたコンクリートの箱のような部屋の扉を開けた。
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