「日曜小説」 マンホールの中で 2 序章
「日曜小説」 マンホールの中で 2
序章
こんなはずじゃなかったんだけど。
次郎吉は心の中でつぶやいていた。
元はといえば、この小さな田舎町で起きた爆発事故であった。田舎町といっても、県内で2番目の大きな市である。東京などとは全く異なる規模ではあるが、それでも、それなりの大きさがあり、電車で通勤するような人も少なくない。それくらいの規模の町の駅前通りとメインの国道の交わるこの田舎町最大の交差点で、夕方のちょうどラッシュの時間、大きな交通事故があった。
あれはすでに半年以上前の話である。
下水道マンホールの工事を行う業者のトラックが、交差点で工事の準備をしていた時、もう一台のトラックがそこに衝突したのだ。そのままトラックがそのままガソリンに引火、その後、積み荷にあったガスボンベが爆発するという事故があった。
その事故は、その後反対車線のトラックや、化学薬品を積んだトラックに飛び火し、そのうえで、その横にあったガソリンスタンドの爆発まで行うことになったのである。死傷者が数百人におよぶ大惨事となり、近くの建物8棟が立て直しを余儀なくされたのである。
その時に、それらの事故に巻き込まれながらも、ちょうど作業員が開けていたマンホールの穴の中に落ちた人物がいた。それが目が不自由な老人の杉崎善之助であった。
そして、泥棒であってマンホールの中をアジトにしていた次郎吉は、その中で善之助と意気投合して、事件後善之助の仕事を手伝うことになったのである。
怪我が治った後、次郎吉は、わざわざ善之助を訪ねて行った。別段、善之助などを訪ねる必要はないし、これが善之助でなければ、次郎吉もそのままにしていたかもしれない。しかし、杉崎善之助は、元地元の県の警察幹部であり、なおかつその後議員になっているほどの人格者であった。次郎吉にしてみれば、自分に何かあった時に、警察出身の元議員が何か力を貸してくれたり、あるいは、泥棒をしたときに少し量刑が少なくなるようなことをしてくれるかもしれないというようなスケベ心があったことは否めない事実だ。そこで、さすがに泥棒であるが故、昼に善之助の家を訪ねるのではなく、まずは様子見で、善之助の家に夜中に忍び込んだのである。
しかし、目が不自由な御老人は、夜も昼もなかったのか、そのまま善之助と鉢合わせをした。もちろん突き出されるようなことはなかった。そして新たな仕事を誘われたのである。
「いや、君と一緒に仕事をしたい。いや、私と組んでくれ。頼む」
善之助は、恥も外聞もなく、その場で頭を下げた。目が見えないからか微妙に次郎吉の方向と違う方に向かって頭を下げていたが、次郎吉は全く気にならなかった。
「まさか、爺さんが泥棒になるってんじゃないだろうな」
「まさか。目が見えなくて、足も手も骨折したジジイには、泥棒なんて高度な仕事は無理だよ」
「じゃあ、何をやるんだ」
「スパイ」
「はあ?」
様々な信じられない話を見聞きして、そのうえ自分も泥棒という浮世離れをした存在である次郎吉であっても、さすがにスパイというもっと現実離れをした話がくるとは思いもしなかった。
「次郎吉と組むというのはいかがなものかと思うが、事前に犯罪を防ぐ、そんな話だ」
「???」
「今結論出さなくて良いから、考えておいてくれないか」
次郎吉は、一度立ち上がったにもかかわらず、もう一度その場に胡坐をかいた。
「爺さん。これだけ犯罪をした俺に、今度はスパイか。鼠小僧からジェームスボンドか」
「君ならばできる」
「そんなもんか」
「ああ」
こんな会話をした。
しかし、内実は全然違った。
要するに、善之助がボランティアでやっている地元の老人会の「よろず相談」で、近所の情報をもらって、その悩み事を解決する。紛争ならばそれでよいが、そうではなく何かを無くしたとか、何かがあったはずなのに足りないとかそんなことをされているのである。
今回の相談は、逃げた猫を探してほしいということ。
「マンホールの中の鼠の国の住人に、天敵の猫を探せというのはちょっと酷じゃないのか、爺さん」
「まあ、そういうなよ」
善之助はなんとなく昔の話を忘れたかのような普通の話をしているのである。
まあ、仕方がない。
スパイ、などというような話とは全く異なる話を、なんとなくずっと続けているというような感じだ。自分がイメージしている「スパイ」という話とはかなり違う、まあ、町の便利屋さんの下請けのような感じになるのかというような気がするのである。話が違うじゃないか、と怒りたい気持ちもある。もちろん、次郎吉自身の勝手な思い込みと、そもそもの善之助の少し大げさなものの言い方が全く異なるのであり、別に善之助が嘘をついたわけではない。自分の勝手な思い込みと現実が違っただけで、自分自身はなんとなく落ち込んでいるものの、相手を責めるような話ではないのである。それならばやめればよい。何度も考えた。
それでも断れない。
善之助の人柄というか、なんとなくそのようなことに巻き込まれ、辞めるタイミングがないというか、何とも難しいところではあるが、断るような話はない。
もちろん、これを行うことによって、何か収入があるわけではない。そもそも、入れ歯を探してほしいといって、老人の一人暮らしの家に忍び込んでも、盗むものなどは何もない。このような田舎町には、とても資産家のようなものは少ないのであるし、また、そのような資産家は、そもそもボランティアの老人会の相談所には来ないのである。
なんとなく違う。
そう思いながらも、なんとなくいつものように善之助を待っている自分がいるのである。
善之助は、目が見えないのに、なぜかここに来る。
町のはずれにある川の横穴、マンホールが集まった土管の配水が、川沿いにある。その川沿いの横穴の横に、管理棟のような部屋がある。なぜか誰も使っていないコンクリートの打ちっぱなしの殺風景な場所だ。何か道具置き場になっていたり、あるいは、何かの控えの場所になっていたのかもしれないが、しばらく使われていない。中には、木製の机と鉄パイプのさびた椅子が置いてある。
横穴に少し入った後、横の階段を上ったところにある。表からはこんな部屋があること自体が知られていない。そこに善之助も来るのだ。善之助は、その部屋を「マンホールの中」ということで「鼠の国の入り口」といって喜んでいる。目が見えない人が河原の砂利道を歩いてくるのは危険なのであるが、それでも善之助が仕事を持ってくる場所である。仕事が終わった時は、善之助の部屋に行って話をする。それが二人の暗黙の了解になっていた。
断っても構わないと思いつつ、片方で、善之助がくることを待っている自分がいる。
「カン・カン・カン・カカカン」
善之助の白ステッキの音だ。
なぜか楽しみでほほ笑んでいる自分がいる。この音がしたら横穴の入り口まで善之助を迎えに行くことになっている。
「おうおう、次郎吉さん。」
「善之助爺さん。まあ、部屋においでよ」
「ああ」
「また頼みごとかい。今回はどんなもんかな」
「ああ、じつはね」
またいつもの話が始まった。
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