「日曜小説」 マンホールの中で 第四章 5

「日曜小説」 マンホールの中で

第四章 5

「お加減はいかがでしょうか」

 田舎の中の都市部といえども、必ずしも様々なインフラがそろっているわけではない。病院の数も病床の数も、十分にあるわけではない。大きな総合病院が一つと、入院施設のある病院が二つあるが、それでも今回の負傷者をすべて収容できるような状況ではない。そのような地方都市の現状のために、東京ならば助かっていたであろう重傷者が、何人か犠牲になってしまった。しかし、そのようなことは入院患者になっている善之助には関係もないし、また聞かされてもいなかった。

「ああ」

 目が不自由な善之助ではあったが、なぜか日当たりのよい窓側のベッドに横になっていた。怪我の程度は、かなり重かった。さすがにマンホールで下まで落下したのだ。両足と左腕の骨折で全治三か月である。しかし、他の負傷者とは異なり、火傷や消火剤などの化学薬品による呼吸困難などの物はなかった。不幸中の幸いとはまさにこのことであろう。善之助の子供や孫たちも、またそのほかの人々もかなり喜んでいた。

「最近の御機嫌はいかがですか」

 この日は、この市の消防署長が見舞いに来ていた。

「いや、まあ。」

「そうでしょうね。まだ足も手も治ったわけではありませんから」

 消防署長は、制服の脇に帽子を抱えほぼ直立不動な形で話をしていた。所長の後ろには二人の部下と思われる人がついていたが、目の不自由な善之助にとって、かすかに聞こえる衣擦れの音以外、その二人の存在がわかるものは何もなかった。常に、このようなところで話しているのは、あのマンホールの中で次郎吉と話しているのと全く変わらない。背景が真っ暗であるか、周辺が白い壁の中で横から日の光が差し込んでくるか、あるいは、下になんか汚い水が流れていて、臭いにおいが周囲全体に立ち込めているのかどうかというようなことくらいしか違いがない。もちろん、骨折したままマンホールの底に沈んでいるのと、病院にいるのとでは全く環境は異なるのである。当然に、命の危機にあったマンホールの下から救い出されたから感謝しなければならないのであるが、善之助にとってはなんとなく、不満が残る結果になっているのである。

「まあ、目だけでなく、足も手も失われてしまっては困るしな」

「我々救命隊がこのようなことを言ってはいけないのですが、病院に聞いたところ、杉崎さんの骨折はかなり重度ではあるけれども治るということですから、少し休んでいただければよいかと」

「ああ、それは良かったが」

「はい、関節、特に足首や膝をあまり強く骨折していなかったところが良かったと、病院で入っておりました。複数個所なので、少し安静にしなければなりませんが、その間我慢していただければよいかと思います」

「そうか」

 善之助は、自分の体のことではあるがなんとなく上の空であった。体は痛い。ただ、マンホールの下にいるときはそんな痛みは全く感じなかった。歩いて出ようとしたときに、体が動かなかっただけで、全く痛みなどは感じなかったのである。なのに、安全であるはずの病院ではかなりの痛みを感じるのだ。それに、助かったはずなのに、なぜか、退屈な地獄に落とされたような虚脱感が善之助の周囲をオーラのように覆っていた。

「まあ、内臓の方は全く何もないですから。それにしても下水の中という雑菌だらけの中で、よく長い時間」

「そんなに長い時間だったのか」

「はい、何しろ作業用のトラック荷台の衝突事故から発生したガス爆発、そのうえで、対向車線の危険物積載車の化学薬品の爆発。その後、引火して横のガソリンスタンドの爆発ですから、交通事故一件、爆発事故三件の複合です。死傷者も百名を超えている状態で。消防署員も複数犠牲になっているくらいです。完全に鎮火するには自衛隊の協力を仰ぎ、最終的には六時間程度。その間ずっと発見が遅れ、救助できなかったことに関しては深くお詫びを申し上げるしかなく……。」

「それはすごい事故だったねえ」

「はい。この町では前代未聞の事故でした」

 消防署長は感慨深くいった。しかし、何しろ初めの交通事故の際にマンホールに落ちて、それらの爆発などは、地上から届く音が聞こえてくる程度だ。当然に事故の被害者である善之助にとって、全く事故の詳細は実感として何もない。その間、善之助はマンホールの真っ暗な中にいながら、それでも次郎吉との楽しい会話の時間があったのだ。

……

そういえば、次郎吉はどうしたのであろうか。

「君、聞きたいことがあるんだが」

「はい」

「私と一緒に救助された男性はどうしたかな」

「ああ、はい。もう一人救助されていましたね」

 消防署長はそのような質問がくるとは思っていなかったらしく、傍らにいる随行の若い消防署員の方を向いて小声で会話をしている。善之助は、その答えが来るまでが、まさに千秋の思いである。

「もうひとかたは、幸い軽傷でして」

「軽傷。どんなだったんだ」

「はい、左足と左腕の打撲でした」

「打撲。折れていなかったのか」

「はい」

「それでどうした」

「数日間は、内臓の方などの検査もありましたので入院していただきましたが、比較的軽症でしたのでもう退院されています」

「そうか、無事か」

「はい」

 善之助は、自分でも気づかいくらいの朗らかな表情を浮かべた。自分のことよりも、どうしても次郎吉の方が気になっていた。その消息はわからないものではあるが、しかし、無事であることは確認できたのである。

「お知合いですか」

「いや、マンホールの中であったんだ。」

「ほう。あの打撲はもしかして」

「そう。向こうの方が先にいて、私が落ちて当たったらしい。実際私はしばらく気を失っていたので、あまり覚えていないのだが」

「そうでしたか。それでご心配だったのですね。いや、無事に退院されました」

「ここにいたのか」

「いや、軽症でしたので小さい病院に」

「それでここに来なかったのか」

「そうかもしれませんね」

 消防署長は、あまり次郎吉のことを知らないのか、あまり深くは言わなかった。

「いや、マンホールの下にいて、時間があったから少し話をしたのだが、なかなかユニークな人だったんだよ」

「そうですか」

 善之助は、それ以上のことを言わず、言葉を止めた。さすがに、彼が泥棒であるなどということをここでいうわけにもいかないのである。

善之助は、当然に常識人であり、泥棒が犯罪であり、決して許されるものではないことは知っている。しかし、その泥棒であっても、次郎吉だけは何かが別で、彼に関しては何かを応援したくなっている自分がいるのである。いや、積極的に応援したい。体が悪くないのであれば、一緒に泥棒をしたいくらいなのである。しかし、ここで消防署長にそんなことを言えるはずがない。まあ、またどこかで彼と会えるのではないか。そのような期待があるのだ。ただ、どうやって連絡を取ったらよいのであろうか。

「ところで、今後の補償の話ですが」

 消防としては、あまり補償の話などはしたくない。しかし、善之助が入院している間に、市議会ではかなりさまざまな問題があり、今回の事故に関しては、特に、化学薬品のトラックに、何の確認もせずに水をかけた消防の責任が問われていたのだ。消防署長がこのように被害者全員を訪ねているのは、そのような事情なのである。またそのようなことになっていたから、次郎吉の消息も分かっていたのだ。

「補償なんかいいよ。ああ、個々の病院代だけ払ってくれれば」

「いえ、お仕事の関係や……」

「それよりは、もう一度あいつ、マンホールの中に一緒にいた彼と会いたいのであるが、それの協力を頼めないか。その協力で、補償は澄んだことにするから」

「しかし……」

 署長は、言葉を濁した。退院してしまった次郎吉は住所も名前も名簿員書いてあるがすべて偽名に偽の住所であったことが若い署員の書類には載っているのである。

「そうか、君達でも彼のころはわからないのか」

「はい、何分軽症でしたので」

 善之助は先ほどと同じように笑顔になった。つまり次郎吉は完全に逃げおおせたのである。

「まあ、いいや。補償は、本当にこの病院の治療費だけでよいよ。あと欲しいのは新しい白ステッキと、ここから家までのタクシー代だけ。それでよい」

「本当ですか。既定の分をお支払いします。もちろんそれは入っておりますが」

「まあ、あとは適当でいいよ。」

 消防署長は何か困惑をしたまま、後程書類をご家族の方とといいながら出ていった。

 また、いつか次郎吉と会える。善之助にはまた何か希望ができた日となった。


宇田川源流

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