「宇田川源流」 残念な首里城の火災による消失とそれについて思うこと
「宇田川源流」 残念な首里城の火災による消失とそれについて思うこと
10月31日未明に発生した首里城の火災の映像はさすがに衝撃的であった。今年4月にパリのノートルダム寺院が火災で燃えた時も心が痛んだが、実際に日本国のこのような文化的な建物が火災によって消失することに関してはなかなか悲しいものである。
この首里城の再建に関して、私も一人の歴史マニアでありなおかつ、城郭マニアである立場としては非常に興味があるし、またそう願っているものである。もちろん、沖縄に関してはあまり現地に行ったことがなく首里城も一回しか行ったことはないのであるが、しかし、真っ赤に彩られた、少なくとも日本の全国各地にある「木材と白壁、または板張りと瓦、そして石垣による城」とは全く異なる文化の城でありながら、一方で、「石垣の積み方などは日本本土とあまり変わらない」ということと、同時に、「この施設が宗教的な施設を兼ねていた」ということを考えれば、そのような城というよりは「半分が防御の拠点で半分が宗教的施設であった場所」をどのように考えるのかということはかなり大きな問題ではないのか。
話に聞くと、首里城祭りの準備をその日の深夜まで行っており、その影響があるのではないかというようなことをニュースで言っている。その「首里城祭り」というのは10月24日から行うもので、そのクライマックスである11月2日の夜から「万国津梁の灯火」であり、それは世界の架け橋であるとして1458年に琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王が鋳造させた釣鐘があり、それにちなんでキャンドルによるライトアップを行うものであった。
また、現在になってなぜか、中国の冊封国家であったことを祭りの中に取り入れ、紫禁城の前庭での国事祭礼において、皇帝の前で臣下が一斉に三跪九叩頭の礼を使って、中国の冊封使を迎えることを再現して見せるような時代演技を行っていた。三跪九叩頭の礼とは、額を地面に打ち付けて行う礼を3回繰り返し1回で散開頭を下につけるので9回頭を打ち付けるということで、このように言われる。琉球王朝や李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王が王都の郊外に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた。その郊外の地が琉球の場合は守礼門であり、朝鮮の場合は迎恩門である。これを再現する祭り「琉球王朝絵巻行列」が行われる祭りであったということになる。
令和になってこの祭りが行われる直前に首里城が燃えたというのは、偶然であるとは思うが、なんとなく運命を感じるのは私だけであろうか。
「神様みたいな存在」立ち尽くす住民に涙 首里城火災
沖縄の代表的な観光スポットで、沖縄の人たちにとって聖地でもある首里城の火災に、沖縄の人たちは大きなショックを受けている。
那覇市消防局によると、午前2時40分ごろ、首里城の警備員から「黒煙が上がっている」と119番通報があった。正殿が全焼し、隣接する北殿と南殿も全焼した。建物はいずれも木造。飛び火により、近くの県立芸術大学の雑木林の木にも燃え移っているという。
市消防局は、那覇市周辺の消防局にも応援を要請し、これまで20台以上の消防車が出動し、100人近い隊員が消火活動にあたっている。けが人や逃げ遅れなどの情報は入っていない。
首里城では首里城祭が開催中だが、出火当時、関係者がいたかどうかは不明だという。
首里城に隣接し、正殿などが見える龍潭(りゅうたん)池の周りには近所の人や報道陣が殺到した。炎を上げる首里城を見ていた近くの宮里トヨ子さん(84)は「私たちにとって首里城は神様みたいな存在。涙で言葉が出ない」と声を震わせた。
首里城近くで育った首里高校2年の宮城風花さん(17)はこの日朝、「守礼の門」近くまで様子を見に来て、あふれる涙を抑えられなかった。城内は「家」のような身近な存在で、遊び場だった。「遊んでいた所が全部燃えた。思考が追いつかない」と話した。
朝日新聞2019年10月31日07時54分
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/asahi/nation/ASMB020PLMB0TPOB00B
実際に、中国の冊封使を迎えてそのようなことを行っていたことは間違いがない歴史的事実である。そのことをもって琉球が中国だけの属国であったということを言えるのであろうか、それともその時にすでに、日本の薩摩藩との内容もありまた江戸幕府との交流もあった状況であったことを考えれば、琉球の特殊性はよくわかるのではないか。歴史的に見れば「どちらも」歴史的事実であり、そのような立場の地域であったということはよくわかるのである。
そのような中における首里城であり、その首里城は、すでに過去四回延焼している。過去1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目の火災となる。今回焼失したものは、1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。その後沖縄サミットの会場となり、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了したばかりであった。
ちなみに世界遺産とマスコミでは連呼しているが、実際には、この世界遺産は「城郭関連遺跡群」であり、首里城が単独で世界遺産になったものではない。「今帰仁城跡」「座喜味城跡」「勝連城跡」「中城城跡」「首里城跡」「園比屋武御嶽石門」「玉陵」「識名園」「斎場御嶽」の集合体である。基本的には再建施設が単独で世界遺産になるはずがなく、当然に首里城に関しては、その首里城の一帯にある石垣など様々な当時からの遺構が指定されたものでありその上に当時と同じように再建したということが言えるのである。
さて、先にも書いたが「なぜ日本国の沖縄県なのに中国とのつながりばかりを強調するのか」そして「再建施設であるのに、なぜ世界遺産を強調するのか」ということが大きな疑問である。もちろん、ここにあるように首里城は、ある意味で、沖縄県民の心的象徴であったのではないかと思うが、そのことが中国に対して三跪九叩頭の礼を取るための象徴的な場所になってはならない。宮中はここにもあるように「斎場御嶽」があり、その独自の神話的な関係を持っているところであり、便宜上中国の冊封になっていただけで、別段調節の支配権があったわけではないはずである。それが「現代の政治的な主義主張で歴史を偏った解釈をする」ことはおかしいし、そのことを全く疑問を持たずに報道をすること自体がおかしい。
失われた消失財産は元に戻らない。当然に、すでに1453年に焼失した物は戻ってこない。その状況でありながら、ことさらに沖縄だけを特別に扱うことはできないのではないか。
この火事の時に、沖縄県知事は韓国にいてビジネス交流を行っていた。もちろん火事を予想できなかったとはいえ、10月24日から11月3日までの祭りの最中で、全国から観光客が沖縄に来ているときに知事がいないというのはいかがなものか。そのうえ、スプリンクラーの設置を文化庁から推薦されていたのに、全くそれを行わなかった。つまり、「火事になった時の問題を全く考えていなかった」ということになる。もちろんそのように管理に自信があるのはいいが、そのような事件の「危機管理」を行わなかったことの、責任の追及も、火災の原因だけではなく、しっかりと見るべきではないか。首里城の再建はそれからでも遅くはない。
0コメント