「日曜小説」 マンホールの中で 第四章 3
「日曜小説」 マンホールの中で
第四章 3
一度来た救助隊は、向こうからくることをあきらめたのか、一度戻っていった。他の侵入口を探すということであろう。しかし、善之助と次郎吉にしてみれば、何人かのレスキューが来たことによって、自分たちが完全にこの世の人々から忘れられたというのではなく、もう少し待てば地上から救助がくるということを改めて感じることができたのである。あとは、救助がくるまで、安心して、そして今のうちに話せることを話しておこう。そのように安堵したのである。
「鼠の国には、やはりなかなか人間はたどり着けないものだな」
次郎吉はそのように何か皮肉を言った。
「その『鼠の国』だが、いやなかなか良い名前だね」
善之助は、次郎吉にそのような感じで言った。善之助は救助が来たことによって安心したのか、声が明るく聞こえた。
「爺さん、もうじきこの国から出てゆくことになるが、なかなかいい国だろ」
「ああ、次郎吉さんと話しているだけで、この鼠の国がいいところだとよくわかるよ」
「爺さんみたいに、常に日の当たる場所にいる人は、自分の足の下に、こんな国が広がっているなんて思いもしないだろう。でも、土の下、足の下でもこうやってたくましく生きている人がいるんだよ。爺さんみたいな人に、そのことを知ってもらえれば、ありがたい。」
次郎吉は、今までどこか普通の人とは違うということを示していたかのように思えた。しかし、一度救助が来て外界とこの暗いマンホールの中がつながった瞬間に、やっと善之助とうまく分かり合えた。善之助は、そのような次郎吉の心の変化を感じた。
「ところで、この鼠の国はどれくらい広いんだ」
「爺さん。鼠の国は、人間がお天道様の下で暮らしている世界よりも広いんだよ。」
次郎吉はこともなげに言った。
「なぜ」
「そりゃそうだろう。人間は、お天道様の下でしか暮らせない。もちろん地下に家がある人もいるが、それでも一日一回はお天道様を拝まなきゃならない。だいたい、爺さんだって、さっきこのままずっとマンホールの中に閉じ込められ、誰も助けに来ないのではないかと不安になっていたではないか」
確かにそうだ。人間は普段は何の意識もしていないが、何かあった時に太陽や水、空気、そういった「当たり前にあるもの」を当たり前に感じることで幸せを感じる。普通という単語を使うことはためらわれるが、しかし、そのような感覚を持っていることこそ普通なのである。
実際に善之助自身、会話で気を紛らわしていたにもかかわらず、このマンホールの中にずっといるのではないかと不安になっていたのだ。それが救助が来た瞬間に、急に明るくなった。外の世界に戻れる、マンホールの外に出ることができるということが、心の明るさを取り戻し、そして不安を払拭したからなのか。
ということはこの「鼠の国」にいることは、不安であるということになる。しかし、実際には、このまま次郎吉と話していたいという欲もあるのだ。
「ああ、不安になっていた。そして、自分で言いうのもおかしなものだが、やはり彼らが来たことで安心する。しかし、この鼠の国が嫌いなわけではないんだ」
善之助は、おかしいくらい焦って、必死に言わけをした。
「爺さん、いいよ。そんなに言い訳しないでも。実際に、これが鼠の国とか、マンホールの底とか、そういったものではなくても、例えば遊園地であったとしても、家に帰れないとなれば、当然に不安になるものだ。日常というものがあり、その日常にいて、そこから少し逸脱するから、楽しかったり、刺激を受けたりする。しかし、その逸脱が日常になってしまうと、それは人間の方がおかしくなってしまう。そして人間は無意識のうちに自分がおかしくならないように、先に不安になるように、そして日常に引き戻すようにしているんだよ」
「そういうものか」
「ああ」
「では次郎吉さんは、どうやってこの鼠の国になれることができたんだ」
「それは、ここにいるよりもお天道様の下にいた方が危ない、あっちの方が不安になるということになれば、当然に、こっちの方がいつの間にか日常になってしまう。そういうものだ。そりゃ初めのうちはいつかお天道様の下の人間の国に戻ろうと思ったが、しかし、なかなかそうもいかなくてね」
「警察に捕まるとか」
「警察に捕まるようなヘマはしていないよ。爺さん。しかし、やはりこの泥棒は、様々な人の関係に押しつぶされる場合が少なくないからね」
次郎吉は、この言葉だけでは何か悲しいような、世の中に背を向けているような感じであるが、実際は、かなりあっけらかんとした明るい感じで言った。すでに、そのような「人間の国」に対する干渉は吹っ切れているのかもしれない。
「色々大変なんだな」
「それだから、人間の国、お天道様の下ではなくお天道様の下も、マンホールの中も、山の中も、天井裏や床の下、ビルの地下室、そんなどこにでも世界が広がる鼠の国にいることにしたんだよ。いや、これはこれで快適なんだ。」
「私もたまには遊びに来たいな」
善之助の本音だ。
「爺さん一人では難しいのではないか。不思議の国のアリスではないが、ある時に何かの拍子で入ることができる。そんなもんなんだよ」
「何か方法はないか」
「鼠に聞かないとね」
次郎吉はふざけたように笑った。
「爺さん、だいたい、人間ならば、人間の国でしっかりと暮らしてゆくべきだよ。何も鼠の国になんか来る必要はない。人間なのに人間の国に行くことができないというのは、人間の国で何か悪いことをしたか、人間の国に行けない事情があるか、あるいは、人間そのものを捨ててしまった人間、まあ、捨ててるから人間ではなく化け物か何かなんだが、そんな存在ならないとダメなんだよ」
「しかし、次郎吉さん。あんたは化け物でも何でもないじゃないか」
「いや、化け物だろう。化け物だから、爺さんが気にしていることを何でも言うことができるし、また人間がふつう何も考えないで受け入れられることを上切れることができないんだ。人間の中には、ほんの一握り、そのような感覚を持たないで生まれてくるやつがいる。俺もその中の一人だ。だから人間の国は居心地が悪くて仕方がない」
「では、救助が来たらどうするのか」
しばらく、沈黙が流れた。
「実際、俺も怪我してて動けないしな。」
「私が鼠の国に来たように、次郎吉さんもたまには人間の国に戻ってみらたらどうだろう」
「爺さん、戻ってるよ。いや、人間の国は、爺さんたちにしてみれば生活している場所だが、俺たち泥棒にしてみれば、人間の国は間違いなく『仕事場』言い換えれば、『餌をとる狩猟の場』なんだよ」
「狩猟の場」
「ああ、人間は、自分の敵は人間であるというような感覚しかない。だから大事なものを守る時も人間を相手に盗まれるとしか見ていないんだ。でもね、鼠は、そういうところでも入ることができる。だから鼠の国になるべく長くいて、そのうえで、最小限人間の国に入り、そして獲物を取って戻ってくる。それが泥棒の仕事なんだよ。人間の国にいて、人間の国の物を盗めば、それは人間に捕まってしまう。そういうもんじゃないかな」
なにか身勝手な泥棒論を聞いているようであるが、しかし、人間の心理の深いところをついているのではないか。
「鼠の国と人間の国の出入り口はたくさんあるのか」
「ああ、あるよ。」
「それならば、私もまた来ることができるのではないか」
「いや、鼠と鼠の国の住人しか見付けることができないんだ。ただ、爺さんみたいに目で見ないで心の目で見る人は、心の目が鼠の心になった瞬間に見えるようになるかもしれないな」
次郎吉はなんとなく笑ったような気がする。目の見えない善之助のことをしっかりと見て取っていた。
「鼠の心か」
「そうだ。人間は、人間にしか通じない『普通』とか『常識』とか、そういったもの、さっき言っていたが、そんな概念で物事を決めつける。しかし、それは人間の普通でしかなく、結局鼠の国では通用しない。そのことがわかれば、そして相手の心がわかれば、また来ることができるんじゃないかな」
「ああ、また来るよ」
その時、また向こうの方で音がした。
「やっと次の救助がお出ましだな」
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