「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 4
「日曜小説」 マンホールの中で
第一章 4
どうせ他にやることもないし、泥棒を名乗っている男の話でも聞いてみようか。
善之助は、そのように考えたのである。まあ、普段であればそのようなことを考えたりはしないであろう。しかし、今この状況、つまり、自分は足に怪我を負って動けない状態であり、なおかつもともと目も見えない状態でマンホールの中に何らかの事情で落ちてきてしまっている。また、前にいる次郎吉を名乗る男も、怪我をしていて動けない。そのうえ地上で何かがあったようで、なかなか助けがくることも期待できないのである。他にやることもないので、寝るか、あるいは前にいる人と話をするしかないのである。
さいわい、前にいる次郎吉という泥棒は話好きなようである。この際、泥棒という人がどのような人で何をしているのか、今まで生きてきた中で、イメージはあるものの、本物から話を聞いたことがないので、その話を聞いてみるのも面白いのかもしれない。
「じゃあ、助けがくるまでゆっくりと話を聞かせていただきましょう」
「俺はこう見えても学歴がよかったんだよ」
「泥棒に学歴なんか関係あるのか」
次郎吉は、いきなり自分の学歴の話からし始めた。いや、まさかの泥棒に学歴。豚に真珠と同じくらい関係もないし必要もないのではないか。善之助のその思いはそのまま無意識のうちに言葉になって出てしまった。
「失礼だな。まあ、でも泥棒って学歴のない馬鹿が仕方なくやるイメージなのかな」
「ああ、そうだろう。他に仕事があるならば、泥棒なんてしなくてよいだろう」
「なぜそう思う、爺さん」
次郎吉は、善之助の予想に反して感情的な対応をしなかった。初めに学歴の話をしたということは、学歴が彼にとって唯一とは言わないまでも、次郎吉の人生の中でトップクラスのプライドの原点であろう。それをバカにしてしまったのだ。しかし、次郎吉は怒らない。そして優しく自分に問いかけてきている。
……次郎吉はどんな表情をしているのであろうか?
目の見えない善之助にとって、次郎吉の表情は見えない。優しそうな声でありながら、目が笑っていなかったり、あるいは、またかというようなあきらめの表情であったり、言葉や語調だけではわからない表現を人間はするのである。しかし、その表情が見えないということは、コミュニケーションが半分以上伝わたないということを意味しているのである。そして、目が見えている人は基本的に自分が見えてるために、善之助が目が見えていないということを認識していても、このような状況になると、自分の表情で物事が伝わっていると考えてしまうのである。ぞして、自分の考えが目の見えない善之助に伝わらないことに苛立ちを感じるのである。
これは、だれが悪いわけではない。人間というのは物事を考えるときにかならず自分を基準に物事を考えてしまう。そしてその時には環境や自分の五感など、すべてを自分と同じ環境にあると考えて、それで相手を見てしまうのである。全く考えてもいないことを「こうに違いない」などということで勝手に起こっている人を見かけることがある。それはまさに、自分の感覚を相手に描写し、そのうえで将来を予想しているのである。そして自分ならば相手をこのように見ているということを、そのまま自分が被害者になったつもりになって、勝手に怒り出すのである。
善之助にとっては、そのような経験は日常茶飯事だ。表情が見えないことで、誤解されることなどはもう慣れている。だいたいの場合「目が見えないんだったな」などと捨て台詞を言われるのである。しかし、今はそのような余裕はない。そのセリフを言われても、その後長い時間気まずい時間を過ごさなければならない。何しろここに次郎吉と二人しかいないのである。
「いや、逮捕されるリスクがあるような仕事をする必要はないし、それに、あれだ。だいたい大学を出てちゃんと働いていれば、このようなマンホールの中が住処になるなんてことはないのではないか。まともに働けばよいではないか」
「爺さん、わかってないなあ」
「そうか、私の考えはそのようなものなのであるが」
表情が見えない善之助にも、次郎吉がなんとなく苦笑していることが分かった。次郎吉も自分が理解されないということになれているのではないか。なんとなくそのように感じるところがある。
「爺さん、まず泥棒というのは、その辺の主婦や学生さんが出来心でやる万引きとは違うんだよ」
「ほう」
「法律的には、両方とも窃盗罪だ。しかし、やる側からすると全く異なる。万引きなんて言うのは、ストレスがたまった人が、出来心でそこにあるものをカバンとかポケットの中にしまうものだ。生活に困って食品をやっている人もいれば、必要のないものを癖になってしまって盗んでいるものもいる。しかし、いずれにせよ、そのことはその場限りでしかないんだよ」
次郎吉の言葉はかなり熱がこもっていた。善之助にしてみれば、泥棒も何も変わらないと思っていたが、しかし、やっている本人にしてみれば全く異なるものらしい。何か一緒にしてもらいたくない矜持があるという感じであろうか。
「で、次郎吉さんのやっている泥棒とはどう違うんだね」
「泥棒は、芸術なんだよ」
「芸術?」
善之助は驚いた。犯罪を芸術というのはなかなかあり得ない感覚だ。
「ああ、芸術だ。」
表情は見えないが、善之助が驚いていることに、次郎吉はかなり満足そうな声である。表情が見えないことによるコミュニケーションの障害、そして、これから助けがくるまでの気まずい沈黙ということに関して言えば、それは杞憂にすぎ仲たのかもしれない。
「万引きっていうのは、その場にある者を出来心で適当に盗んでくる。盗む瞬間は、店員の目とか、他の客の目とか、あるいは、カメラとか、そういったものをうまく避けるように注意を払う。しかし、少なくともその場の物でしかないのだ。しかし、俺たちのやっている泥棒は違う。」
「どう違うのかな」
「その場にあるものを盗むのではない。初めに盗むものを決めて、そのうえで、その者がどこにあるか、そしてどんなところにあるのか、どんな警備があるのか、それを偵察する。そしてしっかりと計画を立てて、チャンスを待って実行する。」
「それで待つことになれているのか」
善之助は、先ほどまでの会話で「待つということ」に次郎吉がそれなりの蘊蓄を持っていたことが分かった。
「ああ、そうだ。衝動的に人を殺してしまったり、通り魔みたいに、そこにいる人をだれでもいいから殺してしまうというのは違う。江戸時代の仇討みたいに、我々泥棒というのは地の果てまでも自分の狙った獲物を追い求め、そして、相手よりも強くなるように自分自身を鍛え、そして、百年に一回しかないチャンスを生かして計画通りに獲物を頂戴するのだ。」
素晴らしいことのように言っているが、基本的には他人の物を盗んでいるということに変わりはない。当然にそのとこは良いことではないのであるが、しかし、このように言われると、なんとなく芸術のような感じに聞こえるのが面白い。
まあ、善之助にも万引きと泥棒の違いはなんとなく分かった。しかしである。
「なるほど。確かに、計画を立て、ずっとその成就のために準備して、そしてそれを成し遂げた瞬間というのは、ほかの何事にも代え固いものがある。」
「そうだろ」
次郎吉は、かなり満足そうな声だ。
「しかし、一つ聞いてよいか」
「ああ」
「なぜ、盗むということにこだわるのだ」
「どういうことだ」
「要するにだ、そんなに欲しいものならば、自分で金を出して買うとか、あるいは、譲ってもらうとか、盗むというようなことをしなくてもよいのではないか」
善之助は、もっともな疑問を言った。そう、盗むのであれば、軽雑などに逮捕される危険がある。政党に買えばよいのだ。なぜその道を選ばないのか、つまり、なぜ安全な方法を選ばなかったのか。
「そりゃ、盗む以外手段がないということだろう」
「どういうことだ」
「要するに、そこにおいてあって、買うことができるものを不当に自分のところに不当に入れるのが、それが万引きだ。万引きならば、確かに買うべきだ。俺たち泥棒も、毎日の食料品とか、洋服とかは、基本的には爺さんの言う通り買っているよ。しかし、この世に一つしかないものはどうするのだ。」
「一つしかないものか」
「ああ、この世に一つしかないもの。それも、金持ちの蔵の中か何かにしまわれて日の目を見ることがないような財宝は、活用しなければならないのではないか。そのような活用したり多くの人に見てもらわなければならないものって、一つしかない貴重なものだからだろう、だから、それを蔵の奥底から表に出して、多くの人の目に触れるようにしてあげる、そういったもんだ」
「それならば、その持ち主を説得して、博物館のようなところに出展するように説得してみたらどうか。そうすれば盗むことなんかはない」
「いや、そのような人というのは、基本的に表に出すことはしない。自分で持っていること、独占していることが最も重要であり、多くの人に見てもらうことはその人々の目的にはないのが普通だ。そのうち、自分で持っていることも忘れてしまう。そんなものではないのか。」
次郎吉のいうことも一理はある。人間というのは、貴重なものを手に入れると、それを活用するのではなく、いつの間にか自分の懐の奥にしまってしまい、ほかに人に見せないようにするのである。
「確かにそんなものかもしれないな」
「そうだろ。泥棒というのは、卑しい何でも一人で独占してしまうという人間の欲望の視点で出てきた内容でしかないんだ。我々は、そんな強欲な人間の視線ではなく、本来ならば多くの人に感謝され活用されるお宝の立場に立って、そのお宝を本来のあるべき場所で活躍できるように、蔵の中から、あるいは一人で独占している中から、引きだしているんだよ」
「なるほど、お城の奥深くに監禁されているお姫様を助けるようなものか」
「ああ、そうだ。爺さんもわかってきたね。そうなんだよ。だから、俺たち泥棒は万引きとは違って、お宝から選ばれた人間でなければならないんだよ。そしてその救出は、一人しかいないお姫様を傷つけちゃいけないから、慎重かつ芸術的に行わなければならないんだ」
次郎吉は、どちらかというと、犯罪者ではなく自分をヒーローであるかのような感じで言ったのである。
善之助にしてみれば、「法律を守ること」という当たり前のこと、「他人の物を盗んではいけない」というような当たり前の常識が、物事の解釈や立場の違いを考えれば、全く異なる「正義」が出てくるということが見えてきたのである。何か、くらいマンホールの中で、明るい新たな光を見たような気がした瞬間であった。
「おもしろい。次郎吉君、実に面白い。もっと泥棒のことを聞かせてくれないか」
「どうせ、助けがくるまで時間があるから、別に構わんよ。他にやることもないしな」
次郎吉も苦笑しているのか、まあ、まんざらいやでもなさそうな声を出していた。
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