「宇田川源流」 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

「宇田川源流」 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

 皆様は今年の10連休いかがお過ごしであっただろうか。

私は今年5月3日に加盟歌詞で「明智光秀祭り」があり、その中で拙著「時を継ぐ者伝 光秀京へ」のサイン会があったので、亀岡市に行ってきた。亀岡市の祭りに関しては今度ゆっくりとお話をするとして、その帰りに、せっかくなので京都府北部を一周してきたのである。

さて今回は福知山市といってもかなり大江山に近い「元伊勢神社」つまり「皇大神社」「豊受大神社」「天岩戸神社」を回った。まあ「令和」に御代替わりし、そのご挨拶に伊勢神宮に行く人は多いが、なかなか元伊勢神社にまで行く人が少ないので、そちらに参ってきた。さすがに伊勢神宮に比べて人は少ない。駐車場も簡単に入ることができるし、人がいないので、何処にあるのかもあまりわからないくらいなのである。もともと今伊勢神宮に祭られている「天照大御神」は実ははじめこちらの方に遷座されていた。実際に大国主命から国譲りの神話がある。

神社本庁からの記事をそのままここに抜粋する。

<神社本庁より抜粋>

天照大御神さまは、孫の瓊々杵命に豊葦原水穂国を治めさせようと考えられ、建御雷神と天鳥船神に命じて、様子をうかがわせてみました。二柱の神は、出雲の国稲佐の浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

 そしてこの国を治めている大国主神に、この国を天神の御子に譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。大国主神には、事代主神と建御名方神という二柱の子供がいましたが、そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。これはたまりません。建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

 その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました。さて、このことを大国主神に告げると、大国主神は自分が隠れ住む宮殿を、天神の住む宮殿のように造ることを願い、そこに移り住むことにしました。

 こうして出雲の国は、天神の御子瓊々杵命に譲られたということです。

<https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story6より抜粋>

 さて当然に天照大御神は、自分の治める予定であった飛鳥浄御原、または橿原神宮と自分に国を譲った大国主命のいる出雲の国(現在の島根県)そしてと建御名方神の移った諏訪神社のある信濃国(現在の長野県)ににらみを利かせながら、自分が存在できる場所を考えたに違いない。その意味で天照大御神は丹波国現在の京都府と兵庫県を歴訪したという。

たぶん歴史的には、現在あまり注目されていないが、山陰道というのは、最先端の文化をもたらす中国との出入り口という意味でかなり重要な場所であったに違いない。その意味で言えば、現在の感覚ではなく当時の人の感覚で言えば、山陰道こそ「メインストリート」であったということを考えるべきであろう。そのように考えれば、何故「元伊勢神社」がここにあったのかがわかる。

同時に「大江山」が「鬼」がいたこともよくわかるのではないか。ある意味で「鬼」は「隠忍」という言葉がそのまま変化したとされているのであるが、その語源にあるように「古い天照大御神の家臣またはその子孫」が「新しい家臣に対してよからぬ感情を持っていた」ということに関して言えば、当然い「丹波国」と「飛鳥」は「忘れられた先輩と勢いのある後輩」の対立のようになっていたと考えられる。それでも大陸からの文化の流入はあるので、その意味で、丹波大江山は強かったのではないか。まさに「鬼」とは、そのような存在ではなかったか。表現は悪いが、本当に高貴であったり皇紀の人の近くにいて扱いにくい人を逆に蔑み差別的に扱うというようなことで「数多くの一般人の平穏を望む」という意味で、「鬼」というような扱いになったのではないかと考えられる。実際に源頼三が酒呑童子を退治するのであるが、その首塚も京都しないから丹波亀山に抜ける老ノ坂二存在していることから考えれば、その内容は「強い異民族」、まあ「異民族」ではなく「他の部落の人々」というような感じになるのではないか。

さて、そのように考えるとその大江山とその近くに天照大御神が存在したのがなんとなくわかるものではあるまいか。

 さて、もう一つが、その先にある内容である。

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

 おなじみ百人一首の小式部内侍の和歌だ。

 大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。

 というような和歌だ。背景は、歌会の時に母和泉式部が居ない事に気づいた主催の藤原定頼が「お母さん居なくて大丈夫」といわれたら、小式部内侍が即興で歌った歌という。まあ、歌で表現できるのであるから、かなりなものであったと思うが、まあ、「小野に住む大江山の向こう側なんだから行く気もしないわ」というような感じであろうか。

 しかし、よく考えてみれば

京都~丹波~元伊勢(天照大御神)~大江山(鬼)~天橋立~天に続く道

 というように京都からまっすぐ天上界に続く道があり、その道を通って様々な物事が通ってくるというような話ではないかと考えるのである。

 天橋立を見れば「天橋立ビューランド」の方に「飛龍観」とある。つまり、いわゆる「股覗き」をすると龍が空を飛んでいるように見えるという。そういえば国譲りの神話に出てくる神は「建御雷神」と「天鳥船神」である。建御雷神は、雷の神であり同時に剣の神である。後に神武天皇が統制して熊野で困っているときに剣を渡して助けるということになっているのだが、その話はもう少し後に話をすることにしよう。

 平安時代、雷といいのは「稲の神様を載せた龍が天から降りてくる」と信じられていた。雷に当たって死んだ人を「蹴り殺される」と表現していたし、また、雷のことを「イナヅマ」つまり稲の妻と表現するのはそのような意味である。天鳥船神は鳥と神の乗り物を合わせた神ということになる。

 つまり、国譲りの神話には天にある神の世界と地上の世界をつなぐ神々が出てきており、その一つが「雷」つまり「神を運ぶための龍の神」ということになるのである。そしてその竜が天に上る姿となっているのが「天橋立」ということになるのではないか。天橋立は「龍の形」であるからこそ「天につながる橋」と考えられていたのであると考えられる。そしてその龍は、ちょうど山陰道をうまく横切るようになっている。まさに、「日本と大陸を分かつ役割」をしているという感じになる。もちろん、そんなことを平安時代の人が気づいているはずがないが、なかなかうまくできていると感じるものなのである。

 さて、今回天橋立の文殊菩薩を祭る「知恩寺・文殊堂」山門の前の「吉野茶屋」にお邪魔させたいただいた。この「知恵の餅」のグルメリポートは別途行うことにしたい。かなりおいしかったのである。行かれた方はぜひご賞味いただきたい。しかし、これは最後に軽く書くものではないので、別に一つ書いてみようと思う。

宇田川源流

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