マスコミ批判に関する一考(438) 「ネタ切れ」という単語が出てくるマスコミの責任
マスコミ批判に関する一考(438) 「ネタ切れ」という単語が出てくるマスコミの責任
先週の土曜日に発表したように、このブログを「ココログ」からアメーバブログ」に引っ越すことにしたのであるが、残念ながら、その内容があまりよくわかっていない。つまり、ブログの引っ越しの方法が見えないので、こちらのココログは残しながら、新しいブログにしようと思う。
ブログは「宇田川源流」として今までのような政治や経済や国際情勢の解説だけではなく、歴史や文化、場合によってはグルメレポートなども書いてみようと思っている。まあ、最近ではそのような難しい文章だけではなく、もう少しライトな文章も書いてゆきたいと思っている。同時に、やはり文化とかそういうことも書いていった方がよいのではないかという気がするのである。
そのようなこともあって、突然ではあるが、このマスコミ批判は、今回が最後というか、不定期連載にしようと考えている。もちろん連載番号はそのままここに書こうと思っているが、しかし、実際に毎週マスコミに関することを書くのはこの辺で終わりにしようかと思っている。
まあ、正直なところ毎週書いていて、毎週同じようなことしか書いていない。実際に「中立」「公平」「公正」ができていないマスコミでなおかつ取材技術も文章校正も、現実も何もできていない。はっきり言って「マスコミの劣化」というような感じになってしまうのではないかというような気がするのである。劣化したマスコミは、二つの現象をつくりだす。一つは、マスコミ全体の劣化からくる「読者・視聴者の劣化」である。まさに今の社会現象がその劣化社会全体が蔓延した中にある。マスコミが言論の自由を盾に責任を全くとらないが、現在のマスコミのダメな報道によって、有権者もすべて劣化している。よく陰謀論で言っているような「GHQ日本劣化陰謀説」のような話ではなく、現在の日本の劣化は主にマスコミによるものではないか。
そして、もう一つは新メディアつまり「ネットメディア」の劣化であるといえる。
そしてそのようなところにはない「本物」はネタが来てて来てしまうのである。
鈴木敏夫プロデューサー「ジブリもそろそろネタ切れ」 宮崎駿監督とのやりとりも明かす
スタジオジブリ代表取締役でプロデューサーの鈴木敏夫氏と、女優・夏木マリが19日、東京・神田明神ホールで行われた『鈴木敏夫とジブリ展』プレス内覧会に出席。鈴木氏は「ジブリもそろそろネタ切れでして」と明かしつつ、宮崎駿監督とのやりとりで、笑いもとりながらトークを繰り広げた。
鈴木氏は「ジブリもこの40年、いろんな展示をやってきたんですけど、そろそろネタ切れでして、鈴木敏夫の個展という名前にして新たなジブリ展にしたのがテーマなんです」と話すと「もう少し前向きなことを言わなきゃいけないのに、つい本当のことしゃべっちゃいました」と苦笑い。
さらに「宮崎駿という人は、思い切りのいい人で、自分の持っていたものを捨てちゃう。それで、彼が捨てたものをとっておいたのがジブリ美術館の役に立ちました」と裏話を披露。「『そんなもの持っててもしょうがないだろ』と言っていた宮崎がね、美術館を作るときに古いものが必要になって『持ってるよね?』と聞いてきたんですよ」と、笑顔も交えながら宮崎監督とのやりとりを明かした。
映画『千と千尋の神隠し』で湯婆婆の声優を務めた夏木は、宮崎監督から「ジブリはね、一番上に鈴木敏夫というのが金勘定してるんだよ。悪役だと思って張り切ってやらないで湯屋を立て直すひとりの働く女性としてやってください」とアドバイスをもらったことを話し「目の前がパアッと明るくなって、楽しくなった思い出があります」と振り返っていた。
同展覧会は鈴木氏の“言葉”に注目したもの。ジブリはどこから始まりどこへ向かうのか。鈴木氏の「原点」から「今」を、書画やジブリ作品の資料を用いて紹介することで、スタジオジブリの秘密に迫る。期間はあす20日から5月12日まで、同会場で開催される。
2019年4月19日 12時37分 オリコン
> http://news.livedoor.com/article/detail/16340485/
渋りがそうなのかという話は、少し後に話すとして、まずは上記の内容の続きを書いてみよう。しっかりと根拠のある、あるいはネタのある話や教訓となるような話ということに関しては、基本的に「原典」「加工」「現代風刺」「オリジナル性」「メッセージ性」というような感じが出てくることになる。つまり社会風刺をしてその社会風刺に対して何rかあのメッセージを入れ、そこに、話を面白くするために、原典を参考にするというような話になるのである。
当然に「原典」があればよいが、ない場合は、そのほかのオリジナルの話などを参考にする。もちろん様々な話をミックスしたり、自分の経験をそこに入れることによって「オリジナル性」が生まれてくる。ある程度の模倣があり、同時にある程度のオリジナル性があり、そして社会に対するメッセージ性が異なるから話として成立するのである。
辞ぶりがしっかりしているかどうかは別にして、マスコミなどよりもはるかに素晴らしい状態になっているはずだ。ジブリの作品に関してはそれがフィクションであことはあるとしても一方で、しっかりとした内容になっている。原典などを含めて考えれば、かなりしっかりとした構成になっているので、そのために、世界でいけ入れられる。残念ながら日本のマスコミ報道は、ジブリのように世界に通用するものは少ない。つまり、世界レベルではないということである。
そのジブリが「ネタ切れ」といっている。
鈴木氏は「ジブリもこの40年、いろんな展示をやってきたんですけど、そろそろネタ切れでして、鈴木敏夫の個展という名前にして新たなジブリ展にしたのがテーマなんです」と話すと「もう少し前向きなことを言わなきゃいけないのに、つい本当のことしゃべっちゃいました」と苦笑い。<上記より抜粋>
ネタ切れというのは社会がそれについてこれないのか、それは社会が劣化しているからに他ならない。つまり、その劣化を作り出したマスコミが、ジブリのネタ切れの遠因ということになるのではないか。
まさにマスコミそのものの内容が、世界的に通用するアニメスタジオのネタをきれさせてしまっているということになる。マスコミが鹿kりと「事実は小説よりも奇なり」というような話をうまく報道できるかどうかということになるのである。
マスコミ批判、つまり、彼らマスコミが社会を劣化させたために、日本の世界進出が阻まれているということになるのである。
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