「宇田川源流」【土曜日のエロ】 ヌードはアートか?という根本的な問題

「宇田川源流」【土曜日のエロ】 ヌードはアートか?という根本的な問題


 今週も土曜日のエロの日がやってきた。本当に世界にはエロの事件が少なくない。今回は、日本の話であり、そもそも事件ではないのであるが、しかし、またこの内容が「政治的」であったり「社会的」であってり、「教育的」であったりということで、様々な考え方があるし、立場によっても様々な考え方の違いがあるのではないかと思うのである。

さて、その前に今週どんなことがあったのかということを見てみよう。

まあ、今週のニュースと言えば、外国ではイランのデモの事であろうか。この件は昨日の「現代陰謀説」で話をしているが、まあ、イラン側は「アメリカの陰謀だ!」というであろうし、イランの国民はそもそも政治が間違えているということでデモをしている。基本的には、デモそのものは経済的なものであり、生活苦が国民を直撃している。そういえば、世界のデモというのは、間違いなく「生活苦」があることと、その国民の生活苦を理解しないまたは理解していてもそこに手を付けることのできない為政者の齟齬が生む国民の反乱であろう。「パンがなければケーキを食べればよい」というのはイランではないが、それで革命が起きた象徴的な言葉になっている。また「嗚呼、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」というのも同じよう話ではないか。同時に、その国民の意思によって政治を変えることができないことが、そのままデモや暴動という実力行使につながる。

日本はといえば「その国民の意思を問う」と言ったら、今度はマスコミがこぞって「今は経済政策を優先すべき」などということを言っているのである。はっきり言って「マスコミは、高市の予算や経済政策を承認して早くやってほしいのか?」というようなことになる。この辺もまた書くことになるのであろうが、「経済政策に賛成しているから早くやってくれ」というのか「経済政策には反対するが審議はやるべき」といい「与党多数で賛成すれば、マスコミはただ政権にケチをつける」というような、「批判のための批判」をするのか。そのような態度であるから「オールドメディアは敗北する」ということになるのである。

その辺が全くわからないので、マスコミやメディアの考えている人は、完全におかしな論理になっている。すでに政治の世界では、また教育などにおいては、マスコミやメディアは「常習クレーマー」でしかない。今日のエロもそのまま「上州クレーマーが無視された」ということでしかないのではないか。

<参考記事>

ヌードはアート? 催しで子どもたちに配布した写真集に女性のヌード混じる 「有害図書」にはあたらず 回収は行わない方針【愛媛・宇和島】

12/23(火)あいテレビ

https://news.yahoo.co.jp/articles/e5635b4f6213436757cb3cfef26a3c24b14f6ca5

<以上参考記事>

 愛媛県宇和島市内で行われていた催しで、子どもたちに配布された写真集の中に、女性のヌード写真が含まれていたことが明らかになりました。

西洋美術史では、古代ギリシャの彫刻やルネサンス絵画において、ヌードは「理想美」や「人間の本質」を表現する手段として扱われてきました。ミケランジェロの《ダビデ像》やボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》などは、裸体を通じて哲学的・宗教的なテーマを語っています。つまり、ヌードは長い間「芸術表現の一部」として認められてきました。しかし、現代では、ヌードは単なる美の追求にとどまらず、社会批評やジェンダー論、身体性の探求など多様な意味を持ちます。写真やパフォーマンスアートでは、裸体を使って「個人の自由」「身体の政治性」を問いかける作品もあります。この場合、目的は性的刺激ではなく、思想や問題提起です。一方で、公共の場や子供向けイベントでは、ヌード作品の扱いに慎重さが求められます。芸術的意図があっても、受け手の年齢や文化的背景によって「不適切」と感じる可能性があります。ここで重要なのは「文脈」と「説明」です。作品の意図や意味をきちんと伝えずに提示すると、誤解や不快感を招きやすくなります。

日本では、わいせつ物の定義は「性欲を刺激するかどうか」に重きを置いています。芸術目的であっても、過度に性的な表現は問題視されることがあります。ただし、芸術性が認められる場合は、法律上「わいせつ」には該当しないことが多いです。つまり、判断基準は「表現の目的」「提示の仕方」「社会通念」です。

ヌードは人類の歴史において、最も古くから存在する芸術表現の一つです。古代ギリシャの彫刻やルネサンス絵画は、裸体を通じて「人間の美」「生命の尊厳」を探求しました。これらは性的な目的ではなく、哲学的・文化的な価値を持つ作品です。子供たちがこうした作品に触れることは、身体を恥じるのではなく、自然なものとして理解する感性を育てる教育的意義があります。

 現代社会では、過度な規制が芸術の自由を脅かすことがあります。ジェンダー問題や多様性の尊重が叫ばれる中で、身体表現を過剰にタブー視することは、逆に偏見や差別を助長する危険があります。「裸=性的」という固定観念を強化することは、ジェンダー平等や身体の自由を阻害する要因になり得るのです。芸術は、こうした偏見を打破する力を持っています。

 欧米の美術館や教育現場では、ヌード作品は一般的に展示され、子供たちも自然に鑑賞します。これは、芸術を通じて文化的リテラシーを高める取り組みであり、身体を性的対象ではなく文化的・美的対象として理解する教育が進んでいる証拠です。日本がこの点で過剰に規制することは、国際的な芸術教育の潮流から取り残されるリスクがあります。

 現代アートにおけるヌードは、単なる美の追求ではなく、社会構造やジェンダー規範への批評として機能します。身体を隠すことが「正しい」という価値観を問い直し、多様な身体性や自己表現の自由を認める社会を目指すというメッセージを持つ作品も多いのです。こうした芸術を子供たちが早期に体験することは、固定観念にとらわれない柔軟な思考を育てます。

 「ヌードはアートであり、子供たちにも積極的に触れさせるべき」という意見は、芸術の教育的価値、表現の自由、ジェンダー平等の推進という観点から強く支持できます。問題は「裸そのもの」ではなく、それをどう説明し、どのような文脈で提示するかです。適切なガイドや解説を伴えば、ヌードは子供にとって有害ではなく、むしろ文化的成熟を促す重要な要素となります。

 表現の自由は、民主主義社会において不可欠な権利であり、思想や意見を自由に発信・共有することで、社会の健全な議論や文化の発展を支えます。この権利は国際人権規約や憲法でも保障されています。

 規制が厳しすぎると、人々は処罰や社会的制裁を恐れ、発言や創作を控える傾向が強まります。これにより、公共の議論が萎縮し、健全な批判や多様な意見が失われます。

・ 芸術や文学はしばしば社会批判や挑発的なテーマを扱いますが、過剰な規制はこうした表現を抑え、創造性を阻害します。結果として、文化の多様性や進化が妨げられます。

・ 規制が強化されると、政府や権力者に不都合な情報が排除される可能性があり、国民が正確な情報を得られなくなります。これは民主的意思決定に深刻な影響を与えます。

・ 表現の自由は国際社会で重要な価値とされており、過剰な規制は国の評価や信頼を損なう要因になります。特に報道の自由指数などで顕著です。

 さて、私個人としては、はっきり言ってこのようなことを神経質に言っているから、将来「少子化」になってしまうということになるのではないかと思います。その様に考えれば、残念ながらこのようなことがニュースになること自体がおかしいのではないかと思うのである。我々が小さいころ、非公式(というか我々がいたずら心で自主的に・興味本位で)エロ本やビニ本(若い人にはわからないだろうな)等を入手し、勝手に様々な「エロコンテンツ」を見ていたのであるが、それでも事件を起こすような人は少なかった。わいせつ事件はそのような女性の社会進出が増え、ジェンダーやセクハラが言われているようになってから、わいせつ事案が増えているということになります。つまり、実際には、「ヌードはアート」と言って配ったほうが「健全」なのではないかという仮説が成り立つのです。

「本来人間のあるべき姿」ということを隠さずに出すべきではないかという気がします。

宇田川源流

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