「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性癖を議会で語る不思議な時代
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性癖を議会で語る不思議な時代
今週も「土曜日のエロ」の日になった。その前に今週何が起きたのかを見てみよう。
今週は、なんといっても高市内科うになって初めての国会が閉会したということくらいであろうか。年末になって大きな動きがない。本来は臨時国会というのは、それなりに大きな動きのはずなのであるが、残念ながら、日本の今の国会はあまり国民に重視されていないのが現状である。
なぜ国会が重視されなくなってしまったのか、国民の注目を得ることができなくなってしまったのかということを少し考えてみたい。普段はあまりこのようなことを書かないので、このような場所で簡単にやってみたいと思うのであるが、その内容は、基本的には「国会で話されていることが、国民生活と離れてしまっていて、国民から見れば、国会議員のエゴの対立でしかない」というような感覚になってしまっているということではないかというように思うのである。
実際に、「減税」という国民生活や景気回復にインパクトのある政策があっても、そのことに「反対」する人々がいるのである。もちろんそれなりに考えがあるのであるが、残念ながら、それら反対している政党は「どの様な日本にするのか」「どの様な政策を是とするのか」ということを全く発表せずに、ただ、反対のための反対、批判のための批判をしているだけでしかない。
ある意味で、どの政党も「この政党の言うとおりにしていたら、どの様な日本になるのか、どの様な世界になるのか」ということが全く見えないということが大きな内容になっており、国会の審議内容が、各政党や話す発表者(質問者)の政治的なアピールの場やポジショントークの場になってしまっているのである。このような「自己宣伝」を見て、面白いと思う人などはいるのであろうか。
まあ、そのような「議会の腐敗」これは、何も金銭スキャンダルの事ではないのであるが、この「議会のマンネリ化」「議会の無責任」「議会の国家観の喪失」は、そのまま国民の議会離れが出てきてしまっている。
その顕著な例が地方議会で出てきているので、今回はその内容を見てみることにしよう。
<参考記事>
立民の東由貴・東京都議「パンセクシュアル」公表 都議会でパートナーシップ宣誓制度質疑
12/12(金) 産経新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/732cad8ee4cc4f56600faf5efb4ca43e5773d554
<以上参考記事>
日本では、そもそも性癖や性的な趣向というものは「秘め事」としてあまり公共の場で話すことは恥であるという感覚があったのですが、今では議会で堂々と性的な趣向を話すようになってしまいます。もちろん権利という観点もありますが、あえて、「日本的な恥の文化」「日本の秘め事文化」が破壊されているのではないかという気がする。
日本社会には、長く「語らないことで守られる領域」というものがありました。性に関することはその最たるもので、個人の内側にしまい、家族の中でも必要以上に触れず、まして公的空間に持ち出すことは避けるべきだという感覚が共有されてきました。これは単なる抑圧ではなく、むしろ「語らないことで互いの尊厳を守る」という日本的な礼節の一部でもありました。
しかし、東由貴都議が都議会という最も公的な場で、自らの性的指向を「パンセクシュアル」と明言したという事実は、この長い文化的前提に対して、明確に別の価値観を提示する出来事になっています。
この変化は、単に「欧米化」や「権利意識の高まり」という言葉では片付けられません。むしろ、恥の文化が持っていた「語らないことで保たれる秩序」が、現代の社会問題を前にして機能しなくなっていることを示しています。性的少数者が制度上の不利益を受けている現実があり、沈黙を守ることが誰かの尊厳を守るどころか、逆に傷つけてしまう場面が増えている。だからこそ、東都議は自らの経験を政策議論に持ち込む必要があったと語っています。
ただ、この「語ることが正義である」という新しい規範は、古い文化の側から見ると、秘め事の価値そのものを揺るがすものでもあります。かつては、個人の内面を公的空間に持ち込まないことが成熟の証とされていたのに、今は「語らないこと」が逆に未成熟や無理解とみなされる。沈黙が美徳から問題へと転じるこの転換は、日本文化の深層にある「恥の感覚」を大きく書き換えつつあります。
つまり、今回の出来事は、性的マイノリティの権利問題であると同時に、日本社会が長く大切にしてきた「語らないことで守る」という文化的技法が、現代の価値観の中でどのように位置づけ直されるのかという問いでもあります。
恥の文化が壊れているというより、恥の置き場所が変わりつつある。かつては「語ること」が恥だったのに、今は「語らないこと」が恥に近づいている。
その揺れの中で、社会は新しい均衡点を探しているのだと思います。
日本の恥の文化は、単なる「恥ずかしがり」ではなく、社会の秩序を保つための精巧な仕組みとして長く機能してきました。平安の女性が扇で顔を隠したのは、単に慎ましさの表現ではなく、他者の視線から自分の内面を守り、同時に相手にも一定の距離と敬意を要求する、洗練されたコミュニケーションの技法でした。
「見せないこと」が、むしろ豊かな意味を生み、関係性を深める余白をつくっていたのです。
ところが現代では、身体や個人の内面を隠すことよりも、積極的に開示することが価値とされるようになりました。水着姿を外にさらすことが当たり前になり、SNSでは自分の生活や感情を細部まで公開することが「自然」だとみなされる。かつて秘められていた領域が、今では「見せることで自己を確立する場」へと変わってしまったのです。
恥の文化を守る側から見ると、この変化は単なる時代の流れではなく、日本社会が長く大切にしてきた「節度の美学」が崩れていく兆候として映ります。
露出が増えることそのものよりも、「隠すことに価値がある」という感覚が薄れていくことに、深い危機感があるのです。
隠すことは、抑圧ではなく、関係性を調整し、互いの尊厳を守るための知恵だった。それが失われれば、社会はむき出しの個人同士がぶつかり合う空間になり、かつての日本らしい柔らかな距離感は消えてしまうのではないか。
そうした不安が、恥の文化を守ろうとする人々の根底にあります。
さらに、恥の文化は「語らないこと」「見せないこと」によって、個人の内面を社会の規範から守る役割も果たしていました。
しかし現代では、性的指向や個人の感情、身体のあり方まで、社会に向けて説明し、理解を求めることが求められるようになっています。
恥の文化を重んじる立場からすれば、これは「個人の内側にあるべきものが、社会の評価の対象にさらされてしまう」という逆転現象であり、むしろ人間を窮屈にしているように見えるのです。
このまま変容が進めば、露出はさらに増え、秘め事の価値は薄れ、日本文化が持っていた独特の陰影や奥行きが失われていくのではないか。
かつての日本は、見えないもの、語られないもの、触れられないものにこそ美を見いだしてきた。
その美学が消えてしまえば、日本らしさは単なる「外見の伝統」だけになり、精神的な深みを失ってしまうのではないか。
これが、恥の文化を守る側が抱く最大の懸念です。
まあ、恥の文化が無くなれば、昔は扇で顔を隠していた女性が、今では平気で水着姿を写真などで拡散してしまう。
このままでは、女性が恥も外聞もなく、全裸で外を歩く世の中になるのかもしれない。
もちろん、それはそれで、エロの観点からはよいのかもしれないが。
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