「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 いよいよ最終回は一橋治済と蔦屋重三郎の死が描かれる

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 いよいよ最終回は一橋治済と蔦屋重三郎の死が描かれる


 今年も毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」に関して好き勝手書いてきた。今年も、何とか一年走り抜けたと思う。森下佳子先生の作品で本当に素晴らしい、そして最後まで飽きさせない内容になっていた。

今回は、最後になってこのドラマの3回目の綾瀬はるかさんの「実写」登場となった「九郎助稲荷」について、そのいわれなどを見てみたいと思います。

吉原の九郎助稲荷を語るとき、まず心に浮かぶのは、華やかさと陰影が常に交錯していた遊郭という空間の中で、人々がどこに「救い」や「拠り所」を求めていたのかという問いです。九郎助稲荷は、その問いに対する最も象徴的な答えのひとつでした。

 九郎助稲荷の由来にはいくつかの伝承が残されています。もっともよく知られたものは、千葉九郎助という人物が天から降りた狐を祀ったことに始まるという説で、もとは「田の畔稲荷」と呼ばれていたと伝えられています。吉原がまだ日本橋葺屋町にあった元吉原の時代にこの稲荷が移され、さらに明暦の大火後に浅草の新吉原へと遊郭が移転すると、稲荷もまたその地へ移されたといいます。別の史料では、今戸村の百姓・九郎吉が畑の中にあった稲荷社を吉原へ移したという記録もあり、名前の由来や移転の経緯には複数の説が併存しています。いずれにせよ、吉原の成立とともに稲荷が移され、遊郭の歴史と運命を共にした存在であったことは確かです。

 新吉原において九郎助稲荷は、廓の四隅に置かれた稲荷社の中でもとりわけ人気が高かったと記録されています。場所は京町二丁目の隅、最下級の遊女が暮らす羅生門河岸の稲荷長屋の隣という、華やかな表通りからは少し離れた位置でした。それでも参詣者は絶えず、毎月の午の日には多くの人が訪れ、八月朔日の祭礼には練り物や俄が出て見物人で賑わったと伝えられています。鳥居に掲げられた「蒼稲魂」の額は俳人・宝井其角の筆によるもので、吉原の文化的な厚みを象徴する存在でもありました。

 では、吉原の人々にとって九郎助稲荷とはどのような神だったのでしょうか。吉原神社に残る古い記録には、飢饉が続いたときに人々が九郎助稲荷へ願をかけたところ豊作となり、それ以来「所願成就せずということなし」とまで言われたと記されています。遊女たちは縁結びや芸事の上達を祈り、客たちは商売繁盛や幸運を願い、廓の外から訪れる者もまた、吉原という異界に足を踏み入れる前の「結界の守り」として稲荷に手を合わせたと考えられます。

 江戸時代の吉原は、きらびやかな表層の裏に、病や貧困、身分の制約といった厳しい現実が常に横たわっていました。遊女たちにとって稲荷社は、日々の苦しみの中で心を寄せることのできる数少ない場所であり、芸能の神としての稲荷信仰は彼女たちの職能とも深く結びついていました。吉原の祭礼や行事では遊女たちが芸を奉納することもあり、信仰と芸能、祈りと日常が自然に重なり合っていたのです。

 明治に入ると吉原の四隅にあった稲荷社は合祀され、現在の吉原神社の基礎となりました。九郎助稲荷はその中心的な存在として今も祀られ、縁結びや所願成就の神として参拝者を迎えています。

 九郎助稲荷の歴史をたどると、吉原という場所が単なる歓楽街ではなく、そこに生きた人々の祈りや願いが折り重なった「生活世界」であったことが見えてきます。華やかさの影に潜む不安や孤独を抱えながら、それでも人は何かにすがり、願い、祈る。その心の動きが、九郎助稲荷という小さな社に静かに刻まれているのです。

<参考記事>

横浜流星、「べらぼう」最終回で減量していた 病に倒れる展開で「水も断ちボクサーのように…」チーフ演出が明かす

2025年12月14日 21時00分 シネマトゥデイ

https://www.cinematoday.jp/news/N0152406

<以上参考記事>

 さて、今回で無事に最終回になった。私としては来週何を書こうかということが一番迷うところなのであるが、そのようなことはあまり考えずに、とりあえずまずは今回の最終回を見てみよう。

今回の見せ場は、まず第一に「黒幕」である一橋治済(生田斗真さん)が、天罰で雷に打たれて死ぬという衝撃的な展開があったことであろう。それもあえて「天罰」を意識させるために、通常であるならば金属である刀に雷が当たるのに、頭に雷が当たるという「細かい演出」で「天罰を表現する」という表現演出は、非常に素晴らしい。同時に、この黒幕がいなくなったことで、江戸時代に平和が訪れるということになる。ある意味でこの蔦屋重三郎(横浜流星さん)の物語は、江戸幕府や江戸の町民を困らせていた一橋治済と、蔦屋重三郎が田沼意次(渡辺謙さん)や松平定信(井上裕貴さん)を通して戦い、町人文化が勝利するという物語であったというように、最終回で気が付かされる。そのうえ、その勝利によって「役目を終えた」蔦屋重三郎が世を去ってゆく物語になる。なるほど、この「戦い」が、戦国や幕末の大河ドラマと同じ「合戦」の扱いになって毎回わくわくさせられるというような構造をうまく作っていたことが、面白かったのではないか。

このドラマを通じて「歴史と違う」などと歴史ファンは様々なことを言うのであるが、私は、そもそも「歴史小説」も「大河ドラマ」も「歴史を題材にした現代の人々へのメッセージ」であると考える。小説は主題を伝えることであり、その主題を伝えることによって、読者、ドラマであれば視聴者の心の中の片隅にでも何か一つメッセージや、その人の生きる指針のようなものができれば、その小説は成功であり、歴史上の自分物を使うことによって、本当の物語である、つまり、時代が違うだけで同じ人間の自分たちも同じように成功を遂げることができるし、充実した人生を送ることができると考えられるようにすることが最も重要であると思う。本当に歴史を学びたければ、ドラマを見ずに歴史書を読めばよいのであり、そのようなつまらない議論をすべきではないということなのである。

さて、今回の見せ場は、一つは蔦屋重三郎のみんなへのお願いであろう。「死ぬまで書で世を耕した男といわれたい。」正直なところ、この言葉を聞いて涙が流れてきた。その言葉で滝沢馬琴(津田健次郎さん)や葛飾北斎(くっきー!さん)、太田南畝(桐谷健太さん)など当代一流の作家が動き出す。この言葉は、一つには、自分の欲を表現したということであるし、一方で自分がいなくなっても作家の先生方が生きる道を残すということで、作家の先生を最後まで思っていたということだ。その作家の先生と蔦屋重三郎の関係に胸が熱くなるし、また、そのようなことを思いあえる関係が幸せだったのだと思う。この関係を築けたことで、蔦谷という人が幸福の中で死んでいったということがわかるのではないか。

そして、もう一つは妻との二人の会話。「誰も来ないね」という言葉から、妻が悲しみながらも蔦谷重三郎に心配かけないとした「内助の功」は、本当に素晴らしい。この描写で、蔦谷がすごいだけではなく、内助の功も、そして作家も、全ての人々が蔦屋を支えていたということがわかる。人は死んでゆくときは一人だが、しかし、みんなに支えられて生きているんだ、そしてその支えている人がいるから、安心して一人で死んでゆくことができるんだ、そのことを思わせるものではないか。

ここまでいい話にしながら、最後は「屁」で送る、そして最後に「拍子木聞こえないんだけど」という越智を着けたあたりが、死を淡々と、でも楽しい中で送るという当時の江戸の人々の内容が見えているのではないか。「死」を「楽しいもの」「笑いで送る」という文化が、悲しい別れにしなかったということがあるのではないか。この辺の終わり方が、やはりこの作品全体の明るさを表現していたのではないか。そして、江戸時代の町人文化の華やかさや明るさを表現して締めくくったのではないか。

演じた皆さんも、本当に面白かった。私からすれば、どうしても作家や脚本の方が気になるのであるが、本当に一年間楽しませてもらった。

さあ、来年は「豊臣兄弟」である。

宇田川源流

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