「宇田川源流」【土曜日のエロ】 IOCがトランスジェンダー女子選手の五輪出場禁止へ
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 IOCがトランスジェンダー女子選手の五輪出場禁止へ
今週も土曜日のエロの日になった。さて、その内容を見てみる前に、今週起きたことを見てみよう。
と言っても、今週起きたこと、そのニュースといっても実際のところはほとんどが三つのニュースしかない。一つは「高市首相の台湾有事発言に関する日中関係の悪化」に関する内容である。このことに関しては、基本的に日本の某新聞社と左翼的言論人が事態を悪化させてしまい、その内容を悪化させているということであり、なおかつ、おたがいが引くに引けない状況になっているという事であろう。この件に関してはほかでも書くのでこの辺にしておこう。
もう一つは、熊である。今年になって熊の被害が非常に大きなものになってきている。一部の人々は、熊の個体数が多くなりなおかつ、弱い個体が食料を求めて人里に入ってきたということを言う。基本的にその食料が少なくなった原因というのは、一つのは林業の影響で針葉樹が多くなったということが言えるであろうし、またその山も切り開いてメガソーラーにしてしまっているということもあるのではないか。メガソーラーが遠いところ二も熊が出ているというような反論があるが、そもそも個体数が多くメガソーラーができてそこの強い熊が他の縄張りに入ってゆけば、ところてん方式で押し出されるクマが出てくることになるのであろう。このクマに関してもまた別に行うことになる。
そして、もう一つは大分県の佐賀関の火事であろう。170棟以上が焼失したという。冬の乾燥機には火事が多いということがあり、また、「空っ風」などといわれる強風の中での火事は炎症が広くなる傾向があり、以前には新潟県の糸魚川市で大規模な火災があったことは記憶に新しいのであるが、今回もその教訓が生かせなかったということになるのである。これから年末年始を自宅で過ごせないということは、非常にお気の毒としか言いようがないが、何よりも生きているということが大事なのではないか。
さて、今回はこのようなこととは全く関係なく、オリンピックの事である。
<参考記事>
IOCがトランスジェンダー女性選手の五輪出場禁止を検討か 28年ロサンゼルス五輪から?
2025年11月11日 9時55分 スポニチアネックス
https://news.livedoor.com/article/detail/29958796/
<以上参考記事>
IOCがトランスジェンダー女性選手の出場制限を検討している背景には、競技の公平性を確保するという理念が根底にある。IOCの医科学委員会は、男性として思春期を経験した選手が、ホルモン治療を受けた後でも筋力や骨格、心肺機能などにおいて女性選手と比べて優位性を持ち続ける可能性があるとする科学的レビューを発表した。このレビューは、テストステロン値の低下が競技能力に与える影響を分析したものであり、身体的な差が完全には解消されないという見解を示している。
また、IOCは女子カテゴリーの保護を重視しており、女性選手が公平な条件で競技できる環境を維持する必要があるとしているす。この方針は、すでに国際陸連や世界水泳連盟などが導入している性別制限ルールと整合性を持たせる形で進められており、2028年ロサンゼルス五輪での導入が視野に入っている。
その様に感がれば、前回2024年のパリオリンピックのボクシングにおいて、トランスジェンダー女性の選手と競った女性は、その圧倒的な力に対して直ぐに棄権をした。このニュー師は大きく取り上げられたのであるが、このようなことから、調査が続けられているのである。
この議論は、包摂性と公平性のバランスをどう取るかという、極めて繊細な問題を含んでいます。IOCはまだ最終的な決定を下しておらず、今後も科学的知見や社会的議論を踏まえた検討が続く見通しです。
まず、トランスジェンダー女性の競技参加を制限する動きは、女子競技の公平性を守るという名目で進められている。これは、思春期を男性として過ごした身体的特徴が競技上の優位性をもたらすという科学的知見に基づいている。しかし、この「公平性」の定義は、しばしば生物学的性別に基づくものであり、性自認やジェンダーの多様性を十分に考慮していないという批判もある。
一方で、トランスジェンダーの人々にとって、スポーツへの参加は自己表現や社会的承認の重要な手段であるとされる。出場を制限することは、彼女たちの人権や尊厳を損なう可能性があり、社会的排除やスティグマを助長する懸念がある。特に、若年層のトランスジェンダーにとっては、学校や地域のスポーツ活動からの排除が、精神的健康や社会的つながりに深刻な影響を与えることが指摘されている。
また、この議論は女性差別の構造とも密接に関係していることになる。女子競技を守るという名目で導入される性別検査や排除の制度は、過去に女性アスリートに対して行われてきたセックス・コントロールの歴史を想起させる。つまり、トランス排除のロジックが、女性の身体を「検証」し「管理」するという旧来的なジェンダー観を再生産しているという批判も存在するのである。
さらに、各国の法制度や文化的背景によって対応が分かれており、国際的なスポーツの場で統一的な基準を設けることが困難になっている。この断片化は、選手にとって不透明で不安定な環境を生み出し、スポーツの本来の価値である「連帯」や「尊重」を損なう恐れがある
このように、トランスジェンダー女性の競技参加をめぐる問題は、単なる競技ルールの問題ではなく、社会全体の価値観や制度のあり方を問う深い問いを内包している。
さて、アメリカはトランプ大統領が「性別は二つしかない」としている。そもそも基督教などは「神が与えた性別」を「人間が否定する」ということをしているのであるから、一神教の保守派の人々には認められない議論なのかもしれない。またkのように「保護」ばかりではなく「金メダルを欲しいということで、精神的なことも関係なく女性になって今う男性がいる」という制度の悪用のことも考える必要がある。あまりにも「性別を行ったり来たりできるような価値観」が難しいということなのであろう。
さて、「土曜日のエロ」としては「心が男性の人が、女性の競技に交じって女性の身体に密着した場合」とくに、よく言われる柔道の寝技などが起きた場合、どの様にするのであろうか。いやいや、なかなか難しい問題である。
0コメント