「宇田川源流」【土曜日のエロ】 温泉では裸にならないといけないということに抵抗を感じる外国人
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 温泉では裸にならないといけないということに抵抗を感じる外国人
今週も土曜日のエロの日になった。土曜日のエロなので、基本的に「裸」「下ネタ」ということに関する人間の本音から人間の本性を突き詰めて考えてゆくという企画である。人間というのは、基本的には秩序を重んじる「理性」の部分と、欲によって突き動かされる「本能」の部分がある。そしてその本能の部分を理性で包み隠して生きているのである。この理性部分を多くすることが社会性であるというような感覚になっているのであるが、しかし、それが時に本能が理性を上回るときがあるし、また、子孫繁栄などということは本能的に動かなければうまくゆかなくなってしまうのである。何も本能的なことが悪いことではない。その本能的な部分こそが実は人間らしさであるということになるのではないだろうか。今回も孫話をしたいと思うのであるが、その前に今週の話をしてみよう。
今週は、やはり日米首脳会談であろう。正直に言って、高市内閣によるトランプ大統領との首脳会談はかなりうまくいっていたということになるのではないかと思う。その内容に関しては通常のブログでも行うのであるから、あまり詳しくここで話す必要はないと思う。
しかし、それ以上に驚きなのは、ラトニック商務長官は、この数日前に日本に来ていて書く日本企業との投資の取りまとめを行っているし、ベッセント財務長官は、日本がASEANにいる間に、中国と関税やレアアースに関する交渉を行っている。その様に考えれば、アメリカの閣僚は、トランプ大統領の意思に従って、自分の役割を代乙量がつく前にしっかりと行っているということである。ある意味で、閣僚が一体化して動いているということになるのではないか。
日本はトランプ大統領だけを見ており、報道も、トランプと高市の両首脳だけを追いかけているのであるが、アメリカは、チームで動いているということが全く異なるところではないか。これがアメリカ流と日本流の違いであり、その違いを指摘しているようなSNS投稿も、また、マスメディアも全くなかったのには驚きである。とくに左翼系SNSとマスメディアは、高市の態度がどうとかはしゃぎすぎとか、何を言っているのかよくわからない。そもそも外交などは結局は相手の政治家を信用できるかどうかであり人間的な関係を作ればよいのであるから、態度などはどうでもよい。その上で、しっかりと要求を呑んでもらう、また必要なディールを行うということであり、別段態度などで物事を決めるものではないのであり、これらの批判は「外交の基本や目的」が全くわかっていないということでしかないのだ。
さて、本来の目的は何か。そのことで今回は見てみたいと思う。
<参考記事>
「はい、完全に裸にならなければなりません」 日本の温泉を実際に訪れた外国人が感じたこととは
10/22(水) 17:56配信 CNN.co.jp
https://news.yahoo.co.jp/articles/04c015bba7bae858c2f9b3886c85785da24a795c
<以上参考記事>
温泉の文化というのは、日本の特有の文化である。温泉そのものは、世界各国にある。「スパ」というような言い方をされているのであるが、しかし、文化、つまり温泉の楽しみ方は世界各国で全く異なる。
日本の温泉にはいくつかの種類がある。
一つは「湯治」といわれる「病気やけがの治療」である。現在でいえば温浴効果というようなことなのかもしれないが、それだけではなく、ゲルマニウム温浴のように微弱の放射能で悪いところを治すなどのこともあるようだ。その辺の医学的なことはよくわからないのであるが、しかし、湯治に行けば治るというようなことはすくなくない。実際に、普段の生活とは全く異なる場所において、現実のストレスから切り離されていればその時点で病気はよくなるしまた、温浴で休むことでも良くなるということになる。
第二の温泉は「リラクゼーション」である。上記にも少し書いたが普段の生活と切り離した時を過ごすことで、ストレスなどがなくなり、ゆっくりとすることができる。そのことによって精神的に癒されるという効果を狙っているということになる。
さて、いずれも「束縛から解放される」ということが日本の重要な内容になっている。そしてその束縛は、日本の場合は、「衣服」等にも表れることになる。中世のヨーロッパや中国にも同じであるが、衣服や冠などによってその人の身分などが外見的にわかるようになっており、そのことから、その衣服から解放されなければ、いつまでたっても解放されないのであろう。そのような意味で、日本では「服を脱ぐ」ということが「本来の人間としての付き合いをする」ということ、単純に社会的な束縛を離れた人間としての付き合いを意味するのである。
実際に温泉で総理大臣(今は女性なので風呂場の中で私があってしまうと何か問題が生じるのであるが)と会ったとしても、服を着ていないので、本音で話をすることができる。テレビ番組のドッキリなどで、上司や関係の深い芸能人などが、カメラマンやスタッフにまぎれて相手を驚かせるというような番組があるが、服装やその人の雰囲気などがなければ、態度が変わったりまたはその役職に会った仕事を押し付けてしまう。その人が目上の人であっても命令してしまったりするということも十分にあるのではないか。まさに服を脱ぎ裸になることは「裸の付き合いをする」ということから、本当の自分をさらけ出すことにつながるのである。
初めは、外国人はその内容に戸惑うのであろうが、しかし、その解放感や裸になる意味、日本での文化的な内容を知れば、もっと日本を知ることになるのである。
ちなみに、日本の場合、江戸時代まではそのほとんどが混浴であったので、今よりも抵抗感があったのであろうが、逆に「湯浴み着」というものを着て入るという事や蒸し風呂が中心であるなどのこともあって、江戸時代にはそのような裸になることに抵抗感が今よりもなかったということになる。それだけ日本はおおらかな国であり文化性を持っているということになるのではないか。
徐々に西欧化することによって、エロの範囲も変わってくるのであるが、私はおおらかな文化の方が好きである。
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