「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 喜多川歌麿覚醒で美人画が登場
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 喜多川歌麿覚醒で美人画が登場
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について、好き勝手なことを書いている。毎年大河ドラマはこの時期になると、徐々に「収束」に近づいてきておりそのことから、様々なことが「清算」されたり、後の世につながる話になったりする。1年で一人の一生を描く大河ドラマであることを考えれば、10月半ばということに名rベア、あと数回しか残っていないのだから当然であろう。ここから伏線を仕込むこともないのであるから、徐々に様々な伏線を拐取する方につながるのである。
さて今回は、「今の世に伝わる喜多川歌麿(染谷将太さん)の美人画」が生まれる内容が書かれている。
歌麿は最初、植物や昆虫の版画を制作していましたが、1790年頃から美人画に転向し、「妓十相図」「婦女人相十品」などを生み出しました。「大首絵」を特徴とするこれらの作品は、浮世絵に新しい美学をもたらしました。
江戸の町人たちは新作の版画を楽しみにしており、茶屋の美人選びなどを通じた配信が人気。特に「水茶屋百人一笑」は商人層にも広まりました。これは寛政の改革で吉原遊郭の美人画などを禁じられたことによって、町人の娘、特に「街の看板娘」を描くことで、その取り締まりを避けたということもあるようです。現代でいう「普通の女の子がアイドルに夏」というような感じになっていたのであ塘路思われます。
歌麿の名声は日本国内外で高まり、日本の美術史における個々の美の表現として評価され、後の西洋印象派にも影響を与えました。
江戸後期、歌麿はもともと草花や昆虫をモチーフに描く浮世絵師として修行を積んでいましたが、寛政元年(1789)頃から「大首絵」と呼ばれる顔を大きく描いた美人画シリーズに取り組み始めます。寛政2~3年(1790~91年)には娼妓や太夫の細部まで丁寧に捉えた「娼妓十相図」「婦女人相十品」を上梓し、当時の江戸の最新ファッションや髪型、化粧法をリアルに反映させた新しい表現手法を確立しました。
この美人画は、茶屋や見返り絵(看板娘)を選ぶ“審美”イベントと連動して発表され、毎号発行前には購読者へのハガキ通知が行われるほどの人気ぶりでした。寛政4~6年(1792~94年)に刊行された「水茶屋百人一笑」などでは、茶屋娘たち自身が審査した“評判の美女”が次々と描かれ、町人たちは茶屋通いや定期購読を通じて新作を心待ちにしました。こうした刊本販売と顔写真のように個性を際立たせた描写が、人々に大きな興奮と共感を呼び起こし、江戸の庶民文化を盛り上げました。
歌麿の美人画は国内で一気に高い評価を獲得し、やがて海外にも紹介されてジャポニスムの先駆けとなりました。欧米のコレクターや印象派の画家たちは、歌麿が繊細に捉えた表情と大胆な構図に強く惹きつけられ、後の西洋美術に大きな影響を及ぼします。幕末から明治にかけて、歌麿の「婦女人相十品」や「娼妓十相図」は浮世絵全体を代表する名作群として再評価され、今日なお世界各地の美術館で愛され続けています。
さらに、歌麿は寛政末期の出版統制や幕府の風紀取締りによって制作が一時途絶えますが、その後も版元や収集家の手で復刻・保存されることで、彼の美人画は江戸文化の象徴として不朽の地位を築きました。
<参考記事>
大河「べらぼう」 喜多川歌麿の美人画モデルに“謎の美女”が登場 その正体とは…
スポニチアネックス10/19(日)22:00
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20251019-0379
<以上参考記事>
今回の物語は妻のきよ(藤間爽子さん)がなくなって栃木に行ってしまった歌麿を蔦屋重三郎(横浜流星さん)が呼び戻すということが出る。蔦屋重三郎からすれば、「身上半分」というような刑罰になっても、そこにくじけることなく、江戸町民を楽しませることを考えていたということで、何か新しい手を考えるということになります。現在の出版社の人々も、何か新しい仕掛けを考えるということに関しては、その苦労は全く同じではないでしょうか。
そして、そのためには山東京伝である北尾正演(古川雄太さん)と歌麿を復活させることということになるのである。
今回の内容は、ある意味で本を書いている私自身、非常に「ああこんな感じ」というような感じであった。何か原稿を出して、それに対して編集者が「もっとこうできないですか」というような感じになる。それに応えようとして様々な考えをめぐらすというような感じになるのであり、その内容は、かなり真剣に戦っているイメージである。喜多川歌麿も、山東京伝も、また美人画に協力する滝沢馬琴(津田健次郎さん)や葛飾北斎(くっきー!さん)等も、なかなか良い味を出しているし、また、そのような「後の世になまえがのこるひとが、優秀な出版社・編集者のもとに集まる」ということがあるのではないだろうか。
まさに「新しい流行」を取り入れるのは、「今街の中ではやっていることをそのまま形にする」ということが最も大きな資料になる。その内容をそのままできているのである。
さて、作家の方も面白い。
何度も自分の自信作を否定されながらも、何とか編集者の要望に応えようとする。結局は「書きたい」「描きたい」というような内容があり、また、「認められたい」というような欲が出てくるのである。そして同じものを見せるにあたっては、自分の本物の素晴らしいもの、自分と編集者の素晴らしいと感じるものをしっかりと作ってゆくことになるのである。そして作られた中で「最高の傑作を出したい」という欲が、自分にとっての不利な条件を飲み込んで、作品恩政策に没頭する。そのような姿が、うまく書かれている。
今回の内容は作家の森下佳子先生自身の体験談が書かれたのではないか。歌麿も山東京伝も、森下先生自身を脚本の中で書いて、素晴らしい役者二人に演じさせたのではないか。そのような気がしてならない。
しかし、そのような話の回があってもよいのではないか。
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